倫理観しっかりめのあほ王子を育てたのはわたくしです。
エスメラルダは十歳の時に、王太子と出会った。婚約者として彼のことを見定めるために共に過ごしていると、食事の好き嫌いを軽く注意した侍女にこう言った。
『君みたいなのは嫌いだ! いらない、私がなにしようと私の自由だ! クビだ、クビ! この城から出てけ! 今すぐ! 今すぐにだ!!』
そうして彼は癇癪を起こして暴れまわって、床に大の字になってじたばたする。なだめようとしても振り払って獣のように怒鳴り散らす。
たしかに年下の子ではあるが、それでも聞き分けがない上に、自分が心地よく過ごすことしか考えていない短絡的で浅はかな阿呆だった。
そしてそんな王太子アルバートはあまりに聞き分けがないので使用人たちから見捨てられかけていた。
丁度、王族も妃を無くしそちらの穴埋めで忙しく、彼に構っているひまは無かったのかもしれない。
そんなアルバートと連れ添ってもうすぐ十年たつだろうか。
彼はそこそこ大きく成長し、そして魔法学園から一時帰宅しているエスメラルダと向き合っている。
その腕にはぎゅっと腕を絡ませたむっちり豊満な体系をした女性が絡みついている。
「……」
その状況にエスメラルダは、眉間に皺を寄せて人相が悪い顔をしていたが、アルバートは真剣そうにエスメラルダを見つめて口を開く。
「エスメラルダ」
彼の呼びかけに、エスメラルダは答えない。静かに視線をやって、言葉を使わずに彼のことを責めるだけである。
「……婚約を破棄したい」
そうして彼は、用件を告げた。
長らく維持してきた彼との関係を断ち切りたいという言葉に、浮気という可能性が脳裏にひらめいた。
しかし、確定はさせずに、エスメラルダは彼にきちんと問いかけた。
「それで、どうするんですの」
「君との婚約がなければ私は……このフローラと関係を結ぶことができる」
彼女はどうやらフローラという名前らしく、名前を知ったエスメラルダは、彼女が何処の誰で、どんな曰くのある女性であるかということをすぐにはじき出した。
とても王太子が関係を持つような相手ではない上に、その女はどう考えても悪女である。
「そしたら……きっと」
「きっと?」
重苦しく続ける彼にエスメラルダは首をかしげて、促した。
フローラは、震える子ウサギのようにウルウルとした瞳をエスメラルダに向けて、必死にアルバートの腕にしがみついていた。
「きっとこの子を救う道筋になれると思うんだ! エスメラルダ! 聞いてくれ、この子ったらとてもかわいそうなんだ。彼女の実家であるピークマン伯爵家では、彼女は酷い虐待にあっているらしい!」
その言葉を聞いてエスメラルダはついキョトンとしてしまった。
先ほどまで年相応に、真剣な顔をしてきちんとした男性に見えていたというのに、あっという間に三ヶ月前に会った時同様に、幼くエスメラルダを純粋に頼るあほ王子そのものである。
「食事は日に一度しか出されず、暴力を振るわれ、パーティーの日には一人部屋に閉じ込められて……考えるだけで私はどうにも堪えられない。偶然、私が友人と遊びに出かけているときに出会ったんだ。でも親類にも助けてもらう当てがなくて、こうして私に縋ってきたんだ」
隣にいるウルウルと瞳を潤ませていたフローラは、彼の言葉にエスメラルダと同じようにキョトンとして目を大きく見開いている。
「こんなことってないだろう、かわいそうだ。いたいけな少女が家族にひどい目にあわされているなんて知っていて私は放っておけない! エスメラルダだって言ってくれただろう、人として善良であるべきで、人の事情を考えて慈悲深く接する人であれって!」
彼は純粋な憐れみの瞳をフローラに向けて、安心させるように微笑んだ。それからエスメラルダに視線を向ける。
どうやら、彼女の豊満なボディに惑わされて、気位が高くしっかりとしすぎているエスメラルダよりも、可愛いフローラの方がいいとかそういうことでは無かったらしい。
