一夜を越えて、インターホンが鳴った朝
さくらの母に連絡をしても、胸の奥の怖さだけは減らなかった。
送信ボタンを押したあと、さくらはスマホを机に伏せた。掌をその上に置いて、じっと息を止めてるみたいに見えた。
俺はノートを閉じて、ペンをペンケースに戻す。
「……これで、一旦」
俺が言うと、さくらは小さく頷いた。頷いたのに、肩が上がったままだ。
しばらく、部屋の音が減った。
冷蔵庫の低い唸りと、外の車の遠い音だけが残る。
「……お腹、空いてる?」
口に出してから、変なタイミングだと思った――でも、何か言わないと、このまま黙って固まり続ける気がした。
さくらは机の端を見て、頷く。小さく。
俺も、腹が鳴りそうだった。昼に学食でカレーを押し込んでから、何も食べていない。大学から帰ってからも落ち着く暇がなかった。
「家にあるのでいい? 買いに出るのは……今はやめとこう」
俺がキッチンへ向かうと、さくらが「うん」とだけ言った。
ソファの端に浅く座ったまま、膝の上に手を重ねてる。
今から米を炊くのは遅いしうどんにしよう。
冷凍庫からうどんを出して、鍋に湯を沸かす。卵が一個だけ残ってたから落とした。味付けは白だし、醤油、砂糖で適当に整える。
箸を二膳と、コップを二つ並べる。
「海斗くん、料理するんだね」
さくらがぽつっと言った。
驚きというより、話題を探している感じの言い方だった。
「するってほどじゃないよ。腹が減ったら、やる感じ」
笑いながらそう言うと、俺は鍋を火から下ろして、器に分けた。湯気が上がる。
「食べれる?」
さくらは頷いて、箸を取った。
一口。二口。噛む回数が多い……味が分かってるのか分かってないのか、俺には判断できない。
テレビをつける。音量を小さめにして、バラエティの明るい声が遠くで鳴るくらいにする。
さくらは画面を見ない。見る代わりに、器の縁を指で押さえてる。
「……返信、来たら、さ」
さくらが言って、途中で止まった。
俺は箸を置いた。
「来たら、来たで考える。来てないなら、今は……食べよ」
「うん」
その返事は早かった。
食べ終わる頃、机の上でスマホが一度だけ光った。
音は鳴らない。画面だけが白くなって、すぐ暗くなる。
さくらの視線がそっちに飛んで、戻ってくる。
俺は「見る?」とも言わなかった。言ったら、背中を押すみたいになる。
代わりに、器を流しに運ぶ。
「お風呂、先に使って」
言いながら、脱衣所の電気をつけた。
さくらは一拍止まってから、小さく首を振った。
「わたしは後でいいよ」
「じゃあ、俺が先に入る。すぐ出るから」
本当は逆にしたほうがいいんだろうけど、無理に譲るのも違う気がした。
さくらは「うん」と言って、ソファに残った。
急いで風呂から上がると、さくらは同じ姿勢のままテレビを見ていた。
タオルを畳んで、洗面台の端に置く。
「次、入って。タオル出しておくよ」
「うん。ありがとう」
さくらは立ち上がって、ゆっくり洗面所へ向かう。
ドアが閉まる直前、さくらが振り返った。
「……明日」
声が小さい。
「うん?」
「……一緒に、いてくれる?」
俺は短く頷いた。
「うん。行く。家まで」
それだけ言った。
さくらは一回だけ頷いて、ドアを閉めた。
湯の音がし始める。
俺はソファの端に座り直して、机の上のノートを見た。三行だけ。さくらが最後に足した行だけ、筆圧が濃い。
スマホがもう一度光った。今度は画面に名前が出た。
〈ママ〉
音は鳴らないのに、胸の奥が一段冷えた。
さくらが通知を見て、何かするかもしれないし、何もしないかもしれない。
そのどれも、俺が決めることじゃない。……光は消えた。
さくらが出てきたのは、それから少ししてからだった。髪がまだ湿ってる。部屋着は俺が貸したスウェット。袖が少し長い。
「さっき、光ったよ」
「うん……見ない」
さくらが机の上を見ないまま言い切った。
さくらは充電ケーブルを手に取ってスマホに繋ぐ。
テレビの番組が変わって、バラエティみたいな笑い声が流れた。さくらがそれを見て笑うわけじゃない。でも、眉間の皺が少しだけほどける。
そのタイミングで、再びさくらのスマホが光った。音は鳴らない。画面だけ一瞬、明るくなって、暗くなる。
さくらの肩が、少しだけ硬くなる。
「……明日」
俺が言うと、さくらが目を上げた。
