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不良とバイクと煙草のけむり  - わが自虐的青春譜 -   作者: 滝 城太郎


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第11章 ラストダンスは私に

私が社会人になり、マリアクラブという天神西通りにあった東洋一のディスコに後輩を連れて行った時、後輩はビギナーだったので、ちょっと気を利かせたつもりで、同じフロアにいたコロンビア人の十九歳の少女に声をかけて、一緒にチークを踊ってあげてくれないかと頼んだところ、快く承諾してくれた。後輩は「一生の思い出」と喜んでくれたが、下手に目覚めさせてしまったのか、数ヶ月後に未成年強制猥褻事件を起こし(父親の友人である有力者の力添えで示談が成立し不起訴に終わった)永久に私たちの元から去ってしまったのが心残りではある。

 ディスコデビューは高2の夏で、期待しながら飲んだ初めてのビールが苦かったのと同じような思いをしたが、大学に入った頃は、福岡市内のディスコはどこも活況を呈しており、所詮は地方都市に過ぎない大分市とは全くの別世界だった。

 私の高校の頃の大分市は、夜遊びしようにも8時くらいから繁華街の店がどんどん閉まり始め、午後9時を過ぎても人通りが多いのは、都町という飲み屋街と府内町の映画館が並ぶ通りくらいのもので、週末に大通りから裏通りまで若者が溢れかえっている福岡とは雲泥の差だった。

 大手予備校が二校ある親不孝通りから天神までは、予備校生活でストレスが溜まった浪人生を中心に盛り上がり、逆方向から天神に向う西通りはちょっとお洒落なアダルト系男女がデートを楽しんでいるというイメージが残っている。

 西鉄天神駅の裏手に、昔は大相撲九州場所の会場だった巨大なスポーツセンターそびえていて、そこにはスケートリンクもあったが、天神に集う若者の目的はたいてい居酒屋かカフェバー、ライブハウスで、ディスコもラジオシティという小規模なものが一軒だけしかなかったと記憶する。

 そこをいくと、中洲は飲み屋街ではあっても、私たちが学生の時分は、土曜の夜ともなると、まるで学生運動でもしているかのように、大学生くらいの年齢層の男女が中洲大橋から中洲川端あたりまで、ぞろぞろと練り歩いていた。その一部が吸い込まれてゆくように列をなすのが、那珂川沿いの城山ホテルの二階にあったCATSキャッツというディスコで、会員なら入場料が500円とリーズナブルなのが魅力だった。

 中は立食制のフリードリンクで、サンドウィッチやフライドポテトのような軽食も出たので、腹を空かせた貧乏学生にとってはちょっとした夕食代わりにもなった。

 CATSは現在のクラブなどと違って、黒服が入り口に立って柄の悪い連中の入場を断っていた。おかげで、客層は非常に良く、若いサラリーマンにOL、大学生がほとんどだった。大分時代からの親友で同じ大学に通っていたNだけは、アフロ風パンチパーマに半パンというお目出度い格好での入場が許可されていたが、これは黒服の一人が顔見知りだったことによる例外的措置だったに過ぎない。

 みんな行儀が良く、ナンパ目的で踊りに来るような下品な奴もいなかったので、大人の社交場のような雰囲気だった。だからといって、ただ汗だくになってはしゃいでまた来週では芸が無い。ラストナンバーの前にスローなバラード系が一曲入るチークタイムが、格好をつけたい年頃の若造にとっては土曜の夜のハイライトだったのだ。

 チークタイム前に一旦音楽が止まり、DJがパートナー探しを促すと、男性は好みの相手を見つけたら、一緒に踊ってくれるようお願いするのだ。もちろん、女性を暗がりの中で女性をみつくろっているうちに音楽が始まってしまうこともあれば、「ごめんなさい」の一言で幕引きということもある。

 通常、カップルになってフロアでチークを踊っているのは10~15組くらいだったような気がする。

 チークタイムの時はカップル以外は円形のフロアから出て、ドーナツ状に彼らを取り囲むような形になるが、フロアがカップルでぎっしりだったという記憶はない。むしろ少数の果報者を少し離れたところから羨ましげに眺めているという構図ができており、フロアの内側と外側ではベルリンの壁が立ちはだかっているかのような温度差があった。

