第76話 戦略的敗北
「戦時国債の売れ行きは実に順調ですわ」
掛澗のお嬢様はそう切り出した。
「世界各国で飛ぶように売れていまして、戦費は円滑に補填されておりますの」
「やはりウラジオストク陥落が強かったか」
「仰るとおりですわ、親王殿下」
閑院宮は静かに煙を吐く。
「ハルビンを捨てた代償は安くない、か」
「……良くも悪くも、ですね」
玲那がそう漏らすと、彼もゆっくりと肯定を示した。
すると、うーん、と呟いて秋山が掛澗に問い直す。
「少なくとも国際世論に『皇國優勢』の印象を植え付けるための政治的プロパガンダとしては成功した、そういう認識でいいのか?」
「資金と資源は作戦決行前と比較して随分と補充が易しくなりましてよ。継戦能力はだいぶ改善しましたわ」
掛澗が手元の資料を指し示す。
「なるほど、数字を見れば劇的ってか」
「ええ。史実、講和で譲歩せざるを得ない理由だった『戦力枯渇』は、先述しました資金面でも、戦力面でも、そして国力面でもまだ十分に先のお話でしてよ」
そもそも、基礎国力だけでも史実と比べて1.5倍あるのだ。
更に旅順攻防戦や奉天会戦といった血で血を洗う泥沼の白兵戦を経ず、電撃的かつ一方的な戦果を叩き出したことで死傷者はたった3000で抑えている。
戦力枯渇など程遠い、というのが現況である。
「次の年に裂号レベルの大規模作戦を2回やると仮定しても、弾薬生産そして予算、戦力を総合して算出される戦力枯渇は――"3年後"」
「3年、か。皇國はあの規模の殴り合いを総計で4年続けることが出来るってか。……くくっ、お嬢は世界大戦にでも臨むつもりか?」
「ふふ、早まらないでくださいまし少将。あくまで数字の上の話でしてよ」
されど、そのくらいの余力はあるというわけだ。
あのような大規模作戦を最低あと2回は出来る、これは大きい。
「それともう一つ。日露戦争中に英米に編入が認められた島嶼がありますの」
「んー待って待って待て、それってちょっとセンシティブな匂いが」
「TK島じゃん」
「秋山少将!ちょ、あなた、なんで言っちゃうのですか!?」
「鬱陵島!東南里!*f@d○+/gr□h;fa 独○!」
一瞬で混沌に陥った場を前に、されど掛澗は我関せずニコリと微笑んだ。
「ナトゥナ並びにアナンバス諸島ですわ」
「納豆?」
「あんなバス?」
「予想はしていましたけど知名度ゼロですわね…」
「納豆みたいなバスってことか」
「欠陥品じゃねぇか」
「いや阿南バスだろ、橘営業所を中心に徳島の県南でバス事業を展開する……」
「一体どこの話をなさって???」
はぁ、と掛澗は溜息をつく。
「『オランダ領東インド』リアウ諸島州北部、南シナ海南部に浮かぶ島嶼群ですわ」
「オランダ領…、」
「…東、インド??」
玲那と秋山が復唱して、一拍遅れて場が騒然とする。
「「「 "蘭印"!!?」」」
「ええ。史実ではそう呼ばれていた地域の一部ですわ」
「ちょえ、オランダの土地を強行併合なさったのですか!?」
「が、外交的に拙くないか??」
「おあああああああああ!!!」
一人だけ脳死で叫んでるだけのバカがいるが放っておこう。
半分取り乱しつつ釈明を求めると、掛澗が落ち着き払って首を振る。
「ナトゥナ/アナンバス諸島がオランダ施政下に入ったのは史実、1909年ですの」
「せ、せんきゅーひゃくきゅう?」
「でしてよ。抑々、蘭印はその成立自体は1600年代に遡り、旧江戸幕府に匹敵するほどの歴史を持つものの、領域の完成は意外に遅く1910年でしてよ。」
「ぐえあああああああ!!!」
「お黙り頂けて?」
「ぎぃよおおおおおおお!!」
掛澗が無言で微笑んで圧をかけると、ピタリと秋山は止まった。
騒がしい奴である。
「話の腰を折られましたわね。…アチェ王国が滅亡し、スマトラ島全土が蘭領になったのさえ今年はじめの話ですの。蘭印は未だ形成途上なのですわ」
「……そこに、つけ込んだと?」
「流石は親王殿下ですこと。どこかの研刃機とは違って理解が早い」
「例えが分かりづらい」
秋山のつっこみを全く関せず掛澗は言葉を続ける。
「さて、ナトゥナ・アナンバス諸島がオランダに領有されたのは明治42年。今年は明治37年。つまり、本年時点では無主地」
此処に至って玲那も理解する。
皇國は先占の原則の下に領有を宣言し、それを英米が認めた。
たったそれだけのことなのだ、と。
「恐ろしくてよ……"皇國領東インド"、ですか」
「『東インド』と誇れるような広大な土地ではなくってよ」
