第93話 監獄より
薄暗い鉄格子の中で、玲那は夜光の差し込む天窓を見上げる。
(ふざけた場所ですよ、ほんと)
ここにぶち込まれてから一週間が経った。
最初のうちは閑院宮や児玉参謀長が助けに来てくれるかとも期待したが、満州総軍のほうはロシア軍の相手で一杯で、主人公たち沿海州総軍に抗議の書簡だけは寄こしたそうだが、黙殺されたか、玲那を取り巻く状況は動かない。
後ろに回された両手で手錠の感触を覚えつつ、あたりを見回した。
独房の衛生状態は非常に悪く、天井から黒く濁った液体が滴っている。まさか下水じゃないだろうな。
「どうしてこうなるの……」
壁にもたれかかりながら、ため息を吐く。
その瞬間、監獄に繋がる通路の入口に、人影が見えた。
「どなたです」
カッ、カッ、カッ、カッ、と響いてくる軍靴の音。その異質さから、看守のものではないだろう。だが、嫌な予感だけはした。
「………ッ!」
それは当たってしまう。
ランプに照らし出された顔は、主人公のにやけ顔だった。
「よぉ、気分はどうだ?」
玲那はため息を一つ、こう返す。
「素敵なお部屋ですよ。特に、あの天井から滴る下水のシャワー。陸戦条約の遵守をアピールするにはもってこいの収容所ですね」
主人公はその甚振りの笑みを崩さない。
「トドメを刺しに来たんだ、お前の欺瞞に」
「?」
「真実ってのを教えてやるよ」
そう言うと、主人公は振り返った。
拷問でもするつもりだろうか?
「あの女の子を呼んでこい!」
その意図は解せなかったが、どうせ玲那は袋のネズミ。黙って来たるべき女の子とやらを待つことにする。
「ッ!」
しばらくして、監獄の通路の先に人影が現れた。
玲那はまもなく絶句する。
「さっ、くる……?」
咲来がそこにいた。
看守の渡辺に連れられて、俯いて歩いてきた。
「さ、咲来は関係ないでしょう。さっさと解放なさい!」
鉄格子を掴んで主人公に向けて叫んだ。ぐわんぐわんと、声が牢獄の中に響く。主人公が振り返って、玲那に答えた。
「この娘を解放するのは、お前だよ。令和人」
「……はあ?」
主人公は人差し指を突き指した。玲那を指して、この瞳に触れるかというほどの距離で。
「わかってんだろ? お前はこの娘に洗脳まがいのことをしたんだ。」
彼は咲来の肩を抱き寄せて、その頬をぞわりとなぞり上げる。拒むように目を伏せる咲来の表情が、玲那には痛ましく見えた。
「この女の子を、俺は救おうと思ったんだ」
彼は、玲那を非難がましく睨め付けた。
「けばけばしく外側だけ繕って、中身はスッカスカ。胆力もなければ責任感もない敵前逃亡者――こんな小市民なんか、さっさと見切りをつけて、俺のほうにおいで。この娘に俺はそう諭したんだ」
「……」
「この娘はひどく怯えた声で、こう言うんだ。『玲那のことは裏切れない、恩がある』ってな――わかるよな。お前が呪ったんだ」
けどな、と彼はかぶりを振る。
「俺は女の子を幸せにしてやるのが得意なんだ。こんな風にな」
ぱっと主人公は咲来を放したと思えば、その腕の裏から別の女2人が現れる。
主人公に抱き寄せられた2人の女は、交互に咲来へ言葉をかける。
「あぁ…可哀想に…。私と3つしか歳が変わらないのに……」
「もう大丈夫です…。色々ひどい目にあったでしょうに」
女たちは口々に言って咲来を抱き寄せる。
玲那は顔をしかめて問い質した。
「なんなのですか。このお二人は」
「枢密院の元老様がたの娘さ。こんな高貴で美しい人と、俺は結ばれたんだ」
戦場に愛人を連れてきたのか、この男は。
唖然とする玲那をよそに、彼は咲来の頬を愛おしそうに撫でる。
