第2章 不登校生のGSXと下剋上
不登校の同級生から借りて乗ったGSXは、乗り損ねたホークⅢよりエッジの効いたデザインが格好良く、大いに気にいったのだが、私とGSXの蜜月は短かった。不登校生が高校を退学しなければ、もっとGSXと楽しい時間を過ごせたかもしれないという反省から、集団からあぶれた者はそこからどう振舞うべきか、今回はバイクからわが経験的いじめ対策論まで横道に逸れまくる。
ホークⅢとは縁がなかった代わりに、同じ高2の夏の終わりには、思いがけず最新のスズキGSX250に試乗させてもらう機会に恵まれた。
6月の修学旅行以降、不登校になっている同級生Tの陣中見舞いに、クラスメート3名と自宅を訪れたところ、母親から大変感謝され、夕飯までご馳走になったうえ、夕方からの集中豪雨(台風だったかもしれない)で帰宅困難になった私たちを快く自宅に泊めてくれた。
翌朝は早起きしたので、夏場にしてはまだ涼しく天気は晴天だった。バイク好きにとってはバイク日和といえるかもしれない。そろそろおいとましようとしたところ、Tが納屋からバイクを引っ張り出してきて、「ちょっと乗ってみらんか」というので、遠慮なく近所を流させてもらうことにした。
それがピカピカに磨かれたキャンディジプシーレッドのGSX250で、彫刻刀でえぐったようなタンクのラインから「KATANA」という別称もあったように、ホークⅢより洗練された感じがした。
Tは校区外からの通学生(母校は校区外受験生は足切りのハードルが高く、Tは入学時はそこそこの優等生だった)だったので、実家は高校からかなり離れた山間部にあり、全くといっていいほど人気のない裏道は信号もない山道が続いていた。おかげで早朝の木漏れ日を浴びながらの山道のツーリングは実に爽快だった。後ろのシートに一人乗せていたし、雨上がりの濡れた路面だったこともあって、カーブではスピードは控えめに走っていたが、急なカーブをゆっくり抜けてアクセルを吹かそうとした瞬間、目の前の道路が亡くなっているのが目に入り、二人して「うおおおー」とハモったものの、何とか急停止して事なきを得た。
初めて乗るGSXで車体も綺麗だったので、転んで傷つけたら悪いと思い、安全運転を心がけたのが効を奏したようだ。昨晩の豪雨で、車線のない道路のアスファルトが三分の二くらい剥がれて、谷に落下していたのだ。下手に景色に見とれたり、カーブで色気を出したりしていたら最後、この世とおさらばとはゆかないまでも、寝たきり雀になってしまった可能性は十分ある。
ホークⅡより重心が低いのか、GSXはバランスが良く加速感もまずまずで、いつかはGSXもいいなと思いながら帰路についたが、このカラーリングもおしゃれなGSXとは、不本意ながらこれが最後の別れとなった。
Tは夏休みが終わっても学校に出てくることなく、十月頃に自主退学した。それから約一年後、TがGSXで事故って右足首を失ったという噂が流れたが、受験勉強に忙しかった私たちは、その真偽を確かめることもないまま高校を卒業し、いつしかTのことは忘却の彼方に追いやられてしまった。
久々にGSXの記憶を辿っているうちにTのことを思い出した。六月の修学旅行には参加していたし、一緒に行動していたはずなので、修学旅行の写真を引っ張り出して探してみたところ、不思議なことに、クラスの集合写真を除いてはどの写真にも彼の姿は写っていなかった。
そうだった。私たちはTに写真を撮らせていたのだった。
携帯もチェキもない時代だけに、修学旅行は専属のカメラマンが帯同するのが当たり前で、クラスでもカメラを携行していったのは私とTを含めて4~5人だったはずだ。
私のカメラは高校の入学祝いに父から買ってもらった1981年製のオリンパスXA2だった。