掛澗は苦笑しながら戦略図を指す。
南シナ海の南端海域、英領マラヤ、マレー半島と北ボルネオのほぼ中間地点にある少し大きな島嶼を、彼女は示した。
「ここがナトゥナ・アナンバス諸島ですの」
続けて、指をその北の環礁群へと滑らす。
「南沙、すなわち新南諸島。ここは台湾の付属島嶼として澎湖とともに皇國が獲得した領土と下関条約に明記されており、南シナ海のほぼ全域に広がるその領域の編入は、既に10年前に全世界が承認している。」
掛澗はおもむろにペンを出す。
「さて、この2諸島は本年より。皇國台湾総督府高雄州所属、新南諸島の南端を構成する23島嶼となりまして……、」
そして南シナ海に、台湾から赤道直下のアナンバス・ナトゥナ諸島まで、その領域の縁へ9つの線を引いたのだ。
「英米に領有を認められたこの南方限界線――『九段線』が成立しますわ。」
鳥肌が立った。
確かに、たしかにその名は聞き覚えがある。
前の世界、すなわち史実、中華人民共和国が主張することになる名称だ。
それを躊躇することなく、平然と、皇國の領域の名に使う。
しかも史実の範囲だけじゃなく、台湾並びにナトゥナ諸島までもを含めるこの広大な領域を、堂々とその輪郭の中に含める。
更に今度は、世界の了承を得ていると来た。
「……相変わらず恐ろしい魂胆をお持ちですね、茶路さま?」
「褒め言葉とお受け取りいたしますわ」
変わらない微笑を浮かべ、ドレスのスカートを少し持ち上げる掛澗。やっぱりこいつもこいつでヤバい奴だな。ある意味秋山少将とは似た者同士だ。
「何かとんでもなく失礼なことを考えていらっしゃらなくて?」
「いえいえいえ?何も???」
でも二人とも有能ではあるんだよな。天才と狂人は紙一重とはこの通りだ。
「待て。……これって、本当にバルチック艦隊対策だけなのか」
秋山が怪訝そうに戦略図を睨む。
この一連の編入を英米に認めさせた建前は、対バルチック艦隊のための南シナ海の制海権確保である。
けれど、確かに。
それだけとは思えない何か、貪欲さを感じる。
「…ふっ、よくお気づきですわね」
掛澗は微笑んだ。
「英領マラヤ、石油産地。北ボルネオ、石油産地。蘭領パレンバン、石油産地。この3地域に囲まれた南シナ海南端に浮かぶ、ナトゥナ諸島――」
「「石油産出地!!?」」
秋山と一緒に声を張り上げる。
閑院宮がふん、と笑った。
「よく思いついたな。植民地獲得戦争終盤、ロシアの脅威を言い訳に、滑り込みで産油地を確保か。」
「ええ。それもいっとう良質な油田ですわ。これも全ては、史実の悲劇を避けるため。」
王道、仮想戦記。
石油問題は、満州の大慶油田によって解決!という展開がスタンダード。
されど、現実の大慶の油は質が悪い。
けれどそこは火葬戦記。そんな都合の悪い事情はなかったことになる。
それをこの火葬戦記は――明治の時代に南進することで解決を図ったのだ。
「お、お待ちください! そんなご都合の良い展開なんて……第一、南シナ海の孤島でしょう。十分な精製、貯蓄設備、そしてそれを搬出可能な巨大石油港なんて置ける面積が――」
「大ナトゥナ島。総面積1700平方km、香川県に匹敵。」
「か、がわ…!?」
国鉄宇高航路、本四の鉄道連絡船を支えた片翼たる高松港を有する香川県。
瀬戸内工業地域を倉敷、松山などと共に担い、高度な石油化学コンビナートを有することとなる香川県。
面積的な問題など、考えるまでもない。
「で…でも!万一輸送船団が全滅したら、長大な南シナ海から本土まで石油を搬送する航路など……」
「九州 - 台湾 - ナトゥナ海底パイプライン。戦後着工、1920年前後を目処に完成」
「海底パイプラインだと!?」
玲那よりも早く秋山が飛び上がって食いついた。
「ににに俄には信じがたい…!そんなこと現実的に可能なのか???」
「わたくしが不可能を申したことが過去一度でもありまして?」
「いや、たしかにそう言われればそうなんだが…」
「パイプを艦上で溶接なりボルトなりで接合できる工作船があれば十分ですわ。鉄パイプを千本詰め込んで海上で接合して、あとは船尾から垂らすだけでしてよ」
「え、海底固定とか必要ないの?」
「海底は雨風地割れの頻発する地上と比べて浮力もありますし、パイプへの負担は最小限ですわ。ケーブル同様21世紀でさえ無固定方式を採っているのですよ?」
ありえない、そう思っていたのがこの言葉で一気に現実味が湧いてくる。
海底パイプライン?