「今まで辛いこと苦しいことばっかりだっただろう…。でも、もう君は解放されたんだよ。こいつからは俺が守ってやる。だから、安心して話してくれ。」
裲花ちゃん、だっけか。そう咲来の名前を呼ぶ。
「裲花、きみは多分弱みを握られたんだろう?……話してご覧、君とあのクズの関係を」
咲来はこちらを一瞬窺う素振りを見せたが、玲那は何もしない。
玲那の反応はないと察した咲来は、淡々とこう告げる。
「あたしの故郷、樺太なの」
「……から、ふと?」
「それだけよ」
それきり、咲来は黙り込む。
その様子を見て取った主人公は、どうしてか、わなわなと拳を震わせた。
「樺太……それで、命の恩人、か……なるほど。なるほどな」
今度は怒ったような半笑いを浮かべて、玲那に向き直る。
「お前……。よりによって、この娘に説明してねえのかよ。すべての元凶は自分であることを――!」
「は、はい?」
理不尽にも突然怒り始めた彼に、玲那はおもわず訊き返す。
「ああ。さしずめお前はこの娘を気に入って、北方戦役のときに持って帰って来たんだろ。それをこの娘は『助けられた』と勘違いしてるんだ」
主人公は推論する。まるで事実のように、憤りながら推論する。
「北方戦役で無様に負けて、この娘の故郷をロシアに売り飛ばしたのは――他でもないお前らなのに!!」
天を衝くかの怒号。
「……は?」
言葉を失う玲那。
無様に負けて、咲来の故郷を、ロシアに売り飛ばした?
玲那が? 玲那たち、北海鎮台が?
「ひっどぉい」
彼の背後の女たちもささやきあう。
「そんな騙し方で、連れ去ってくるなんて。誘拐じゃないの」
「責任のひとつも説明せずに……。あぁ、盛太さん、なんていう悪女でしょう。怖ぁい!」
そう言って二人の女たちは主人公に抱きつく。
彼はそんな二人を抱き寄せて髪をすきながら、囁く。
「大丈夫だ。お前らにはアレに指一本でも触れさせない。俺が守ってやってるんだ。だからこそ――裲花、」
女二人の肩を寄せながら主人公は振り返って、彼女を口説き始めた。
「実は君の故郷は、あの腐った悪女が奪ったんだ。アレと、閑院宮とかいう無能の指揮する北海鎮台とかいう戦犯師団が、ロシアに売りわたしたんだ」
彼は咲来の銀髪を梳き流しつつ、その小さな顎をくいと上げる。
「騙されてる。呪われてる。早く逃げるんだ。今度こそ、本当に君を助けてやる――だって、こんなにも可愛い女の子を俺は見捨てられない」
そうして手を伸ばす。
「君は俺が守る。このゴミクズには二度と関わりを持てないようにする。だから、俺のそばに来い。そうすれば、君も幸せになれる……!!」
「ね、盛太の隣に来なよ? 3人目だとしても歓迎するから」
「そうですよ! 盛太さんのご寵愛をもらえるなんて、なんてリョーカちゃんは果報者なんでしょう……」
女たちの言葉にも、主人公にも振り返ることもなく、咲来は虚空を淡々と見つめている。うんともすんとも言わず、縦にも横にも首を振らない。
その様は、主人公には二の足を踏んでいるように見えたようだった。
「……わかった。まずは君の呪いを解くことからだもんな」
彼はため息を吐くと、ギロリとこちらを見遣る。
「おい、立て。戦犯」
「……玲那のことですか?」
玲那の訊き返しは無視されて、彼は近くの守衛に言う。
「看守。この戦犯を手錠のまま、俺の司令室に連れてけ」
「はっ」
ガタン、と乱暴に独房が開けられ、無理やり守衛に立たせられる。玲那の手錠から垂れる鉄鎖を引っ張られて、玲那は鉄格子の中から主人公たちのいる薄汚い廊下へと連れ出された。
「裲花。司令室で、ちゃんと見ておけ。これから大きな作戦が始まる……。俺の勇姿とアレの無様を見比べれば――嫌でも目が醒めるから」