XA2はグッドデザイン賞をとった斬新なフォルムのコンパクトカメラで、キャリーケースもレンズカバーも不要、外付けのストロボを外していればポケットに入るという利便性で若者に人気があった。
それから十数年後、職場にローカルテレビ局の取材が入った時、私が記録用にXA2を手にしていたところ、同世代くらいの局のカメラマンが「私もXA2持ってるんですよー」と話しかけてきて、しばらくXA2談義をしたほどの名機ゆえに、ちょっと脱線してカメラ自慢をさせていただいたが、インスタントカメラと違って簡易なレンジファインダーもどきのピントもついているので、写真もわりと鮮明で、高校の修学旅行では随分活躍したものだ。
もっとも私がずっとカメラマン役をしていたのでは埒が明かないから、私が被写体に入る時はTにXA2を託していたのだ。Tも自前のバカチョンカメラを持参してはいたが、学校には来たり来なかったりでアテにならないうえ、私が写っている写真は、旅行後に直ちに現像して真っ先に見たかったということもあって、基本、旅行中のショットは自分のカメラに収めることにしていた。
修学旅行中の写真班の仕事は、仲間との思い出作りだけではない。ロケーションの良いところでお気に入りの女子の写真を撮らせてもらうといういささかストーカーじみた行為も、重要な仕事の一つというか、カメラを持つ者に与えられた任務のようなものだった。
だからといって私は、色情狂のようにむやみやたらに女子を追いかけてシャッターを押したわけではない。シャイな男子諸君の熱いリクエストに応えて、指名された女子のところに交渉に行って撮影させてもらっていたに過ぎない。それでも全10クラスもあって女子はその半数近いのだから、自由行動の際に探し出すことができないこともあれば、仲の良い友人たちと盛り上がっている時は遠慮して頼みそびれることもある。そんな時は、引率教師たちの警戒網をかいくぐって女子の部屋に行き、旅館のロビーや階段のところまで連れ出して撮影していた。
被写体になってもらった女子も、その他大勢の中からセレクトされているわけだから、悪い気はしなかったのだろう。ほぼ全員快く応じてくれて、写りの良かった写真はマニアたちの秘めたるお宝となった。
その一方で、私は好みの女子の写真を一枚も撮ることができなかった。リクエスト分は第三者から頼まれたという気安さもあって、写真撮影の依頼にはさほど躊躇は感じなかったものの、自分のこととなるとやはり気まずい思いは禁じえなかった。結局、恥ずかしながら体育祭の時に、写真部の連中に望遠レンズで撮ってもらう(現像料もタダなので)という情けないことになってしまったのである(今なら準ストーカー行為か?)。
私のことはさておき、修学旅行中はTも開放的な気分だったのか、あちこちで女子を隠し撮りしていた。不登校気味だったTがこんなに朗らかにしているのを見るのは久しぶりだという思いもあって、暖かく見守っていたつもりだが、京都の銀閣寺で節操なくバシャバシャとシャッターを押していると、それを不愉快に感じた女子の一団から取り囲まれてしまった。
一人ひとりは温厚な優等生でも、集まると大阪のおばちゃん集団のような威圧感がある。
Tはお人好しで気弱なサラリーマンのような風貌だけに、舐められたのかもしれない。申し訳なさ気に女子たちに謝った後は、一人で風景ばかり撮っていた。
もう少しスマートに頼み込んで撮らせてもらえばよかったのに、と思ったところで後の祭りで、修学旅行終盤にきて急激にトーンダウンしたTは、この件をひきずって登校しづらくなったのか、修学旅行後はぱったり学校に顔を見せなくなった。
修学旅行に乗じて女子の写真を撮りまくるような奴だから、シャイで引っ込み思案というわけではなかったはずだ。自宅にはオーディオ機器やVTR編集用の機材もちょっとしたマニアレベルのものが揃っていたから、今ならユーチューブにでも投稿して、「いいね」をたくさんもらえば、もっと有意義な学生生活が送れたかもしれない。