「さくらのママと話すの、俺も一緒にやるよ。……勝手に口出すんじゃなくて、さくらの隣にいる」
「……隣」
「うん。さくらが言うのを、止めないように」
さくらは息を吸って、吐いて、もう一回吸った。
「……私たち、付き合ってないのに」
即答したら冷たい気がして、でも曖昧にしたくなくて、そのまま続ける。
「付き合ってない。だから、変に庇う言い方はしない。……ただ、俺も関わったし、そこからは、逃げたくない」
さくらが、毛布の端を握り直した。握り直して、少しだけ頷く。
「……分かった」
ベッドは一つしかない。今日は俺がソファで寝るつもりだった。
立ち上がって、俺が毛布を出そうとすると、さくらが先に言った。
「……海斗くん、ベッドで寝て」
「俺、ソファでいい」
「ううん。昨日と同じ場所がいいの」
言い方が強いわけじゃない。
でも、譲らない、って決めた声だった。
俺は一回だけ頷いた。さくらはソファに毛布をかけて、膝を抱えるみたいに丸くなった。
「……寝れる?」
俺が聞くと、さくらは返事をすぐに出さない。
息を吸って、吐いて、それから小さく「うん」と頷いた。
「わかった。隣に居るから、何かあったら呼んで」
「ありがと」
俺は寝室の引き戸の前で一回だけ止まった。
「おやすみ」
「……おやすみ」
引き戸を静かに閉める。薄い板一枚の向こうが、すぐ近いのに遠い。
ベッドに腰を下ろして、息を吐いた。
向こうの部屋から、しばらくしてテレビの音が小さく聞こえた。さくらが、起きてる音だ。
俺は横になり明りを消して、何も考えないふりをした。
気づいたら、隣の部屋の音が消えていた。
呼吸だけが残っている気がして、俺はそれに合わせるみたいに目を閉じた。そのまま眠りに落ちたかどうかは、分からなかった。
朝の光が、カーテンの隙間から細く入ってきていた。
ローテーブルの端には、ノートが開きっぱなしになっていた。
俺は台所に立って、湯を沸かしながら、マグカップを二つ出す。コーンスープの袋を引き出しから取って、カップの中へ入れた。
こういうことをしてる間だけ、手が勝手に動く。
背中で、小さく布が擦れる音がした。
振り返ると、さくらがソファから起き上がっていた。髪が寝癖のまま、目をこすってる。部屋着の袖が手の甲を隠してる。
「……おはよ」
「おはよ」
それだけ言って、俺はカップに熱い湯を注いだ。粉が溶ける匂いが広がって、部屋が少しだけ朝になる。
それを机に置いた。
さくらはすぐに飲まず、温度を確かめるみたいにカップを両手で包む。
机の上のさくらのスマホは、昨夜と同じ位置にある。
画面は暗いままだ。
「……来てると思う?」
さくらがスマホを見ないまま言った。
「分かんないけど、多分。来てると思う」
正直に言った。
さくらが眉を少しだけ動かす。
「見る?」
さくらは首を横にゆっくり振った。
スマホの縁を指でなぞった。
「ううん。いい。見たら……気になるし」
言って、さくらは唇を噛んだ。ほどいて、また噛む。
「じゃあ、後でにしよう。まず、飲も」
さくらは一口だけ飲んだ。
熱かったのか、瞬きを一回。飲み込んで、カップを机に戻す。
「今日、帰って」
さくらが言った。喉が鳴るのが見えた。
「うん」
頷く。そこから先を俺が押すのは違うと思った。
さくらは俺をまっすぐ見て、続ける。
「もし……なんか、変なこと言いそうになったら、止めて欲しいの」
「分かった」
それだけ言った。
だけど、その直後に付け足した。
「でも、さくらが言うべきことなら、俺は止めない」
さくらが、少しだけ視線を上げた。
「言うべきこと?」
「そう。お母さんに、本当の気持ちを言う。それはさくらの権利だ。……止める、ってのは、暴走した時だけ。……分かる?」
「うん」
さくらが、ぼそっと言った。
その言い方には、少しだけ安心が混ざっていた。
インターホンが鳴ったのは、その直後だった。 短く、一回。
さくらが固まった。
肩が上がって、そのまま動かない。
もう一度、インターホンが鳴る。
俺は立ち上がって、玄関へ向かった。
足音がいつもより大きく聞こえる。途中で振り返ると、さくらはソファの端で背中を丸めていた。膝を揃えて、両手を膝の上に置いたまま、指だけが動く。
玄関のドアの前まで来て、ドアスコープを覗くと、厚手のコートに、手にマフラーを持った女性が立っていた。




