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不良とバイクと煙草のけむり  - わが自虐的青春譜 -   作者: 滝 城太郎


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第5章 暴走族とヤンキーはモテるのか

バイクは好きだったが、スピードの先には死があるという認識から、暴走族に友人はいても、集団で夜道をぶっ飛ばそうなんていう気はさらさらなかった。騒々しいチャンバーや集合管をくっつけて走り屋仕様にしている奴を見ても、走り屋を気取るんなら、公道じゃなくてサーキットで全開で走ってみろ、としか思わなかった。GPレーサーと勝負するのは怖くて素人相手に粋がっているような奴は、幼児相手に無双伝説でも作っていればいい。

 ’70年代から‘80年代にかけて青春時代を過ごしてきた方々なら、バイクという単語からまず最初に連想するのは暴走族ではないだろうか。

 昭和30年代にも「カミナリ族」なる後の暴走族の先駆け的なバイク集団が散見されたが、当時のバイクの価格からすると、商用車はともかく、スポーツバイクを購入できるのは富裕層のお坊ちゃんたちくらいなもので、太陽族と同じく、見た目こそ不良っぽくても、育ちの良い若者たちがイキがっているに過ぎなかった。

 したがって、交通ルールは無視し、暴力行為も辞さないような反社的な集団が現れ始めたのは、昭和40年代の終りくらいからではないだろうか。モータリゼーション華やかななりし時代だけに、おそらく東映映画『不良番長』シリーズや、日活映画『野良猫ロック』シリーズといったバイクアクションを網羅した集団抗争劇が、バイクが巷の不良少年たちのマストアイテム化するきっかけを作ったように思う。

 所詮は架空の世界とはいえ、若者たちのフラストレーションが学生運動のような形で暴力化されつつある社会の趨勢を背景にしたアウトローたちの集団抗争劇は、学歴社会の中で行き場を見失った若者たちへの一種の啓示のようなものだったのかもしれない。そこに追い討ちをかけるように、矢沢永吉、ジョニー大倉らによるロックバンド、キャロルのデビューである。とりわけ、皮ジャン、リーゼントにバイクという組み合わせは、矢沢永吉という究極の偶像によってまたたく間に広まっていった。

 私の高校時代は、キャロルなどとっくに解散していて、ヤンキーファッションといえば、横浜銀蠅やブラックキャッツが中心で、おそらくごく一部の者を除いては、ビジュアル的に憧れるような存在ではなかったと思う。しかし永ちゃんだけは別格で、長身の男前で歌は上手いし、ベースプレイも粋で、本当に格好良かった。だから今でも、矢沢永吉の存在が不良文化を開花させる大きな要因になったと確信している。その証拠に『今日から俺は』や『東京リベンジャーズ』が流行ったからといって、映画の主演俳優を真似る高校生など皆無に等しい。不良=社会悪という方程式を覆すほどの魅力があったからこそ、昭和40年代後半から50年代にかけて矢沢永吉やキャロルを気取る若者が急増したのだろう。

 暴走族が跋扈するようになった影響からかどうかは不明だが、昭和51年の免許制度の改正により、自動二輪免許は大型、中型、小型と区分された。そのあおりで運転免許教習所で取得できるのは中型までとなり、400ccを超える排気量は、限定解除試験なるものに合格しなければ乗車できなくなった。おまけにこの限定解除試験、教習所に通わずに自動車免許実技試験に挑むのに匹敵するくらいの難関で、昭和50~60年代頃は、10%くらいの合格率と言われていた。

 そのため、私たちの世代のバイク乗りはほとんど400cc未満の中型車が一般的で、限定解除は一種のステイタスでもあった。とはいえ、750ccは身長175cm以上向けに作られているため、欧米人はともかく、日本人にとっては明らかにオーバーサイズだった。

 峠の走り屋で操縦技術に優れてはいても、平均的な体格だと、大型車は停車時の足つきが悪く、シートをアンコ抜きでもしていない限り、爪先立ちか片足立ちを強いられるため、ホンダCB750に跨った矢沢永吉のようなシルエットは期待すべくもなかった。

