第10章 チョコとギターと女の子
薬と賭博と女は堕落の象徴であって、不良の象徴ではない。不良の三種の神器は、酒と煙草とバイクである。イイ女から四六時中追いかけられるくらいモテるのだったら、好き好んで不良になる奴なんていないだろうし、競馬場や競艇場で馬券や船券握り締めて盛り上がっている不良学生を探すのは野性のカウウソと出会うようなものだ。檻行きの特急券である薬は論外(檻の中では品行方正を強要され、ツッパるどころか愛玩犬を演じなくてはならないからだ━ある法務教官談)だから、不条理でやるせない現実から逃避するためには酒と煙草とバイクが必要なのだ。ただし、私はあまり酒はやらないから(酒盛りには随分ご相伴させられたが)、酒の代わりはいつまでたっても上達しないギターだった。
高校時代までのバレンタインデーにはろくな思い出がない。
小学校の頃は、恋愛感情が未熟なので、小学生にしては大人びていたり、容姿が端麗な子にチョコが集中し、毎年チョコを貰う子というのが決まっていたので、「あいつ、いいなあ」とは思いながらも、山本直純がCMをやっていた森永エールチョコレートと福岡産のチロルチョコレート以外は、チョコレートというお菓子にあまり執着がなかったこともあって、チョコを貰うの貰わないのということへの関心は比較的希薄だった。もちろんガキ大将を中心とした悪ガキ連には全く無縁の行事ごとだった。
ところが恋愛意識が芽生えてくる中学生になると、容姿に恵まれた生徒ばかりではなく、スポーツで目立つ生徒や、個人的にパートナーがいる生徒など、バレンタインチョコを貰う側の男子も多様化していった。小学生までの選ばれし男子のみの特権が、庶民にまで拡大していったのだ。
まあ、中学二年まではチビだったし、何か取り得があるわけでもないしで、バレンタインチョコが自分の前を素通りしていったからといって、それほどの焦りはなかったが、女子と付き合うどころか、デートさえしたこともないまま高校に突入しそうになった時には、もてるもてないという以前に、自分は女子から嫌われるタイプなのかもしれないと本気で思い始めていた。
小学校高学年の頃、ちょっと気が強いクラスのリーダー的存在の女子Lに好意をもっていたことがあるが、当の本人から遠足の時に何かの拍子に「あんたなんか大嫌い!」とののしられた時のことは、今でもはっきり覚えている。
何か悪さをしたわけでもないのに、そこまで言われるということは、よほど生理的に受けつけられなかったのだろう。それでも言われた方からすれば、存在そのものを否定されている気がして、せっかくの遠足が台無しというくらい落ち込んだが、私も結構楽天的なので「あいつの人生ピークは小学生の今だけで、そのうち誰からも相手にされなくなるさ」と思いこむことにし、やがて時間とともに屈辱感も薄れていった。
それから三、四年経っても異性運に恵まれなかったことで、封印した過去の嫌な思い出のタイムカプセルに亀裂が生じ、もはやこれまでかと観念した矢先に、親しい同級生経由で、クラスでは一番目立っていて人気のあった女子Cからの好意を伝えられた。
それまでの人生における最大のサプライズだった。よりによってLと同じ名字だったが、小学生の時に私をののしったLよりは明らかに美形だったので、「ざまあみろL!」という心の中の叫びとともに、私は「女人禁制」の注意書きを貼られた独房から解放されたのだった。
恋愛には運もあり、とりわけ女性は気まぐれで、恋愛の方程式など存在しない。だからこそ、運命的な出会いや、予期せぬモテ期が訪れたりという奇跡が頻繁に起こるのだ。
ましてや、小中学生など大人から見たらピヨピヨ同然である。醜いあひるの子に見えたものが白鳥や鷹に成長することだって珍しくないのだ。逆に可愛らしい雛が土鳩だったりもするわけで、中には鳥類のくせに何度も脱皮したあげくに、老域に入った頃にいい感じに渋くなったり、一部の政治家や研究者のように輝きを増す者もいるのだから、異性からのモテモテレースは、一万メートル走の最後の一周と同じくらい先が読めない。
