第6話 令和のくびき
「はぁ――…、どうしてこのような地に」
しとやかな佇まいから中指を差し出す。
明治29年6月。小銃を背に提げて、たった12のお嬢様は樺太に立っていた。
『戦況はそこまで危機的なのですか?』
『うむ』
閑院宮の相槌を思い返す。
『皇國は、屯田兵しか動かせぬ』
列強国との武力衝突という事態。とはいえロシア軍は軍の一部を進駐させただけだ。ここで皇國が総動員を布告すれば、ロシアも極東軍の総力を樺太に差し向けるだろう。そうなれば全面戦争に発展してしまう。
国境紛争の体裁を保つこと。いま皇國が生き残るための絶対条件だ。総動員の禁止という巨大な制約を課せられた皇國は、臨戦地帯である北海道にしか動員令を出せない。
明治29年、北海道。100万人に満たないその人口では徴兵制を敷くことすら困難で、屯田兵という入植制度を用意しなければならなかった。国内でいちばん兵力が不足している地域で、列強に対抗するための戦力を捻出しようとしたらどうなるか――閑院宮はこう答える。
『答えは……無際限徴兵だ』
第一種動員令。屯田兵の一家は性別すら関係なく根こそぎ動員される。全道に臨戦戒厳が発令され、忠別でも軍政が敷かれた。このとき、上川離宮とて宮廷に軍隊が土足で立ち入るのはいかがなものかと問題になる。その結果、閑院宮の屯田兵大隊の下に直属して禁裏を鎮護する禁闕部隊を新設することとなった。当然その長は上川宮廷の貴い方である必要がある。
白羽の矢が立ったのは玲那だった。
「ええ、理屈はわかりますとも」
閑院宮は現職がある。玲那しか候補がいないのもわかる。そして所詮はお飾りだ、指揮は下士官にでも任せればよい。けれど常識的に12の少女を戦地に送り込むだろうか。その違和感から見えてくるのは、皇國枢密院の意思だ。
「……死ね、というのですね」
玲那はうつろに呟く。十中八九、未来知識を持つ悪役皇女を始末するための処置だろう。敵弾にでも当たってくれればよい――そうなれば手を汚さずに排除できる。
「連隊直属、禁闕小隊。その長たる闕杖官ですか」
お飾りにふさわしい大層な名前だ。
第一種動員の下に屯田兵団は「北海鎮台」――皇國7番目の鎮台へと再編された。閑院宮の大隊も連隊へ昇格、歩兵第26連隊の名を賜った。連隊長を閑院宮載仁親王とし、その隷下に直属する禁闕小隊を玲那は率いることになる。
北海鎮台
└【鎮台司令部】
| └第7砲兵連隊
| └第7偵察中隊
| └第7工兵中隊
└<歩兵第25連隊>(札幌)
└<歩兵第26連隊>(忠別)……<禁闕小隊>
└<歩兵第27連隊>(函館)
└<歩兵第28連隊>(釧路)
一昨日から続く大雨で霞む山緑を見上げる。
ここは真縫川のほとり、三方を山に囲まれつつもオホーツク海に開けた樺太南部の三角州だ。立ち込める深い霧は6月だというのに寒々しくて、身震いしながら玲那は兵装を載せたリヤカーを木陰へと運び込んだ。
「ここにいたか」
閑院宮に声をかけられる。
「これは……連隊長たる御方がこんな所にいらしてよろしいのです?」
「出陣前の閲兵のようなものだ。それにせよ、よくこんなもの持ってきたものだ」
「ええ。何も野垂れ死ぬ必要はありませんもの」
マキシム機関銃に手を添えて答える。枢密院の言う通りに殺されてやる義理はない。この禁闕部隊とやらは名目上とて玲那が指揮できるのだ。
「逆手にとって、せいぜい足掻いて見せましょう」
お飾りであろうと利用できるものは利用する。当然の話で、玲那はこの禁闕小隊の指揮権を活かして、忠別で積み上げてきた新兵器を装備させていた。
「まぁ、あまり気負うでない」
閑院宮は言う。
「玲那くんを最前線に送るほど北鎮も馬鹿じゃない。所詮は士気を鼓舞するための見世物……戦力としては期待されてはおらん」
だからこそこのような試作段階の兵器の配備を許可できたわけだがな、と彼は付け足した。
「禁闕小隊は主戦場から離れた山地に配備する。後方援護をしてもらおう」
「……後方、ですか」
「不服か?」
「いっ、いえ。願ってもないことでございます」
