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魔神アブラシャヒムは怒っていた。
同族の悪戯で小さな瓶に封印されてしまっていたからだ。酔っ払って良い気分になっていたところが、気づけば狭い瓶の中である。
アブラシャヒムは強い魔神だったが、彼の全力をもってしても、封印を内側から破るのは不可能に近い。誰かが破ってくれるのを、待つしかなかった。
……というのが常識だが、アブラシャヒムは常識なぞ知ったことかという性格だったので、とにかく暴れた。放出した魔力が自分に返って傷ついても、彼はやめなかった。むしろ、痛みが憤怒を後押ししたほどだ。
そういうわけで、瓶から出たときのアブラシャヒムは気分最悪、この世でもっとも怒りにまみれた魔神だった。
「おお、ほんとうに出てきた」
「殺してやる」
「会話になってないな」
そういってアブラシャヒムを笑ったのは、同族ではなかった。
――人間だ。
椅子に腰掛けている。褐色の肌は光をはじいて、暗い黄金のようだった。髪はもっと明るい金、眼もそうだ。黄玉みたいに、かかやいている。
一瞬、眼を奪われた。が、すぐさま怒りに塗り替えられる。
「会話の必要など、どこにある」
「あるだろう? これから願いを叶えてもらうんだから」
「誰が」
「私が、君に、叶えてもらう」
怒りの炎がアブラシャヒムの声に乗り、あたりを熱する。
「ふざけるな!」
しかし、彼の炎は自身の周囲で渦を巻いただけだった。よく見れば、彼を中心とした透明な球体に沿って、炎がうごめいている。
防壁で囲まれているらしいと勘づいて、アブラシャヒムは相手を見直した。
「貴様は魔術師か」
「そんな大層なものではないよ。私はただ、君が封印されている瓶を手に入れただけ。幸運な男、というやつだね」
にこりと笑った人間は、はじめの位置から動いていない。少しかしげた頭は肘掛けに突いた手に支えられ、豪奢な巻き毛がその頬を縁取っていた。組んだ足の先が、黒い長衣の裾からわずかに覗いている。靴は履いておらず、爪は赤く染められていた。
炎の色だ、とアブラシャヒムは感じた。あの爪先が炎を発するところを思い描き、彼はまた火をはなった。
無論のこと、その火は彼自身を炙っただけだったが、アブラシャヒムは頓着しなかった。
それまで動かなかった人間が、すっ、と立ち上がった。
「願いを叶えてくれたら、解放しよう」
「俺を解放するほどの力があるなら、願いなぞ己で叶えるがよい」
「解放なんて簡単だ。瓶に書かれた封印を削ればいい。そんなの、子どもでもできる」
「ならば、ただちに解放せよ」
人間は微笑んで、宙に浮かぶアブラシャヒムに近寄った。
「解放したら、私を焼き殺すのだろう? まだ死にたくないから、遠慮しておくよ」
「解放せよ!」
「願いを叶えてくれたらね。そういう契約を交わせば、封印を削る必要もない。私の願いを叶えれば、君は円満に解放される――封印された魔神とは、そういうものだろう?」
アブラシャヒムは憤怒の炎をはなつ。それは透明な壁に防がれ、さらに彼の気分を害した。
「俺の前に、ひれ伏せ!」
「強そうにしてるけど、実は願いを叶えるだけの力がないの?」
「ふざけるな!」
人間は、笑みを深めて彼を見上げる。
「ふざけてないよ。君を手に入れるのは、大変だったんだ。なにしろ、強い魔神が封印された宝物扱いだったからね。売値も高くて高くて……」
「俺は売られていたのか」
「そうだよ。魔界直送、封印されたての新鮮な魔神が入った瓶としてね」
アブラシャヒムはまた火をはなち、己を焦がした。
人間はといえば、間近まで炎が迫っているというのに余裕の表情だ。壁で隔てられているといっても、度胸が良過ぎる。よほど力ある魔術師なのかとアブラシャヒムは眼を凝らし、相手の魔力を読み解こうとした――が、できない。防壁で隔てられているせいであろうか。
人間は、夢みるように言葉を並べる。
「君が私の願いを叶えてくれたら、解放するよ。燃やし尽くされても、文句はいわない――いや」
そのときはもう、喋ることもできないか。そうつぶやいて、小さく笑った。
「誰が叶えるものか、俺を買った者の願いなど」
「私が君を買ったから、瓶から出してあげることができたんだよ。その先の自由も同じこと。私の胸先三寸にかかっている」
「知ったことか。俺は自分で封印を壊す」
「……ふうん、やっぱり強者というのは商人のふれ込みで、実のところは大したことがないんだね」
「なにをいうか。俺は魔界でも負け知らずだ」
「自分で喧伝するのは簡単だよね。私にわかるのは、君は封印された無力な魔神で、召喚した者の願いを叶えることさえできないという残念な事実だよ」
そんな調子で、必要なかったはずの会話がつづき、最終的に。
「願いを、いってみろ」
ここまで、たどり着いてしまった。