どうやら玲那は手錠をかけられたままに、これから司令室にぶち込まれるらしい。まあ、このひどい衛生環境よりはマシになるか。玲那は黙って従うことにした。
「嘘つき犯罪者と、本物の英雄。戦場のリアルに臨んだ時、その差は歴然だろうよ」
裲花も幻滅するだろうな、と呟いて。
主人公は最後に、こちらへ向けて勝ち誇ったような笑いを見せた。
「残念だったな。英雄譚はハッピーエンドと決まってるんだ」
そう言ってハーレムを見せつけるようにしながら、主人公とその女たちに囲われて咲来は連れて行かれる。その後ろを看守に小突かれて、玲那はとぼとぼと進んでいった。
・・・・・・
・・・・
・・
明治38(1905)年2月3日 ウラジオストク
「近衛師団、進軍開始ぃッ!!」
主人公が命令用の受話器にそう猛ると、電話線を通じて総軍の士官たちへ伝わり、一気呵成に軍靴が響く。
相変わらず豪華な司教座の椅子に腰かける主人公は、その腕の中に咲来を抱きながら、ちらりと玲那のほうに目を遣る。
玲那のほうはといえば、部屋の隅に手錠の鎖を繋がれ、床に座らされた上に、両脇を衛兵に固められていた。
「無能はこれでも読んでおけよ」
まもなく、主人公からバサっと投げつけられる紙の束。顔に当たって落ちた資料のタイトルには「ウラジオストク決戦計画」とある。
主人公ご自慢の立案だが、最初の一文目から「作戦兵力一部不参加」と修正のペンを入れられている。思わず失笑してしまった。
「何を笑っている」
衛兵に鎖を乱暴に曳かれて、玲那は黙りこくる。
作戦兵力、一部不参加か。
そうだろうな。幸か不幸か、ウラジオストクの全ての部隊を主人公は動かせない。
というのも、指揮官たる玲那が実力行使で逮捕されてしまったので、中央即応集団『桜花』がまるまる遊兵化してしまったのだ。
陸軍法規があるから満州総軍の命令なしに『桜花』は再編・改組できない。満州総軍が玲那の逮捕を認めない以上、主人公は『桜花』の有する装甲車や飛行船を使うことはできないわけだ。ただでさえ補給が脆弱なのに遊兵まで発生して、事態は悪化の一方だな。もっとも『桜花』が主人公に指揮された方がひどい結果になるかもしれないが。
「ぶはっ、難しかったか? 令和人には」
「……いえいえ」
「くくくく……やっとわかったか。どうだ、到底お前なんかに想像もつかないような作戦だろう? これが枢密院の――いや、改変者の力だ」
改変者の力、か。
玲那は投げつけられた作戦書を見下ろす。
『英雄ノ凱旋』と題された、英雄渾身の立案を。
いわく、三段階の作戦だという。
第1に、沿海州のハンカ湖方面に第1近衛旅団のみを置いて、戦力の薄い戦線をわざと形成し、敵の突撃を誘発する。
第2に、機関銃を利用した塹壕戦で、突撃してきた敵を消耗させつつ、ゆっくりと後退。ウスリースクまで退却したところで、疲弊しきった敵の側面を別部隊が強襲、突破する。
最後に、増援の4個師団を本土から揚陸することで、敵司令部の恐慌を誘発。反攻意思を挫くという算段だ。
「用意された脆弱な戦線。機関銃による拠点防御。想定外の増援による敵の恐慌。すべて、"黒溝台会戦"ではありませんか」
「へぇ? 令和人とて、少しは歴史を覗いてみたのか」
一瞬意外そうな顔をした主人公だが、すぐフッと鼻で笑う。
玲那は心底呆れた。
(……史実と同じ展開を作り出せるつもりなんですね)
史実・日露戦争、黒溝台会戦。
防御の薄かった黒溝台へ降り注ぐ大反攻に、帝国陸軍は「塹壕戦ドクトリン」を採用。第一次大戦を先取りして機関銃を利用した塹壕防衛が繰り広げたわけだが、そのさなかに乃木希典率いる第3軍が増援に来たという情報がロシア軍司令部に届いた。クロパトキン大将は想定より遥かに早い彼らの到着に恐れおののき、冬季反攻を断念したのだ。