実はCから好意を伝えられたまさにその日に、何日か前にデートを申し入れていたTという女子からも承諾の返事をもらっていたのだ。
盆と正月が一緒にやってきた。が、正直、結構悩んだ。
Tは温厚な優等生タイプで、性格も癒し系だっただけに、「長く付き合うなら、一緒にいると心が和むTだ」と心の中の善の神アフラマズダは訴えていた。しかし、Tとはそれまであまり話したことがなく、交際に発展する保証もない。
その点Cは、伝達使となった同級生からは、「付き合うかどうかはお前次第」という事実上のお墨付きをもらっていたうえ、人気がある子ゆえにステイタス性も高いと考えた。
愚かな私は、悪の神アーリマンの口車にのって他人からの見てくれを気にしてCを選んだところ、Cにとって私との交際は理由なき衝動のようなものだったらしく、別れは超特急でやってきた。
Cからもらった情熱的な便箋の束も、書き損じの小説に過ぎなかったのだと思うと、哀しいという気持ちを通り過ぎて、無慈悲なまでの感情の移り変わりの速さに「アッパレ」をあげたいくらいだった。
この時の愚行が原因で私は男を下げ、Tからも冷めた目で見られるようになったことはいうまでもない。
学生時代の恋愛はギャンブル性も高い。
お互いが恋愛の先に結婚などという荘厳なゴールも想定していないので、遊びでの付き合いだって辞さないし、恥も外聞もなく、数撃ちゃ当たる式のイタリア人気質のラブゲームだって許容範囲にある。
もちろん、ついていない時はいくら派手にぶっ放しても、まったく命中しやしない。女性に対しては失礼かもしれないが、「至近距離で話をするのは、容姿的にこれが限界」というところまで理想を目一杯下げたにもかかわらず、全く相手にされず、「この程度のやつからシカトされるなんて、末代までの恥や」と怒りに震えることもあるかと思えば、客観的に自分とは不釣合いなほどハードルが高く、二の足を踏んでいた相手から積極的にアプローチされることもある。
なぜそんなことが起こるのかわからないから、恋愛はある種のギャンブルだと思うのだ。
一目会った時からお互いが魅かれ合っても、どちらかにパートナーがいれば、略奪愛という修羅場を潜り抜けない限りは、その恋愛は成就できないし、たまたま相方と別れたばかりで、傷ついた心の傷を癒してくれる相手を渇望している場合は、恋愛のストライクゾーンは草野球並にいい加減なものになりがちだ。
これらのことを全て割り切っているからこそ、恋する男女は度重なる失恋や別れにもめげず、新たな恋の始まりを期待してポジティブに人生を謳歌できるのだろう。
ただ要注意なのは、男女どちらかの気まぐれによるビギナーズラックで、これでモテると思い込んだら最後、大抵はカジノや競馬で身包み剥がされるのと同じような目に遭うのがオチだ(せいぜい貢がされるか、相手の気を引こうと大枚を叩いた服装、アクセサリー、車などが全く無駄に終わること)。
知的な生物であるがゆえに、失敗経験から学び、微修正してゆくのが人間である。
だからこそ中学、高校までスポーツで目立っていたり、容姿が格好いいという理由だけでモテていた連中が、経済的生産性で評価される機会が増大する社会人になったとたんに、学生時代まで女っ気がさなそうだった真面目人間と立場が逆転してしまうことだってさして珍しいことではないのだ。
中学、高校までは金持ちのぼんぼんやお譲であることは、異性からモテる要素の中ではほんのわずかなパーセンテージしか占めていないが、大学生、社会人へと年齢を重ねてゆくにつれ、そういうポテンシャルは値上がりを続ける金のように希少性を増してゆくものだ。
それがわかっている奴らは、恋愛とは無縁な思春期を送っていても、お楽しみは後回しにして脇目もふらずに東大一直線で突っ走ってゆけるのだろう。仮に医大生ともなれば、早慶やMARCH(明治、青学、立教、中央、法政のこと)ブランドの学生などお呼びじゃない世界に特待チケットで入ってゆけるのだから。