「人の安全はなによりも優先されるべきものだ。私は自分がいくら愚鈍で間抜けと罵られようとも、人を救いたい。そして行動を起こすことこそがなにより重要で、なにより尊いことだとエスメラルダがそう教えてくれたじゃないか」
「……まぁ」
彼の勢いに押されて、エスメラルダは、気のない返事をする。
しかし返事があったということだけで彼は納得して続ける。
「親類にも誰もに頼れない彼女だけれど、私なら助ける方法はたくさんある、一番簡単なのは囲ってやることだ。でも私はエスメラルダ以外愛したことなんてないし、これからだって不倫も浮気も絶対にする気なんかない」
「……」
「だから、君に筋は通す、婚約を一時的に破棄して、私はこの子と体を重ねたことにする。一晩共に過ごせば十分だろう。責任を取る形で私の母方の実家で面倒を見てもらおうと思うんだ」
「……」
「なんせ、フローラの家族は、王城の侍女として雇いあげるとか、友人の伝手を使っていい結婚相手を見つけるとかそういうことをしても、王都の中に居たら特別な身分にならない限り追いかけてくる化け物のような人達らしい」
その結論に至った理由もきっちりと説明して、エスメラルダは彼女がアルバートにそこまで言った意味がすぐにわかった。
もちろんその目論見も、彼女はエスメラルダのファイリング通りの悪女で間違いないらしい。
しかし悪女ではあるが見当違いの答えを出されて、しっかりとエスメラルダに相談されて、エスメラルダ以外愛したこともないし、愛することもないと言われる程度の悪女である。
フローラはどんな気持ちだろうか。
納得しつつも、息を吐きだすようにエスメラルダが笑うと、フローラは頬を引きつらせて、アルバートを押しのけながら立ちあがった。
それから、アルバートに怒鳴りつけるように言った。
「婚約破棄してほしいって言ったのはそういう意味じゃないわよ!! 頭悪いんじゃないの! ふざけてんの! 結婚してくれるって言ったじゃないのっ」
言いながらアルバートの胸ぐらをつかんでガシガシと揺さぶる。
彼女の豹変っぷりにアルバートは情けない声をあげながらも一生懸命、反論した。
「だって、そうっ、言わないと、君は平静をうしなってっ、そうなるだろう! 虐待のせいで、精神的にっ不安定なのは、わかるけど、っうう、目が回る」
「なによ、あたしが言わせたっていうのっ? なによ! あなただってこんな目つきの悪い女よりっ、あたしの方が可愛いって思ってるはずでしょう!!」
「そ、そんなっこと、私はっエスめらるっ、エスメラルダ一筋でっ」
フローラはエスメラルダを指さして、アルバートのことを罵りつつも、どうして自分がこんな女に負けなければならないのかと暴走する。
フローラに振り回されてろれつが回らなくなってきているアルバートに、エスメラルダは小さくため息をついた。
まったく騒がしく品のないことだ。
この状況はアルバイトも悪いし、こんな素直過ぎる阿呆など放逐してしかるべきだと考える人もいるだろうと思う。
たしかに騙されやすくて、自分の力を過信していて、自己中心的な一面もある人だ。
しかし、彼はまだ十五になったばかりであり、体ばかり大きくなってもまだまだ子供。
それに彼をしかりつけるのはエスメラルダの特権だ。
下手な嘘しかつけない野心家の小娘に、アルバートをそんなふうに扱われて腹が立たないわけでもない。
考えつつもエスメラルダはソファーから立ち上がって、小さく杖を振る。
するとフローラの目の前で小さな花火がはじけるようにパンッと開いて「ひわっ」と彼女は悲鳴を上げて飛びのいた。
むっちりしている体が揺れて、顔の前でさらに脅かすと「っ、」と驚いて、目をつむって後ろに下がる。
驚きつつも逃れるために背を向けて、庭園が見える窓の方へとむかった。
昼過ぎの温かな日差しが差し込んでいて、怯えた瞳でフローラはエスメラルダのことを見つめていた。
「……エ、エスメラルダ」
アルバートはエスメラルダが、腹を立てていることを敏感に察知して、少し止める様なニュアンスで呼びかけたが余計な言葉はつづけなかった。
賢い選択だと思う。
それに彼女はかばうだけの価値など無い女性だ。