多様性を認めることが常識化している令和の世とは違って、昭和はマニアックなオタクには生きづらい時代だった。そういうキャラのタレントがうけているからといって、現実社会で同じノリでいると、いじめやシカトなどの排除の対象となることも少なくなかったし、何よりインターネット回線のような通信手段がないため、ごく少数存在するはずの同好の士とのコンタクトも取れず、ただ孤立を深めてゆくだけだった。
ましてや昭和は同調圧力も半端ではないから、異端児は罵声、嘲笑、陰口などありとあらゆる言葉の暴力の集中砲火にさらされる。逃げ道は自宅での引き篭もりだけである。それが嫌なら、最前線で戦い続けるほかはない。
むろん多数派と闘うためには体力がいる。
正攻法で嫌がらせをしてくる奴には、“目には目を”“歯には歯を”で思い知らせるのも一つの手だ。
3年で同じクラスになりよくつるんでいたEは、兄貴が不良社会における相当な大物で知名度が高く、兄弟の顔つきが似ていることで兄貴と勘違いされることもあったが、弟の方は見た目はともかく暴力反対派で性格はまるっきり違っていた。
ちなみにさらに一人下に弟がいて、末弟は兄二人と容姿が全く違い、優等生だったので、長男だけがたまたま気性が激しいのかと思いきや、意外にも長男が一番のいじめられッ子だったのだそうだ。めちゃくちゃに気が弱いわけではなく、抵抗することもあったそうだが、なにぶん体格が小柄だったので、体力的にどうにもならず、ガキ大将やその取り巻きによる気分次第のいびられ役に甘んじていたらしい。
ところが、進学した中学は市内でも特にガラの悪いところで、女子の目を意識し始める思春期の少年にとって、3年間いびられ役を全うするのは絶滅収容所でナチの手先にこき使われるユダヤ人に等しかった。
そこでEの兄貴が、体格的なハンデを乗り越えて収容所の表玄関から堂々と出所する方法として選んだのが、ボクシングだった。近所に日本ランカーが所属するジムがあり、意を決して足繁く通ったところ、筋が良かったのかみるみるうちに腕を上げ、いつの間にか同じ中学で自分にちょっかいを出していた生徒全員をぶちのめしてしまったのだ。
練習も型と一撃のパワー重視の空手に比べると、スピードと手数重視のボクシングは、素人相手の喧嘩なら明らかに有利である。見映えのする演武にこだわる空手の攻撃バリエーションには限りがあっても、リードパンチの入り方からして何種類もあり、連打の組み合わせ、パンチに連動したボディワークも含めれば、試合中でも変幻自在に攻撃パターンを変えることができるボクシングは素人だと動きについてゆくだけでも一苦労だろう。
しかも生理学的な見地からすると、体重が重い筋肉質の者より体重が軽い小柄な者の方が敏捷なので、耐久力がプロとは段違いの素人相手なら、先に二~三発のクリーンヒットを顎や鳩尾などの急所に決めさえすれば、フライ級でもウエルター級くらいまでならKO可能である。
いくら馬鹿力があっても、空振りは体力を大幅に消耗するし、非力な人間のパンチでも急所を捉えればダメージは想像以上に大きい。破壊力抜群のパンチもキックも当たらなければ話にならないのだ。
ボクシングを会得したEの兄貴は、それから人が変わったような武闘派ヤンキーとなり、進学先の高校でも難癖をつけてくる連中を片っ端からシメてしまった。いじめられた経験がある者の方がいじめる側にまわりやすいとよく言われるが、それは個人というより集団による力に依存したものであり、個人でいじめを克服して、逆に相手を従えてしまう下剋上のような例は極めて稀であろう。
Eの兄貴は相手を叩きのめすことに快感を覚え、道を踏み外した格好になったが、いじめの克服例として、私は評価を惜しまない。過激な考え方かもしれないが、ウクライナ戦争を見てわかる通り、理不尽で自己中心的な独裁者と話し合いで平和を勝ち取った例はないのだ。
