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第1章 ホークⅢ 叶わぬ夢

うだつの上がらない暗い青春を送っていた頃、村上龍の青春小説「69 sixty-nine」に出会った。自分の価値観を押し付けようとする教師や権力の手先なんかの言いなりにはならず、彼らより楽しく生き、そういう退屈の象徴のような連中を笑い飛ばそう、みたいな主旨に共感を覚え、それからは、私はみんなが右に行っても、躊躇なく左に行けるような人間になったと思う。価値観は人それぞれなのだから、同調圧力などに屈せず、自分の本心に忠実に行動しよう。実直に生きようが不誠実に生きようが、運命は誰にもわからず、終りは突然訪れるものだから、後悔のないように今を生きよう。

 私は昭和四十年代男である。大分に生まれ、東京や埼玉での生活も経験したが、このぶんだと、人生の半分以上を過ごした福岡に骨を埋めることになりそうだ。

 福岡市内の高校に進学した親友Sから誘われ、高1の夏休みに西鉄雑餉隈駅近くの友人の下宿に転がり込み、友人の学校の生徒たちと遊んだのが、旅行を除いた福岡市での最初の生活経験だった。

 下宿は武田鉄矢の母堂が経営する煙草屋から駅に向って五十メートルくらいのところにあり、銭湯も、賑やかな銀天町商店街も近かったので、下町生まれの私にとって、こういうロケーションは懐かしく、居心地の良さを感じたことを覚えている。

 Sから高校の寮に連れて行ってもらった時に、西鉄薬院駅から六本松方面に向う西鉄バス城南線の車窓から目に入る街並みも、大分市とは違う魅力があった。大分市内ではあまり見かけない高層マンションや、入り口がこじゃれた喫茶店やダイニングが並ぶ通りは、若者が多く活気があって、福岡で暮らすSのことを羨ましく思ったものだ(学生寮にエロ本が山積みされていたことも懐かしい)。

 福岡滞在中はSの通う高校の生徒たちとも遊ぶ機会があり、天神西通りや親不孝通りといった繁華街にも繰り出したが、所詮大分は垢抜けない田舎で大都会は違うと思い知らされた。この時の印象が大学進学、就職活動ともに福岡にこだわる要因になったといってもいいほどだった。とはいえ、私の場合、分不相応な進学校に通うストレスが、現実逃避を促し、新天地に目を向けさせる要因の一つになったことも否定できないが。

 

 結果として大分を離れて福岡に居ついたことは正解だったと思う。

 ところが、今振り返ってみると、昭和の終りからスクラップアンドビルトを繰り返してきた福岡市は流れる時間が速く、長く過ごしているわりに、中学から高校までの大分市で過ごした青春時代と体感時間はそれほど変わらないような気がしてならない。

 多感な時期だったこともあるが、流れる時間もゆっくりで濃厚だったのだろう。平成10年はどんな年だったかと言われてもピンと来ないのに対し、大学生だった昭和の終わり頃までは、その年がどんな年で何を考え、何をしたか、いまだにかなり鮮明に覚えているのだ。

 日記を書く習慣もないのにはっきりと記憶に残っているのだから、年を取ってボケる前に今のうちに記録に残しておこうと思いついたのが、今年の夏のことだ。まあ、息子は読みはしないだろうが、自分なりに平凡とはいえない学生時代を過ごしてきたと思うし、反抗心旺盛で、反面教師的な経験もたくさんしてきたので、若者には生きづらいと言われる今の時代の人たちにも共感できるところがあれば、お互いに自己承認欲求が満たせるかもしれない。そんな他愛もないことを考えながら、筆を取ってみることにした次第である。

 冒頭のメインタイトルは、自身の印象深い経験を省みた時、その時々の心象風景の片隅に必ずといっていいほど写りこんでいるアイテムを並べたものである。


 バイクはかつて不良少年たちのマストアイテムだった。したがって、バイクを語らずに不良を語るのは片手落ちというわけで、まずは私の拙いバイク歴とそれにまつわるエピソードあたりから話をすすめてゆこうと思う。

 最初のバイク体験は中学一年の時だ。

 両親が共稼ぎだったので、幼少の頃より、夏休み、冬休み、春休みという学校の長期休暇は、中津市の祖父母の実家で過ごすことが慣わしだった私にとって、一番のネックはそこには移動手段がないことだった。

