楽しかった日々の裏の代償。俺は居場所を失った
昨日は、ただ楽しかった。
それだけで片づけてしまっていいはずなのに、朝起きてからも、さくらとの買い物、食事の席での会話、帰り道の空気。その感覚が少しだけ残っていて、気分は軽かった。
夕方、バイト先に向かう。制服に着替えて、いつものポジションに立つ。店内は平日らしく落ち着いていて、忙しすぎることもなかった。
一通り準備を終えたころ、店長に声をかけられた。
「今日、閉店後ちょっと残れる?」
それだけだった。
理由は言われていない。
言い方も、いつもと変わらない。
「はい、大丈夫です」
そう返して、作業に戻る。
レジを打ち、棚を整えながら、頭の隅にその一言が棘のように刺さっていた。何か問題を起こした覚えはない。遅刻も、大きなミスも。それでも、呼び止められる理由を必死に探してしまうし、忙しくないからこそ余計に考えてしまった。
閉店時間が近づくにつれて、客足も落ち着き、店の音が減っていく。
片づけに入ると、シャッターが下りる音がして、店内が一段静かになる。
店長がカウンターの向こうで、こちらを見た。
「じゃあ、ちょっといいかな」
海斗は小さく頷いて、エプロンを外した。
カウンターの内側で、店長は一度だけ咳払いをした。
「立ったままもなんだから、座ろうか」
事務用の椅子を引かれて、向かい合う形になる。
閉店後の店内は、昼間より少し広く感じた。
「そんなに構えなくていいよ」
そう言われて、構えないのは無理だと思う。
呼ばれた時点で、もう何かが始まっている。
「最近さ。高瀬君、君はよくやってくれてると思ってる」
褒め言葉が、逆に不吉に聞こえる。
「ただね……店として、少し状況が変わってきてて」
忙しくなるわけでもないし、人が足りなくなるわけでもない。
そういう話じゃない、と直感で分かる。
「学生バイトも増えたし、シフトの調整がね。君は、大学の授業も忙しいだろ?」
聞かれているようで、確認じゃない……何か、逃げ道を塞がれるような感覚に、背中がじっとりと濡れる。
「……まあ」
曖昧に返すと、店長は初めて俺の目を見た。
間を置いてから、続ける。
「正直に言うね。今後は、今までみたいにはシフトを入れられない」
「急で悪いけど、今月いっぱいで、って形になると思う」
一瞬、頭が空白になる。
理由がはっきりしない、責められてもいない。注意も、警告も、何もなかった。
「……何か、問題ありましたか」
自分の声が、どこか遠い場所から聞こえてくるようだった。
店長は首を振る。
「そういうのじゃない。君は真面目だし」
じゃあ、なんだ。
喉まで出かかった問いを、無理やり飲み込む。 ここで感情を出したところで、この決定が覆らないことくらい、静まり返った店内の空気が教えていた。
「分かりました」
だから、そう言うしかなかった。
店長は、少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
「本当に、急でごめん」
その謝罪は、軽くも重くもなく、ただ、決定事項に添えられた、無機質な記号のように感じられた。
話はそれで終わった。
エプロンを畳んで、ロッカーにしまう。
制服を脱ぐと、この場所が、もう自分の居場所じゃなくなった感じがした。
店を出ると、夜の空気は冷たくて、頭が少し冴える。
理由は、分からないままだ。悪いことをした覚えもない。
駅前で、足が止まった。
帰る方向は分かっている。何度も歩いた道だし、迷う要素もない。それなのに、体だけが言うことをきかなかった。
駅前のベンチに腰を下ろすと、夜の冷気がじわっと回った。 何も考えないようにして、ただ前を見る。
今日のバイトは、特別なことはなかった。忙しかったわけでもないし、怒鳴られたわけでもない。店長とも、必要最低限のやり取りしかしていない。いつも通り、と言えばいつも通りだった。
……原因を探そうとすると、頭の中がざわつく気がして、やめた。
考えたところで、今すぐどうこうできる話でもない。そう自分に言い聞かせて、息を吐く。
しばらくして、ベンチの冷たさが気になり始めた頃、ようやく立ち上がる。
帰らない理由もないし、ここに居続ける理由もない。
立ち上がり、リュックを肩に掛け直して、足を踏み出した。
数日後。
最後のシフトの日が来て、俺は何事もなかったみたいに裏口から店に入った。
バックヤードの空気は、洗剤の匂いと、少し湿った床に、壁際に積まれた段ボール。いつも通りだ。
これが最後だと思うと、吸い込む空気すら重かった。
何も考えず、いつも通りに仕事を進めていると、終業間際、店長に呼び出された。
返事をしながら向かうと、店長はレジ横のカウンターに立ったまま、メモを一枚めくった。
「じゃあ、事務的な話だけしとくね」
声の調子は、いつもと同じだ。
「制服なんだけどロッカーの上に置いといて。こっちで洗濯しておくから」
「あとはロッカー。私物は全部持って帰って。鍵は、そのままでいい」
黙って頷く。
店長の声が、思ったよりはっきり耳に残る。
「給料は月末に振り込むから。あと、源泉徴収票は郵送になるけど――住所、これで合ってる?」
差し出された紙には、実家の住所が印字されていた。
店長が、顔を上げる。
一瞬だけ、迷う。
「はい」で終わらせれば、一秒でも早くこの場を立ち去れる。
訂正する理由も、説明する必要もない。
でも。
「……今は、違います。引っ越しました。駅の反対側の……」
自分の声が、思ったよりはっきりしていた。
住所を口にしながら、あの部屋の玄関が浮かんだ。狭い空間に置きっぱなしの自分の靴と、さくらの靴……
店長は何も言わず、実家の住所を二重線で消し、淡々と書き直した。
「分かった。じゃあ、こっちに送るね」
それだけだった。
紙が引き出しに戻される……話は、もう終わりらしい。
「今まで、ありがとう」
店長がそう言った。礼でも謝罪でもなく、区切りとして。
「今日はもう上がっていいから。お疲れさま」
「……ありがとうございました」
その一言で、全部が確定した。
更衣室に戻りロッカーを開けると、 替えのエプロン、使い古したメモ帳とペン、 一度も使わなかった絆創膏が目に入る。
私物を全部リュックに詰め込むと、意外なほど軽かった。
バックヤードから外に出ると、店の明かりがひどく眩しくて、目を細めた。
肩は軽いはずなのに、夜の空気は冷たくて、一歩を踏み出すのに、全身の力が必要だった。
――終わったんだ。
身体のほうが、先にそう理解していた。