私が高校の友人Pから、他のクラスのちょっと気性の荒い奴からちょっかいを出されて困っていると相談された時は、Pと同じ部活動に所属し、中学時代は結構近隣で勇名を轟かせたUにボディーガード役を頼んで、一緒に下校するなどなるべく一人にさせないようにしたところ、いかにもヤバそうなUと親しいと思わせたのが効を奏して、一切嫌がらせはなくなった。
ちょうどその頃『マイ・ボディーガード』という金持ちのいじめられッ子の高校生が、家庭は貧しいが気が優しくて力持ちの同級生に報酬を払って番長連合から守ってもらうという映画が封切られていたので、ちょっとパクってみたのだが、意外と効果はあるものだと実感した。
この話を商業高校を仕切っていた親友のSにしてみると、「俺なら4~5万で、高校生なら誰でもくらわしてやるよ。いい商売になりそうやから、誰かおらんかな」と結構乗り気だったので、今なら闇バイトで募れば、表沙汰にならずにいじめっ子の方が排除されてゆくかもしれない。
暴力に暴力で応じていては、それが連鎖してゆけば何の解決にもならないと思っている人は常識人である。そういう人はえてして、古典的なやり方、すなわち出世して見返してやればいいのだという短絡的な意見を述べる傾向が強い。
確かに社会的地位の高さは、そうでない者にとって、時には威圧的な効果を示すこともあるだろうし、公安系のキャリアにでもなったら、宿敵が反社であってもいいなりにさせることができるかもしれない。
学習能力が極めて高い人ならこういう報復も可能かもしれないが、受験科目の学習能力に関しては、少年野球のエースで四番を集めて英才教育を施しても、そのうちの99.999%がイチローや大谷の足元にも及ばないのと同様、個人の資質とその都度求められる能力とのマッチングが悪ければ、努力したからといって報われるとは限らない。
最近サポート校などのキャッチフレーズでよく使われる「キャリアデザイン」という言葉に当てはめれば、勉強がダメなら、スポーツや芸術など、別の分野で人に負けないスキルを身に付ければいいということになるが、特殊性が高いものであればあるほど、とてつもないハイスペックな能力が要求されるため、それで他人を見返そうとしても、時間と費用がかかりすぎて無駄な努力で終りかねない。
ではどんな方法があるのか?
玉砕はもちろん論外だ。あんなものは宗教法人大日本帝国教団が流布したまやかしの美徳であって、俗にいう“死ね、死ね詐欺”だ。
人間は生きているうちが華なのだ。アメリカの捕虜になって虐待されようが、シベリアに抑留されようが、生き残りさえすれば、時の流れとともに世界は変わり、新しい価値観のもとでやり直すことが可能になる。
集団からあぶれて浮いていたとしても、歴史を見ればわかる通り、世界は必ず変化し、常識が非常識に、非常識が常識に変わった例など枚挙に暇が無い。ましてや現代は時代が移り変わるスピードが速いから、あっという間にスキンシップがセクハラになり、親睦会が労働時間外の理不尽な強要と解釈されることも多くなった。
だから現実逃避は正しい危機回避方法の一つといえるのだ。わざわざ嵐の中、危険を顧みずに家路を急ぐより、やり過ごした方が利口である。時間が解決することだって世の中少なくはないのだから、焦らず、家康のように自分の時代が来るのを待ち続けるのも悪くはないと思う。
人生九十年と言われる時代、一年や二年、人より遅れを取ったところで、盛り返す時間は十分にある。ただし、一時的リタイヤも無作為に過ごすのではなく、本を読むなどして教養を身につけるなり、思い立ったらすぐに何かを始められるよう、精神的にも肉体的にもあまり負担にならないような単純作業のバイトをイレギュラーでするなり、最低限の将来への投資はしておくにこしたことはない。