東京で医療系の大学、専門学校の合コンを仕切っていた友人Vによると、いいところの女子大生や看護学生からのリクエスト1位が医大生(医学部医学科)だという。
高校時代までは全く女子から相手にされなかったにもかかわらず、合コンに参加すると今まで絶対手に届かないと思っていたような女子から猛烈にアプローチされるのも、医大生ならではの怪奇現象で、この世界では特段珍しいことではない。
やはり女性氷河期が長かったせいか、急に訪れたモテ期に舞い上がり、手当たり次第に女に手を出したあげくに、まんまと実は元ヤンのイケイケ系OLのハニートラップに引っかかる医大生もいないではないが、中には理由もなくモテることに不安を感じ、かえって女性不信になる者もいると聞く。
根が真面目で頭も切れる学生なら、女性が何らかの意図を持って自分に接近してきていることくらいはお見通しである。中には医大生という身分を偽って薬学部生ということで合コンに参加させてほしいとVに頼んできた医大生もいたという。幸いその医大生は、薬学部生と思い込んだまま自分と交際してくれたパートナーと無事ゴールインできたそうだが、医学部合コンの実態を聞いた時は、モテ過ぎるのも良し悪しだと思ったものだ。
高校時代の私には医学部など全く考慮の外だったが、高校のブランド性は異性受けする要素の一つだとは意識していた。なにもこれは私だけの思い込みではなく、同じ高校や同ランクの高校に進学した友人たちの一部も認識していたことだ。
こういう認識を持つか持たないかは好きな女性のタイプにもよる。例えば、‘80年代なら三原順子や工藤静香のようなヤンキー系、松田聖子、中森明菜、小泉今日子といったヤンキー好みのアイドル系、石野真子、河合奈保子、柏原よしえなどのかわい子ちゃん系なら、どこの学校でもそれなりに出会う機会はあるかもしれない。しかし、宮崎美子、薬師丸ひろ子、岡田有希子あたりのインテリ系となると、生息圏はそれなりの進学校に限られる。
私は今でも昭和五十五年に本人から直接貰ったサインをいまだに後生大事に取っているくらい宮崎美子の大ファンだったこともあって、インテリ系への憧れの気持ちが強かった。
中でも宮崎美子は、これまでの人生で出会った中で最も輝いて見えた女性である。しかも熊本の高校に転校するまで大分市内の進学校に通っていたという準地元人というのも嬉しかった。また、偶然ながら、私の高1の時の英語担当の新任女教師が宮崎美子と同じ高校の出身で、高校時代からもてていて、その時は医者の子弟と付き合っていたという小ネタまで教えてもらった。
高校進学後の話はさておき、宮崎美子は中学時代は県下トップクラスの秀才だったという都市伝説もあり、健康的な才女に出会って有意義な青春を送るには、なんとか進学校に転がり込まねばという思いから、夜なべして分厚い問題集に取り組み、第一希望の高校にパスすることができた。
入試の時、受験生の案内などをしていたその高校の女子高生たちが、とても高貴に見えたことが懐かしい。
ところが、現実は甘くなかった。部外者の時は賢そうに見えた彼女たちも、同じ世界の住人になると、やはりピンキリで、ここのセーラー服を着た女子と一緒に並んで登校したいなどという、夢追人の白昼夢は現実という名のブラックホールの中にあっという間に吸い込まれ、雲散霧消した。
ここからはモテない高校生の偏見だが、進学校の優等生女子は、成績の悪い男子はブランド性が低いと見ているのか、少々ルックスに恵まれていても相手にしないことを私は高校時代に痛感させられた。中学まで結構もてていながら、進学校で落ちこぼれてしまうと、魔法が解けたようにただの人になってしまう例を幾つも見てきたからだ。
このような風潮の中で、甘っちょろい夢を断たれた一部の者たちは、個々は落ちこぼれてあっても、高偏差値というブランドを最大限に利用すべく、山を下って低偏差値圏に生息する女子へと活路を求めた。
かといって進学校で少々ツッパってみたところで、所詮は見た目だけの「空ツッパリ」である。娑婆で数々の武勇伝を持つ連中のように、ヤンキー女子から引く手あまたというわけにはゆかない。