主人公はこれを沿海州で再現するつもりなのだろう、が。
「敵の反攻意志を挫くなんて、できるのですか?」
第一、クロパトキン大将が第3軍の早期到達に震え上がったのは第3軍が堅牢な旅順を落とした世界の認める歴戦部隊であったからであり、本土から輸送してきた4個師団にはそんな箔など何一つとしてない。
(そもそも増援の4個師団は本土防衛用の予備師団。支援兵科さえ付属しない弱兵のどこに敵軍が怯えるんだか)
本土防衛の最終部隊を引き抜いてくるという発想からして訳が分からない。本土防衛をどうするつもりなのだ。
「ククク……、やはりお前みたいな現場の人間には低次元の発想しかできないか」
「は?」
「俺は枢密院議員、戦略家だ。お前らみたいに眼前の事を武力で解決するだけの野蛮な労働者風情とは違って、高度な知能戦を繰り広げる」
「だからどうだと?」
「お前ら現場にはない『知性』によって、俺は精神という高次元の駆け引きをロシア軍司令部に仕掛けてるのさ。――お前が理解できないのも、当然だ」
次元が違うんだよ、と彼は言う。
どうやら彼は心理戦を掛けているつもりらしい。
「あのですね。帝国極東軍の総司令は、クロパトキンではなくグリッペンベルクなのですよ」
そもそも、史実と敵の人材が違うのだ。
「歴史通りにいかなければ、失敗しましょう」
「ぶっ……ぷぷぷっ。いや、いやいや。まさか」
お前がまだそのレベルで成長を止めてたとは思わなくて、な。
主人公は目を細める。
「『失敗』?そんなもの、俺の王道にあるわけねぇだろ。」
「っ、これはゲームではないのです」
「史実にそんなことはなかった、って何度も言ってるだろうが。やっぱり、令和人には歴史を理解する能、ってものがないらしいな。」
くすくすと笑いながら主人公は続ける。
「歴史すら知らなくて、俺ら改変者に文句をつける資格があるとでも思ってるのか?専門家の高度な話を素人が罵るような――…しゃしゃって恥ずかしくないのか?」
「れ、歴史の専門家ぁ?」
「ああそうさ。世界中から集った観戦武官とメディアの前で、俺は鮮やかな勝利を収め――世界から賞賛され憧憬されながら……『英雄』へ続く栄光の王道を駆けるんだ」
トントン、と彼が触るマイクには「記録用」とある。
そこから伸びる電線はそこの巨大な録音機に繋がっていて、プロパガンダ映画の素材になるらしい。
主人公が命令用の受話器を取った瞬間に、記録が始まるという。生声の録音機など最先端技術すぎて、どれほど金が掛かっているのだろうか。
一銭でも弾薬生産に回っていれば、戦況も少しはマシになったろうに。
「完璧すぎて、悔しいだろう。召喚という同じスタートラインに立ったのにどうして気づいたら俺の方が遥か先に……。そう思って、お前が劣等感を抱いて当然だ。……あぁ、だからか。そんなにお前が俺にねちっこく絡んでくるのは」
(絡んできたのはあなたからでは)
「もう認めろよ。――それが、そもそもの先天的な人間としての、ポテンシャルの違いだ。お前には、『主人公』たりえる、才能がないんだよ」
彼は悠々と告げる。
「俺はお前とは違う。戦略家であり戦術家、そして改変者。全てを導き給う者」
「……」
「お前の無能の分は俺が『英雄』だから仕方ないが賄ってやらなきゃいけない。けどお前が嫉妬を見せた瞬間――容赦なく突き放してやる。その瞬間、この娘は気づくのさ。お前の浅ましさに」
格の違いってのを見せてやる。そう言い放ち、咲来の手を握る主人公。
手錠を鳴らす鎖。彼女を助けられない無力に、玲那は唇を噛み締めた。




