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引っ越した先で高校生が家に逃げ込んできたけど、嘘はつけない  作者: 白川
未来を予約する前に

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20/25

楽しかった日々の裏の代償。俺は居場所を失った

 昨日は、ただ楽しかった。

 それだけで片づけてしまっていいはずなのに、朝起きてからも、さくらとの買い物、食事の席での会話、帰り道の空気。その感覚が少しだけ残っていて、気分は軽かった。


 夕方、バイト先に向かう。制服に着替えて、いつものポジションに立つ。店内は平日らしく落ち着いていて、忙しすぎることもなかった。

 一通り準備を終えたころ、店長に声をかけられた。


「今日、閉店後ちょっと残れる?」


 それだけだった。


 理由は言われていない。

 言い方も、いつもと変わらない。


「はい、大丈夫です」


 そう返して、作業に戻る。


 レジを打ち、棚を整えながら、頭の隅にその一言が棘のように刺さっていた。何か問題を起こした覚えはない。遅刻も、大きなミスも。それでも、呼び止められる理由を必死に探してしまうし、忙しくないからこそ余計に考えてしまった。

 閉店時間が近づくにつれて、客足も落ち着き、店の音が減っていく。

 片づけに入ると、シャッターが下りる音がして、店内が一段静かになる。

 店長がカウンターの向こうで、こちらを見た。


「じゃあ、ちょっといいかな」


 海斗は小さく頷いて、エプロンを外した。

 カウンターの内側で、店長は一度だけ咳払いをした。


「立ったままもなんだから、座ろうか」


 事務用の椅子を引かれて、向かい合う形になる。

 閉店後の店内は、昼間より少し広く感じた。


「そんなに構えなくていいよ」


 そう言われて、構えないのは無理だと思う。

 呼ばれた時点で、もう何かが始まっている。


「最近さ。高瀬君、君はよくやってくれてると思ってる」


 褒め言葉が、逆に不吉に聞こえる。


「ただね……店として、少し状況が変わってきてて」


 忙しくなるわけでもないし、人が足りなくなるわけでもない。

 そういう話じゃない、と直感で分かる。


「学生バイトも増えたし、シフトの調整がね。君は、大学の授業も忙しいだろ?」


 聞かれているようで、確認じゃない……何か、逃げ道を塞がれるような感覚に、背中がじっとりと濡れる。


「……まあ」


 曖昧に返すと、店長は初めて俺の目を見た。

 間を置いてから、続ける。


「正直に言うね。今後は、今までみたいにはシフトを入れられない」

「急で悪いけど、今月いっぱいで、って形になると思う」


 一瞬、頭が空白になる。

 理由がはっきりしない、責められてもいない。注意も、警告も、何もなかった。


「……何か、問題ありましたか」


 自分の声が、どこか遠い場所から聞こえてくるようだった。

 店長は首を振る。


「そういうのじゃない。君は真面目だし」


 じゃあ、なんだ。

 喉まで出かかった問いを、無理やり飲み込む。 ここで感情を出したところで、この決定が覆らないことくらい、静まり返った店内の空気が教えていた。


「分かりました」


 だから、そう言うしかなかった。

 店長は、少しだけ申し訳なさそうな顔をした。


「本当に、急でごめん」


 その謝罪は、軽くも重くもなく、ただ、決定事項に添えられた、無機質な記号のように感じられた。


 話はそれで終わった。


 エプロンを畳んで、ロッカーにしまう。

 制服を脱ぐと、この場所が、もう自分の居場所じゃなくなった感じがした。

 店を出ると、夜の空気は冷たくて、頭が少し冴える。

 理由は、分からないままだ。悪いことをした覚えもない。


 駅前で、足が止まった。

 帰る方向は分かっている。何度も歩いた道だし、迷う要素もない。それなのに、体だけが言うことをきかなかった。

 駅前のベンチに腰を下ろすと、夜の冷気がじわっと回った。 何も考えないようにして、ただ前を見る。


 今日のバイトは、特別なことはなかった。忙しかったわけでもないし、怒鳴られたわけでもない。店長とも、必要最低限のやり取りしかしていない。いつも通り、と言えばいつも通りだった。

 ……原因を探そうとすると、頭の中がざわつく気がして、やめた。

 考えたところで、今すぐどうこうできる話でもない。そう自分に言い聞かせて、息を吐く。

 しばらくして、ベンチの冷たさが気になり始めた頃、ようやく立ち上がる。

 帰らない理由もないし、ここに居続ける理由もない。

 立ち上がり、リュックを肩に掛け直して、足を踏み出した。


 数日後。

 最後のシフトの日が来て、俺は何事もなかったみたいに裏口から店に入った。

 バックヤードの空気は、洗剤の匂いと、少し湿った床に、壁際に積まれた段ボール。いつも通りだ。

 これが最後だと思うと、吸い込む空気すら重かった。

 何も考えず、いつも通りに仕事を進めていると、終業間際、店長に呼び出された。

 返事をしながら向かうと、店長はレジ横のカウンターに立ったまま、メモを一枚めくった。


「じゃあ、事務的な話だけしとくね」


 声の調子は、いつもと同じだ。


「制服なんだけどロッカーの上に置いといて。こっちで洗濯しておくから」

「あとはロッカー。私物は全部持って帰って。鍵は、そのままでいい」


 黙って頷く。

 店長の声が、思ったよりはっきり耳に残る。


「給料は月末に振り込むから。あと、源泉徴収票は郵送になるけど――住所、これで合ってる?」


 差し出された紙には、実家の住所が印字されていた。

 店長が、顔を上げる。


 一瞬だけ、迷う。

「はい」で終わらせれば、一秒でも早くこの場を立ち去れる。

 訂正する理由も、説明する必要もない。

 でも。


「……今は、違います。引っ越しました。駅の反対側の……」


 自分の声が、思ったよりはっきりしていた。

 住所を口にしながら、あの部屋の玄関が浮かんだ。狭い空間に置きっぱなしの自分の靴と、さくらの靴……

 店長は何も言わず、実家の住所を二重線で消し、淡々と書き直した。


「分かった。じゃあ、こっちに送るね」


 それだけだった。

 紙が引き出しに戻される……話は、もう終わりらしい。


「今まで、ありがとう」


 店長がそう言った。礼でも謝罪でもなく、区切りとして。


「今日はもう上がっていいから。お疲れさま」

「……ありがとうございました」


 その一言で、全部が確定した。

 更衣室に戻りロッカーを開けると、 替えのエプロン、使い古したメモ帳とペン、 一度も使わなかった絆創膏が目に入る。

 私物を全部リュックに詰め込むと、意外なほど軽かった。


 バックヤードから外に出ると、店の明かりがひどく眩しくて、目を細めた。

 肩は軽いはずなのに、夜の空気は冷たくて、一歩を踏み出すのに、全身の力が必要だった。


 ――終わったんだ。


 身体のほうが、先にそう理解していた。

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