騙される方が悪いという人もいるだろう。けれど、どういう理由があろうとも、どんなに騙しやすそうに見えたとしても、騙す人が一番悪い。
「ピークマン伯爵令嬢、ごめんなさいね。正気を失っているようだったから、魔法を使わせてもらったわ」
「っ……」
「それで? 虐待されていて、大変なのですってね」
睨みつけてくる彼女に、それでもエスメラルダはあくまで、肯定的に問いかけた。
もし決めつけたりなんかしたりしたらアルバートの教育に良くないだろう。
「そのせいで、あんなふうに振る舞ってしまうぐらい不安定になっているなんて酷く不憫ね」
「だっ、だったら、あ、あたしに譲ってくださいませ! エスメラルダ様っ、そのぐらいいでしょぉ! 男なんてみんな単純であたしのっこのっ、肉体に━━━━」
彼女は、下品に胸元のざっくり空いたドレスの隙間から谷間を見せつけてくる。
エスメラルダは、彼女の言葉をさえぎるように魔法を使って、パンッとはぜる。
「ひぃっ」
「それで、虐待の傷はどこにあるのかしら? 聞いた限り相当酷いものなのでしょう? 本当だとするならば、わたくしが対処いたしますわ。まぁ、ピークマン伯爵家の名声は地に落ちるけれど」
「……え? ……えっと、その……」
「そんなことを考えている暇はないでしょう? ピークマン伯爵令嬢、なりふり構わずに、アルバートに縋りつくぐらいなんですもの。もちろん助けてくれるなら、わたくしでも喜んで飛びつくべきだわ」
エスメラルダは慈悲深いような声で言ったが、瞳で彼女を脅すように睨み続けていた。
しかしアルバートからすればエスメラルダの背中しか見えていないので「エスメラルダッ」と嬉しそうな声をあげる。
「さぁ、早く見せてくださいませ。生憎あなたのその豊満なボディでは一日一食しか与えられていないことは証明できませんわよ。ほら、脱ぎなさい」
「っ、それは、その……別にそういう、ことではないって言うか……その」
「なにを今更怖気づいているの。アルバートにはあんなに、強気に自分の主張をしていたじゃない。それほどあなたは正気を失って、必死になっているそうでもなければ罪に問われて当然のことをしていたわよ」
「……だ、だから別に、あたしはアルバート様とその……」
近寄って、彼女に杖を差し向けると、途端に勢いを無くして、あの、そのと言い訳を重ねる。
先ほどまでの威勢はどこへやら。
たじたじになって、自分のいった適当な嘘の言い訳を考えている。
きっと、彼女は言い訳を作って適当にアルバートに近づいてさえしまえば、後は男と女だ何とでもなると考えていたのだろう。
しかし、物事はそう簡単に行かないし、エスメラルダのあほ王子は、生憎倫理観だけはしっかりしているのだ。
そう簡単に落とせると思ってもらっては困る。
使用人たちとも連携して、こういうことがないように配慮して、学園に向かったが、完ぺきとはいかなかったのだろう。
……まったく困った事ですわ。
「どうしたんだ。フローラ、エスメラルダが助けてくれるって言っているんだ。私にはたくさんどんなことをされたか話をしてくれたじゃないか」
今こそ、助けを求めて手を伸ばすときだと、アルバートも参戦し彼女を応援した。
しかし、フローラはぐっとドレスの裾を握って、口を引き結ぶ。
必死になって言い訳を考えたって、酷い虐待の跡を見せられない理由なんて出て来やしないだろう。
「どうしたのかしら、アルバートに頼るほど困窮していて、なりふり構っていられなかったのではないの? フローラ、ほら、わたくしは女よ。アルバートも後ろを向いて、これは彼女を助けるために必要なことなのよ」
「あ、ああ!」
「ほら、フローラ。早くして頂戴。ちゃんと助けてあげるわよ、虐待はいけないことだもの。社交界であなたへの非道をきちんと広めて交流を立つように話を通すし」
「……」
「娘が王家にまで助けを求めて迷惑をかけたんだもの、責任をとって貰わなくちゃ困るのよ。あなたのことなんて追いかけるいとまも与えないわ。だから大丈夫、そうしたらどこででも働けるでしょう。誰にも打たれず働いた分だけのお金をもらって幸せになりましょうね、フローラ」
