震える手で選んだほうへ
決めごとができた途端、世界はそれを試すみたいに動き出した。
「……行ける?」
「……行く」
さくらが立ち上がる。制服の裾を一回だけ払って、鞄の紐を握り直す。
俺も立って、鍵とチェーンの位置を確認して、それからメモをさくらに渡した。
受け取る手が、少しだけ震えていた。
玄関の前で、さくらは一度だけ立ち止まった。
靴のつま先が揃わない。鞄の紐を持ち替えて、また戻す。
「大丈夫?」
「うん」
俺が聞くと、さくらは頷きながら答えた。
視線は床のままだけど、短い言葉には、力強さがあった。
俺は鍵を確認して、ドアノブに手をかける前に、さくらの手元を見た。
ポケットの上から、スマホを押さえてる。
靴を履く音が、やけに大きい。
ドアを開けようとした、そのとき。
——ブルッ。
低い振動音。さくらのポケットの中で、スマホが跳ねた。
さくらの動きが止まって、息が浅くなる。
「……来た」
声が、少しだけ裏返る。
さくらはゆっくりスマホを取り出した。
そして——俺にも見えるように、スマホをこちらへ向ける。
〈ママ〉
着信は続いて切れない。
さくらはスマホを持ったまま、俺を見る。
握ってるのに、腫れ物に触るような素振り。
「……出る?」
俺は首を振らなかったし、頷きもしなかった。
「……決めた通りでいいよ」
さくらは一瞬、目を伏せて、それから深く息を吸った。
吸って、吐いて。
——切れた。
画面が暗くなる。
その暗さが、逆に重い。
「……また、来るよね」
「たぶん」
正直に言うと、さくらの肩が少しだけすぼんだ。
でも、スマホを引っ込めなかった。
すぐに、また震える。
今度は短い。
〈ママ〉
『今どこ?』
さくらは通知画面を見つめたまま、親指を止めた。
「……どうする」
俺はドアノブから手を離して、指先だけ握り直した。
近づきすぎない距離で。
「……さっき送った通りでいい」
さくらはゆっくり頷いた。
親指が動く。
『これから帰る。帰ったら話す』
送信。
既読がつくまで、少し間があった。
そしてすぐに、また着信。
振動音が、さっきより近く感じる。
さくらは画面を見たまま、今度は俺を見ない。
「……電話、出ない?」
その問いは、俺じゃなく、自分に向けたみたいだった。
「……今は、出なくていい」
「……怒る、よね?」
「怒ると思う」
言い切ると、さくらが少し笑った。
笑ったけど、目は笑ってない。
「うん……怒るよね」
着信は、切れて、また鳴る。
切れて、鳴る。
俺は一歩だけ、さくらに近づいた。
ぎりぎり触れない距離。
「……さくら」
名前を呼ぶと、さくらが顔を上げた。
「電話は、今は出ないって決めた。……その代わり」
俺は言葉を探して、見つからなくて、短く続ける。
「……俺、ここにいるから」
さくらの呼吸が、少しだけ整う。
スマホが、また震えた。今度は着信じゃない。
〈ママ〉
『帰ったら話すって、どういうこと』
さくらの指が止まる。
止まってから、震える。
「……返す?」
俺は画面を見たまま、頷いた。
さくらも小さく頷いて、打つ。
「帰ったら、ちゃんと話したい」
送信……既読。
返事は、来ない。
画面が暗くなって、玄関が静かになる。
さっきまでの振動が嘘みたいに。
「……心臓、まだうるさい」
さくらが小さく言う。
「俺も」
嘘じゃない。
「……行こ」
「うん」
さくらはスマホをポケットに戻して、玄関に向き直る。
鞄の紐を握り直す手が、さっきより強い。
ドアを開ける前に、さくらが一度だけ振り返った。
「……海斗くん……さっき、出ないって言ってくれて、ありがとう」
「うん」
俺はそれだけ返して、視線を外さないでいた。
さくらの肩が、ほんの少し落ち着く。
ドアを開けると、冷たい朝の空気が、流れ込む。
さくらは一歩外に出て、マフラーをきゅっと寄せた。
白い息が、すぐほどける。
「じゃ……」
さくらは何かを言う代わりに、手袋のまま小さく手を振った。
俺も、同じくらいの大きさで返す。
さくらが階段を下りていく。足音が二段、三段。踊り場で一度だけ止まって、もう一度だけ振り返る。
――何も言わない。けど、目から「行くね」が投げられる。
俺は頷かないまま、その目線を受け止めた。
次に足音がしたとき、もう遠かった。玄関前の景色にさくらは居ない。辺りは静かになって、冷たい空気だけが残った。
ドアを閉める。カチ、と鍵が鳴った音が、やけに大きい。
俺はしばらく、靴箱の前に立ったままだった。
ズボンのポケットに手を入れて――何もなくて、指先だけが空振りする。
スマホを出す。画面は暗いままで、返事は無い。
部屋に戻ると、俺はスマホを裏返して、テーブルの真ん中に置いた。
息を吐く。
冷たい空気が、胸の奥に落ちていく。
「……大丈夫かな」
誰にでもなく言って、声が自分の耳に戻ってきた。
返事は、当然ない。