現実逃避は、経済的に許せば引き篭もりもありだし、ネットで見つけた同好の士とメタバースなどの仮想現実に身を寄せるのもありだろう。ただし、現実逃避が長期に渡った場合、浦島太郎状態になり、その時の社会に順応できない人間になってしまうことを恐れるがゆえに、シェルター生活を拒む人だっているはずだ。
そうは言っても一人は微力である。ましてや何の取り得も無ければ、人間は残酷な生き物だから、ストレス発散に起因する攻撃の方向性は弱者に集中する。そしてその矛先をそらす方法は徒党を組むことしかない。
一対一どころか一対十でもミツバチに対して圧倒的な優位性を持つスズメバチがミツバチの巣に侵入すると、何十匹ものミツバチの集団がスズメバチに群がり、体温を上げて蒸し焼きにすることをご存知だろうか。
学校や職場でやっかいな奴がいるとしても、客観的に本当のクズならそう友達がいるはずもないから、集団になったところでたかがしれている。二十人の前でせいぜい四~五人の男が凄んだところで、常識的に考えて、十人一組で一人に襲い掛かり、一人ずつ潰してゆく戦略をとられたら、最後はスズメバチと同じ運命をたどるのは目に見えている。
私が前章で紹介したエピソードのように、二十人のうち半数が喧嘩などしたこともないような戦力外の真面目な生徒でも、二対二十というのは少数にとっては脅威の数字であり、闘わずして匙を投げるのが現実である。もし格闘技の達人相手でも、二十人がまず一人を狙って投石すれば、ものの数十秒で一人は必ず戦闘不能になり、その間にもう一人が五~六人片付けていたとしても、石を手にした残りの十数人相手に本気でやりあえば、重傷を負うか死ぬのは自明の理だ。
理屈はわかっても、どうやって仲間を募って徒党を組めばいいのか。それは、人間は共通の利益目的のためなら性格的に合わない者同士でも協力し合える、という自然界でも例を見ないほどいい加減な動物なので、その本能の奥に潜む冷酷性も加味すれば、腕力に幅を利かせた悪党をみんなでやりこめよう、みたいな勧善懲悪的な話には比較的食いつきやすい。どこかのTV局のような大企業で会長や社長を追い落とすクーデタが起こるときは、非主流派で冷や飯こそ食ってはいても、反抗心旺盛で行動力抜群の策士が何人か徒党を組んでいるはずだ。
高校時代は品行方正な優等生だった連中が集まったエリート企業でも、下剋上を厭わない連中はいくらでもいることを考えれば、「反逆者=道徳的に悪」という方程式など成り立ちはしない。
逆にクーデタを否定する連中は、既得利権を手放したくない差別主義者で、本心では自分たちも分不相応な地位にいることを自覚しているがゆえに、クーデタのような転覆劇を「卑怯なやり方」と印象付けることで、現状変更を望む者たちを抑圧したいだけなのだ。
昭和五十年代にハリゲーン・テルという沖縄出身のボクサーがいた。テルは幼少期より女の子より足が遅く運動音痴だったこともあってか、ボクサーになっても怪我や病気でなかなか目が出なかったが、実直なまでに磨きをかけた職人芸の左ジャブが人生を切り開き、日本バンタム級チャンピオンを経て二十九歳の時、歴代バンタム級十傑に選ばれることもあるほどの強豪ルペ・ピントールとの世界タイトルマッチにこぎつけた。テルのジャブはリングで相手をKO死させたこともあるピントールを苦しめながらも、最後は最終十五ラウンドに壮絶なKO負けを喫したが、この試合は海外のプロモーターからも絶賛されている。当時のピントールはまさしく、“怪物”級の強さだった。温厚で弱々しかった少年が、二十年後にはそんな“怪物”と十五ラウンドに渡って殴り合える男になれたのだから、Eの兄貴がそこら中の不良高校生を病院送りにしたところで、そんなのは伝説でもなんでもない、ごくありきたりの話に過ぎないのだ。