 みんなそれを自覚していたのか、私の周囲では実際に限定解除にチャレンジする者はごく少数だったし、覚えている限りではナナハンの所有者は一人しかいなかった。カワサキZ400FXが一番人気で、その次がヤマハRZ250というところだろうか。ナナハンキラーRZ350に憧れる連中はいても、現物はほとんど見た覚えがない。あとは車検がなくリーズナブルだったホンダVT250の所有率も高かった。VTは教習車に使われていたこともあり、軽快で運転も楽だったが、私にとっては面白みがなく、とてもロングツーリングを楽しむような気にはなれなかった。

 私自身は暴走族に入ったこともなければ、複数名で暴走した経験もないが、たまたま友人に暴走族のリーダーが二人ほどいたので、色んな話を聞く機会はあった。族のリーダーは大分県に一人、福岡県に一人いて、福岡県在住のWは現役引退後の付き合いだったので、すでに足を洗っていたせいか、あまり暴走行為そのものの話はしたがらなかったが、引退してしまうと過去の人になり、地元であるにもかかわらず、自分の愛車に悪戯されることを危惧し、防犯対策には余念がないと愚痴っていたのが印象に残る。

 今のようにSNS全盛ではないので、元リーダーの愛車を知らない現役世代は、所有者を知っていれば絶対に手を出すはずのない車両に悪戯したり、パーツを盗むこともあるそうで、まだ二十歳前のくせに「近頃の若いモンは・・」と老人のようなことを言っていた。

 改造バイクは仲間内でこそ目立って、時には羨ましがられて悦に入ることもあるかもしれないが、引退後は、別の意味で悪童たちからのターゲットになるという悲哀を味わおうとは、何ともお気の毒な話であり、暴走族も楽ではないと思わされた。


 一方、大分県在住のZは現役パリパリで、市内のほぼ全ての学校のワルの間でその勇名は轟いていた。そういう世界の頂点に君臨するだけあって、リーゼントに長ラン姿は遠目には威圧感十分だが、素顔は甘い顔立ちのナイスガイで、話も面白かった。

 この“話の面白さ”というのが、私の知る限りの“著名ヤンキー”たちの特徴で、福岡県在住のWも通常モードだとものすごくひょうきんで、人を笑わせてばかりいるような奴だった。

 人を笑わせる才能のある人は、一緒にいると楽しいという理由で、人から好かれ、色んな人が集まってくる。大勢から慕われるので、そのうちリーダーシップも身についてきて、場合によってはぐれた連中のリーダーに奉られることになるのだ。したがって暴走族に限らず、何十人ものメンツを束ねているような連中は、例外なくユーモアのわかる“イイ奴”だった。

 暴走族というと武闘派ならではのエピソードも事欠かないが、Zが、子分格の奴が粗相をしでかして、その尻拭いに喧嘩するのはもうこりごり、と愚痴っていたように、武力抗争にはそれほど積極的ではなかった。逆に腰ぎんちゃく連中は、“虎の威を借りる狐”そのもので、相手が格上だと悟るや、自分にはバックがいることをやたら強調して粋がって見せるのだった。族の喧嘩にはそういう尻拭い的なことも少なくなく、何の因果もない相手を殴るのは罪悪感を伴うようだ。

 そんなやっかいな種ばかり運んでくる腰ぎんちゃく達を飼っている理由は、数集めだと言っていた。暴走する時は大勢の方が見映えがいいから、エキストラ感覚なのだろう。しかし、あまり人数が多いと目立ってしまい、警察に追いかけられて大変だろう、と尋ねると、そういう時は幹部が逃げて、構成員たちが犠牲になるそうだ。それでも下っ端は警察にびびってすぐに口を割るんじゃねえの、と突っ込むと、絶対に口を割らないよう、しつけてあるから大丈夫、なんだそうだ。