 私も何度か若いOLとチークタイムを共有する機会に恵まれたが、それは束の間のシンデレラタイムとわかっていても、半端ない優越感を味わうことができた。そこで初めて会ったお気に入りの女性と完全に密着して、抱き合うようにステップを踏むという所作は、高校時代までのフォークダンスとは次元の違う、大人の遊びだった。

 踊り終われば、「ありがとうございました」とお礼を言ってさらりと別れるのが礼儀で、電話番号や名前を聞いたり、閉店後にバーや屋台に誘うのもタブー視されていた。それが大人の社交場のルールだと自分も思っていた。おかげで私は踊った相手の名前を聞いたこともなければ、誰一人として再会したこともない。

 暗がりで頬を寄せているのだから、相手の顔を凝視する機会もないし、OLは大抵薄化粧はしていたことを考えると、陽光の下ですっぴんで出会ったら絶対わからないだろう。そんなかりそめの時間でも、バーチャルリアリティでもなければ、出会い系でもなく、まさに偶然が重なって互いに見知らぬ男女が一時的に時空を共有した現実なのだ。

 3分から5分程度のチークタイムの方が、恋愛に発展することのなかったデートよりはるかに印象深いのは、それが限られた者しか堪能できない時間だという認識があったからだろう。

 パンチパーマのNにチークダンスの機会が訪れなかったのは言うまでもない。


 チークタイムの余韻もそこそこに、ディスコの閉店時間と同時にかぼちゃの馬車から降り立った私たちの前には、西大橋から天神方面まで一直線に続く、長い長い明治通りが広がっていた。

 ディスコ通いをしていたレギュラーメンバーは、私も含めて城南区の別府、田島にヤサが集中しており、その時間帯には最終バスも出てしまっていたので、貧しい私たちはそこから徒歩で帰るしかなかった。

 チークタイムを満喫できた日は、酒も飲んでいないのにご機嫌で、長い帰路もレッドカーペット気分でいられたが、目ぼしいダンスパートナーが見つからなかった日や交渉が不成立に終わった日はインパールの敗残兵の行列さながらで、家の灯りが遠かったことを思い出す。


 ディスコ通いはストレス発散のための遊びに留まらず、別の側面も持っていた。

 インターネットがない時代に洋楽の情報をいち早く手に入れるには、紀伊国屋などの洋書を置いている書店でビルボード誌を購入するか、FMでアメリカントップ40を聴いて新譜をチェックするかしかなかった。

 もちろんテレビの深夜番組などで洋楽のミュージッククリップが紹介されることもあるが、それはアメリカやヨーロッパでヒットチャートの上位を賑わすようになってからの話であり、洋楽通を気取るなら、日本でレコードが発売される前のメジャーなアーティストから期待の新人の新譜をエアチェックして聴き込んでおく必要があった。

 高校から福岡在住の親友Sは早い時期から洋楽にはまっており、大学時代は私と同じアパートに住んでいたので、Sのおかげで流行歌にも詳しくなったし、英語を読み、聴く機会が増えたことで大学での英語の成績が上がり、大学院の英文科に進むきっかけになったのだから、まさしく「好きこそものの上手なれ」である。

 ついでに言うと、大学院時代のオクスフォード大出身のイギリス人教授は、セックス・ピストルズがイチオシのパンク好きでとてもウマが合い、修士論文を書く際もどちらかと言えば不仲だった主任教授そっちのけでお世話になった。

 勤勉だった同級生が留年したのを尻目に、バイトで多忙だった私が論文発表と審査を切り抜けられたのは、そのイギリス人教授のおかげだと今でも感謝している。


 社会人になってからも、勤務先の上司たちとの旅行でバンコクに行った時に、夜は年寄りたちとは別行動でディスコで現地の若者と弾けられたのは、ある程度踊ることができたからだし、ボランティア通訳を務めていた上司の代理でユニバーシアード福岡大会の女子柔道のフェアウェルパーティに出席することになった時も、立食パーティ後に海外の女子選手たちと連れ立って当時“東洋最大のディスコ”と言われた「マリアクラブ」に繰り出して、“踊り”を通じた異文化コミュニケーションを楽しめた。