 祖父はホンダのスーパーカブが足で、自転車に乗る習慣はなかったので、祖父母の家には自転車がなく、遠くまで遊びに行くのは大変だった。近場で商店街などがあって賑やかなところといえば、大貞という耶馬渓鉄道の駅がある小さな町で、祖父母の自宅からはゆうに3kmはあった。

 よくつるんでいた近所の友人Lも自分用の自転車しかなかったので、近場なら二人乗りで移動していたが、子供用の自転車で長距離は辛い。ましてや昭和四十年代の地方都市の郊外は舗装などしていないジャリ道だから、小径タイヤで飛ばすのは危険度も高い。というわけで、友人の母親の自転車が空いていた時にはそれを借りて移動していたが、現在のママチャリとは違って、ハンドルからサドルまでパイプで溶接されていたから、小学生が跨ると両足が届かない。加速をつけて飛び乗っても、ブレーキをかけるたびに飛び降りなくてはならず、どうにも面倒くさい。これを解決する唯一の方法が、ご同輩かそれ以上の年配の方なら覚えがあるはずの「三角乗り」だった。

 当時の自転車はハンドルからサドルとペダル方向に伸びたパイプが三角形を形成するようなフレームだったので、ケンケンしながら加速した後、その三角形の中に足を潜らせてペダルを踏めば、お尻は宙に浮いたままでも、とりあえず走行することが出来た。右利きなら車体が右に倒れ、運転者は右足だけフレームの右に伸ばして、身体は左にぶら下がった格好になるため、後方だと、三角形を描いているように見えることから三角乗りと言った。

 この格好だと疲れはするが、信号もない田舎道だから、見通しの良い開けたところはサドルに跨ってやりすごせば往復6kmくらいは何とかなった。子供は単純だから、駄菓子屋に行く楽しみの方が勝っていたというわけだ。

 小学校六年くらいになると、大人用の自転車も普通に乗れるようになったが、相変わらず、祖父母宅の足はカブだけだったので、活動範囲は限られていた。しかも仲良しのLが野球部に入ったため、午前中は一緒に過ごす時間が減り、自転車だけ借りに行くわけにもいかなくなった。そこで窮余の策として考えたのが、カブの無免許運転だった。


 当時は原付バイクがノーヘルの時代だったので、新聞配達、牛乳配達、出前などの商用バイクはノーヘルが当たり前だったし、近所の大人たちも原付だろうがおかまいなしに子供を荷台に乗せて農作業に出かけていた。私もそんな子供の一人で、祖父のカブの荷台に乗ってあちこちに連れていってもらうのが好きだったので、カブという乗り物に愛着を感じていたのだ。

 法律違反なんて野暮なことは言うなかれ。その頃は路面の悪い田舎道でネズミ捕りに精を出すようなパトカーや白バイを見かけることはまずなかったし、田舎の警察官は大抵地域住民とは友好的であろうとし、パトロール中も職質どころかにこやかに世間話をしていることの方が多かった。

 「ポリ公」なんて呼称は存在せず、警官が正義の味方の「おまわりさん」の世界で、明らかに過積載と思われる大きな荷物や長い竹竿を荷台に括りつけたバイクが停止を命ぜられることなどありえなかった。

 「赤信号、みんなで渡れば怖くない」はツービートのギャグだが、この時代の地方にはその地方独特のルールがあり、何よりも日常生活における利便性が優先された。おかげで中学生がカブを転がしていたからといって、わさわざ学校や警察にご注進に及んだり、それを咎める者など誰一人おらず、友人の家までカブで行っても親御さんから小言を言われたこともない(もちろん操縦法も祖父が教えてくれた)。

 フルオートマチックではないから、クラッチレバーはなくともクラッチペダルでのギアチェンジが必要なカブ(3速自動遠心式)は、ギアチェンジのたびにガチャガチャとうるさく振動も不快だったが、未舗装の真っ直ぐな田舎道を、砂塵を巻き上げながら走る気分はなかなかオツなものだった。

 中1くらいまでの私は、クラスでも前から三番目というくらい背が低く、女子よりも小柄だったので(卒業前には後ろから三番目くらいになっていたが)、カブに乗っている姿は遠目にも小学生がバイクを運転していることは一目瞭然だったはずだ。中学生になっても体格も知能も小学生並みの私にとっては、たかだか50ccのカブでさえ、鋼鉄の馬にまたがっているような気分に浸れ、足で漕ぐのではなく機械の動力で進むという独特な加速感に魅了された。


 中学2年くらいになるとバイクに興味を持つようになる同級生もちらほら出てきて、大分市内でもちょっと郊外の農家の子弟の中には、私と同じようにカブの無免許運転がバイクライフの入り口という連中がいた。

