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不良とバイクと煙草のけむり  - わが自虐的青春譜 -   作者: 滝 城太郎


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第7章 サンパチ(GT380)とヨンフォア(CB400FOUR)の時代

名車ヨンフォア(CB400F)の価格高騰が止まらない。だからといってCB350を400風に改装したバケヨンなるバッタもんに120万円のプライスタグを付けて売るなんて、ロマンス詐欺も真っ青である。CB350FはCB400Fとは似ても似つかぬ別のバイクであって、アウストラロピテクスとクロマニョン人ほど違うのだ。タマ数が少ないのは、不人気だったからであって、それを希少車と祭り上げるのはいかがなものか。近年は”多様性の許容”を免罪符に、なんでもかんでもレアアイテム化して不当に価値を吊り上げようとする機運が高まっているような気がして仕方がないのだが、それって住民が全く必要性を感じていない図書館や文化系施設の建設を力説し、貧困対策などどこ吹く風の地方議会の構造と似ているように感じるのは、単なる私の被害妄想なのだろうか。

 ようやく自分のバイクを所有できるようになったのは、大学入学後のことである。福岡から実家まで長距離バスや特急を利用していたのでは交通費がばかにならないという理由で、親戚からもう乗らないからと頂いた通学用のスクーター、ヤマハパッソルⅡを卒業して、大学1年の秋口に中古のホンダGB250クラブマンをローンで購入したのだ。

 レトロなフォルムと珍しい一文字ハンドル、単気筒のトコトコ感がなかなか新鮮で、走行距離七千キロ台で十七万円という金額もリーズナブルだった。この時以来、そのバイクショップとはずっと付き合いが続いていて、二代目の社長には彼が新入社員だった頃からお世話になっている。

 初めて入ったバイクショップでいきなり中古バイクを購入するというのは、今考えてみると随分冒険のような気もするが、これまでお世話になった五軒のカーショップも全て当たりなので、そういう勘は働くのかもしれない。

 自分の所有物という気安さもあってか、これまで友人から借りて乗ったバイクは自嘲気味に走っていたのが、だんだん大胆になり、ある夜、自衛隊員の友人を近距離の移動だからとタカをくくってノーヘルのまま運んでいたところ、運悪く覆面パトカーに見つかり、追いかけられるはめになった。

 自衛隊員から「俺、捕まったらヤバイけん」と頼まれた私は、とっさにヘッドライトを切り、その自衛隊員にリアのナンバープレートを手で覆わせて、夜の住宅地をノーブレーキで駆け巡った。

 パトカーはサイレンを鳴らしているので、GBの排気音はほとんど聴こえなかったのだろう。走行中にエンジンを切って細い路地裏に惰性で入り込んだままじっとしていると、次第にサイレン音は遠ざかり、まんまと振り切ることに成功した。何十年も前の出来事でとっくに時効だが、車載カメラが当たり前の時代なら、画像解析されて後で捕まるのは必至なので、いきなり拡声器で「そこのバイク、停まりなさい」と言われた時点で諦めていたはずだ。

 しかしその時は、友人が自衛隊で先輩を殴ったり、何かとやらかしていたこともあって、ここで捕まったら体よく解雇されるのではないかという心配が先立ち、俺は学生だからやり直せるしなどといったチープな正義感に酔ってしまったのだ。

 覆面パトカーとカーチェイスなどという危険な橋を渡ってしまうと、それが癖になるやからもいるが、私は逆にリスクの高いことはやるまいと肝に銘じた結果、パトカーを追い抜いてスピード違反で捕まるなどのバカを繰り返しながらも、停止を命ぜられたら素直に従う模範的ライダーになった。そのおかげかどうか、大学院生時代に一度と社会人になって一度、白バイ警官から危険走行で停止させられたにもかかわらず、小言だけで見逃してもらったこともある。

 大学生という時間の自由が利く立場で自動二輪の所有者となると、ストレス発散をかねて深夜に造成途上でほとんど家も建ってない住宅地や、郊外の湾岸ルートなどの人気のないところでスロットルを開けるという悪癖が進行してくるものである。

 かくして私も周囲の学生ライダーたちがお約束のように経験していたクラッシュに見舞われることになった。大学2年の夏の夜、同じ大学に通う高校の後輩と深夜の海で海水浴に興じた後、湾岸道路をぶっ飛ばして帰路についていたところ、カーブが曲がりきれずに急ブレーキをかけると、後輪がロックしてステップで路面を擦りながら、私はGBから放り出された。