 そもそもリーダーは、腰ぎんちゃく達が媚びて群れたがる理由も熟知したうえで、利用するだけ利用してあとは蜥蜴の尻尾切りと割り切っていた(まさに日雇いのエキストラ扱いである)。だから、大勢の前ではちょっと虚勢を張って威嚇的な言動を見せても、内輪だけになると、普通の高校生に戻るのだ。

 そんなZも普段着姿の時はバイクの話、ファッションの話、将来の夢なんかも語っていたが、ブレイクダンスが上手く、ディスコでもモテモテだったので、「踊りが上手いと女が寄ってくる」と力説していた(それ以上に口も達者だったが)。

 私も高校の仲間たちと‘50年代のロック音楽に合わせて踊るといった、竹の子族の真似事のようなことをやってはいたが、高校二年で初めてディスコに行った時は、大人ばかりの世界に舞い上がってしまい、フロアで踊っている男女を羨ましげに眺めていただけだった。

 ブラックキャッツでもあるまいし、ビンテージなロックンロールのステップではハイブロウなディスコでは浮いてしまうことを痛感した私は、Zに基本的な踊り方を教えてもらったおかげで、大学生になって博多のディスコに通った時も海外旅行でバンコクのディスコに行った時も、物怖じせずに場に溶け込めるようになった。そういう意味ではディスコ(今ではクラブだが)で踊る楽しさを教えてくれたのは暴走族のリーダーであり、私の青春に彩りを添えてくれたことに感謝している。

 

 暴走族話からは少し逸れるが、同時代の大分市内で“喧嘩なら一番”と恐れられていたのが、私の親友の一人Eで、高校に入学早々、先輩たちからフクロにされた後、その時手を出した先輩一人ひとりの自宅を回ってはタイマンで全員片付けたという伝説の男だった(私は本人から直接詳細を聞いているので真実である)。

 そんな危険な奴となぜ親友なのかと言うと、初対面の時から向こうからからかい半分に冗談をかましてきたので、こっちもお返しをしたり、いじったりしているうちに妙にウマが合い、こちらから家にしょっちゅう遊びにゆくようになったというわけだ。

 たまたまかもしれないが、当時の友人たちの中には自宅以外に1LDKのマンションやアパートを借りて一人暮らしをしている富裕層の子弟や、自宅が二軒続きのマンションだったり、マンション二軒を通路でつなげたものなど、独立性が確保された環境を与えられた果報者が何人かいた。Eの自宅もマンション内の二軒が隣り合わせになっており、祖父とEだけが両親、弟と離れて生活していたので、結構好き放題にでき、溜まり場には最適だった。

 場所も市内の中心地に近い飲食街で、そこから遊びに行くにも絶好のロケーションである。夜はガラの悪い奴もうろついているような裏通りだったが、Eは呼び込みのボーイやスナックのママたちとも顔馴染みで自分の庭のようにしており、日が暮れて毒々しいネオンが通りを照らすようになった頃、Eと通りを歩くとまるで地回りのような貫禄があった。

 気合を入れている時の風貌は不良っぽくても、わりとお笑い系の顔立ちに加えて、芸能人の物真似が好きで、駄洒落ばかり言うような奴だったので、一緒にいて飽きなかった。むしろ、Eとつるんでいる時は、結構非日常的な日々を過ごせたような気がする。

 高校は別々だったが、溜まり場は決まっていたので、会いたい時は『ラ・マンチャ』という小ぢんまりした裏通りの喫茶店に行けば、たいていそこで油を売っていた。行儀の悪いヤンキーがたむろするような店ではないので、ゆっくりくつろげたし、何よりランチタイムのカレーセットが彼のお気に入りだったからだ(Eはそこで定期考査の勉強をしていたこともある)。

 『ラ・マンチャ』のカレーは確かに美味だったが、ラーメン一杯、カレー一皿が300円で食べられた時代に、コーヒー、サラダ付きとはいえ500円のランチは懐にはキツく、たまに顔を出してもアイスコーヒーばかり飲んでいたが、腹が減っているのに二人ともすかんぴんの時は、商店街に金策に繰り出していた。