1920年前後に?
まだ、まだ大正時代だぞ。
「……工作船は商船を使うのか?」
「ついては現在、潜水母艦から飛行船母艦に戦時改装中の『松島』を、戦後、専用工作船に改装いたしますわ」
「待って?それおれ聞いてないよ??」
「大蔵省に逆らえるとでも?」
「喜んで献上致しますお嬢様ァッッッ!!!!」
彼は飛び上がって敬礼した。
それでいいのか秋山よ。
「……いや、マジレスすると『松島』を献上して余りある利益が海軍にはある」
彼は深妙に呟き出す。
「海上護衛船団を常時貼り付けさせずとも、いや…輸送船団を出さずとも。戦時、無際限に良質な原油を海底を通じて皇國本土に送り込むことができるなど――史実の敗因を根本から叩き潰したも、同然だ」
その言葉に戦慄する。
それは、もはや南進の理由を皇國から消し去る最強の手段。
「陸軍としても歓迎以外の態度を思いつかん。海軍が仮に壊滅したとしても、ナトゥナ諸島の産油設備と本土の精製場が無事ならば、航空隊を自由に使うことが出来る」
それだけじゃない、と閑院宮が続ける。
「パイプラインを対馬海峡に敷設出来れば、大陸に無尽蔵に精油を供給できる――つまり、満州、大陸、ともすればインドシナまでの全域で、制空確保下の大規模な機甲師団の運用も可能になる」
日中戦争を見据えての発言、直感でそんなふうに感じた。
いや、考えすぎか。
はるか33年も先の話だ。
なのに。
そんな事はわかりきっているのに、口だけは浮ついてしまう。
「戦争第一年、機甲師団による華東一帯の電撃的制圧。
戦争第二年、長江流域を遡上、武漢、長沙を席巻。
戦争第三年、機甲師団転進、大陸再打通『一号』による香港南京接続。
戦争第四年――、重慶を完全射程内に。」
秋山や秋山までもがバッ、と振り向く。
「あの戦争に、たった四年でケリをつけれる……?」
「それは無理だろうな」
閑院宮が煙草を下ろしつつ、静かに首を振る。
「重慶がダメなら昆明に、それでも無理なら青海省まで逃げるだろう。なにせ中華は深く、広い」
重く白煙を吐く。
「だが、遥かに自由な作戦行動が可能になるのも事実だ。
例えば、山下奉文大将以下マレー銀輪部隊の装甲化や、インパールを圧倒的制空の下に機甲師団で突破、そのままインダス流域に雪崩込む…。そんな無茶も幻想ではなくなる」
「「……っ!」」
史実のような熾烈な通商破壊を受けても、皇國陸海軍は平気で航空機を飛ばし、艦隊を繰り出し、戦車を伴った大規模攻勢を南方で行える。
どうやら、史実線との乖離は予想以上のようだ。
「…あの、盛り上がってらっしゃるところ申し訳ないのですけれど」
掛澗は苦笑する。
「実はあの時代の必須石油総量を満たすには、流石にあの島だけでは到底足りませんの。海上油田まで展開して最大限拡張したとしても、必須総量の精々4割、といったところですわ」
「ダメではないですか」
「いいや、十分だ」
秋山が笑う。
「大艦隊を常に遊ばしてるわけじゃない。作戦時以外は母港に浮かぶただの鉄塊だ、小康時の海軍が消費する石油なんて大規模作戦時と比較しちゃ塵みたいなものさ」
「それに、本土には貯蔵設備を設置出来るだろうしな」
閑院宮も目を瞑ったままそう継いで、肯定を示す。
「あの大戦の突破口を開けることが出来たのは事実、ですか……」
「よろしくってよ。皇國が石油に困ることはない」
皇國が、産油国か。
夢のような世界だ。
「まぁそれは幾十年と先の話ですわ。まずは、建前どおりバルチック艦隊迎撃のための拠点化でしてよ?」
けれど、そんな世界など、簡単には手に入れさせてくれないのはわかっている。
「われら皇國第四艦隊、潜水/水雷戦隊の泊地と海軍飛行場建設だな。確かに赤道直下に拠点を確保できれば、澎湖と合わせて南シナ海の哨戒網は絶対的となる」