 マリアクラブでは日本人選手もスタッフも萎縮していたのか、一人もフロアで踊ろうとせず遠巻きに観ているだけで、気がついてみると周囲は外国人の女子選手ばかり。これが日本人女子なら両手に花といったところかもしれないが、欧米人は日本人とリズム感が違うし、踊り方もダイナミックなので、むしろ圧倒されてしまった。

 ましてや柔道着姿の時は表情も険しく近づき難い雰囲気なのに、私服姿となると結構露出度が高いうえ、踊っている時の距離感も近いので、目のやり場に困ったことを思い出す。

 暴走族から手ほどきを受けたディスコダンスが、進学、就職にまで微妙な作用をもたらし、三十路を過ぎても外国人女性に囲まれてフロアで踊っているなんて、人生とは摩訶不思議なものである。

 

 やがてディスコブームは終り、マリアクラブも解体されてしまった。その後、「クラブ」という名でバブル期ほどの規模ではないにせよ、いわゆるダンスブームは復活したが、福岡の場合は違法薬物の取引の温床となったり、ナンパのメッカになったりと随分不健全な娯楽の場になってしまったようで(全てのクラブがそうとは言わないが)、少なくとも今は日本のクラブには全く関心がない。

 バブル期の弾け方は、平成生まれの方々に言葉で伝えるのは困難だが、阿部寛と広末涼子が主演した映画『バブルでGO!』(2007)を御覧頂ければ、その一端を疑似体験することができると思う。

 あと音楽も現在の流行とは違うので、テイラー・スウィフトやレディー・ガガ世代にとっては時代遅れに感じるところもあるかもしれないが、荻野目洋子の『ダンシング・ヒーロー』(原題 Eat you up)がいまだにストリートダンスなどで踊られていることを考えると、踊る目的の楽曲という意味ではバブル期の曲は時代を超えた不変の魅力があるのかもしれない。

 というわけで、最後に’80年代のディスコを盛り上げたヒットチューンを紹介して第11章の締めくくりとしたい。同じ時期を過ごしたご同輩の皆さんには、Youtubeで懐かしんでもらえれば幸いである。


 第1位 ブレイク・ミー (原題 Break me into little pieces) /ホットゴシップ 1983年

     

 ‘80年代にディスコ通いをした方々でこの曲を知らないのはモグリといっていいほどの名曲で、ラストナンバーとして最後に盛り上がりを見せた。ディスコでは12インチのロングバージョンが流れ、サビのコーラスのところ(Break me into ~)でみんなで腕を振って音頭を取っていたのが懐かしい。この曲が終わると、祭りの終りのようななんだか寂しい気分になったものだ。


 第2位 シー・バップ (She Bop)/シンディ・ローパー 1984年


 木造モルタルアパートの隣に暮らす社会人かプータローらしき男が、目覚まし時計変わりに大音量でこの曲をかけていたので、次第のこの曲に洗脳されてしまい、いまだにカーステのUSBの中に入れている。ディスコの12インチバージョンはシングルとイントロが全然違っていて、こちらの方が数段よい。ディスコでは福岡のオリジナルかどうか不明だが、サビのところだけみんな同じ振りで踊っていた。


 第3位 ビーツ・ソー・ロンリー(Beats so lonely)/チャーリー・セクストン 1985年


セクストンは当時16歳で、日本の歌番組にも出演していたが、雰囲気も声も大人っぽくクールで、カッコイイ曲だった。イントロのギターリフで踊る気分をそそられた。


 第4位 ギャンブラー(Gambler)/マドンナ 1985年


 ‘80年代のマドンナを知る音楽ファンなら、カリスマ性、存在感ともに彼女を超える女性ロックボーカリストは頭に浮かばないのではないだろうか。スキャンダラスで挑発的で肉欲的で、ロックを歌うマリリン・モンローといってもいいほどだった。最大のヒット曲は「ライク・ア・バージン」かもしれないが、ディスコでの盛り上がりは疾走感のある「ギャンブラー」か「ドレス・ユー・アップ」、楽曲の良さでは「ライク・ア・プレイヤー」というところだろうか。チークタイムは「クレイジー・フォー・ユー」で決まりだった。