 私の祖父母宅もそうだったが、広い敷地や農地を持った旧庄屋系の家の周辺は私道も多く、法律の手が及ばない。それをいいことに年長の兄が所有するホンダモンキー50を庭先で転がして遊んでいるませた同級生がいて、遊びに行った時に運転させてもらったモンキーが最初の4速手動クラッチ付きのバイクだった。

 モンキーは遠出するようなバイクではなく、どちらかといえば未舗装の空き地でモトクロス気分を楽しむアイテムで、狭い土地で飛ばす分には加速感も味わえるが、いかんせん小さくて子供の乗り物のようだったので、自分が所有したいというようなシロモノではなかった。

 そのうちにバイクで遠出中の同級生が、田舎に比べると交通違反に容赦がない都会のポリスに補導されてしまい、バイクもご法度になったので、それきりモンキーとも縁が切れてしまった。


 本格的にバイクにハマっていったのは、大方のバイク少年たちと同じく、免許が取得できる高校時代である。それまでの玩具のようなバイクではなく、初めて運転したれっきとした自動二輪は、ホンダのCB400TホークⅡだった。

 後部座席に乗せてもらって県道を走った時、カブとは段違いの加速感に心地よさを感じる一方で、交通量が多い道で車両の間を抜けてゆく時にはちょっとした恐怖感も覚えたが、自分が運転させてもらった時は、操作系の重厚感に夢中になり、スピードは出さずに、エンジンの伸びを確かめるように、ギアチェンジばかりしていたことを思い出す。カブのギアチェンジの時のような耳障りな音を発することもなく、回転さえ合っていればカチっと小気味良くギアが入るのが快感でもあったのだ。

 ホークⅡは走りが少し重いことを除けば、乗り易く実用性もまずまずだが、スタイリングがいかも‘70年代風で、’80年代のバイク小僧たちにとっては何となく野暮ったかった。だから中古でも安価だったのだろう。市内の県立高校は中型以上のバイクは禁止だったが、私が通っていた進学校ですら、少なくとも2名はちゃっかりとホークⅡを所有していた。

 私自身が最初に所有欲が湧いたのは、ホークⅡの二年後に発売されたホークⅢだった。昭和五十四年発売のホークⅢは、フォルムもずっと近代的でバイク小僧たちの間でも憧れだった。

 今でこそホークⅢよりもホンダCB400F、スズキGT380、カワサキKH400などのビンテージの方がはるかに人気があり、プレミア度も高いが、‘80年代前半頃はこれらの名車も、所詮は十年落ちの昔のバイクという認識で、デザインの良さこそ認めてはいたものの、スペックの低さゆえに、それほど触手をそそられることは無かった。


 ホークⅢとの出会いはなかなか印象深くて、視界に入って来た瞬間から目を奪われた。

 高校2年の夏前くらいだったか、ちょっとスレた同級生たちが、「今日の昼休みにT高校のMさんが学校の近くに来る」という話をしているのが耳に入った。彼らなりの一種のミーティングで、近々バイクでどこかに走りに行こう、というような話だったと思う。しかもMはT高校の番長(死語か?)だったこともあって、免許を持っていない連中も出迎えのための数合わせ的な理由で声をかけられていたので、私も「俺も行くわ」と昼休みに学校を抜け出して連中に付いていった。

 するとMが子分らしき2人を連れて颯爽とホークⅢで待ち合わせ場所にやって来た。ウチの学校の連中(5~6名)がコーラス団のように「お疲れ様です」と挨拶するのを尻目に、私が「久しぶりやなー○○!」と綽名で呼ぶと、同級生たちが「何言っちゃってんだよ」みたいな驚愕の表情を浮かべて一斉に私の方を見た。

 一方のMは「おお、○○か・・」といかにも会いたくない奴に出会ったような、渋い表情で私に挨拶を返したが、Mの子分らしき連れも、ボスがダサい綽名で、見た目は普通の高校生から呼び捨てにされている現状が把握できず、目を白黒させていた。

 私が「いいバイク乗ってんなー」とタンクを触りながら、「いつか貸せよー」と言うと、Mは「あんまり触るなよー」とぼそっとつぶやいたきりあまり話に乗ってこないので、周囲の雰囲気も感じ取った私は「じゃあ、またな」とその場を立ち去った。