 悪たれ高校生が商店街で金策と聞けば、どうせカツアゲだろうと思われるかもしれないが、少なくとも私たちの親しい仲間内でそういう行為に及んだという話は聞いたことがない。逆に夜遅くのバス停やゲーセンでチーマーっぽい連中からこちらの方が金を無心されたことがあるくらいだ。福岡の親友Sは博多駅でも高校生がカツアゲに遭うことがあると言っていたが、大分ではからんできても、「持ってねえよ」と断れば、「しけとぅー」などと捨てゼリフを吐かれる程度で、たまに真面目学生が実害に遭ったという話が出ても、せいぜい1000円程度の寄付で無血解放というくらいのものだった。

 では一体Eはどうやって食費を調達したかというと、結構名が売れている男だったので、同じ高校の生徒ならその個性的な出で立ちですぐに誰なのか判断できた。そしてまず間違いなく、目が合った瞬間に頭を下げるか、「こんにちは」と挨拶するのだ。

 するとEは自分の事を知っている同じ学校の生徒だと認識し、「今度学校で返すから、50円でいいから貸してくれん?」と頼み込む。缶コーヒーを買うのにあと50円必要だという理屈なのだが、さすがにその金額で渋る生徒などいるわけもない。しかも、学校で再会したからといって「返してくれ」と返済を迫る確率もほぼゼロである。それどころか、有名なヤンキーのEさんに奢ってやったくらいの気持ちで自己満足に浸る可能性も少なくない。仮に、たまたま顔を覚えている相手と学校で再会しても、周囲に聴こえるように「あの時は有難う。今持ち合わせなないけん、今度返すわ」とでも言っておけば、むしろ周囲が「あの人と知り合いなんだ」と一目置くくらいの効果が期待でき、貸した方の自尊心も満たせるのだ。

 もちろん中には「いいッスよ。取っといて下さい」「コーヒーくらい俺が奢りますよ」などと言って100円、200円と気前良く出資してくれる生徒もいた。

 ずる賢さにかけては天下一品のEは、この手で商店街を何往復かすれば、少なくとも500円、多い時は1000円くらいの喜捨を受けることが出来た。そしてそれを元手にセカンドグレードの喫茶店に向ったのだ。こんな詐欺まがいなことが出来たのは、母校が市街地に近かったからで、人通りが少なく、若者がたむろするような場所もない郊外であれば、家庭菜園でも荒らすしか手がなかったところだ。

 しかし、彼の顔があまり知られていない地域でも、彼なりの暇つぶしの楽しみ方があった。それが“水戸黄門ゲーム”である。

 進学校に通う私に迷惑をかけてはまずいと思ったのか、私と一緒の時はやらなかったが、彼の武勇伝は同じ学校のトッポイ奴らを経由して入ってくるので、後で詳しく状況を聞けば、面白可笑しく話してくれたものだ。

 その水戸黄門ゲームとは何か。徳川光圀は天下の副将軍としてその名は全国区だが、写真のない江戸時代では、直接会ったことのある一部の御家人以外は本人かどうか判別できない。彼の場合もそれと同じで、携帯を持たない時代、同じ学校の生徒か暴走族、他校の不良連中他、親しい者以外には彼の顔と名前は一致しない。しかも、現物の彼は饒舌でユーモラスな人柄ゆえに、いわゆる腰抜けを演じるのもお手の物だった。オールバックでボンタンを履いているくせに猫背で内股でおどどしながら歩いている学生を見たら、自己顕示欲の強そうな田舎のヤンキーなら、手頃なカモがやってきたとばかり、因縁をつけるかカツアゲしてきても不思議ではない。

