【完結】キャンセル不可の予約。四年後の約束と、今の体温。
バイトが無くなってからの数日、自堕落な生活をしていた、と思う。
昼まで寝て、TV、配信、動画を見たり、誰かと通話やゲームをしたりして、夕方になれば、スーパーに寄って、割引シールの貼られた安い惣菜を選んで、レジに並ぶ。
特別、予定がなければ、それで一日が終わることも多かった。
予定が消えて、時間だけが残る。
やることは、探せばいくらでもあるが、やらなくていいことも、また同じくらいあった。
そうして、今日。
さくらの勉強を見る約束をしている日が来た。
それはもう特別じゃなくて、いつも通りの、日常の延長みたいなもので……それが、今は少しだけ、ありがたかった。
机の上を片づけて、ノートを一冊だけ出す。
使いかけのペンを転がして、時計を見る。
――そろそろ、来る時間だ。
チャイムが鳴って、反射的にドアを開ける。
細かいことは覚えていないが、たぶん、いつもと同じだった。
靴が並んで、鞄が置かれて、二人で机に向かう。
机の上に、さくらのノートが広がる。
質問があって、答える……その流れ自体は、変わらない。
「ここ、もう一回やろうか」
そんな中、自分の声が少しだけ低いことに、言ってから気づいて――喉を鳴らした。
さくらは、ノートに視線を落としたまま、少しだけ黙った。
それは考えている、というより――確かめている、みたいな間だった。
「……ねえ、海斗くん」
「ん?」
「最近さ」
そこで一拍、間が空く。
「バイト、行ってないよね」
心臓が、ほんの少しだけ跳ねた。
「別に、そんなこと——」
言いかけたところで、さくらが首を振る。
「責めてるわけじゃないよ」
声は落ち着いていて、感情の起伏もなく、静かだった。
「シフトの話、聞かなくなったし。この前、お店の前を通ったときも、いなかったから」
淡々と、事実だけが並ぶ。言い切りも、決めつけもない。
――ああ、あの時と同じだ。
ノートを広げて、「分かってることだけを書こう」って言った、あの場面を思い出す。
「……よく見てるな」
そう言うと、さくらは少しだけ眉を寄せた。
「だって……」
一瞬だけ言葉を探して、続ける。
「見たこと、って……大事だって言ってたでしょ」
……参ったな。
一度、息を吐いて、誤魔化す言葉を探しかけて、やめた。
「今月で、バイト、終わった」
短く言うと、部屋の空気が、ほんの一瞬だけ張り詰める。
さくらは驚いた顔をせず、ただ視線を上げて、俺を見た。
「……クビ?」
「そうなるな」
「理由は?」
「店の都合、ってやつ」
それ以上は聞かれなかった。
さくらはノートを閉じ、短く息を吐いた。
「隠すつもりだったでしょ」
「まあ……最後までな」
「でも、無理だったね」
「ああ、無理だった」
そう認めると、不思議と肩が軽くなった。
さくらは、少し考えるみたいに視線を落としてから、言った。
「ね。海斗くん」
「ん?」
「かっこつけなくていいよ」
「え?」
その一言が、思ったより深く刺さった。
「私、もう高校生だから、守られるだけじゃないって、ちゃんと示したい」
顔を上げ、俺を見るその目は、まっすぐで、揺れていない。
「だからさ。今の話も、ちゃんと聞かせて」
逃げ道は、もう無かった。
でも――嫌じゃなかった。
「……参ったな。最後までカッコいい先輩のままでいたかったんだけど」
苦笑い混じりに白旗を上げると、さくらは「ふふっ」と、どこか誇らしげに口角を上げた。
「残念でした!もう、隠しごとは禁止だよ?」
そう言って、さくらは鞄から一冊のパンフレットを取り出した。専門学校の、入学案内。
「私、ここに行くって決めた。お母さんとも、学費のこと、ちゃんと話せたよ。……あと三回春が来たら、私、ここに入るね」
パンフレットを見つめるさくらの指先は、もう震えていなかった。高校卒業まで二年、専門学校で二年。
「でも四年か。……長いよね、海斗くん」
少しだけ不安そうに首を傾げるさくらに、俺は迷わず答えた。
「いや、短いだろ。俺が大学卒業して、働き始めて……ちょうど仕事に慣れた頃だ」
「……そっか。私の四年後には、もう『社会人の海斗くん』がいるんだね」
さくらはページをめくり、中にある美容実習の写真を見つめた。
「じゃあ、予約……とっていい?」
「予約?」
「海斗くんの髪、私が一番に切るっていう予約。……四年後になっちゃうけど」
俺は、テーブルの上に置かれた彼女の手に、自分の手を重ねた。
「ああ。いいよ。楽しみにしてる」
「……っ」
さくらが小さく息を呑む。重ねた手から、彼女の熱が伝わってくるようだった。
「……今の私でも、いいの?」
その問いは、髪を予約することだけを指していない。俺を頼り、巻き込み、バイトという居場所すら失わせてしまった。――そんな自分に、隣にいる資格があるのか。震える指先が、言葉にならない後悔を伝えていた。だけど、そんなものは代償でも何でもないのだと、俺は伝えたかった。
「いいに決まってるだろ」
守るとか、助けるとか。そんな言葉で自分を正当化する必要は、もうなかった。
「今のさくらがいい。……好きだ」
部屋の時計の音が、急に大きく聞こえた。さくらは顔を真っ赤にして、でも、視線だけは真っ直ぐに俺を射抜いた。
「……予約、取れるって言ったよね」
「言った」
「じゃあ……今から、付き合うってことでいいの?」
「ああ。よろしくな、さくら」
すると、さくらは一瞬だけ泣きそうな顔をして、それから今日一番の、最高に意地悪で愛らしい笑みを浮かべた。
「――はい!キャンセル不可ですから、覚悟しておいてね?」
窓の外では、もうすぐ本格的な春が来ようとしていた。
失ったものはある。けれど、四年後の未来を語る二人の間には、昨日よりもずっと確かな体温が通っていた。