「っ……」
エスメラルダはとても優しい声をかけた。しかし顔はまったく笑っていない。
「い、いえ……その」
「だからほら、早く、服を脱ぎなさい。見せなさいよ、アルバートに言った言葉を真実だと証明しなさい。……それとも、わたくしが、真実を作ってあげましょうか」
あまりにもたもたとしているのでエスメラルダは杖を振って、炎の魔法を使ってパンと小さな花火を咲かせる。
自分の言葉を証明する手立てもないし、跡にも引けない彼女に、エスメラルダは優しさのつもりでそう言った。
なので少し笑った。
別に、それならそれでも問題なかったのだ。
声をあげたら、不審がられてアルバートになんの傷がないこともバレるだろ。
だから必死に声を我慢しながら、虐待という嘘の責任を取るために、じわじわと火花に焼かれる彼女を見るのだって、エスメラルダはやぶさかではない。
エスメラルダのアルバートをだましたのだ。そのぐらいやったって罰は当たらないだろう。
あほはあほだが、今の彼はいいあほである。善良で、間抜けなだけである。
そんな人間をだます輩がエスメラルダは一番嫌いだ。
「ひ、ご、ごめんなさい。申し訳ありません、でした。全部、嘘でした」
しかし、そんなエスメラルダの意味不明な笑みがよほど怖かったらしく、フローラは、突然謝罪を繰り出した。
……。
「アルバート様と、交流を深めるための嘘なの。全部嘘でした」
「……」
「ごめんなさい、だから、ゆ、許して……」
完全に心が折れて、謝罪する彼女に、エスメラルダはそちらに転がったかと少し冷めた気持ちになった。
どこまで突き抜けていたらそれはそれで、好感度が高かったのにと思いつつも、目を細めて、厳しい声で言った。
「聞きましたね。アルバート、嘘ですわ。全部」
「っ、そ、そんな、な、なんで?」
「沙汰は追って伝えますわ。とにかく今は、不快ですからどこへでも行ってください、ピークマン伯爵令嬢」
「っは、はいっ」
アルバートの言葉に答えることはなく、フローラはドレスの裾を持って走り出す。
足が震えていて、少し躓いたが、けれども気にせず走り抜けて「失礼しますわ」といって応接室から飛び出していった。
その様子にエスメラルダは小さくため息をついて、アルバートに向かい合うように、窓を背にして窓枠に少し寄りかかって彼を見た。
彼は、フローラが去った扉を見つめていて、その横顔はとても傷ついた顔をしていた。
……無理もないですわね。
エスメラルダは、アルバートの気持ちを察して口を閉ざす。
彼はあまり聡い方ではないし、関わる人に影響されやすい性質をもっている。
しかしそれでも、この国の王太子であり、エスメラルダの大切な婚約者だ。
そんな彼を護り育てていくこと、それはエスメラルダだけの使命ではない。
王妃を失って悲しみに暮れてばかりではなく、彼女の残した彼を守ることにエスメラルダを中心に多くの従者が心血を注いできた。
その中で、まずは彼が大きな間違いを犯さないようにするべきだと結論が出た。
なのできちんとした倫理観を教え込み、人との善良なかかわり方を学ばせるために多少過保護に彼を利用しようとする人間を寄せ付けず、健やかに育つことを目標にしていた。
そのおかげと言ってもいいと思うが、今では良い友人も多く、真面目に公務をこなし、人に好かれる人ではある。
しかし見る人が見れば利用できそうだと思われることもある。
こういうことは起こるべくして起こった事だろうとも思う。
アルバートはしばらくして、エスメラルダの方へと視線を向ける。それからやっと口を開いた。
「エスメラルダ」
「なにかしら、アルバート」
「……私は彼女に利用されていたんだな」
「そうですわね」
まずはそれを呑み込んできちんと自覚した彼に、エスメラルダは言葉を続ける。
「あなたの背後にある地位や、大きな権利だけを見て、フローラはあなたをだましてわたくしの地位にとって代わろうとした」
「……」
