「海斗先生」と呼ぶ彼女の、柔らかな決意
さくらの母との話し合いから、最初の週末。昼前にメッセージが来た。
『今日、勉強しに行ってもいい?手強いのが残ってるんだー』
どこか甘えるようで、それでも迷いのない文面だった。
『午後からなら大丈夫』
そう返すと、すぐ既読がついた。
インターホンが鳴ったのは、約束より十分も早かった。
ドアを開けると、さくらがノートを抱えて立っている。鼻先が少し赤い。
「……お邪魔します。外、思ったより風が冷たくて」
「十分も早いぞ。……まあ、入って」
「あはは。なんか落ち着かなくて。早く終わらせて、ゆっくり喋りたいなって思ったら、足が速くなってた」
靴を脱ぎながら、照れたみたいに笑う。
以前ここに来たときと違って、今日は視線が下を向いていなかった。
「……この部屋、やっぱ落ち着く」
「変なこと言うな。始めるぞ」
「はいはい、海斗先生」
向かい合って座ると、さくらは英語のページを開いて、すぐため息をついた。
「この一文さ、単語は分かるのに、文章にすると意味わかんなくなる」
「ここかな。関係代名詞が隠れてる……省略されてるけど、主語を補足するってやつ」
覗き込むと、さくらの髪がノートの端に触れた。
ふわっと、シャンプーの匂いがする。
「……あー、習ったかも……?」
「だろ」
「見ただけで分かるなんてすごいね。もしかして教えるプロ?」
屈託なく笑う。その顔を見て、俺の肩の力も抜けた。
一時間ほどして、さくらが机に突っ伏す。
「頭いっぱい……」
「休憩にするか。ココアでいい?」
「……うん」
戻ると、さくらはソファに深く腰掛けていた。
カップを渡すと、両手で包む。
「ねえ」
「ん?」
「今日、ママにちゃんと言えた」
視線は窓の外。
「『海斗くんのところ行ってくる』って――正直に」
「……そうか」
「『遅くならないでね』って言われただけ。……まだ、許してくれたわけじゃないと思うけど。でも、胸を張って『行ってきます』って言えたのは、海斗くんが横にいてくれたからだよ」
少しだけ、胸を張るみたいに言う。
さくらは窓の外、少しずつ春の色を帯びてきた空を眺めた。
「海斗くん、ありがとう。私、美容師の夢、絶対叶えたい。……そしたら、海斗くんの髪、私が一番に切らせてね」
「変な髪型にするなよ」
「自信あるよ?世界一カッコよくしてあげる」
さくらはそう言って、最後の一口を飲み干すと、「よし、数学もやっつけちゃうぞ!」と自分に気合を入れ直した。
夕方、オレンジ色の光が部屋に差し込む頃、ようやくノートが閉じられた。
「終わったー!今日は頑張った、私!」
「お疲れ。春休みの計画も、そろそろ立てないとな」
「あ、忘れてないからね。楽しみにしてるんだから……」
さくらが帰り支度をしている間に、2つのカップを台所へ片づけてから、さくらを玄関まで見送る。
さくらは玄関で靴を履き、ドアノブに手をかけてから、少しだけ名残惜しそうに振り返った。
「海斗くん」
「ん?」
「今日は勉強教えてくれてありがとう。またお願いしてもいい、かな?」
少しだけ申し訳なさそうにそれだけ言う。
「もちろん。あと、今度は出掛ける計画についても話そうな」
「うん……ありがと!」
そう言うと、さくらは耳を赤くしながら、廊下へ駆け出していった。
足音が消えたあとの部屋は、少しだけ温度が上がったように感じられた。テーブルの上には、さくらの忘れ物――使い古された消しゴムが一つ。
「……またすぐ来るかな、これは」