 前を走っている後輩のGT750のリアブレーキランプの明かりを目印に追走していたところが、私にとっては初めての道だったせいか、カーブが意外なほど急だったため、目の前からいきなりGTのブレーキランプが消えたような感じだった。

 発作的にフルブレーキングをした瞬間に目に入ったのは白いコンクリートウォールで、心の中では「あいたー。やってしもーた」と思ったが、バイクはぶつかる手前に転がり、宙に放り出された私は上手いこと受身ができたので、肩と尻とヘルメットで地面に着地し、刷り傷だけで済んだ。

 世界がぐるっと回転し、ヘルメットがゴンと地面に接地した時の感覚は今でも覚えているが、ヘルメットの衝撃も路地裏でスクーターで転んだ程度のものだったので、覚悟していたより弱い衝撃が頭蓋骨に伝わった瞬間、「ラッキー、助かったあ」と心の中で喝采をあげたほどだ。

 おまけにGBの方もステップとハンドルのラバーが削れた他は、ほぼ無傷でエンジンもかかったので、被害は最小限で済んだ(翌日はエンジンが始動せず、修理に出したが、全部で三万円ほどしかかからなかった)。

 先行していた後輩(腕もいいが、相当な飛ばし屋だった)は、追走していた私の姿がカーブを過ぎた直後に見えなくなったので、「これはやっちゃったかな(重傷か死亡)」と思いながら引き返してきたそうだが、私にはいい薬になり、以後は峠道もステップを擦らせようなどもってのほかで、安全運転を心がけるようになった。

 大学院時代の友人も、大学時代にレーサーレプリカでガードレールに突っ込んだものの、バイクはお釈迦になったわりに軽傷で済んだのを機に、峠を攻めるなどという自己満足の愚行から足を洗ったと言っていたから、腕を過信してオーバードーズのようにスピードに耽溺してゆくより、適当なところで、事故に遭った方が結果的には命拾いしたのではないかと思う。

 私の学生時代は、まだ暴走族全盛の余韻が残っていて、夏の夜ともなると怪しげな集合管をつけたバイク集団が、集団食中毒に見舞われた連中がオナラでハモっているかのような雑音を大通りで撒き散らしていたものだが、大学時代の知り合いの中には、悦に入って乗り回していた新車と共に二十年の人生を終わらせてしまうような奴もいて、バイク乗りにとっての「運」「不運」をつくづく考えさせられることも多かった。

 

 ホンダGB250クラブマンは、その後左折自動車に巻き込まれるなど(足の小指を骨折して二週間入院するためになった)の不運が続いたため、大学3年の時に同系列のGB400TTに乗り換えることにした。

 同じ単気筒でも400ccとなると回転がスムーズで伸びも良く、セパレートハンドルの恩恵もあって、カーブでの安定感も一味違っていた。ただ、少し重心が高いのか、強い横風でハンドルを取られそうになったことが何度かあり、後輩から借りて乗ったことのあるCB550Fのようなどっしりとした接地感は感じられなかった。

 幸いGB400TTでは、転倒するようなことはなかったものの、走行量の多い国道で結構怖い思いをしたことがある。

 バイクでの帰省は、太宰府、日田経由で山間部を通って景色を眺めながらのんびりと大分に向かうのが常だったが、馬力も安定感も向上した400ccにグレードアップしたことで、久々に飛ばしてみたくなり、盆前に国道10号線で別府湾沿いに帰省してみることにした。

 別府-大分間の10号線は昭和四十七年までは市電が走っていたのが、市電の廃止によって広めの四車線になったことで、ずっと信号のない飛ばしごろの公道サーキットとなり、事故も多発した。

 小学生の頃、移動中の車中から、事故に遭ったのか、血まみれのツナギを着た男が防波堤のところに寄りかかっているのを見たことがあったが、高校生になると、○○高校の奴が事故っただの、海中に転落しただの、という噂を耳にするようになり、わりと別府湾沿いでの事故を身近に感じるようになった。とりわけ事故率が高い仏崎海岸のカーブは、俗に魔のカーブなどと呼ばれ、曲がりきれずにコースアウトしたものの、対向車線から車が来ていなかったおかげで、転倒だけで済み、命拾いをしたという同級生もいた。