「嘘をついて騙して、自らの性を使って取り入ろうとした。屈しなかったあなたは立派ですわ。あなたは自分の信念に従って行動した、それは素晴らしいことですわ」
「ああ」
「でも、それだけでは至らない場合もある。現にあなたはわたくしがいなければ騙されたままでしたわ。だから、あなたは今、正だけの行いをするだけではままならない事実に直面している」
「……」
「信じることは立派で信念を持つことも正しい、けれども騙そうとしてくる悪い人間もいる、あなたは彼女を警戒するべきだった」
そして淡々と事実を述べていく。
問題を履き違えないように、導くようにエスメラルダは言って彼の反応を見た。
「……でも、私や君が知らないだけで彼女にはのっぴきならない事情があるかもしれない、嘘だったとしても、だからこんなことをした可能性はないのか」
自分の価値になぞらえてアルバートはフローラのことを解釈しようとした。
そういうふうに、見ることは時に重要なことではある。
けれども、今回の場合それは正しくない。
「あるかもしれない。それはあの人にしかわからないことですわ」
「なら、もっと深く話し合って分かり合って、本当の意味で助けてあげるべきなんじゃないのか、私にはそうする余裕も時間もある」
「……」
「私はたしかに騙されて間違えた……でも、それだけで人を排除して怒って嫌ってそれだけで合っているのか?」
彼の問いかけは案外、的を射ていて、彼に与えてきた環境や教育は、優しさをきちんとはぐくんだと思う。
それが純粋にエスメラルダは誇らしかった。
けれども同時に、それが彼の悲しみにもつながってしまう。
「正解でも不正解でもないわ。でも、一つ言えることは、フローラとわたくしの望みは対立する。それが事実よ」
「なら、なんとかフローラに別のもので納得してもらえるようにして話を……」
「それでは足りない彼女の望みだったら、どうしようもないわ。アルバート、それにこれは彼女の一例だけの話ではありませんわ。これからもこういうことはある。その時に、あなたを利用してでもなにかを欲する人と意見が対立するときがくる」
「……」
「その時に、すべてのものを代替品や分割でどうにかできるわけじゃない。空腹の人が二人いて、リンゴを一つ食べないと明後日まで生き残れないとして半分こはできない」
分かりやすくなるように例を出してエスメラルダは彼に言った。
「そうした時、どちらかをあなたが選ぶことに正解なんかないのよ、アルバート」
「……意味は、わかるでも、なら、どうしたらいいんだ」
「そうなったら、あなたが決めるのよ。フローラが自分に手を出してほしいと望んだとき、わたくしへの愛を優先したように、あなたの大切なものを守るために動くのよ。選んで愛さなければならない時もあるわ」
そう言って、エスメラルダはアルバートの手を取った。
けれども彼は腑に落ちないような複雑な顔をしていて、エスメラルダの手をぎゅっと握って返した。
「それは、苦しいことだろう。私のせいで誰かが不幸になる」
「……そうね」
たしかにそれはとても大きな重荷になる。そして彼はきっとたくさんの不幸を背負うことになるだろう。そういう立場だ。
だからこそすぐに呑み込めなくてもいい、ゆっくりと折り合いをつけていけばいいのだ。
そう言おうとした。
しかし、アルバートははっと気が付いた顔をして、エスメラルダに言った。
「……でも、君もそうだよな。君だって、あんなにフローラのことを心配していたのに、裏切られて、私を利用しようとしていたと知って、決断をくだした。それは君もつらいことだもんな」
エスメラルダのことをまっすぐに見て、自分だけがつらいわけじゃないんだと彼は口にする。
「それでも、私のために君はいつも選んでくれてる。呼んだら私の元に来てくれるし、手紙だってすぐに返してくれる。誰よりも優先してくれる。エスメラルダも苦しかったんだな」
「……」
「ごめん、気がつかなかった。私はいつも自分のことばかりで、君に教えてもらってばかりで、負担をかけて」