 高校二年の九月、ちょうど文化祭のシーズンに某私立高校の文化祭で悲劇(喜劇)は起こった。

 その日はたまたま同じ学校の同級生がその高校の文化祭に出かけていて、校門の前で事後のシーンを目撃していた。

 E本人に直接尋ねてみると、文化祭を見に行ったところ、校門の前にいたガラの悪い二人がいきなりガンをとばしてきたので、「なんすか?」とおどおど答えると、調子に乗って首根っこをつかんで「お前、こっち見ただろ。何か文句あんのか?」などと脅しの常套句を並べ始めたそうだ。

 Eが面白半分に「やめて下さいよ」とびびりのふりをして後ずさりしながら、その怪力でヤンキーの腕をつかんで逆さにねじ上げると、そのヤンキーときたら脅し文句を続けながら次第に瞳孔が開いて呂律が回らなくなり、今起こっている現実がわからなくなっていく様子がありありと伺えたそうだ(その時の様子の表現がめちゃくちゃ可笑くて、こいつ笑いの神がついとるな、としみじみ思ったものだ)。

 ヤンキーの表情に怯えが走ったところで、そいつに一発、何が起きているのかわからず不思議そうな顔をして突っ立っているもう一人にも一発お見舞いすると、二人とものびて地面に転がり、完全に戦意を喪失してしまっていたという。そこで親友がその筋の者なら大抵知っている自分の名を名乗ると、「最初からそう言って下さいよー」とじつに情けなさそうな表情を浮かべて、ぺこぺこ謝ってきたそうだ。

 私の同級生が見たのは、全てが終わった後も起き上がれないで地面にしゃがみこんでいるヤンキー二人の姿だけで、その時は誰かからやられたんだろうなと思い、この学校物騒だなという印象を持ったらしい。

 この猿芝居が彼流の暇つぶしゲームの一つだった。ターゲットは全てヤンキーで、堅気の学生に手を出すことは一切なかった。この時はあまり手応えがないので、運動にもならなかったようだが、たまに口より手が先に出る奴がいて、そういう奴が殴りかかってくると、正当防衛が成立するので、思う存分パンチをふるえてストレス発散になるとうそぶいていた。

 こういう荒っぽさもある反面、義侠心も強く、高校入学後間もなく、共通の友人が先輩たちから学校のトイレに連れ込まれて袋叩きにあうや、昼休みにその2年生の教室に「○○を殴った奴、俺とタイマン張れ!」と怒鳴り込み、首謀者を追い掛け回してわびを入れさせたこともあるのだ。

 私は素行はともかく、人間的には彼のことを気にいっていたので、時にからかい合いながら、義兄弟のように付き合っていたが、同じ学校のトッポイ連中からすると、私と彼の住む世界が違いすぎて接点が見出せなかったのだろう。同級生の中にもさん付けで話す者がいる不良世界のレジェンドの事を、私がアイツ呼ばわりして間抜けなエピソードなどを披露しようもんなら、みんな「こいつこんなこと言って大丈夫なのか?」といった表情を浮かべるか、「どうせハッタリやろ」みたいな感じでスルーするかのどちらかだったが、悲しきヤンキーの性というべきか、ある日、私の名前を使って親友に取り入ろうとする同級生が出てきて、ちょっと悲しくなった。

 その同級生Lは喧嘩早いわりにそこそこ頭も良く、スポーツもできたから、自分なりにはイケてる不良と自負していたふしがある。だから出入りには参加しないし、バイクも持たずにLに乗っけてもらうことも多かった私のことをどことなく見下していたように感じていた。それだけに、私がレジェンドのような男と親友というのは合点がいかなかったのだろう。武勇伝に事欠かないEやZの話題で盛り上がっている時に、私が加わると露骨に迷惑そうな態度を見せた。

 そんなある日、久々にEから電話があり、「お前んとこにCって奴いるか?」と尋ねられた。

何故かというと、どういう関係か知りたかったらしく、仲がいい奴ならそれなりの態度で応じるし、そうでなければ、勝手に死んどけ、みたいな話だった。

 実は商店街でカールアイパーをかけた悪党ずらした高校生からガンを切られ、そいつが近づいてきたので、いいカモが来たとワクワクしていたところ、「Eさんですか。僕○○高校の○○君の友達のCです。よろしくお願いします」と挨拶されたのだという。

