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引っ越した先で高校生が家に逃げ込んできたけど、嘘はつけない  作者: 白川
番外編:日常

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22/25

理由のいらない「明日」

 チャイムが鳴り、ドアを開ける。

 そこにはいつも通り、さくらが立っていた。


「……お邪魔します」

「おう。入れよ」


 声の調子も、距離も、昨日までと同じはずだ。

 靴を脱いで、揃えて、部屋に上がる。

 その一連の動作が、やけに丁寧に見えたのは、たぶん俺の気のせいじゃない。

 机に向かい、二人並んで椅子に座って勉強道具を広げた瞬間、正体不明の違和感が、俺と彼女の境界線を引き直すみたいに、二人の間に居座った


 昨日、俺たちは付き合うことになった。「彼氏」と「彼女」になった。言葉にすればそれだけなのに、部屋の空気が、まるで別の物質に入れ替わったみたいに重くて、少し息苦しい。


「……ねえ、海斗くん」

「ん?」


 さくらが呼びかける。

 呼び方は、昨日までと同じ、いつも通りなのに、心臓が、いつもより一回分だけ強く跳ねた。


「ここ……、……いや、なんでもない」


 さくらはペンを持ったまま、視線をノートに落とす。ペン先は、意味もなく紙の上を行ったり来たりしている。

 いつもなら、「ここ分かんない」と、遠慮なく聞いてくるところだが、今日はそれがない。

 俺も、何を言えばいいのか分からなかった。

「昨日から何か変わったか?」なんて、馬鹿げた質問だ。

 変わったに決まっている。


 俺の、彼女に対する意識……彼女は「彼女」になった。


 今までは、「守る」とか「助ける」とか、理由が……年上で、男で、少し先を知っている、という言い訳があった。

 そういう理由を失った俺は、今、彼女の隣でどう振る舞えばいいのか……

 今は違う。対等で、隣にいる存在だ。

 その瞬間から、俺は、どう振る舞えばいいのか分からなくなった。

 マニュアルなんて、どこにもない。

 時計を見る。針は確実に進んでいるのに、ページは一向に進まない。


 ――それから一時間。

 実質、勉強した時間は、たぶん十分もなかった。

 さくらが不意にノートを閉じ、小さく息を吐いた。


「……無理」

「何が」

「全然、頭に入ってこない」


 顔を上げて、俺を見る。

 その瞳は少し揺れているけど、視線は逸らさなかった。


「海斗くん。……私さ、まだちょっと緊張してる」


 迷いながら言葉を選んでいるのが、分かる。


「……俺もだ」


 即答――考えるより先に、口が動いていた。

 さくらは、きょとんとした顔をしてから、少し目を見開く。


「海斗くんも、緊張するの?」

「当たり前だろ。……『彼女』が目の前にいるんだから」


 言った瞬間、耳が熱くなる。

 自分で地雷を踏んだ感覚だ。

 さくらは一瞬固まってから、分かりやすく顔を赤くした。

 膝の上で、手をぎゅっと握りしめている。


「……私、彼女って、何したらいいか分かんなくて」


 声が少し、小さくなる。


「今までみたいでいいのか、甘えていいのか、それとも……その、もっとちゃんとした方がいいのか」

 ちゃんとした、の中身を、俺は聞かない。

 聞いたら、多分、俺の方が先に動揺しそうだった。


「……そのままでいいよ」


 少し間を置いて、続ける。


「俺も、かっこいい彼氏になれる自信なんてないし」


 正解は分からない。かっこつけない。

 ただ、今ここにある、この居心地の悪さから逃げないで――彼女の目を見たまま、声に出した。

 それを聞いて、さくらは、しばらく黙っていた。

 それから、ふっと肩の力を抜いて小さく笑った。


「……そっか」

「うん」


 それだけで、空気が少しだけ軽くなった気がした。


「……今まで通り『海斗くん』って呼んでも、いい?」


 さくらが、机の下で自分の指をいじりながら、上目遣いに俺を見た。


「ああ。他に呼びたい名前でもあるのか?」

「んー……ううん。今の呼び方が、一番好きだから」


 さくらはそう言って、ほんの少しだけ、椅子を俺の方へ寄せた。触れ合うほどではないけれど、彼女の温度が、いつもより近くに感じられる。


「海斗くん」

「なんだよ」

「……手、繋いでみてもいい?」


 唐突な提案に、喉の奥が跳ねた。「ちゃんとする」の中身を、彼女なりに絞り出した結果なのだろう。

 俺は何も言わず、机の上に置いていた自分の手を、さくらの小さな手の方へと滑らせた。


 指先が触れ、重なり、ゆっくりと熱が混ざり合う。

 勉強はもう、完全に開店休業状態だったけれど……繋いだ手のひらから伝わる温かさだけが、今の俺たちにとっての正解のように思えた。


 夕方。

 さくらが帰り支度を始める。

 玄関まで見送り、ドアノブに手をかけたところで、彼女が立ち止まった。


「ねえ、海斗くん」

「ん?」

「……さっきの続き。明日も、来ていい?」


 勉強の話じゃない。

「彼氏」と「彼女」の、不器用な正解探しの続きだ。


「ああ。……明日も、待ってるから」


 さくらは嬉しそうに、それでいて少し照れた顔で笑い、小さく手を振って廊下を歩いていった。


 ドアを閉める。

 部屋に、静寂が戻る。


 テーブルの上には、さくらの消しゴムが置かれていた。

 以前はそれを「また来る理由」にしていた。

 でも今は違う。

 消しゴムなんてなくても、彼女は来る。

 俺たちは、明日も明後日も「付き合っていく」。

 窓の外では、春の風が、静かに吹いていた。

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