 その同級生から、仏崎は曲がれそうで曲がれず、まるで吸い込まれるかのようにカーブに一直線に飛び込んでしまうから、気をつけた方がいいと脅されていたので、中型バイクでの10号線走行は無意識に避けてきたのだが、バイクに乗り慣れてきた頃にありがちな怖いもの見たさで、仏崎の走り心地を体感してみたくなった。

 別府北浜、別府タワーくらいまでは直線が多く何の問題もないのだが、別院前(水族館うみたまごの前)を過ぎたあたりからカーブが増えてくる。

 自動車で移動している時はピンと来なかったのだが、このあたりは交通量が多いにもかかわらず、車もバイクも90kmくらいで走り、一つの流れにようになっているため、妙にせかされている気分になり、アクセルも開けがちになってくる。

 しかもその日は海風が強かったせいか、前傾姿勢でニーグリップしてバイクにしがみつくようにしても、気を抜くと流されそうで、久々に怖い思いをさせられた。確かに、夜に100kmくらいで爆走中に海風が吹いたら、250ccくらいの軽量のバイクだと、曲がりきれなくなっても不思議ではないことを実感させられた魔のカーブだった。

 根性無しかもしれないが、これに懲りてバイクでの帰省時に10号線を利用するのはやめてしまったばかりか、陸橋の上でも突風に煽られてガードレールまで流されたのがちょっとしたトラウマになり、GB400で走行中は、風が強い日は高低差がある陸橋は迂回するようになった。

 それでも、GB400をシルバーとパープルの色違いで二度所有していたことがあるのは、街中でも郊外でもフレキシブルな乗り心地が楽しめ、日常生活の足としての利便性が高かったからだ。 


 自動車学校の教習車だったホンダCBX400Fも取り立てて欠点のない名車であることに異論は唱えないが、電気モーターみたいにスムーズで、ネイキッドエンジンならではの心地よい振動というものが感じられなかった。

 加えて、警官あがりの若い教官が、見るからに田舎ヤンキーといった風体の奴らには妙にフレンドリーなくせに、従順そうな一般の教習生には細かいことで因縁をつけてはなじるチン〇ス野郎だったせいか、その男が指導教官に当たった時は、イラつきながらCBXに乗っていたのも、CBXをあまり好きになれなかった理由かもしれない。

 嫌な思いをした者同士というのは、仲良くなり結束しやすいものだが、先の警官あがりに反目していた連中は揃って「バイクの運転が出来るだけのバカに説教されたくねえわ」と陰口を叩いていたのを思い出す。現役の白バイ警官でもスタントマンでもなく、下手すると年期の入った走り屋ほどの操縦技術も持たない者が、もたつく教習生を小ばかにして、それが職業として成り立っているという不条理に腹を立てたことのある同輩も多いのではないだろうか。

 昨今は、学生数が大幅に減少したばかりか、バイクに興味を持つ若い世代が右肩下がりになっているせいか、教習所の教官の態度もずいぶんマイルドになったと聞く。所詮は客あってのサービス業なのだが、私たちの時代はおもむろに「お前運転できるか?」と尋ねてから、できるところは端折って教習を始める教官も多く、指導も雑だった。そもそも無免許運転の経験者でない限り、運転できるはずがないのだから、「運転できるか?」という質問自体がナンセンスである。

 そんな調子だから、私たちの若い頃はバイク事故が多かったのかもしれない。


 中型二輪免許の時の教官はハズレだったが、大学卒業前に通った自動車教習所の教官はとても良くできた人だった。路上講習の時も、「自家用車運転している奴が、こんな見通しのいいところを時速40kmでチンタラ走っているはずないだろ」などと教官らしからぬ言動が多く、本来ならじれったいほどゆっくり走る路上講習も60kmくらいまで出させてもらい、運転を楽しめた。

 そのうえ慣れてくると、教習らしい話は5分ほどで終り、後は世間話をしながらドライブをしているという感じだったので、たまたま大学の近くで路上講習中の私を見かけたという同じゼミの女子大生から、「教習車なのに教官と笑いながら運転してたから、びっくりした」と不思議がられたこともある。

 昭和というのは良くも悪くもこういういい加減なところがある時代だったのだ。現代では考えられないような理不尽なことが堂々とまかり通る反面、融通が利く懐の深さも内包していたことを思うと、令和より平成、平成より昭和の方が暮らしやすかったことは間違いない。