 第5位 ユー・スピン・ミー・ラウンド(You spin me round)/デッド・オア・アライブ 1984年


  カルチャークラブの二番煎じと思いきや、結成はこちらの方が一年早かった。ボーカルのピート・バーンズはボーイ・ジョージよりパンクっぽく、曲調もアップビートで、とにかく一曲踊ると疲れる曲だった。


 第6位 ヘッド・オーバー・ヒールズ(Head over heels)/ゴーゴーズ 1984年


 十代の我々にとっては、ボーカルのベリンダ・カーライルをはじめとするメンバー全員が“ガールズバンド”というより“年増のおばちゃんバンド”のように見えたが、歯切れのよいビートがディスコダンスにマッチしていた。


 第7位 カム・ゴー・ウィズ・ミー(Come go with me)/エクスポゼ 1986年


 当時流行した典型的テクノポップだが、同趣向のステイシーQやシーラEより、エクスポゼの3人のお姉さんの方が身のこなしも洗練されていて都会的な香りがした。ゴーゴーズが年増のおばちゃんバンドなら、こちらは歌う高級ホステスの趣きがあった。


 第8位 パーティー・オール・ザ・タイム(Party all the time)/エディ・マーフィー1985年


 エディ・マーフィーは当時大人気のコメディ俳優だったが、ディスコソングもなかなか堂に入っていて、この曲がかかるとディスコでもみんな大盛り上がりだった。アメリカの高校の卒業パーティーみたいな派手な舞台だともっと引き立つ曲である。


 第9位 シェイク・ユア・ラブ(Shake your love)/デビー・ギブソン 1987年


 当時のアイドル系歌手だが、ぶりっ子系のティファニーより躍動感があって、岡安由美子(古いか?)を彷彿とさせるルックスと身のこなしが印象に残る。ディスコビギナーの女子向けの曲。


 第10位 恋におぼれて(Addicted to love)/ロバート・パーマー 1986年


 クールなミュージッククリップが大きな話題になった。後にデュラン・デュランのメンバーとパワーステーションというバンドを組んでリリースした「サム・ライク・イット・ホット」もミラーボールがきらめくディスコの喧騒に合う名曲だったが、こちらの方がアダルトな雰囲気があって大人の世界にどっぷりと浸れた。


 第11位 さまよう恋(Ways to be wicked)/ローン・ジャスティス 1985年


 ベルリンの壁崩壊直前にスイスに行った時、ジュネーブのリギホフホテル(今でもなぜか覚えている)の受付のお姉さんがボーカルのマリア・マッキーそっくりで、「これが欧米人の美人の美しさか」と思い知らされた思い出がある。ゆえに忘れ難い曲になっている(天空から墜ちてきた天使のようだったマリア・マッキーは、あっという間に老けてしまい、今の思いはTime was not tender for herである)。


 第12位 ストレイト・アップ(Straight up)/ポーラ・アブドゥル 1989年


 そろそろディスコ熱も冷めかけていた頃の曲だが、FMで初めて聴いた時からハマってしまい、まだ邦盤が未発売の頃に輸入店で洋盤で購入した。やがて日本でも大ヒットしてディスコでも定番になった。


 第13位 思い出に抱かれて(Could’ve been)/ティファニー 1988年


 アメリカのぶりっ子アイドル、ティファニーの名をポップス史に刻んだラブバラードの超名曲。歌詞は英語の時制の例文として役立った。か弱そうに見えた彼女が数年後にはムチムチになってPB誌でヌードになったのには驚かされた。


