ざわめきの通学路
春の風は、まだ少しだけ意地悪にスカートの裾を揺らす。
高校二年生。クラス替えという人生のちょっとした博打を終え、新しい教室の匂いにもようやく慣れてきた四月の終わり。
「……悪い。週末、土曜の昼間はちょっと厳しいかも」
隣を歩く海斗くんが、スマホの画面を見つめたまま申し訳なさそうに言った。
「どうしたの?」
「バイトの面接が入るかも。まだ決まってないけど、良さそうな所があったんだ」
「あ、そっか。決まるといいね」
「ああ」
それだけの会話。
私は彼の横顔を盗み見る。
少しだけ眉を下げて困ったように笑う彼を見て、私の胸の奥が、ちりりと熱くなる。
海斗くんは、私のために前のバイトを辞めた。それなのに、彼は一度もそれを後悔しているとは言わないし、不満そうな素振りを見せない。
新しいアルバイト先を探しながら、毎朝こうして駅までの短い距離を、私と一緒に歩いてくれる。
「……さくらとの時間も、大学のレポートも、全部放り出すわけにはいかないし」
そう言って、彼は曖昧に笑った。
「いいよ、別に。そんなに無理しなくて。……私、待ってるのは得意だし」
「……悪い。埋め合わせは、絶対にするから」
「あはは。じゃあ、次のデートは海斗くんの奢りね」
軽口を叩きながら、私は彼の袖口をそっと指先で摘まんだ。
付き合い始めてから数週間。指先を絡めるのにはまだ少し勇気が要るけれど、こうして「触れてもいい理由」があるのは、今の私には何よりも嬉しかった。
駅が近づくにつれて、人が増える。
駅の改札前、人混みの手前で、海斗くんが立ち止まる。
「……じゃあ、ここで」
彼は私の頭を軽く一度だけ、壊れ物を扱うような手つきで触れる。撫でる、というより、確認するみたいな感じ。
それでも私は、それだけで十分だった。
「学校、遅れるなよ」
「海斗くんこそ、講義頑張ってね。……いってらっしゃい」
背中が人混みに紛れていく。
以前の私なら、彼が見えなくなるまでその場で見送っていたと思う。けれど今の私は、彼が見えなくなっても大丈夫。
付き合い始めた、と言っても、何かが劇的に変わったわけじゃない……ただ、「また会える」が前提になったから。
「おはよ、さくら!今日もごちそうさまでしたー」
教室に入るなり、親友のミキがニヤニヤしながら近寄ってきた。
「……うるさい。別に、普通でしょ」
「どこが。さくら、あの大学生の彼氏さんと付き合い始めてから、なんか雰囲気変わったもん。なんていうか……余裕があるっていうか」
余裕――その言葉の響きに、少しだけ頬が緩むのを自覚する。
ミキや周りの女子たちに、海斗くんとのことを聞かれる時間は、嫌いじゃなかった。
「どこで知り合ったの?」「やっぱり、リードしてくれるの?」
そういった質問に答えながら、私はふと思う。
私はもう、誰かに守られるだけの子供じゃない。自分の居場所を、自分の言葉で説明できる。それが、たまらなく嬉しかった。
けれど――
昼休み。
購買から戻る階段の踊り場で足を止めた。
下の階から、数人の男子の声が聞こえてくる。
「……マジだって。あの大学生、相当ヤバいらしいよ」
大学生……その一言に心臓が冷えた。
「誰から聞いたんだっけ」
「さあ。でも、バイト先で問題起こしたとか」
「田辺さん、無理やり付き合わされてるって話もあるよな」
「ま、ほんとかどうか知らんけどさ」
「でもさ、あんな可愛い子があんな地味なの選ぶ?」
責任の所在がどこにもない声。
“らしい”“聞いた”“知らんけど”。
ゲラゲラと笑う声が、鼓膜を汚していく。
根も葉もない、デタラメ。海斗くんがバイトを辞めた本当の理由も、私たちがどうやって想いを通わせたかも、何一つ知らないくせに。指先が、怒りで震える。
(……落ち着かなきゃ)
あいつらは、何も見ていない。私のことも、海斗くんのことも。
ただ、自分の都合のいいように話を作って、楽しんでいるだけ。
なんて、幼稚な。
私は階段の手すりを強く握りしめた。
怒りは、悲しみに変わることはなかった。それは静かな、深い、漆黒の炎となって私の中に居座った。
私の海斗くんを、汚すことは許さない。
私の選択を、勝手に書き換えるな。
「……」
私は階段を進むのをやめて、元来た道を引き返した。
背後で聞こえる男子たちの下卑た笑い声は、もはや人間が発する言葉にすら聞こえなかった。
放課後。
校門を出たところで、スマホが震えた。海斗くんからのメッセージだ。
『今週の土曜の昼間に面接が入った。デートは日曜にしてもいいか?時間はさくらに合わせる』
画面を見つめる私の瞳には、春の暖かさは宿っていなかった。私は小さく息を吐き、画面を指で弾く。
『面接、応援してるね!日曜日のデート、楽しみにしてる』
送信ボタンを押して、私は空を見上げた。