それでも地方都市では大学でいうところの早慶以上の格の高校というブランドに惹かれる物好きも少なくなかったおかげで、私も含めて親しい落ちこぼれ仲間の半分くらいは、Fラン高校の子と短い春を過ごすことができた。
Fラン高校の子は性格は能天気でノリのいい子が多く、進学校のお高くとまった眼鏡女子よりよほど可愛げがあると思ったのも束の間、同じ話題をレコードのように繰り返し、話に発展性がないことが多く、そのうち何が面白いのか、下らないことで異常に盛り上がりを見せるという感性についてゆけなくなり、とりあえず場を繕おうと空虚な笑顔を浮かべている自分に自己嫌悪を覚えるようになった。
同じ学校の連中はこれと同じようなジレンマに陥り、即離婚か冷めた夫婦関係の継続かで悩んだあげく、一人を除いては感情的な結末を迎えた。
だからといってヤンキー女子を軽蔑しているわけではない。友達としてなら面白い子がたくさんいて、好みにもよりけりではあるが、個性だって画一化された進学校の子たちよりバラエティに富んでいる。
ことルックスに関しては、偏差値と逆行しているといえるかもしれない。ただし化粧っ気も多く、上手いことごまかしている子たちもいるので、本気で付き合う場合の覚悟は必要だったが、私服の時はOLと見間違うほど大人っぽいヤンキーには、年上好みの少年たちはイチコロだった。
それでも今思い返しても、性格が危なっかしくて少し天然の子ほど美形というのは、大学生はもとより社会人でもその方程式が当てはまることが多かったような気がする。逆にそういう子たちからは、進学校に通ってはいるもののちょっとスレて反抗的な男衆のことはどう見えていたのか、あの時に戻って尋ねてみたいくらいだ。
元ヤン女子というと、私は学生時代にそういう子たちとつるむ機会が多かったせいか、社会人になってからも“元”の方々とはウマが合うことが多かったが、大抵のOLは素性を隠しているので、普通人にはなかなか判別がつかないだろう。
偏差値は低くても、学力と賢さは別なので、私が黒歴史を把握しているうちの何人かは、ちゃっかり過去を隠蔽して、若い自分には同じ時間を過ごしていたであろうヤンキーの成れの果てのようなタイプとは真逆の真面目な伴侶を得ている。
お調子者も多かったが、演技も一流だったということか。
そう言えば私も現役&元ヤン系の子たちには、向こうから誕生日など何かの理由でスイーツを散々ねだられたことはあったが、バレンタインデーは完全にスルーされていた。少し好意を持っていた子からご丁寧に「〇〇君と同じもの~」とチョコを渡された時も、阿呆らしくなって帰り路でゴミ箱に捨てたため、高校を卒業するまでバレンタインチョコは目の前をフルスピードで通り過ぎてゆく回転ずしの皿のようなものだったのだ(アーメン)。
私が散財させられた話はともかく、事情通ゆえに親しかった元ヤン女子から結婚式に招待されたことはない。子供が生まれた頃には音信不通になるという経過を辿ってみんないなくなってしまうのは哀しくはあるが、暗い夜にたまたま出会った寂しがり屋たちの宿命なのかもしれない。闇の中だから親しく時を過ごせても、正体がばれるお天道様の下では共生できないのだ。
女性に興味が湧いてきたにもかかわらず、全く無縁だった忌まわしい中学時代に話を戻そう。
一般に男子がギターを始めるきっかけは、純粋な音楽好きは半分で、あとの半分は女性の気を引きたいという不純な理由だと思う。私の学園時代に限れば、音楽が本当に好きでフォークギターが芸術的に上手くても、それはそれというのに対して、雑音交じりのロックでもバンドをやっている奴、それもヘビメタやパンクにはまっていて髪型やファッションまでそっち系はおバカでチャラくても結構モテていた。
ただし、寄ってくる女子はヤンキー系がほとんどで、その中には性病持ちも少なからずいたので、地雷を踏む危険も覚悟しなければならなかったが。
洋楽に関心を持つようになったのは中学一年の頃からだ。友人の家にあったベイシティ・ローラーズのシングル盤『恋のゲーム』にすっかりハマってしまった。
