押しやられた鞄
さくらを泊めて帰した翌日、俺は大学に来ていた。
三月の昼は、あったかいようでまだ冷える。キャンパスの端の桜は、咲く気配だけ先に膨らんで、枝はまだ硬いままだった。
春休みでも、昼時の学食はいつも通り混んでる。研究室の用事だとか、新歓の準備だとか。結局、並ぶ列は短くならないし、席取りの目だけは鋭いままだ。
自動ドアが開くと、油とスープの匂いが混ざって鼻に当たる。俺はトレイにカレーを載せると、いつもの方を見た。
いた。ゼミの連中と、その友達らだ。
笑い声が上がって、誰かが手を上げる。
「海斗、こっち」
呼ばれて近づくと、指差された席は、端の一つだけだった。
テーブルの端。……なのに、その隣の椅子は空いている。
俺は一瞬だけ足を止めた。
隣が空いてるのに端? そんなこと、あるのか……。
一拍だけ迷って、それから腰を下ろした。
「……ここ?」
俺が聞くと、返事はすぐ返ってきた。
「うん、そこ」
返事が返ってきた。
俺は「うん」とだけ返して、トレイを置いた。カレーのスプーンを口に運ぶ。熱さで舌が少し痛いが、不思議とほっとしてしまう味だ。
隣の椅子は空のまま、会話は続く。
ただ、言葉が飛ぶ向きが、俺の方には飛んでこない。
向かいのやつが、俺を見ないで話す。
斜め向かいが笑って、別のやつがすぐ拾う。
俺はうなずいて、飲み込む。口角だけが動く。
トレイの端でスマホが震えた。
画面は伏せたまま、机が小さく鳴る。
俺は反射で手を伸ばしかけて、やめた。
……少し気まずくなって、代わりにコップを掴んで立つ。
水を足すだけのつもりで給水機へ歩いた。
冷たい水がコップに当たる音。
それを聞いてる間だけ、目の置き場に困らない。
戻るべきか、少し迷った。
席に戻れば、またあの輪の中に入ることになる。でも、戻らなければ、それはそれで“逃げた”みたいで嫌だった。
そうして、戻った瞬間、俺の足が止まった。
さっきまで空いていた隣の席も、さっきまで俺が座っていた席も、もう誰かが座っている。
椅子の背に掛けていた俺の鞄は、邪魔そうに押しやられて、テーブルの脚のほうへ寄せられていた。
取っ手だけが、通路側に寂しく出ている。
「……そこ、俺の」
言ったつもりだった。声がちゃんと出たか、自分でも分からない。
座ってるやつが、ちらっとだけこっちを見る。でも、立たない。肘もどかない。
俺は鞄の取っ手を掴んで引いた。
テーブルの脚に引っかかって、嫌な音が出る。
「……ちょっと」
もう一回だけ言って、鞄を肩にかけ直したが、誰も見ないし、誰も言わない。
空いた席は遠くにいくらでもあるが……俺は一歩下がって、立ったままになった。
笑い声が上がる。俺の耳にも届く距離なのに、俺は輪の外にいる。
スマホがまた震える。今度は短くない。
画面が点いて、名前が浮いた。
〈三浦さん〉
バイト先の先輩――閉めに入ってることが多くて、俺のシフトをいじるときは大体この人を通る。
俺はその場で出るのをやめて、食堂の外に出る。人の流れの邪魔にならないよう端に寄った。
息を一回だけ整えて、スワイプする。
「……もしもし」
『海斗? 今、話せる?』
いつもの軽い声。だけど、今日は最初の一言が少しだけ短い。
「うん。どうした」
『店長からさ、連絡。今週のシフト、ちょっと見直すって』
「見直す?」
『うん。……あー、店の方の都合らしい。』
店の都合、って言い方がやけに固い。
『でさ。聞くのも嫌だろうけど、一応確認しとく』
「何」
電話の向こうで、三浦さんが一回だけ息を吸った。
『最近、制服の子と一緒にいたって……ほんと?』
胸の奥が小さく沈んだ。
周囲のざわつきが、急に遠くなった気がする。
「……見られたんだ」
『俺は見てない。店に来てる子が言ってた。駅前で、って。』
「誰が……いつ……」
『そこまでは知らない。けど、話が変な方向に行くと面倒になるからさ』
三浦さんの声が少しだけ低くなる。いつもみたいに笑っていない。
『店長さ、こういうの嫌うじゃん。事実がどうとかじゃなくて、“店に飛び火する”のが嫌って。』
俺は返事を返せなかった。口の中が乾いて気持ち悪い。
「……相手は、高校生。だからって、そういうことじゃない」
『うん。分かってる。……分かってるけど、分かってないやつもいるから』
「……」
『それでさ。店長が、しばらく混む時間帯はホール以外に回して、様子見るって。』
「……ホール以外?」
『そう。裏方。客の目が少ないとこ。』
「俺を外す、ってこと?」
『そうじゃなくて。……いや、外すっていうより、表に立たせないで裏に回ってもらう。そんな感じ。』
その言葉が、喉の奥に引っかかった。
「……三浦さんは、どう思ってるの?」
『俺?』
少し間。
『俺は、お前が変なことするやつじゃないって思ってる。だから、確認してる。……あと、釘も刺してる。店長に。』
「……ありがとう」
『礼はいらん。』
いつもの口調に戻りかけて、戻りきらない。
『たださ。黙ると、勝手に“それっぽく”されるから。』
俺は息が浅くなって、うまく返せなかった。
「……分かった」
『おう。あと、変に一人で抱えるなよ。』
「……はい」
返事のしかたが固くなって、自分でも変だと思った。
『じゃ、また。店長の話が決まったら連絡する』
「うん」
電話が切れた。画面が暗くなっても、手のひらは熱いままだった。
俺は結局テーブルへ戻らなかった……戻っても座る場所はない。
鞄の取っ手に残った、テーブルの脚を引っかけた音だけが、まだ耳に残っている。
少し離れたところから、あいつらの方を見る。
誰かが俺に気づいて、目が合いそうになる――合う直前で、逸らされた。
逸らされた先で、また笑い声が上がる。
さっきから心臓の鼓動がやけにうるさい。俺は立ったまま、口だけで深呼吸をした。
空いた席は遠くにいくらでもある。
でも、そこに座ったら、俺が勝手に“別の場所の人間”になる気がした。
鞄の取っ手を握り直す。
……指が少し痛い。
俺はそのまま、足を動かした。
背中に笑い声が残ったまま、食堂のドアが閉まる音がした。
笑ってくれてた連中が、今日は目を合わせてこなかった。




