さくらが逃げずに向き合う場所
静かになった部屋で、俺はしばらく動けなかった。
さっきまで三人分あった空気が、一人分に戻っただけなのに、広さが違う。
テーブルの上に、コーンスープの空のカップが二つ残っている。
今は洗う気にならなかった
ソファの端の、さくらが座っていた場所――クッションの沈みは、まだ戻っていない。
俺は椅子に腰を下ろして、膝に肘をついた。
指を組んで、ほどいて……また組む。
胸がざわついて落ち着かない。
ノートがない机は、少しだけ軽く見えた。
庇わなかった。
横に並んで、同じ立場で話をしたつもりだった。
だが、その「つもり」は、本当だったのか……
さくらと同じ高さに立つ。同じ視線の高さで、同じ言葉を発する。それは「対等」に見えた。
でも、本当にそうなのか。
俺は、昨日まで二人で準備したノートを、さくらの母の前で「開く」ことが出来たのに、ただノートを差し出しただけだった。中身を説明したのは、さくら自身だった。
昨日、さくらを泊めた理由を、話を聞くからだと、俺はさくらの母に言った。
でも、俺は何をしたんだろうか。
さくらの考えを、まとめただけ、意見を添わせただけじゃないのか……
付箋を書いた。ノートをまとめた。
そして、母親の前では、さくらに「言わせた」んじゃないのか。
それは、責任をさくらと一緒に背負ったつもりで、逃げているだったのかもしれない。
「泊めた」と言った瞬間の、さくらの母の目。
怒ってはいなかった。でも、理解しようともしていなかった。
怒鳴られていない。責められ切ってもいない。
……俺は、さくらを泊めたことの重さを、本当には理解していなかったんじゃないのか。
反射的に、さくらを部屋に招いて、感情のままに、話を聞いた。
「話を聞く」
「支える」
「信頼する」
そういう綺麗な言葉で、自分を正当化していただけじゃないのか。
今日、二人で「準備した」という名目で、俺たちの都合を、説明できるように整えただけじゃないのか。
そして、俺の部屋は、さくらにとって「安全な場所」だったのか。それとも、「逃げ込む場所」だったのか。
俺には、分からない。
明日、さくらの母と話す席で、俺は何を言うのか、何が出来るのか。
庇うのか。任せるのか。それとも、もっと別の形で、向き合うべきなのか。
俺には、まだ見えていない。
スマホを手に取ると、俺は画面をスクロールした。
さくらへのメッセージ入力欄を開く。
『明日について、確認したい。どこで話す?俺の家かさくらの家の、どちらでも大丈夫。俺は、さくらの判断を支持する』
送信。
返信は、すぐには来なかった。5分。10分。やがて、画面が光ると、通知欄に、さくらの名前。
メッセージを開く。
『ママに聞いてみてもいい?』
その文字を見た瞬間、胸の奥で、何かが少しだけ引っかかった。
さくらは、俺に許可を取りたいわけじゃない。でも、背中を押してほしいとも、違う気がした。
一度、文字を打ちかけて消す。
結局、残ったのは、今のさくらの言葉そのものだった。
『俺は、ママに聞いてみるのはアリだと思う。さくらが納得できる方で大丈夫』
今度は、返信がすぐに来た。
『ありがとう。ママに聞いてみるね』
その後、
『海斗くん。私の家で話すのがいいと思う』
『明日、朝から話がしたいから、一緒に居てくれませんか』
最後のメッセージの文体が敬語に変わっていた。
それは決意の表れなのか。それとも、俺と距離を置こうとしているのか。
画面を見つめたまま――俺は推測することを止めた。
理由は、どちらでもいい。
大事なのは、さくらが、俺の家ではなく自分の家で話す……と自分で決めたことだ。
それは親から逃げずに向き合うという選択だと思った。
俺は、返信を返した。
『分かった。朝、何時に行けばいい?』
『7時に家の前で』
スケジュールが決まり、俺はスマホを机に置いた。
さくらの言葉が頭に浮かぶ。
私の話、ちゃんと聞いて。勝手に決めないで。美容師になりたい。
……昨日は「さくらの要望」だったそれが、今日は「さくらの決意」に変わっていて、俺は、その決意にどう応えるべきなのか。
その答えは、まだ見つからない。
でも、一つだけ分かったことがある。さくらは、単なるかわいい女の子ではなくなっていて……そんな彼女に対して、俺は何ができるのか。庇うのか。支えるのか。ただ、横にいるのか。
その答えは、明日の朝7時に、さくらの家の前で始まる。
スマホをもう一度、手に取ると、タイマーをセットする。
朝6時。
もう、後戻りはできないと思った。
朝6時前に目が覚めた。タイマーが鳴る前だった。
カーテンの隙間から、まだ白くなりきらない空が見える。スマホを手に取って、画面を確認する。通知は来ていない。
昨日は、さくらのやりたいことを少しだけ調べた。美容師になるまでの道筋。専門学校。通信制。国家試験。年数。学費。スクロールして、いくつかのページを開いて、確認して……覚えたのは数字より、段取りの形だけだった。就職する方法が一直線じゃないこと。回り道があっても、戻れなくなるわけじゃないこと。
七時少し前、さくらの家の前に着いた。住宅街の朝は静かで、音が少ない。自分の足音だけがやけに響いた。
インターホンを押して、深呼吸を一つ。すぐにドアが開いて、さくらが出てきた。
髪はまとめていて、いつもより張りつめた顔だった。覚悟を決めた、という感じの顔だ。
「おはようございます」
敬語のままだった。俺も、つられて背筋が伸びる。
「おはよう」
家の中に入ると、すぐにさくらの母がいた。リビングのテーブルの前で立って待っていた。