 バイク好きの視点から見ても、昭和の終わり頃から平成ヒトケタくらいまでは、大都市福岡市の中心地でさえ、舗道にバイクを停めても駐車違反の切符を切られることはまずなかった。今は無き天神コアにバイクを横付けしてゼミコンに出かけた時でさえ、帰り際に「ここには停めないで下さい」と書かれた紙がシートに貼られているのが関の山で、福岡市はバイクしか移動手段のない貧乏学生や会社員には住み心地のよい街だったのだ。


 私は大学卒業と同時に一旦就職してから、その年の秋に大学院を受験したので、まずは人並みに会社員となった。会社と言っても大手予備校の事務職員で、内定が出た前年度の十月から雑用のバイトに入れられていたおかげで、その頃から大学へは卒論指導を受けにゆくだけで、一足早いサラリーマンのような生活をしていた。

 当然のことながら給料が入るから、また新たなバイクに触手が動くのは避けられない。そこで次に選んだのがスズキGT380の初期型で、翌年の社会人としての出勤初日の足となった。

 GT380は藤岡弘扮する仮面ライダー1号こと本郷猛の愛車という認識はあり、劇中で出てくるカウル付きのGTは格好いいと思ってはいても、ノーマルだといかにも金属の塊という無骨なイメージが先行して、さほど興味はなかった。

 ところが、大学4年の夏の夜、近所のセブンイレブンに買い物に出かけた時に、店の前に駐車してあったフルノーマルのGT380を見た瞬間、一目惚れしてしまった。街灯が反射して怪しく輝いていたパープルメタリックのタンクが妙にセクシーで、目に焼きついて離れなくなった。

 そこでバイクショップの社長にGT380が入ったら連絡してもらえるよう頼んでおいたところ、数ヶ月後、程度はイマイチながら、ブルーメタリックに白のラインの初期型を入荷したとの知らせがあり、GT400TTを下取りにして即購入した。

 キャブがかぶり気味で、回転を上げるとオイルを撒き散らしながら走るのが難だったが、ほとんど手出しもなくGT380を経験できたことを考えれば、悪くない買い物だった。

 2ストロークだけにキックは軽いが、三本のシリンダーに同時に火を入れるのが結構難儀で、シリンダーを直接手で触りながら点火を確認してからチョークを戻すというデリケートな儀式が必要だった。もっとも、プレスライダーに愛用されていたように、故障が少なくエンジンもタフなので、走行中にエンストすることはなく、燃費は同時代の4スト4気筒と変わらない街中15km、郊外20kmを記録した。

 このGT380は、入門編と割り切っていたので、当時下宿していた住宅地周辺の静けさを鑑みて、半年ほど乗った後は、もう少し静かな4ストへと心が傾き始めた。

 そんな時にバイクショップから「程度の良い、CB400Fが入ったけどどう?」と勧められ、手出し十五万円ほどで、今度はヨンフォアのオーナーになった。実質三十万円台でこれだけの希少車が手に入ったのは、前のオーナーが金が要りようで手放したいというので、整備費分だけ追加で支払って、そのままオーナーチェンジみたいな形で私が買い取ったようなものだからだ。

 398ccで社外品のショート管、シートは少しアンコ抜きではあったが、中古のヨンフォアにありがちなヘッドカバーからのチェーンのシャリシャリ音も最低限で、エンジンの吹け具合も上々だった。

 すでに予備校は退職し、塾でバイトをしながら大学院の学費を稼ぐという生活をしていたが、ヨンフォアとは大学院への通学と塾への出講の足として2年半ほどの付き合いになった。

 当時はハイオクガソリンがリッター100円程度と安かったので、ヨンフォアは交通手段として随分重宝させてもらった。超プレミア付きになった令和のオーナーなら、雨の日は乗らないだろうし、タンデムシートにネットをつけてスーパーに買い物もありえないだろう。しかし、バイクは飾って眺めておくものではない。それが唯一の交通手段の者にとっては実用性がなければバイクとしての意味をなさないのだ。

 その代わり雨中を運転した後は、タオルで水分を拭き取った後、ホイールやスポークなどの錆びそうなところにはオイルを添付し、タンクもワックスで磨き上げたものだ。そうやって使い込んでゆくから愛着も湧くわけで、無茶な飛ばし方でもしない限りヨンフォアのエンジンは常に小気味よく回り、故障とは全く縁がなかった。また小回りが利くし、車格は250ccくらいだったので、スクーターが停められそうなところならどこでも停められた。