ローラーズは小学六年生の時に一部の女子の間ですごくブームになっていたが、その頃は女子が「エリックさん、エリックさん」と大騒ぎしているのを聞いても、「E・H・エリック(当時の人気司会者)みたいなおじさんのどこがいいのだろう」くらいの認識しかなかった。
それがピンクレディーのファーストLP『ペッパー警部』(一九七七年一月発売)を叔父の家で聴いた時、全てローラーズのカバーだったB面の中で一番気に入った「二人だけのデート」をオリジナルで探したところ、遠回りでベイシティ・ローラーズを知ったのだ。
すでにバンドに興味を持っているような同級生は、すでにKISSあたりを聴いていたが、私は健全なローラーズが洋楽への入り口になったので、まだエレキギターどころの話ではなかった。
ロックの良さに気付いたのは、中学三年頃にクイーンの『夜の天使』を聴いてからのような気がする。クイーンの曲の中ではそれほどロックっぽいわけではないが、小気味よいリズムが癖になり友人の家で何度も聴かせてもらった。
それでもまだその頃は、深夜放送『オールナイトニッポン』をラジオにかじりついて聴いていた時代だけに、洋楽より歌謡曲、フォーク、ニューミュージックの方が関心の比率が高く、ロック系は口直しくらいの感覚だった。
なにしろ最初に自分で買ったシングル盤が松原みきの「ステイ・ウィズ・ミー」で、2枚目が石野真子の「めまい」である。現在になって海外で松原みきがブレイクしていることを考えれば、先見の明があったと言えそうだが、私にとってロックの本格的な夜明けはまだ遠かった。
エルヴィス・プレスリーの死もジョン・レノンの死もラジオを聴いている最中にニュースで知ったが、また一人芸能人が亡くなったくらいの認識に過ぎなかったと記憶する。
ついに洋楽のシングルを購入したのは中学を卒業しようという頃だった。なぜかポール・マッカートニーとウイングスの『ジェット』だった。そこからよりアップテンポの曲を求めるようになり、ちょうと流行っていたリンダ・ロンシュタットの『お願いだから』、ブロンディの『コール・ミー』と洋楽にハマっていった。『コール・ミー』はこの曲が主題歌となっていたリチャード・ギア主演の映画『アメリカン・ジゴロ』まで大枚をはたいて映画館に観に行ったほどのお気に入りだった。
『お願いだから』はイントロのドラムソロが最高に格好いい曲だが、だからといってドラムスには興味は湧かなかったが、『コール・ミー』の印象的なギターリフは、自分で弾いてみたいという衝動から、エレキギターの購入に踏み切った。
もちろんエレキは高価で、高校入学後は学業成績がよろしくない私が親にねだって買って貰うというのはどうも憚られた。ところが幸いというか不幸というか、当時、私の周囲には怪しい仲間がたくさんいたので、高校生の裏社会の伝手を使ってできるだけ安価なギターを探すことにした。
それは今日のメルカリのようなエコシステムで、商業高校を中心にネットワークが存在した。
メルカリの商品が全て合法なものとは限らないにせよ、一応表向きは堅気のマーケットであるのに対し、私たちの時代のそれは、個人所有の中古品ばかりとは限らず、入手経路が怪しげなものもかなり出回っていたので、メルカリより明らかに灰色だったと思う。
それでもブックオフやまんだらけもなく、学生がフリーマーケットで品物を売るなど考えられない時代だけに、中古のマンガが一冊50円で買え、その他の文房具も何十円単位だった。あとはブランド物のTシャツやベルトなど、買ったまま箪笥のこやしになっていたものや、ギター、ベース、アンプなども予約を入れておけば、売り手を捜して商談をまとめてくれた。
この裏マーケットで一番の売れ筋は、煙草とスキンと男性用化粧品だったが、こういう類のもので中古品はありえないから(気まぐれな禁煙や突然の別れという線も否定できないが)、購入する方も薄々出所が怪しいことは感じていたはずだ。リップクリームも出回っていたが、女子が平然と購入していたところを見ると新品だったに違いない。
