「美容師になりたい」と
学校でいじめられているんじゃない――その言葉を聞いて、俺は肺に溜まっていた空気を、ゆっくりと吐き出した。
少しだけ沈黙が落ちた。湯気だけが揺れる。
「……じゃあ、何がしんどいの?」
さくらは口を開いて、閉じた。
カップの方を見て、それから自分の指先を見る。
「学校が嫌なわけじゃないの。でも……周りに“卒業するまで待ってね”って言われてるみたいで――待ってる間に、先にやりたいことがあるのに!って……思っちゃう」
「やりたいこと、って」
さくらは指を絡め直した。
ほどいて、また絡める。
「うん……美容師。机に座ってるより、手動かしてるほうが落ち着くし……友だちに頼まれて、髪編んだりして、“かわいい”って言われたら……そりゃ、嬉しいし」
さくらは小さく笑いかけて、すぐ真顔に戻った。
「……変な話だけど、私も……誰かの“変わりたい”を手伝えたらいいなって、思った」
俺は「変じゃない」と言いかけて、飲み込んだ。
言うとさくらの言葉が軽くなる気がした。
「……いつから?」
さくらが少し考えて、前髪の端をつまんだ。
「……中三の冬くらい。最初は動画見て真似してただけ。……でも、だんだん」
「美容系の学校に……ってこと?」
俺が言うと、さくらは小さく頷いた。
「うん。そういうの。通信もあるやつ。普通の高校にいるより、そっちの方が……ちゃんと前に進める気がして」
言い切ったあと、さくらは一回だけ瞬きして、視線を落とした。
俺は頷かなかった。代わりにノートを引き寄せて、付箋を出す。
「じゃあ、書こ。言いたいこと。言われそうなこと。……順番も」
さくらは黙って、カップを持ち上げた。
一口だけ飲んで、すぐ置く。熱かったみたいに瞬きした。
「……これ、また……私が言うの?」
小さい声だった。
質問みたいで、お願いみたいでもあった。
俺は昨日のノートを開いた。端に残ったペンの跡が、妙に生々しい。
一回、さくらを見る。
「……今日話すのは、俺も一緒」
さくらが少しだけ息を吸って、吐いた。
俺は視線を外さない。
「一人にしない」
さくらが小さく頷く。
「……昨日みたいに、言葉をまとめてみようか」
俺は付箋を二枚、テーブルの真ん中に置いた。
「まず、“言いたいこと”。次に、“言われそうなこと”」
言いながら、ペンをさくらの方へ寄せた。
「どっちからでもいいよ、言いやすい方からで」
さくらは少し迷ってから、付箋を一枚剥がして書く。
そうしてペタッ、と貼る。『私の話、ちゃんと聞いて』
貼った瞬間、さくらは一回だけ黙った。付箋の文字を見たまま、膝の上で組んだ指を、白くなるほど強く握りしめた。
すぐに視線を逸らして、もう一枚。『勝手に決めないで』
俺は「うん」とも「分かった」とも言わなかった。
代わりに、同じ列にもう一枚貼る。『美容師になりたい』
それから続きを書いて、横に貼る。『美容の高等課程(通信)を考えてる』
「……これ、お母さんに言った?」
俺が聞くと、さくらは首を振った。
振ってから、小さく言い直すみたいに続ける。
「……“美容師になりたい”は言った。でも……“高等課程”とか“通信”とかは、まだ。……聞いてくれなくて」
「……そっか」
俺は頷いて、付箋の束を指で揃えた。
「じゃあ次に、言われそうなこと」
俺が一枚、貼る。『それはダメ』
さくらがすぐにもう一枚。『まず高校』
少し間が空いて、さらに一枚。『卒業してからでもいい』
俺は別の列に、短く書いた。『今は考える時期じゃない』
ペン先で、この付箋の端だけ指す。
「……これ、言われた?」
「……言われた」
声は小さいのに、そこだけは止まらなかった。
俺は次の付箋を貼る手を止める。
止めてから、さくらを見る。
「うん……聞いてほしいって、さ。何を聞いてほしい?」
さくらはカップを見て、口を開いて、閉じた。
それから、やっと言う。
「……なんで」
ぽつりと。
「私が……なんで、そう思ったのか。そこ、聞いてほしい」
俺はそのまま、付箋に書いた。『なんでそう思ったのか(理由)を聞いて』