 第14位 ウォーク・ライク・エジプシャン(Walk like an Egyptian)/バングルス 1986年


 最も成功を収めたガールズバンドとして知られ、この曲もビルボード年間1位になった名曲だが、なんとなく踊りにくかったという印象がある。もちろん聴くぶんには最高で、個人的にはベーシストのマイケル・スティールの大ファンだった。


 第15位 ロックバルーンは99(99 Lufballons)/ネーナ 1983年


 とても珍しい西ドイツ産のポップロックでディスコでのノリも良かった。同時期に同じドイツ人のTacoが「踊るリッツの夜」をリバイバルヒットさせ、ドイツのミュージックシーンが注目を浴びたが、ネーナの方が斬新で、何より日本人受けした。当時23歳のネーナは中卒の人妻だったが、全くそんな風には見えず、みんな騙されていた(と思う)。


 第16位 スウィート・ドリームス(Sweet Dreams)/ユーリズミックス 1983年


 中性的なアン・レノックスが淡々と歌う幻想的な曲で、余韻がずっと耳に残り、結構癖になる。一般受けしたのは2年後にリリースした「ゼア・マスト・ビ-・アン・エンジェル」の方だが、スウィート・ドリームスを初めて聴いた時の衝撃は忘れられない。


 第17位 ジーズ・ドリームス(These Dreams)/ハート 1985年


 ガースズバンドとしては老舗で、三十路半ばのおばちゃんたちがギャル風にキメているという出で立ちだったが、バラードとしては’80年代を代表する名曲だった。ボーカルのアン・ウィルソンおばさまもそろそろ喜寿である。 


 第18位 見つめていたい(Every breath you take)/ポリス 1983年


 1983年のビルボード年間1位に輝いた不滅のバラードで、チークタイムの定番曲の一つだった。私たちがディスコ通いをしていた頃は、ボーカル兼ベーシストのスティングがソロで活動しており、ソロアーティストとしての知名度の方が高かったような気がする。スティングファンの友人に誘われて海の中道海浜公園の野外コンサートに出かけたが、会場が広いうえ人が多すぎて顔の判別もつかなかった。立ち見席で¥3000だった。 


 第19位 夢みるトレイシー(They don’t know)/トレイシー・ウルマン 1984年


 アメリカの人気司会者が副業で歌ったところ大ヒットしたバラード系ポップスの佳曲。同時期にウルマンがジャッキー・デシャノンをカバーした「ブレイク・ア・ウェイ」は’60年代風のロックビートで、踊るといい運動になった。


 第20位 ビーナス(Venus)/バナナラマ 1986年


 言わずと知れたディスコでのお約束曲だが、オリジナルのショッキング・ブルーの方がイントロも歌も格好いいので、バナナラマ盤は個人的には物真似の域を出ないと思っている。ルックスもエクスポゼのアン・カーレスやジョイア・ブルーノの方がセクシーだったので、ビジュアル的な印象も薄い。   


  番外 ホット・ジェネレーション(Hot Generation)/パンドラズ 1984年


 残念ながらディスコでは一度も聴いた覚えがないガールズパンク曲だが、’80年代の全ての楽曲の中では一番のお気に入りである(1967年の男性バンドのリメイク曲である)。ボーカル兼ギターのポーラ・ピアースがぶっ飛んでいて、ネジの外れ加減もセックスピストルズのシド・ビシャス風でよい。脳の血管がブチ切れて早逝したが、それもまた格好良くて、スケバン姉ちゃんたちの教祖的存在感に魅入られた若い衆も少なくないはずだ。


CATSはフロアも広く男女混合という感じだったが、そこから中洲川端商店街方面に向うと、フェニックスという女性客が多い小規模なディスコがあった。ここは女性はフリーパスでも、男性は女性連れでなければ入場できないという決まりごとがあり、大抵男同士でつるんでいる私たちには鬼門だった。ナンパするか、形だけカップルになってくれと通りがかりの女性に頼み込むという手もあったが、何となくみじめったらしいので、ここだけは行かず仕舞いだった。ディスコは色んなことを忘れて弾ける場だったので、正直、女性の友人たちと一緒に行くことさえはばかられた。高級クラブやスナックに彼女連れで行くのはヤボなのと同じである。

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