理由のいらない「明日」
チャイムが鳴り、ドアを開ける。
そこにはいつも通り、さくらが立っていた。
「……お邪魔します」
「おう。入れよ」
声の調子も、距離も、昨日までと同じはずだ。
靴を脱いで、揃えて、部屋に上がる。
その一連の動作が、やけに丁寧に見えたのは、たぶん俺の気のせいじゃない。
机に向かい、二人並んで椅子に座って勉強道具を広げた瞬間、正体不明の違和感が、俺と彼女の境界線を引き直すみたいに、二人の間に居座った
昨日、俺たちは付き合うことになった。「彼氏」と「彼女」になった。言葉にすればそれだけなのに、部屋の空気が、まるで別の物質に入れ替わったみたいに重くて、少し息苦しい。
「……ねえ、海斗くん」
「ん?」
さくらが呼びかける。
呼び方は、昨日までと同じ、いつも通りなのに、心臓が、いつもより一回分だけ強く跳ねた。
「ここ……、……いや、なんでもない」
さくらはペンを持ったまま、視線をノートに落とす。ペン先は、意味もなく紙の上を行ったり来たりしている。
いつもなら、「ここ分かんない」と、遠慮なく聞いてくるところだが、今日はそれがない。
俺も、何を言えばいいのか分からなかった。
「昨日から何か変わったか?」なんて、馬鹿げた質問だ。
変わったに決まっている。
俺の、彼女に対する意識……彼女は「彼女」になった。
今までは、「守る」とか「助ける」とか、理由が……年上で、男で、少し先を知っている、という言い訳があった。
そういう理由を失った俺は、今、彼女の隣でどう振る舞えばいいのか……
今は違う。対等で、隣にいる存在だ。
その瞬間から、俺は、どう振る舞えばいいのか分からなくなった。
マニュアルなんて、どこにもない。
時計を見る。針は確実に進んでいるのに、ページは一向に進まない。
――それから一時間。
実質、勉強した時間は、たぶん十分もなかった。
さくらが不意にノートを閉じ、小さく息を吐いた。
「……無理」
「何が」
「全然、頭に入ってこない」
顔を上げて、俺を見る。
その瞳は少し揺れているけど、視線は逸らさなかった。
「海斗くん。……私さ、まだちょっと緊張してる」
迷いながら言葉を選んでいるのが、分かる。
「……俺もだ」
即答――考えるより先に、口が動いていた。
さくらは、きょとんとした顔をしてから、少し目を見開く。
「海斗くんも、緊張するの?」
「当たり前だろ。……『彼女』が目の前にいるんだから」
言った瞬間、耳が熱くなる。
自分で地雷を踏んだ感覚だ。
さくらは一瞬固まってから、分かりやすく顔を赤くした。
膝の上で、手をぎゅっと握りしめている。
「……私、彼女って、何したらいいか分かんなくて」
声が少し、小さくなる。
「今までみたいでいいのか、甘えていいのか、それとも……その、もっとちゃんとした方がいいのか」
ちゃんとした、の中身を、俺は聞かない。
聞いたら、多分、俺の方が先に動揺しそうだった。
「……そのままでいいよ」
少し間を置いて、続ける。
「俺も、かっこいい彼氏になれる自信なんてないし」
正解は分からない。かっこつけない。
ただ、今ここにある、この居心地の悪さから逃げないで――彼女の目を見たまま、声に出した。
それを聞いて、さくらは、しばらく黙っていた。
それから、ふっと肩の力を抜いて小さく笑った。
「……そっか」
「うん」
それだけで、空気が少しだけ軽くなった気がした。
「……今まで通り『海斗くん』って呼んでも、いい?」
さくらが、机の下で自分の指をいじりながら、上目遣いに俺を見た。
「ああ。他に呼びたい名前でもあるのか?」
「んー……ううん。今の呼び方が、一番好きだから」
さくらはそう言って、ほんの少しだけ、椅子を俺の方へ寄せた。触れ合うほどではないけれど、彼女の温度が、いつもより近くに感じられる。
「海斗くん」
「なんだよ」
「……手、繋いでみてもいい?」
唐突な提案に、喉の奥が跳ねた。「ちゃんとする」の中身を、彼女なりに絞り出した結果なのだろう。
俺は何も言わず、机の上に置いていた自分の手を、さくらの小さな手の方へと滑らせた。
指先が触れ、重なり、ゆっくりと熱が混ざり合う。
勉強はもう、完全に開店休業状態だったけれど……繋いだ手のひらから伝わる温かさだけが、今の俺たちにとっての正解のように思えた。
夕方。
さくらが帰り支度を始める。
玄関まで見送り、ドアノブに手をかけたところで、彼女が立ち止まった。
「ねえ、海斗くん」
「ん?」
「……さっきの続き。明日も、来ていい?」
勉強の話じゃない。
「彼氏」と「彼女」の、不器用な正解探しの続きだ。
「ああ。……明日も、待ってるから」
さくらは嬉しそうに、それでいて少し照れた顔で笑い、小さく手を振って廊下を歩いていった。
ドアを閉める。
部屋に、静寂が戻る。
テーブルの上には、さくらの消しゴムが置かれていた。
以前はそれを「また来る理由」にしていた。
でも今は違う。
消しゴムなんてなくても、彼女は来る。
俺たちは、明日も明後日も「付き合っていく」。
窓の外では、春の風が、静かに吹いていた。