書いてから、顔を上げる。
さくらの目がこっちを向くまで待って、言う。
「……思いついた順でいいから。あとで並べよう」
さくらが小さく笑いかけて、すぐ真顔に戻った。
俺は付箋を二つ、指でトントンと叩いた。
『言いたいこと』の列と、『言われそうなこと』の列。
「先に、これを増やそう」
「……増やす?」
「うん。美容師になりたいって言ったときに、お母さんが言いそうなこと。……それと、この他に聞かれそうなこと」
俺は言いながら、今貼られている付箋を指で差す。
『それはダメ』
『まず高校』
『卒業してからでもいい』
「……いつから、って聞かれそう……かな」
俺は『いつから?』の付箋を貼った。
「答え、今ある?」
さくらは一瞬だけ黙って、首を小さく振った。
「……ちゃんと覚えてない。……今は、これが言いたい」
さくらはそう言って、指先で付箋の列をなぞった。
『私の話、ちゃんと聞いて』
『勝手に決めないで』
『美容師になりたい』
『美容の高等課程(通信)を考えてる』
『なんでそう思ったのか(理由)を聞いて』
「……これなら言えると思う」
さくらが小さく言った。そうして、ぬるくなったカップを一度だけ口元へ運び、また置いた。
俺は「うん」とも「分かった」とも言わなかった。
代わりに、空白の付箋を一枚、さくらの手の届くところに置いた。
「……じゃあさ」
「これに“足す”としたら、何が欲しい?」
「……足す?」
「うん。言い方じゃなくて、中身」
さくらは、一度カップを見てから、視線を俺に戻す。
俺は『美容の高等課程(通信)を考えてる』を指で軽く示した。
「例えば、ここ」
「……“軽い気持ちじゃない”」
言った途端、さくらは自分で照れたみたいに瞬きして、すぐ真顔に戻る。
俺は短くそれを書いて、貼った。
『軽い気持ちじゃない』
さくらはその付箋を見て、少しだけ息を吐いた。
「……でも、ママは、じゃあ具体的にって言う……と思う。……あと、そう。ちゃんと考えてるの?って」
「……じゃあ、具体的にって聞かれそうなやつ。何があるかな」
さくらが小さく頷く。
「……“どんな学校なの”」
「“通信って何”って」
俺は二枚続けて貼った。『どんな学校?』『通信って何?』
貼ったあと、さくらは付箋の角を押さえたまま、少し黙った。
自分で出したのに、怖くなったみたいに。
「あと……“資格は?”も言われた」
「……“美容師って、どうやってなるの”って」
俺は短く書いて、貼る。
『資格は?』
『どうやってなる?』
さくらが唇を噛んで、すぐ離した。
「……たぶん、そこも聞かれる。“結局、どうやって美容師になるの”って」
俺は「うん」とも言わずに、ペン先を止めた。
止めたまま、さくらの顔だけ見る。
さくらは言いかけて、笑おうとして、それができないみたいに――少しだけ肩をすくめた。
「それで……“分かってないでしょ”って、言われると思う」
「……そうだな」
空白の付箋を一枚、さくらの前に滑らせた。
一回だけ、さくらを見る。
「“全部分かってる”じゃなくていいと思う。分かってないって言われたくないなら……“今ここまで”って言い方も、ある」
さくらが瞬きした。
「今……ここまで?」
「うん。調べてる途中、とかさ」
言い終えてから、俺は少しだけ声を落とす。
「それってさ……逃げじゃなくて、ちゃんと前を向いてる最中、ってことだろ」
さくらは手元の空白の付箋を見て、息を吸って吐いた。
「うん……“まだ調べてる途中”って言いたい……! でも、それ言うと」
言いかけて、一度、唇を噛む。
「……“じゃあ今じゃないでしょ”って、返されそう」
俺は首を振らない。頷きもしない。
その代わりに、ペン先で空白の付箋をトン、と叩く。
「それが来たら、だから、結論じゃなくて、話を聞いてほしいって言ってみるのはどう?」
「結論じゃなくて……?」
さくらが小さく復唱する。
「うん。決めてから来い、じゃなくて、決めるために話をさせてって」
さくらが瞬きした。
怒られたみたいじゃなくて、意外そうな顔。
