さくらが選んだ、約束のかたち
「どうぞ」
さくらの母の声は、低くも高くもなく、怒ってもいなかった。
全員でテーブルにつく。俺は、さくらの隣に座った。
少しの沈黙のあと、さくらの母が口を開く。
「昨日の続き、ということでいいのよね」
さくらがうなずいた。俺も軽く頷くが何も言わない。
「泊まった理由は聞きました。今日は……何を話すの?」
問いは、俺じゃなくて、さくらに向いていた。
さくらは、一度だけ俺の方を見た。それから、テーブルの上で自身の手を重ねる。
「私のことです」
声は震えていなかった。でも、速くもない。
「進路の話を、ちゃんとしたくて」
さくらの母は、相槌も打たない。
ただ、続きを待っている。
「美容師になりたいです」
言い切った。
「高校を卒業したら、専門学校に行きたいと思ってます」
さくらの母が、初めて目を伏せた。テーブルを見る。
「簡単じゃないことは、分かってます」
さくらは続ける。
「お金もかかるし、資格も必要で、時間も……」
ここで、言葉が一瞬だけ止まる。
俺は、口を開きかけて――閉じた。
さくらは、息を吸ってから言った。
「だから、約束を決めたいです」
さくらの母が、顔を上げる。
「約束?」
「はい」
さくらは、指先をきゅっと握った。
「高校は、ちゃんと卒業します。成績も、今より落としません」
「……」
「学校に行きながら、進路の情報も集めます。見学にも行きたいです」
そこで、さくらの母の視線が、俺に一瞬だけ向いた。俺は、何も言わないが、さくらの母から目を逸らすことはしなかった。
「もし、途中で無理だって思ったら……」
さくらは、そこで一度だけ詰まった。
「その時は、ちゃんと話します。勝手に決めません」
沈黙が落ちる。時計の秒針の音が聞こえる。
さくらの母は、すぐには答えなかった。代わりに、静かに言う。
「あなたが決めた約束?」
「はい」
「誰かに言わされてない?」
その言葉は、表面上さくらに向かっていたが、実は俺に向けられた疑問だった。『あなたが、娘に言わせたんじゃないのか』という問いかけ。
胸が、一瞬だけ強く鳴った。
でも、さくらは首を振った。
「自分で決めました」
その返事に、さくらの母の視線がわずかに緩んだ気がした。
さくらの母は、しばらくさくらを見ていた。
昨日、娘が泊まったのは逃げのためだと思っていた。でも、今、こうして約束を立てて話している姿を見ると――違うのかもしれない。
その認識が、母親の顔に、わずかに柔らかさを戻した。
それから、俺に視線を向ける。
「あなたは?」
俺は、少しだけ言葉を探したが、結局正直に言うことにした。
「……俺は、調べました。どういう道があるのか、どれくらいお金や時間がかかるのか」
「それで?」
「決めるのは、さくらだと思いました」
それ以上は何も言わなかった。
さくらの母は、また黙る。
そして、深く息を吐いた。
「約束、ね」
「はい」
さくらは、もう一度うなずいた。
「分かりました」
その一言で、空気が少し変わった。軽くなったわけじゃないけど、昨日までの否定的な空気が、無くなった気がして、それは、小さいながらも、一歩前に進んだと言えるだろう。
「すぐに賛成はできないわ」
さくらの母は続ける。
「……でも、あなたの言葉として聞きました」
それは、もう拒絶じゃなかった。
娘を信じてみようかという、かすかな道が開いた気がした。
さくらの肩がわずかに下がる。俺は、それを見ているだけだった。
話は、それ以上進まなかった。
明確な結論も、許可も出ないまま、朝は終わった。
玄関で靴を履いていると、見送りに来たさくらが小さく息を吐く。
「……ありがとう」
「何が?」
「横にいてくれて」
俺は、少しだけ間を置いた。
さくらの母はまだ、さくらも俺も、完全には信じていない。それは、当然だ。
でも、見守るという立場に移ったことは、わずかな前進だと思う。
やはり、さくらが「自分で決めた」と言い切ったことが、すべてを変えたのだろう。
「うん」
俺は、それだけ言った。
それ以上は、言わなかった。
玄関を出るとき、さくらの母の視線が、俺の背中に向いていた気がした。
その視線の中には、まだ疑いがある。でも同時に、様子見するという気持ちも、確かにあるように見えた。
「送ってく」
さくらが言った。
そう言いながら自分の靴を履いて横に並ぶと、玄関の扉を開けた。
朝の光がまだ柔らかい。外に出ると、朝特有の冷たさが残っていて、空気はひんやりしていた。
「まだ完全に春じゃないし、さすがにまだ冷えるね」
そう言って、さくらが肩をすくめながら、歩き出す。足取りは明らかに軽い。
二人並んで歩く距離も、少し近い気がした。
「……今日は、ありがとう」
さくらが、前を向いたまま言った。
「何が?」
「……横にいてくれたこと」
即答じゃなかった。
ちゃんと考えてから出てきた言葉だった。
「俺は、何もしてないよ」
「ううん、そんなこと無いよ」
そう言われて、返す言葉がなくなる。
しばらく歩いてから、さくらが思い出したみたいに言う。
「あ、そうだ」
「なに?」
「勉強、見てほしい」
切り替えが早い。
「成績、落とさないって約束しちゃったし。一人だと、絶対サボるから」
「正直だな」
「でしょ」
さくらは笑う。
「海斗くんがいるとさ。ちゃんとやらなきゃ、って思うんだよね」
……それは、頼りにされてるってことでいいんだろうか。
「俺でよければ」
そう言うと、さくらの表情が少し明るくなる。
「いいの?」
「ああ。春休みだしな」
「うん。海斗くんがいい」
迷いがないのが、少しくすぐったい。
歩いているうちに、人通りが増えてくる。
でも、さくらは止まらない。
気づいたときには、もう俺の家の近くまで来ていた。
「……戻る?」
俺が聞くと、さくらは少し首を傾ける。
「まだ話してたかったから」
そのまま、自然に歩き続ける。
「春休みさ。……さっき、進路の話もできたけど、ずっと家にいるのって、ちょっと息詰まるかも」
少し間を置いて。
「だからさ。勉強ばっかじゃなくて、どっか、行かない?」
俺は一瞬考えてから言った。
「分かる……俺も、誘おうと思ってた」
「ほんと?」
「気分転換も、必要だろ」
笑いながら、さくらが言う。
「じゃあ、決まりね。勉強して、遊ぶ」
「わかった。春休みのうちに一回、ちゃんと出かけるか」
気づけば、見慣れたマンションが前にあった。
「あ」
さくらが足を止める。
「話してたら、来ちゃったね」
「うん」
さくらは、少しだけ名残惜しそうに笑う。
「じゃあ……戻るね」
「大丈夫?やっぱり送ろうか?」
「なにそれ。ずっと歩くことになっちゃうよ」
さくらがくすっと笑って、手を振る。
「もう平気だから。今日は、本当にありがとう」
その「平気」は、さっきより軽い。
「こちらこそ。また連絡する」
「じゃあね、海斗くん」
「またな」
さくらは来た道を引き返していく。
朝の光の中で、その背中は昨日よりずっと軽かった。
部屋に戻る前、俺は一度だけ振り返る。
春休みは、たぶん忙しくなる。
でも――悪くない。
むしろ、ちゃんと続いていく気がした。