 平成初期はヨンフォアはビンテージとして人気が出ていたので、ガソリンスタンドの店員から声をかけられることもあったし、塾の入っているビルの前に停めていたこともあって、生徒たちも私のバイクだと知っていたが、キャンディレッドのタンクが美しく見映えがするので、女子受けもよかった。

 客観的に欠点など見当たらないバイクだったが、別れのない人生はない。しょうもないことをきっかけにヨンフォアとも別れる日がやってきた。

 大学院を修了して再び社会人になった私は、出勤初日、集合管の爆音も高らかにヨンフォアとともに職場の門を駆け抜けた。徒歩で出勤している方々は一斉にこちらを振り返ったが、前もってバイク通勤の許可をもらっている私はどこふく風で駐輪場にバイクを停めて、意気揚々と出勤した。

 ところが目立つバイクのうえ、集合管のエグゾーストノートがどうやら上司の方々にはお気に召さなかったとみえて、「やっぱり、スクーターか自転車にしてくれ」と教育的指導がきた。

 自家用車トヨタターセルと自動二輪だけでも車検代がばかにならないのに、スクーターまで家族に加えるというのは、経済的に厳しい。私は日常的な利便性を考慮した結果、ヨンフォアを諦め、ホンダJOGを購入して通勤の足にすることにした。

 この時は「いつかはヨンフォア」と再会を誓ったものだが、中古バイク業界や芸能人たちがお宝バイクと煽り立てたあげく、庶民には手が届かない価格まで跳ね上がってしまい、この調子では再会はかなり先の話になりそうだ。

 確かにヨンフォアはデザインもエンジンも完成度が高いバイクで、昭和の終り頃から再評価の気運は高まっていたが、その人気ゆえにアメリカ仕様の408ccが相当数逆輸入されてきたため、それなりに出回っており、私だって発売から二十年経った程度極上のヨンフォアを三十万円そこそこで手に入れることができたのだ。

 私の高校時代くらいまでは、族仕様のヨンフォアやサンパチも残存していたが、平成に入ると、遅いうえに、曲がらない、停まらないの三重苦のようなバイクは走り屋からは敬遠されるようになった結果、ビンテージ好きのマニアの元で大切に扱われるという幸せな老後が待っていた。

 つまり族の御用達としてエンジンが焼け付くほど酷使されたあげくに廃車の運命をたどっていたのは昭和までで、国内で廃車になった数に負けず劣らず逆輸入車も市場に出回ったことを考えると、実働車の残存数が極端に減ったというのはありえない。おそらくあまり見かけなくなったのは、マニアが骨董感覚で大切に扱い、たまにエンジンを回してあげる以外の乗り方をしなくなったからと推察する。

 しかもホンダ車は、本田宗一郎が健在の頃までは、「自社製品が一台でも市場に残っている限りパーツを供給する」という良心的なサービスを続けていたことを考えれば、旧車の所有者や旧車専門のショップは将来のことを考えてパーツをストックしていたに違いない。

 それほど所有者たちが大切に扱ってきたバイクが、それから二十年かそこらの間に大量に廃車になって姿を消したとはとうてい思えない。しかも若者のバイク熱も私たちの時代より冷めてきていることを考えると、株価じゃあるまいし、プライスが十倍に跳ね上がるなんて説明がつかない。

 元々名車だから本来はこのくらいの価値があるだとか、海外からも再評価された結果だとか、色

々な御託を並べているのを耳にしたことがあるが、日本でヨンフォア、サンパチ、SS350を購入するより、イギリスでトライアンフ・トライトン、ノートン・コマンドー、ベロセット・クラブマンといった世界的名車を購入した方が相当安上がりである。

 私に限らず、限定解除さえしていれば、旧車好きならヨンフォアの3分の2の価格のトライトンの方を選ぶのではないだろうか。所詮はあの手この手でプレミア意識を持たせることで価格を吊り上げている「転売ヤー」たちの手法と変わらないように思うのは私だけだろうか。

 実際、私が某ショップでずっと目をつけていたピカピカのサンパチは何年間もずっと70万円というプライスのまま店晒しになっていたにもかかわらず、同じ程度のものが他店では堂々の240万円なのだから、価格の付け方なんていい加減なものである。

