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アブラシャヒムは瓶の中に戻っていた。
人間の願いは叶えてやった――が、彼が叶えるべき願いの数は三つと設定されたため、まだ解放には至っていない。
さっさと残りを願えと脅しても、人間はへらへらと笑うのみ。挙げ句、うるさいから戻ってなよといわれたとたん、瓶に逆戻りである。
とはいえ、願いを叶えて解放に近づいたからなのか。途切れがちな上に微弱ではあったが、外の気配が読めるようになった。曇った硝子に囲まれた中で、瓶の持ち主である人間の周りだけが、薄明るく透けているような。
人間のもとを誰かが訪ったのもわかる。会話が、途切れ途切れに聞こえていた。
エル=シャラクとかいう誰かが怒っているとか、いい加減に折れろとか。会話の中で、人間はラファルと呼ばれていた。
ふん、とアブラシャヒムは思う――名を握ってやったぞ。これで、あいつのすべてを支配できる。
訪問者はいつも同じようだった。ラファル様、と尊称をつけてあの人間を呼ぶ声は、妙にねっとりしている。対するラファルは、すべてを削ぎ落としたように感情のない応答をしていた。うん。そうか。なるほど。そのうちに。
アブラシャヒムが喚ばれたのは、瓶に戻されてから何日後のことか。
飛び出たとたんに、彼は相手の名を呼ばわった。
「ラファル!」
己の名を呼ばれ、黄玉のような眼がかがやく。
「瓶の中で学習したんだね。素晴らしい。そうだよ、私はラファルと呼ばれている」
「俺に跪け!」
「そんなことをする理由はないなぁ。君が素晴らしい魔神で、私の願いをなんでも叶えてくれるのなら別だけど」
三つの願いを叶えることさえ、ぎりぎりみたいだものね?
そういって笑うラファルは、まるでアブラシャヒムの支配を受けていない。
「なぜだ、名前を奪ったのに」
「奪えていないからじゃないかな? やっぱり大した魔神じゃないんだね」
「違う。俺の名は魔界に轟いているのだ。知らぬ者とてない」
「でも私は知らないな。なんて名前?」
ここまで直接的な誘いに乗るほど、アブラシャヒムは愚かではなかった。……三つの願いを叶えることになったせいで、用心深さを身につけたのだ。
「……次の願いは決まったのか」
そうだね、とラファルは答えた。こいつはいつも微笑んでいるな、とアブラシャヒムは思う。
「魔界の話を聞かせてほしい」
アブラシャヒムは眉間に皺を刻んだ。なんと漠然とした願いだろう。
「魔界のどんな話だ」
「なんでも聞きたいな。たとえば、君たち魔神はどんな風に暮らしてるのか、とか。家もあるの?」
「ある」
「どんな家? 人間の――この地上にある家と似てる?」
「地上にある家をあまり見たことがない」
ラファルはわずかに首をかしげた。
「もしかして、地上に来るのは……はじめてだったりするのかな?」
肯定するのも癪に障るので、アブラシャヒムは沈黙をもって回答とした。
ふむ、と少し考えてから、ラファルは手を打った。
「そうだ、魔法で形を作ってくれればいい。それなら、私にもわかるだろう」
「……妙なことを望むのだな」
「だって人間は魔界には行けないからね」
地上に縛られているから――つぶやきながら薄く笑って、ラファルはアブラシャヒムを見た。
――不思議な眼だ。
見ているようで見ていない。焦点がおかしい。人間ならば、これが普通なのだろうか?
「どうした? 魔法で形を作るのは苦手?」
「そんなことはない。すぐに作ってやる」かたどる
言葉通り、アブラシャヒムは記憶からそのまま呼び覚ましたものを、魔法で模った。自分の家、兄の家、その隣の家――魔神たちの宮城はいくつもつらなり、それぞれの特徴をそなえて張り合いながら広がっていく、壮大な建築群だ。狭い室内に展開するためには、かなり小さくせざるを得ない。
それでも、ラファルは大いに感心したようだった。
「素晴らしいね……魔界には、こんなすごいものが建っているのか」
「そうだ。人間の宮殿は、これほどではないだろう」
「こんな規模のものは、聞いたことがないね。私も地上を知り尽くしているわけではないから、どこかには、もっと壮麗な宮城があるのかもしれない。……でも、ないだろうなぁ。住んでいるのは、魔神だけ?」
「ああ、ほとんどはそうだ。稀に、地上から落ちてきた魂もいる」
ラファルが顔を上げる。
「人間の魂?」
「それが多いな。地上で魔神を支配しようとした魔術師が、契約を違えて逆に魔神の使い魔となるのだ。天国にも地獄にも行けず、魔界で永劫の苦しみを受けることになる」
「ああ、魔神との契約違反に罰則があるとは聞いていたが……なるほど、魂が魔界にとらわれてしまうのか」
「そうだ。貴様もそうなるがいい」
アブラシャヒムが脅すと、ラファルは笑みを消さぬまま答えた。
「悪くないかもしれないね」
まったく妙な人間だ、とアブラシャヒムは思う。たしかに彼は、地上に来るのははじめてだ。人間のことをよく知っているとはいえない。だが、ほかの魔神たちの話に聞いた人間とは、あまりにも違い過ぎる。
まず、願いが妙だ。聞いたところでは、人間は財宝や美しい配偶者、権力、名誉などを求めるという。魔界を知りたがるなど、聞いたことがない。
「ところで、ひとつめの願いはどうだ」
「ああ、よく効いているよ。ありがとう。さすが、私の魔神だね」
「言葉を慎め。俺は貴様のものではない」
「でも、君を封じた瓶は、私のものだからね。瓶に封じられている限り、その中にいる君も私のものということさ。さあ、もっと聞かせてよ。まだ願いが叶ったとはいえないよ。建物がないところは、どんな景色なんだ? 魔界にも雨は降る? 日は照るの?」
際限なく強いられた話は、ラファルの体力が限界に達することで終わった。眠たげな声で戻れといわれ、アブラシャヒムはまた瓶の住人となったが……魔神は睡眠を必要としない。
静かな瓶の中で、アブラシャヒムは考えた。
――あいつはなぜ、痛みを感じないようにしてほしい、などと願った?
確認したら、よく効いていると答えた。それが嘘でないならば。
ラファルは痛みに苛まれるような生活を送っている、ということだ。