くはははっ、と閑院宮は笑う。
「せいぜい励め、小隊長」
それだけ言うと、連隊本営へと踵を返していった。
・・・・・・
・・・・
・・
「二時方向300に敵影」
その報告で、小隊が一気に殺気立つ。
「規模は」
「分隊未満です。斥候かと」
「排除します。動けるものから来なさい」
玲那は初めての命令を飛ばす。戦線はずっと前方のはずだが、閑院宮の連隊をすり抜けてよくここまで潜り込んできたものだ。
(さっそく実戦にございますか)
前衛の閑院宮が敵の主力と相対しているのだ、そこから漏れ出したのを処理するのは後方の役目。つまりは玲那たち禁闕小隊の番だ。リヤカーに飛び乗る。その上の布を取り払えば、マキシム重機関銃が現れた。
「なんだあれ」
「小隊長が持ち込ませた例の荷物だろ」
兵士たちから怪訝な視線を食らう。
「ゴツい見た目だな。お姫様の骨董品ってわけか」
「装飾銃か? 使えるのかよアレ」
東洋初の機関銃であるがゆえに、誰もその正体を知らない。銃器であることしかわからないだろう。だからその反応も無理はあるまいと、玲那は給弾ベルトを差し込んで、銃口を二時へと向けた。
「分隊進発。接敵次第撃つこと」
正面の森に入って数歩経たないうちに、下士官のひとりが人差し指をほのかに動かした。薬莢が排出される音が響いたかと思うと、敵兵が血を吹いて倒れる。
「!」
それを目の当たりにして。
玲那の足はどうしてか、竦んでしまった。
(……っ)
頭では分かる。ここで玲那たちは彼らを殺さなければならない。照門と照星はとうに敵を捉えている。もう銃弾は入っている。あとは、この右手の人差指に力を入れるだけだというのに。
顔がこわばる。手が震えて、そのまま凍り付く。
「動いてっ、くださいよ……!」
2秒、3秒、4秒。刻々と時だけ進む。錯乱したような玲那をちらりと見て、隣で小銃を構えていた伍長は呟いた。
「……まさか」
瞬間、ふたつの影が向かいの木陰に覗く。伍長は迷わず引き金を引いた。銃声と同時、影がひとつ倒れる。すかさず発砲は続いて二つ目の影も倒れる。
その瞬間を、命が刈られる瞬間を目に焼き付けた玲那の足は、どうしたことだろう――がくがくと抑えが効かなくなって、そのまま路盤を踏み外した。
「っ!」
全身を打ち付けながら、斜面を滑り落ちる。
「この箱入り娘が……!」
悪態をつく伍長の姿も遠くなって、見えなくなる。助けには来ないだろう。
(おかしい、ですよ)
なんで玲那が人殺しをしなきゃいけないのだ。
そもそもこれは明治時代を舞台とする壮大な乙女ゲームのはず。玲那は、そこに登場する一介の敵役に過ぎないはずだ。こんな北の果てで、銃弾に倒れるルートなんて用意されてはいない。ゲームがこの命の保証をしてくれている、そうだろう。
「わっ!?」
どちゃ、と泥をひっかぶって身体が止まる。ひっくり返ったリヤカーとともに、玲那ひとりが残された。
(……みじめですね)
ゆっくりと身を起こす。少しだけ頭が冷えた――これは敵前逃亡だ、処罰もやむなしだろう。水溜りに映った泥だらけの長髪。淀んだ翠色の瞳は、微塵の戦意も宿していない。
まだ12の皇女には、死の恐怖という荷は重すぎる。
「……!」
気づくのは少し遅れたかもしれない。
味方と違う格好の影がいる。距離にしておよそ50m先で、木にもたれかかっている。その瞳にはあまり戦意を感じない。ここは前線から離れた場所だ。もしかして、玲那と同じく戦闘を避けてきたのだろうか。
懐から拳銃を抜く。リヤカーを起こして機関銃を構える余裕はない。
けれど彼は、しばらくしても動く様子はなく、前線の方をおどおど警戒している。それなら玲那から手を出す必要はない。幸いだ、そう思って安堵した。妙な親近感さえ覚えた。
それ故の気の緩みか。
カラン。
給弾ベルトから6.5mm弾が抜けて、不幸にもすぐ直下の石に当たった。
相手ははっとしてこちらを向く。咄嗟に銃口をこっちに向けた。
先手必勝、当然の定理。すぐに撃鉄を絞ろうとして――
両者の間をびゅうと、六月の冷たい風が吹く。
(なんで……!?)