 バイク好きというより金儲けの手段として旧車を商売にしている方がいても、合法である以上、私はそれを咎めたてる立場にはないが、所詮は庶民の日常の足として発売されたバイクである。新車時から庶民には手が届かなかったフェラーリやランボルギーニとは違うのだ。中古として適価であれば、より多くのバイク好きが、ヨンフォアやサンパチ、マッハなど歴史的名車の乗り心地を楽しめたのに、たかが何十年も前の中古バイクに、資産家や芸能人しか乗れないなんてこんな馬鹿げた話があるだろうか。

 乗ってみたい人は大勢いるにもかかわらず、ずっとショーウィンドーに飾られたまま時を過ごしているビンテージバイクを見ていると、高望みがすぎて旬を逸したプライドの高い未婚の老女が頭に浮かぶのは私だけではないだろう。もちろん価値観は人それぞれなので、そういう販売方法、そういう生き方を否定する気はさらさらないが、私がバイク好きなバイク屋だったら、伝説的なバイクであればあるほど、大勢の客にその魅力を満喫してもらいたいし、個人が所有すれば、車検、レストア、絶品パーツの製作などの依頼があって経済も回るという観点から、顧客には何台も乗り換えてもらえるような価格を設定するに違いない。

 400ccクラスではサンパチやヨンフォアやケッチが名車だからといって、乗った経験がある人がほとんどいないということは、その良さを共感してくれる相手もいないわけだし、今後も普通の人には手が届かないバイクであり続けるならば、その魅力を伝えようとしたところで、単なる自慢話か富裕層の内輪ネタで終わってしまうのがオチだ。

 確かの名車伝説としては残るかもしれないが、よほどのマニアックなビンテージファン以外の興味を引くことはなくなってしまうような気がする。

 アラビアのロレンスの愛車、ブラフ・スーペリアが“モーターサイクル界のロールスロイス”と言われているからといって、性能も乗り心地もわからないようなブラフにいつか乗ってみたいと熱望しているバイク乗りには、生まれてこの方出会った事が無いのと同じである。


 近年のビンテージバイクの高騰に対する個人的な愚痴はさておき、バイク好きの二十代にとってスクーター生活は苦行に等しかった。下手にバイクに乗るから未練がましくなるのだという思いもあって一時期は自転車通勤に切り替えたほどだ。

 しかし相思相愛だった相手をそう簡単に忘れられるものではない。人間社会なら、失恋に深手を癒すならキャバクラかガールズバーで弾けるか、高級クラブの美人ホステスの推し活でもして現実逃避を図るかもしれない。

 私の場合はバブル崩壊後の超円高に乗じて、通勤と実用を兼ねるという大義名分を捻り出して、こともあろうに中古のポルシェ911(74年式)を大人買いしてしまった。それまでびた一文たりとも使ったことのない備蓄ボーナスを完全放出したくらいの出費で程度中くらいの911が買えたのは、バブル期に投機目的が購入されていた人気車種が、株で大損した方々の損失補填のために、軒並み市場に放出されたおかげである。

 アストン・マーチンDB5がたったの1000万円、トヨタ2000GTでも1500万円でお釣りがきたのだから、現在レクサスを新車で買える余裕のあるカーマニアなら、よだれモンの時代だった。それでも二十代の若僧が911をポン買いなんて、明らかに分不相応で、職場の先輩方からは冷ややかな目で見られ、嫌味を言われたりもしたが(その先輩はアウディだったが、同級生なら嫌味を言った瞬間にその場でシメていたかもしれない)、現在のトンデモ価格に比べれば、福引きに当たったようなもので、全く後悔はない。泣けるほど維持費がかかったとはいえ、カーライフに潤いを与えてくれた911には感謝している。

 911はクラッチが深く、私の体格で足を思い切り伸ばしてやっと切れるくらいだったうえ、エアコンの冷気も国産車とは比べ物にならないくらい弱く、渋滞は汗だくだったが、スカっとギアが入った時の加速感とエンジンの咆哮は、スポーツカーというよりレーシングカーを彷彿とさせるものだった。

 ポルシェといえども二十年選手では、ゼロヨンも吹け上がりもツインターボのソアラやRX7の方に軍配が上がったはずだ。それでもドアの開閉時の「バシャッ」という独特の音や高速走行中の安定性、操作系のずしりとした重さなど、いかにも鋼鉄の塊といった重厚感は、速度ばかりを追求しがちな現代のスポーツカーとは別のコックピットの居心地の良さを演出してくれたような気がする。