言いながら彼は、エスメラルダの手を引いて、ぎゅっと抱きしめる。
体ばかり大きいので、包み込まれるように抱きしめられた。
華やかな香水の香りがして、なんとなくエスメラルダはとりあえず彼の背中をポンポンと叩く。
「君はとても賢い人だから、きっと私が気がつかないところで私をたくさん守って苦しんでくれていたんだよな。だから、私はそれを知らないでいられた」
感極まった様子で、言う彼は一人で盛り上がっているが、エスメラルダは口を引き結んで、彼の胸板に頬を預けていた。
「……」
「ありがとう。エスメラルダ。私も君に守られるばかりではいられない、君のためにも、強くなりたい」
アルバートはそんなふうに締めくくるけれど、エスメラルダは特に苦しいとは思ったことがなかった。
エスメラルダはそんなに純粋な方でもないし、優しくもないし、選ぶ側の苦しみなんて感じたことがない。
……むしろ、あなたと違って……。
先ほどのフローラに対する自分の気持ちを思い出すと、とてもじゃないがそうよ、二人で支え合っていきましょうとは言えなかった。
しかしぱっと手を離してそれから、笑みを浮かべてアルバートは言う。
「そうだ、後悔してばかりでも湿っぽいし、あの子のことどうするかこれから考えようエスメラルダ。君ばかりにつらい思いはさせたくないんだ」
それでも彼は、たくさんのことを教えたエスメラルダも同じように苦しんだうえでも彼に優しくして生きている素晴らしい人間だと思ってくれる。
本当はそんな人間ではないけれど、彼がそう思ってくれるとエスメラルダもそうなれる気がしてくるから不思議だ。
そんな彼がやっぱり好きだった。
心の底から愛していると思う。
だからエスメラルダは、複雑な笑みを浮かべて彼に同意したのだった。
そんな事件があってから、フローラはことのあらましのすべてを実家の両親に伝えられ、貴族としての地位を失うことになり、彼らの領地のすたれた村で監視下に置かれている。
ピークマン伯爵家は、その責任を取って罰金を科せられ、あくせく働いているそうだ。
こうしてとても寛大な措置になったのは、アルバートと話し合ってその措置を決めたからである。
エスメラルダとしては、生ぬるいというのが感想だが、彼にとって初めてのことなのでよしとすることにした。
そしてそれから彼は少し変わった。
具体的に言うとエスメラルダのことを気遣って、自分の話ばかりではなくエスメラルダの話を聞きたがるようになったし、率先して新しいことに挑戦することが多くなった。
こうして魔法学園から帰ってくると、何かしらかの彼の新しい功績が増えている。
そして今回は、それは絵画だった。
「どうだ。いい出来だろう。教師は私に才能があると言っていた。エスメラルダも喜ぶだろうと」
彼は自慢げに部屋の一番目につくところに、自分で描いたエスメラルダの肖像を飾って報告する。
そんな彼に、エスメラルダは思考停止してそれを見ていた。
たしかに才能があるのがうかがえる。とても上手いし彼の主張したいことが伝わってくるいい絵だ。
しかしその絵のエスメラルダは、とても純朴そうに見えて、美しく笑って花を抱えている。
それはまるで思いやりにあふれた素敵な女性のように見えて、エスメラルダが鏡で見る姿とはまるで違っていた。
「…………」
やっぱりあの時に、本当のことを言わなかったことが原因だろうか。
それで彼はエスメラルダのことを神格化してこんなふうに優しげな絵を描くのか。
嬉しくないわけではない、しかし彼の想像とあまりに現実が違いすぎるのはいつかリスクになりかねない。
そんなロジカルな思考が頭の中を閃いて、チラリと彼を見る。
「うまいだろ」
「ええ、とても素敵ですわ」
「だろ。良かった君にそう言ってもらえて」
褒めると喜んで、また何枚も書きそうな彼に「でも」と付け加える。
「ねぇ、アルバート……」
「うん?」
「あなたは勘違いしているでしょうけれど……わたくし、本当はあなたが思うような善良なだけの人間ではないのよ」
「?」
さらに首をかしげる彼にエスメラルダは続けて言った。