俺はそのまま書いて貼った。『今は調べてる途中』『だから、聞いてほしい』
さくらの視線がそこに落ちたまま動かない。
「……それ、言えたら」
俺は頷かないで、わざと遮って続けた。
「でも。聞いてもらえたとしても、“じゃあ何を調べるの”、“どうやって決めるの”って、言われると思う」
さくらが顔を下げる。
「……それ、言われそう」
俺は空白の付箋を取って、短く書いて貼った。『何を調べる?』『どうやって決める?』
さくらはその二枚を見てから、俺の方に視線を向ける。
「……でも、調べるって言っても……」
「うん。だから、今ここで“調べ方”も出そう」
俺はもう一枚、空白をさくらの近くへ置く。貼らない。
「思いついた順でいいから」
さくらの肩が、ほんの少しだけ落ちる。
さくらは指先でテーブルをなぞってから、言った。
「……学校の先生に聞く。担任とか……進路の先生とか」
さくらはそう言って、自分で「言えた」みたいに一回だけ瞬きする。
俺はそのまま書いて貼った。『学校で相談(担任/進路)』
「あと……ネット。公式HPとか」
「うん」
俺は言い過ぎないように、短くして貼る。『調べる(公式・資料)』
さくらが続ける。
「美容師って……資格いるんだっけ」
「いると思う。そこも、ちゃんと調べよ」
俺は空白の付箋に『資格の取り方』『美容師のなり方』とだけ書いて貼った。
さくらは付箋を見て、眉をしかめた。
「ルート……普通の高校を……途中で、やめるのと、卒業してから行くので、何が違うんだろ……」
怖がっているのか、語尾がが小さくなる。
俺は何も言わないで、代わりに付箋を並べるスペースを作った。
「分けて書こ。中退して移る場合、と卒業してから、の場合」
さくらが小さく頷く。
俺は二枚、見出しだけ貼る。『今の高校→移る場合』『高校卒業→そのあと』
さくらはその見出しを見た途端、少しだけ呼吸が戻ったみたいだった。
「……あと」
「うん」
「“通信”って言ったけど……」
「うん。そこも調べよう。通うのと何が違うのか」
俺は一枚追加した。『通学/通信の違い』
さくらがカップを持ち上げて、今度は一口飲んだ。
「……これ、言えたら、ママ……たぶん聞いてくれる」
その言い方は、希望というより確認だった。確認したくて、口に出した、みたいな感じ。
俺は一回だけ息を吐いた。
「聞いてくれたとしても、今日いきなり全部決まる話じゃない」
「うん」
さくらは『今は調べてる途中』を見て、小さく頷いた。頷いたあと、息を吸う。
「……じゃあ」
さくらが言いかけて、言い直す。
「私、帰って説明しに行きたい……明日、ママ休みだし」
それだけ言って、さくらは目を僅かに上げる。さくらの背筋が伸びた気がした。
「じゃあ――今、送ろ」
「……送る?」
「うん。メッセ。明日、って言えるなら」
さくらがスマホを出して、画面を見たまま固まった。
「……また、私が?」
小さい声。
俺はテーブルの上に手を置いたまま、少しだけ前に身を乗り出す。
さくらのスマホに触れそうで、触れない距離。
「文面は一緒に作ろう」
「押すのは……さくらで」
さくらが俺を見る。
俺は視線を逸らさない。
「一人にしない」
それだけ言って、ノートの余白に短く書いた。
『もう一回、ちゃんと話したい』
『明日、家で時間ある?』
『今日は帰らない。明日の朝、帰って話す。いまは――』
そこで、さくらが小さく首を振った。
「……その言い方だと、心配すると思う」
さくらが自分のペンを取る。俺はペンを置いた。
さくらはノートの最後の行の語尾に、迷うみたいに一拍だけ止まって――書き足した。
『いまは平気。ちゃんと安全なところにいる』
書き終えたあと、さくらは自分の字をもう一回だけ見て、頷いた。
「これなら送れる、かな」
さくらがスマホに視線を戻して、打つ。
途中で指が止まるが、ノートを見直して、また動かす。
打ち終わって、送信ボタンの上で指が止まった。
「押すね」
誰に言うでもなく、さくらが言って。
一回だけ息を吸って――押した。