 それだけ言うと廻れ右をして去っていったので、ケッタイな奴だと思って、私に問い合わせたのだという。私が「別に親しいわけじゃねえよ。だけどあれで学校では一丁前に威張ってんだぜ」と言うと、親友は「あんなのがか?キモすぎるわ」と腹を抱えて笑っていた。

 その後、Cが私と疎遠になったのは、この一件が私の耳にも入ったはずと確信し、私の前でも時折偉そうな態度を取ることがあったぶん、化けの皮が剥がれたような後ろめたさに苛まれたのではないかと推測する。

 そもそも、私の名前を使ってEに取り入ろうしたというより、商店街で相対した瞬間、自分のモロにヤンキー然とした格好からして、因縁をつけられたあげくにボコボコにされるという恐怖を覚え、私の友達ということにして、その場を切り抜けようとした可能性の方が高いからだ。

 学校も違うし、ましてや相手は自分の名前など知らないのだ。そんな相手に舎弟志願だなんて、極道じゃあるまいし、ありえない。

 Cは、高校一年で同じクラスになった時はちょっと近寄り難い感じだったが、権力に媚びるタイプではなさそうだし、そこそこ男気もあったので、付かず離れずくらいの関係だったのだが、自分より強い奴の前ではここまで犬に成り下がれるとは、正直、驚いたというより情けなくなった。


 堅気の学生がいかにも不良っぽい奴らの前で気後れしたり、ビビったりするのはわかる。しかし、私の親友Eはカダギの前では威嚇するどころか、人懐っこく、オモロイ男を演じてくれるし、仲間内ではおちゃくられることさえある。だからこそ、舐められやすく、見知らぬ奴からいちゃもんをつけられては、仕方なくお仕置きすることになるわけで、相手からガンを飛ばされたり凄まれない限りは、自分から威嚇したり、喧嘩を売ろうなんていう気もさらさらない奴だった。

 なんだかんだいってもEは県立高校の生徒であり、大学生になって一人暮らししながら青春を謳歌したいという夢を持っていたので、暴力沙汰で停学や退学を食らえば、全てのライフプランが狂うことを恐れていた。そもそもEとS(福岡在住の親友)と私の三人は、大都会東京でのスクールライフを夢みていて、県立高校の受験直前まで関東圏の私立高校の問題集を取り寄せて勉強していたくらいだ(健闘及ばず三人ともバラバラの高校になってしまったが)。

 とどのつまりが、私の親友は憧れてヤンキーになったというより、自分にとって有害な目障りな相手を排除していっているうちに、周囲から祭り上げられただけのことで、二十歳過ぎて刑務所行きのハンデを背負ってまで喧嘩する奴は馬鹿、と公言していたくらいの平和主義者だったのだ。

 それなら普通の高校生らしい格好をして、真面目な生活をしていればいいのに、と多くの人は思うだろう。ところが、学校や警察などの権力に反発的で馴染めない若者は、常に同調圧力にさらされ、ストレスが溜まりがちである。そのはけ口となるスポーツや趣味を持っている人、周囲から学力や芸術的才能を評価されている人はまだしも、どれもが中途半端だと何か刺激を求めたくなってしまう。

 私は進学校の中では何をやってもパッとしない劣等生だったので、真面目な生徒より不真面目な生徒の方が価値観が合い、少々不良っぽくても面白そうな連中とは学校の枠を越えて付き合ってきた(ただし、カッコばかりつけて人間的な面白みのない不良とは一切関わらなかった)。

 ところが、Eはスポーツで社会人や大学から声がかかるほどの選手だったにもかかわらず、スポーツは単に推薦で大学に入るための手段と割り切っていて、努力や根性なんて大嫌いという、熱血スポーツ少年とは真逆のスタンスだった。だからフラストレーションをスポーツだけでは消化できず、常に面白いことを求めていた。水戸黄門ゲームもその一環だが、何より「喧嘩の猛者」というブランド力の大きさに目覚めたことが、普通の高校生よりヤンキーを演じている方が楽しいと思わせる要因になったように思われる。