「あのね、アルバート、わたくし本当は、フローラに対してもそれ以外に対してもなにも心なんて痛んでいないわ。むしろ、成敗できてスカッとするぐらい、だってあなたをだましたんだもの。当然の報いよ、わたくしのアルバートを騙したのよ」
「……」
「ずっと黙っていてもいいけれど、あまり長引かせてもかわいそうだから教えてあげるわ。優しいあなたとは違って、わたくしはとても冷徹なことを言うし、あなたの描く絵のようには笑わない。違うのよ、わたくしとあなたは、根本的に」
エスメラルダは彼を少し傷つけるつもりで言った。
半年ぐらいは嫌われるつもりで言った。
だってそれほど、彼の描く絵がきれいで、思いがダイレクトに伝わってきたから、心が乱れたからだった。
「……」
「……」
部屋には重たい沈黙が流れた。
しばらくして、エスメラルダは彼のことを見ないまま、部屋を出ようと動いた。
しかし、すぐに腕を掴まれて振り返らざるを得なくなる。
仕方なく彼の方を向いた。
「でも、私にはこんなふうに笑いかけてた」
「……」
「私に君はいつもこんなだった。優しかったしそれは本当だった……つらくは思わないなんて知らなかった。でもつらく思った時もあったんじゃないのか」
とてもまっすぐに見つめられてそう言われる。
……違うわ。別に元からこうですもの。元はあなたと同じ純粋だったけれど、状況に応じてそうなったなんて理由をつけてようとしたって無駄ですわ。
すぐに反論しようとした。けれども彼は続けて言った。
「それにそうじゃなくても、私と同じじゃなくても私は君が好きだ。私のことをこんなふうに愛してくれる君が好きだ。向けられた愛情は嘘じゃない。君はそれを否定できないと思う」
「……」
「それに、優しくない一面があったって、新しい君を知れて私は嬉しいだけだ。好きだから知りたい。愛しているし、怖い君だって絵にかきたい。教えてほしい」
反論を封じられて、エスメラルダは何も言えなかった。つい先日まで、地面に寝転がって駄々をこねていたあほ王子なのに。
エスメラルダの可愛い間抜けな子なのに。
「私は……ほかの誰より、君を選んで大切にしているのだから、君と君の望むことや君のことなら何でも話し合って向き合っていい。私にはその余裕も時間もある。大好きな君のことはなんでも知りたい」
「っ……」
ほかの人間を捨てて、エスメラルダを選んでいる。
だからこそ、捨てた人間とは違ってそれをしていいはずだ。
向き合って話し合って深く知っても良いはずだ。
彼はエスメラルダの教えを逆手にとってそう言った。
それから掴んだ手を、そっと握り直して、かがんでエスメラルダの指先に口づける仕草をした。
「……お、王太子がそんなことを! いくらっ、婚約者にもするべきではありませんわ!」
「でもここには二人きりだ。公の場ではきちんとする代わりに、二人きりの時には王太子らしからぬ行動をしてもいいと君が言った」
「っ~」
「私は間違っているか?」
指の先からカッと熱が上がってくる。間違っていないからエスメラルダは困っている。
困っていても、教えたのは自分であり、それを覆したりなんかしない。
けれども、アルバートをどうしても恨めしく思った。
同時に、言葉を応用して自分できちんと呑み込んで解釈し、身になっているところを見ると嬉しく思う。
そんな矛盾した思考にとらわれて、手取り足取り教えて育てたのはエスメラルダなのに、勝手に成長して、こんなふうに翻弄されるなんて望んでいない。
「……間違ってませんわ」
「じゃあいいだろ」
「よくありませんわ!」
「何故だ?」
「良くないったら、良くないのよっ」
「! ……あ、もしかして照れてるのか?」
「違いますわ!」
そして翻弄されながらエスメラルダは彼に初めて筋が通らないことを言って、そっぽ向いた。
しかし、ニコニコしながらついてくる彼はやっぱり愛おしいエスメラルダの王子様なのだ。
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