この戦争で敗ければ、なにもかもが水泡に帰す。
「「なんとしてでも、バルチック艦隊を撃滅せねばならない」」
続く秋山の言葉に、見事被さった。
一瞬彼はあっけにとられたような表情を見せたが、すぐに笑う。
そうして玲那は。
「敵艦隊、引き返しませんね」
そうして玲那は、この場で誰もが触れることを避けていた現実に言い及ぶ。
「ッ……」
「お嬢様、和平工作の状況はいかがに?」
「麗しくは、ありませんわね……」
「現況を教えてくださいませ」
言い淀んで、躊躇して。
それでも掛澗は言葉を紡ぎ出す。
「現状、ロシア帝国からの打診も、合衆国からの講和斡旋もありませんわ」
「「「………ッ」」」
「さように、ございますか」
戦争状態は続き、ロシア側からの講和打診は当然なく、また合衆国の和平工作にも応答しない。目的地のウラジオストクはもう落ちているのに、相変わらずバルチック艦隊は足を止めず、刻一刻と皇國本土へ迫り続ける。
引き返さない理由なんてただひとつ。
着く頃にはウラジオストクを奪回出来ているという自信があるからに他ならない。
「……此処に至っては最早、認めざるを得ませんね」
結果は、今年7月の段階で見えていた。
ハルビンを落とさなかった――否、司令部を、ロシア満州軍の貴重で希少な知性の塊たる将校団を取り逃がした時点で、むざむざ再起の機会をロシア軍に与えたのだ。
広大なロシア。
兵はいくらでも畑から取れるが、将校がすぐには育たないのは諸国と同じ。
あの段階でウラジオストクの攻略を諦めてハルビンへ急行していれば。
ロシア満州軍の頭を刈り取り、継戦不能に陥れることができただろう。
「皇國は、――いえ、独立第26連隊は。
戦争を終わらせる一撃に失敗しました。」
ウラジオストク陥落を以て終結するはずだった戦争計画。
その回路が既に機能していないことを作戦初期の段階から気づいておきながら、玲那は、自分を、周りを、皇國を騙して、戦術上だけ完遂し、成功を取り繕ったのだ。
「……ふふ。我ながらとんでもない国賊、大法螺吹きにございます」
歯車の抜け落ちた回路は空回りし続けて、いつかは破綻が露呈する。
玲那たちは致命的なミスをした。
「裂号作戦は、戦略的敗北です。」
掛澗も、秋山さえも、黙り込む。
玲那は彼ら彼女ら、そして自分自身の戦果をも否定したのだ。
「ならば、どうする?」
閑院宮が煙を吐きつつそう問いかける。
玲那は彼に微笑って向き直った。
「どうにかする」
「……答えになっとらんな」
頭を振って言葉を継ぐ。
「どうにかするために、まずは連中の冬季反攻をどうにかして耐えきる。」
その言葉に掛澗が青ざめた。
「冬季…、反攻……!?」
「敵艦隊が引き返さないのです、着く5月頃までには、港湾を修復する余裕までもをもってウラジオストクを奪還する、そういう自信と意思の表明でしょう」
ロシア軍の冬季大反攻。
聞いただけで身の震えるような地獄の沙汰である。
それも、失敗した『バルバロッサ作戦』に降り注ぐものとしては、あまりにも縁起の悪すぎる言葉であった。
「史実、行われなかったのにも関わらず?」
「皇國陸軍は史実より遥か奥地まで進軍してございます。もう史実の展開はアテにならないし、しないほうがよくってよ」
「…そう、だな」
「お嬢様。あと2回、裂号規模の大作戦を実施できると仰いましたね?」
「え?ええ、ええ。継戦能力はまだ2回分はありますわ」
吐息をひとつき。
「承りました。1回をすぐにでも始まる大反攻の防衛に、続くもう1回を再攻勢に割り当てます。いよいよ猶予はございません」
史実の切迫感が着実に近づいてくる、そんな雰囲気だった。