 例えば学ラン姿にしても、高校入学前はあまり見てくれは気にせず、太めのズボンにスニーカー、髪はぼさぼさだったのが、人間知名度が上がると身だしなみが良くなるもので、足首を絞ったボンタンに黒の革靴、髪はチックで固めて身なりもぐっと良くなった。

 それまでは失恋の常習で、密かに心を寄せていた同級生の名前で私が偽年賀状を送っただけで、子供のように大喜びしていたEが、高校一年のゴールデンウィーク過ぎくらいに、私が紹介した某Fラン高校のスケバン姉ちゃんから惚れられて付き合ったのを皮切りに、ちょっとスレた女子から引く手あまたの存在になっていったのには驚かされた。

 その年の秋口だったか、県の高校総体の開会式の帰りに偶然、競技場の外で会った時にEが連れていたのは、明らかに不良なのだが、後年の高島礼子を彷彿とさせるイイ女で、そのアンバランスなカップルぶりに呆気に取られたことは今でもよく覚えている。あれほどイカしたヤンキー娘はこの時のEの彼女と、福岡の元族リーダーのWの彼女くらいしかお目にかかったことはない。

 やはりヤンキーでも人を惹きつける“お笑い系”は、女性まで虜にするのだろうか。


 禁酒法時代のギャングスターがハリウッド女優にモテたのと同様、ヤンキーでも売れっ子になると一部のヤンキー推しの女子から圧倒的な支持を受けていた。そのモテ方たるや、当時の堅気の学生には想像がつかなかっただろう。Eときたらイカしたヤンキー娘に飽き足らず、いつの間にやら私の学校で隠れファンの多かった優等生女子にまで触手を伸ばしていた。

 Eの全盛時代は複数の女子と同時に付き合っていたので、所詮はその中の一人という認識だったようで、在学中は私にもそういう話は一切せず、卒業後しばらくして、その女子と別れた後に、実はな・・と話をしてくれた。その女子は建築会社の社長の娘というセレブで、成績も国立大学クラスとあって、ファン男子にとっては高嶺の花だった(私の趣味ではなかったが)。

 よくもまあ見た目はヤンキーだったくせに深窓の令嬢口説き落としたものだと感心したが、なぜ別れたのかと聞くと、金がかかりすぎて無理とのことだった。高校時代はともかく、卒業後は何度も料亭に連れて行って、一晩に5万、10万と散財させられたので、さすがに撤収を決めたようだ。

 彼女は高校時代はむしろ地味で温厚な印象だっただけに、金ぴか趣味とヤンキー好きだったなんて、人は見た目によらないものだ。それにしても、ヤンキーといえどもハイブランドになると、これだけモテるというのはいい勉強になった。なるほど、そういう思いをした者なら、この世界から抜けられなくなるわけだ。

 それでも、高校卒業後は“伝説のヤンキー”なんて、所詮日本むかしばなしの世界になってしまう。見た目も堅気になって、ブランドステッカーも自ら剥ぎとってしまったEは、元の気の良いお笑い系の青年に戻っていた。

 あれほど女性関係は羽振りが良かったのに、大学卒業後に東京でEと再会した時には、「○○、誰か女紹介して」と懇願され、一人の知り合いのOLの電話番号を教えた。その後、職場を転々としたEとは音信不通になり、今日に至っている。

ブラックキャッツのオットーさんも逝ってしまった。オットーさんは私が学生時代に愛読していた鴨川つばめのギャグ漫画『ドラネコロック』の主人公泉屋しげると見た目もキャラも被っているようで愛着を感じていたので、本当に残念である。ちなみにしげるが副番長を務める暴走グループ「ワイルドキャット」は、暴力的というより面白可笑しく青春を謳歌したい連中の集まりで、こういう族なら一緒に走りたいと思ったものだ。

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