 バイクは剥き身で操縦しているぶん、風を切って走っていると自然との一体感のようなものが生まれるが、自動車は閉鎖され、外部と遮断された空間ならではの、誰からも見られていない楽しみのようなものがある。音楽も聴けるし、鼻歌も歌えるし、バイクとは比較にならないほどのパワーのリアエンジンの咆哮と振動もダイレクトに伝わってきて、何となくひとりの楽しみに浸れるのだ。

 中の中程度の911でもこれほど楽しめるのだから、もっと高年式のもの(‘88年式の964型あたり)を思い、株までやってせっせと小銭を貯めたのだが、結婚費用捻出のため、大食いの911は諦めて、整備工場の社長が乗っていた実用性の高いトヨタマークⅡグランデに乗り換えることにした。

 911とは二年弱の付き合いだったが、売却した差額は911の祖国ドイツへの新婚旅行費用で相殺されたので、911も本望だったに違いない(と勝手に思い込んでいる)。

 だが、マークⅡではヨンフォアと別れた私の傷心を癒すには役不足だった。

 しかも間の悪いことに、年に数十人しか採用がない超難関の国家公務員採用試験に合格した大学の後輩が、その報告がてらに私の職場までハーレーダビッドソンXLHスピードスターに乗って喜び勇んでやってきたのだ。鴨が葱を背負ってやってきたようなものである。私は後輩に勧められるままにハーレーを借りて職場周辺を一回りしてきた。

 750cc以上のバイクはホンダCB750Fしか運転したことがなく、GT750もGSX750カタナもタンデム経験のみの私にとって、ハーレーの振動と排気音は別世界だった。実用性はともかくとして、低速だとまるで暴れ馬に乗っているようにグイグイと前に引っ張られてゆくトルク感を味わってしまうと、速さはピカイチのカタナでさえまるで電気モーターのように味気なく思えてきて、スポーツバイクの楽しさを再確認させられた気がした。

 かくして私のバイク熱はぶりかえした。

 何かワクワクするようなビンテージ物が入荷していることを期待して、久々にショップを訪れると、タンクとサイドカバーを500用のパープルのものに換装したGB400TTが鎮座していた。

 社長から「一時的にこれに乗っとかんね。いい出物があったら、すぐに交換してやるけん」と懐かしのGBを勧められた私は、価格も十五、六万というお手頃だったこともあって、優先的に自分に出物を紹介してくれるのであれば、半年くらいはこれで我慢するか、くらいの気持ちで、即座に購入を決めてしまった。

 乗り慣れていたGBでも、長らくスクーター生活をしていたせいか、妙に新鮮で、やはりGBは乗りやすくていいな、などと思いながら復縁生活を楽しんでいたところ、それからわずか一ヶ月後に、衝撃的な出会いが待っていた。

 社長の予言は的中したのだ。

スポーツカーとレーシングカーは何が違うのかというと、私は一般道や高速道路で、一般車両とは格の違うパフォーマンスを見せ付けるのがスポーツカーで、レーシングカーはノーマルのままサーキットに迷い込んでも、全開で楽しめる車だと認識している。ちょうど私が初老の911に乗っていた頃、中洲で911(993型)とスカイラインGTR(R32型)がカーチェイスをした結果、スカイラインが橋の欄干を突き破って川ポチャするという事故があった。長距離運転手をしていた友人が、深夜過ぎに車庫に戻る途中でその事故をたまたま目撃していて、事故の翌々日くらいに私のその様子を教えてくれた。彼が言うところによると、川沿いの片側一車線の道を911が先行し、後からGTRが物凄い爆音を立てて追いかけていたのだそうだ。911は橋の手前でフルブレーキングすると、地面にへばりつくように曲がっていったのに対し、フロントヘビーでアンダーステアが強いGTRは勢い余って欄干を突き破っていったとのことだった。友人は「シャーシの剛性、旋回性もブレーキ性能も全然違う車とチェイスするやつが馬鹿だ」と言っていたが、その通りだと思う。最高速こそさして変わらなくとも、この当時の最新の911はGTRの3倍近い価格だったのだ。これで性能が同じだなんて思う方が愚かである。GTRはシャーシとサスペンションを強化してブレンボのブレーキでも奢れば、サーキットで911と張り合えるかもしれないが、それだけ金をかければ911が買えてしまうだろう。

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