新品、新古品の一部は、弱みを握られた誰かが黙秘を条件に供出したものもあったが、明らかに小遣い稼ぎに軽犯罪に手を染めている者もいるという噂もまことしやかに伝わってきた。怪しいとわかっていても、善意の第三者は罪に問われないという法律がある以上、噂だけで確証がないものは、限りなく灰色に見えても白だと思ってしまえば、誰もそれを咎めることはできない。まあ、戦後の闇市みたいなものだったのかもしれない(マーケットの灰色性にしても、私の推測の域を出ないと言っておこう)。
闇市同様、自分は購入しなくても買取ってもくれるわけだから、好きでもない男子からのプレゼントを処分したい女子も利用していた。買取依頼の多かったのはウォークマンで、買取価格が4000円だったことはなぜかよく覚えている。
こんな故売屋みたいな商売がなぜまかり通ったかというと、仮に組織にほころびができ、それをネタに脅迫するような輩が出てきても、そういう連中を闇に葬ってくれる用心棒が名義貸しをしていたからだ。
族のZや総番格のEもその一人で、じっとしているだけで、ヤフーやメルカリのように手数料を懐にしていた。やがてこのマーケットの中心にいた商業高校の生徒が、借金取りに追われたとかいう理由で学校を自主退学して、関西の方にとんずらしてしまい、それから1年かそこらで自然消滅したようだ。
私はといえば、持ち主と直接取引という形で斡旋してもらい、別に1000円の手数料を払って白と黒のツートンのストラトキャスター(ほぼ新品)を小型アンプ付きで1万円で手に入れた。
このエレキでディープパープルの『スモーク・オン・ザ・ウォーター』を練習して、一時期はZやEたちとスタジオを借りて演奏の真似ごともしていたが、私たちが集うとどうも演奏より煙草を吸いながらの雑談になってしまい、せっかくギターの上手い奴からチマチマと習っていたのに、結局寄せ集めのロックバンドは早々と座礁してしまった。
おかげで高校の音楽祭で演奏したのは、かぐや姫の『雪が降る日に』、井上陽水の『夢の中へ』、山本コータローとウィークエンドの『岬めぐり』というロックとは程遠い軟弱な曲で、その後ギターとは長いお別れとなった。
ストラトキャスターを所有していたのはものの4~5ヶ月くらいだっただろうか。中津の友人が欲しいというので18000円で転売して、差額の8000円でEたちと喫茶店で散財した。この時代に転売ヤーという発想があれば、危険な故売ヤーたちより安心安全な金儲けがてきたかもしれない。
その後、部活用に買ったまま一度も履かなかったスパイクシューズとジョギング用の軽量シューズと引き換えにシックなブラウン系のレスポールを手に入れたが、結局ギター熱は一年ほどで冷めてしまった。
だからといって全てが徒労に終わったわけではない。ディープパープルやレッドツェッペリンを聴くようになったおかげで、聴いて楽しむロックのすそ野が広がり、FMを通じてアメリカントップ40などでいち早く洋楽の情報を仕入れるほど、同世代ではかなりの洋楽通になれた気がする。
そして気が付いてみると、高度な技術が必要な演奏より、短時間でステップを覚えさえすればそれなりに楽しめるダンスの方に夢中になっていった。
アメリカではロストギター探しが流行っているらしく、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でマイケル・J・フォックスがチャック・ベリーの「ジョニー・B・グッド」を弾いた1958年製のギブソンをみんな血眼で捜しているそうだ。私もリアルタイムで映画館で観て、J・フォックスのギターパフォーマンスに魅入られた一人だが、木造モルタルの下宿で下手なギターは近所迷惑だという思いから、この時はギター復活は断念した。ストレイキャッツの「ロックタウンは恋の街」のギターリフでさえ困難を極めた私にとって、「ジョニー・B・グッド」はシシューポスの神話の世界に思われたからだ。