 なぜ私がそんなぞんざいな態度を取ったにもかかわらず、Mは怒るどころか、居心地が悪そうにどぎまぎしていたのかというと、Mはその時点でこそT高校の番長(厳密にいえば暫定番長で、正式には2学期からだったはずだ)だったが、その昔は私や別の学校の友人たちとよくつるんでいて、その時はどちらかと言えばいじられキャラだったからなのだ。

 Mは高校時代は市内に下宿していたが、元々地方の農家の倅で、中学時代は真面目な野球部のキャプテンだった。純情な田舎ッペというタイプで憎めない奴だったので、同級生からも先輩からも可愛がられ、いつの間にか腕っ節の強い先輩連中から後継指名を受けて番長の座に就くことになったという、シンデレラストーリーの主人公だった。

 M高校の番長という肩書きだけで周囲から立てられているうちに、威厳を見せないとマズいという意識に捕われるようになったのだろう。人間は相変わらずのお人好しのくせに、ボンタン履いて剃りこみ入れて、格好だけはヤンキーなものだから、表面上の付き合いしかない私の学校のちょっとトッポい面々から「さん」づけで呼ばれて、まんざらでもなさそうだった。私はそれが可笑しくて、笑いをこらえるのに必死だったが、私の前で緊張感がありありと伺えるMの立場を考えると、邪魔者は消えた方が良さそうだと判断した次第だ。


 Mはノリやすいぶん、ちょっと自意識過剰なところがあったので、ずっと以前にMに好きな相手が出来た時、何の根拠もないのに「いつかお前の熱意にほだされる日が来る」などとおだてまくって、何度もアタックさせたところ、ストーカーまがいの行為にキレた相手の女子学生の依頼を受けたヤンキー二人から呼び出しを食うという事態を招いてしまったことがある。

 当時のMは武闘派ではなかったので、「二対一はヤバし」と思ったのか、仲のよかった私たちに相談してきた。こちらも煽った責任があるので、何とかしないといけないとは思ったが、暴力沙汰で停学なんて御免という意見が多く、ここは自分たちの一派ではないが、男気があって面倒見の良い一歳年上の筋者の息子Yに仲介役を頼むことにした。

 Yは大乗り気で、「喧嘩はせんけど、人数だけ集めろ」と快く仲介役を引き受けてくれた。

 かくして呼び出し当日、私たちはとりあえず人数だけということで、眼鏡をかけた真面目な奴もひっくるめて二十人を越える人数で待ち合わせ場所に向った(その間、単語集を見ている者もいた・笑)。

 そこにはくだんの女子学生とその友人と思われる気合の入ったヤンキー二人が来ていたが、さすがに二十人以上の学生服がぞろぞろやってきたのにびっくりしたのか、二人とも「どうなっとんじゃ?」というような非難の表情を女子学生に向け、明らかにとまどっていた。

 黙って突っ立っている三人の傍にニタニタ笑いながら一人で歩み寄ったYは、驚くなかれ、何とそこで説教を始めたのだ。

 現代ならストーカー行為に近いことをやったMの方が非難されても仕方がないにもかかわらず、Yは「男心をわかってやれよ」だの「一人を痛めつけるために二人で来るのは卑怯だろ」だの言いたい放題で、見ている我々が「よくこんな屁理屈ひねり出すよなあ」と感心するほどだった。

 最後はYが「返事は?」と促すと、「わかりました」「すいませんでした」とまるで先生に対する生徒のように恭順な態度を示した二人を解放し、この件は一件落着したが、一緒に去ってゆく女子学生の「この根性なし共」と言わんばかりの冷たい視線がヤンキー二人の後姿に突き刺さっていたワンシーンは、青春映画のスチール写真のようにストップモーションのまま私の記憶に焼きついている。

 Yは体格が良く口調もドスも効いているので、見た目はコワモテだが、性格はひょうきんである。そのYが演じているのは一目瞭然で、緊張した場面でありながら、みんな腹がよじれそうだった。

 最悪の事態になったとしても、相手はY一人でも片付けられそうだったし、いざとなればそんじょそこらのヤンキー二人くらいなら秒殺できる奴も二人ほど集団の中にいたので、こちらは余裕の観劇といった趣だった。

 さすがに当事者であるMはタイマンでも張らされたらどうしようかと気が気ではなく、無事に全てが終わった時は、安堵の表情で私たちに感謝していたが、偉くなってしまうと過去の失態が気になって仕方がないようで、理由も知らずに引っ張ってこられたメンツ以外の私たちのような事情通はやっかいな存在になってしまったものと思われる。

 学校の枠を越えた私たちの仲間は、いわゆる反抗期のすれっからし集団ではあったが、何か面白いことを求める好奇心が旺盛な連中が共通目的のために集っただけで、ヤクザでもあるまいし、暴力を自己表現の手段に用いるようなタイプはいなかった(腕力に訴えたことなどなかったとまでは言わないが、それは正当防衛という名目あってのことだった)。

 したがって、力による上下関係や得体の知れない掟も存在せず、一緒にいると落ち着くというか楽な集団だったように思う。大袈裟かもしれないが、水滸伝の梁山泊のような意識もあったかもしれない。

 Mも下手に祭り上げられなければ、私たちと同じ目線でもっと色んな面白いことができたはずだが、ばらされたくない過去に神経過敏になったあげくに、私たちとは次第に疎遠になっていった。

 高校時代は番長でも、卒業すれば、ただの社会人である。ろくな仕事も就けずにチンタラしていれば、やがて後輩たちの間で反面教師的に扱われてしまうのも一種の有名税といえるのかもしれない。

 数年後、あれだけMのことを立てていた連中の間で「人生のしくじり組」のサンプルとして話題にのぼるのを耳にするにつけ、「喧嘩の優劣」だの「上下関係」だのに血道を上げたところで、虚しいだけで、無駄に群れず、同じ価値観を持った気の合う連中と愉快な時間を過ごした方が、純朴な田舎のあんちゃんにとっては有意義な青春が送れたのではないかとつくづく思ったものだ。


 話を少し戻そう。Mとは同じ年の秋に、私が福岡の高校に進学していた友人Sを連れてMの高校の文化祭に出かけた時に再会した。

 Sは文化祭などどうでもよく、その学校の生徒の一人に貸していた金を回収に来ただけなのだが、校門のところに仲間たちとたむろしていたMは、彼にとっても旧友であるSに対して、なぜ福岡の高校の奴がこんなところにいるんだ、くらいの気持ちで「S、なんしに来たんか?」と声をかけてきた。

 ちょうど虫の居所が悪かったSは、その口調が高飛車に聞こえたのか、「うるせえんじゃ○○、Rに貸した金を回収しにきただけったい!」と切り返し、一瞬あたりは凍りついた(○○は綽名)。

 この間と同じように、また取り巻き連中が(今回は4~5人いた)、「このままでいいんスか?」みたいな表情で一斉にMの方に視線を走らせていたが、Mは一つせきばらいすると「ウチの学校であんまり粗相はせんでくれよ」と迷惑そうに吐き捨てるや、私たちから顔をそむけた。

 実は私たちは二人ではなく、偶然近くで会ってそのままついてきた武道の達人でもある他校の友人Gもいたが、出る幕はなかった。そいつは、私たちがヤンキーの多いM高校に行くというので、喧嘩でも売ってくる奴がいるんではないかと、面白半分についてきただけに、期待外れの展開に少し拍子抜けした様子だった。そして私がMを見たのは、それが最後だった。

 かくして、私はホークⅢには乗り損ねてしまった。以来、ホークⅢを見ると必ずMとの苦い思い出が甦ってくるのだ。

昨今は子供の自殺が高止まりで、見た目は朗らかで悩みなどなさそうに見えるノーマークの子の中にも「死にたい」「消えたい」という思いが心の片隅に宿っているケースが多いそうだ。その背景には、どうでもよさそうなことをあえて評価、分析することで、格差を助長する社会構造があるような気がしてならない。率直に言えば、ICT教団の差し金のような「分析バカ」が、否が応でも個人を何らかの基準にかけて分別し、評価という名のもとに人を差別したがるがゆえに、平均値や多数派からあぶれた者が理由なき劣等感をおぼえるはめに陥るのだ。人間社会は生態系の一環なのだから、個々の役割は違っていて当たり前である。だから他と違っているからって、くよくよする必要などない。勉強ができなくてもスポーツができなくても、神様がこの世に生を受けさせてくれた以上は、何かの役割を与えられているのだから、それが何かわからなければ、それを探すことを楽しみに前向きに進めばいいだけのことだ。「残り者には福がある」ではないが、案外びっくりするようなプレゼントを神様は用意してくれているかもしれない。それが何か知りたければ、行動あるのみだ。苦労はしても、宝探しっていうのは結構面白いものである。宝探しはみんなが群がる方向に行っても最後は醜い奪い合いになるのがオチだから、躊躇なく逆行しよう。

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