手汗が滝のように腕を伝う。玲那の手先は金縛りのように動かない。まともに狙いが定まらないのだ。けれどそれは向こうも同じみたいだ。いくら経っても銃口を向けたまま微動だにしない。
しばらく時間が経った。
「……!」
思考を巡らせ、一つの考えに至る。
彼も戦いに怯えているに違いない。ならば、このまま睨み合いながら互いに遠ざかれば良いのだ。そうすれば玲那も彼も助かる。全部なかったことに出来る。ハッピーエンドだ。
そもそもこれは乙女ゲームなんだ。人殺しをする必要なんてさらさらない。やっぱり玲那は一介の登場人物で、決められた「悪役」に過ぎなくて。
刹那。
「――あ」
眼前のロシア人は、壮絶な笑みを浮かべて一歩、踏み込んでいた。
時間がゆっくりと過ぎていく。これが走馬灯か。
はっきりと、撃鉄に差した彼の指が動くのが見えた。
「馬鹿ッ、撃たれる前に撃ちなさい!!」
耳元に響く声。
それより僅かに早く、とつぜん玲那の背後に降りた誰かの人差し指が、引き金にあった玲那の指を押し潰した。
銃声、一発。
タァ――ン!
6.5mm弾の排出される音、弾丸はまっすぐ突っ込み、相手がのけぞる。
同時に相手の銃弾が玲那の頭をかすめて、背後の木に穴を開けた。
撃ったのか。この玲那が。
「誰だか知らないけど、阿呆なの!?」
「ぁ……」
銀髪の少女が立っている。
妖精みたいな羽織衣の背には、一本の槍を差している。
「いまの、死んでもおかしくないのよ!」
「玲那は、い、ま……?」
人を殺したことがなかった。それは、決してしてはならないことだから。決して犯してはならぬ禁忌だと、そう教えられたから。
それを。それを今。
「死にたいの!?」
この少女の赤銅色の瞳に映るプリンセスは、人殺しだ。
悪役じゃない。もはや、紛れもない『悪』だ。
「どうして、撃ったのですか……!」
人殺しをさせられた。
この手を汚させられた。
「あ、当たり前でしょ!」
悪になってしまった玲那を待つのは断罪であり、破滅なのだ。十字架のように負わされたこの悲惨な運命も知らずに、この小娘は、玲那の手を使って殺しをしたのだ。
「死にたくなければ撃つしかないじゃない!」
困惑もそこそこに叱りつけるようなその口調にも耐えられなかった。勢いのままに、少女の襟首を掴む。
「あなたはッ、撃てるのですか!」
「はっ、はぁ……!?」
止められない。
「戦意はなかったかもしれないでしょうっ、戦場が嫌いで、気弱で、でもどうしても生きたくて、銃を取るしかなくて。そんな人を!」
彼にだって人生があったのに、それを奪ったのだ。人ひとり分の物語を終わらせてしまった。そうして悪に堕ちた玲那の運命は、もはや変えられまい。
けれど少女は玲那に向き直って、まっすぐ言い放つ。
「ここに来たなら――覚悟決めなさいよ」
何か言いかける少女の言葉は、玲那の耳に入らない。
また、それか。さながら子供の駄々のように、玲那は地を蹴った。
「このっ、人でなしッ!」
思い切り少女を突き飛ばす。
ダァ――ン!
まさに、その瞬間だった。
一縷の火線が、倒れ込む少女の身体を貫いた。
かはっ、と少女は声を上げて、空中を回転する。
鮮血が飛び散って、玲那に掛かる。
一瞬で矜持とか、憎悪とかが消えた。
今のは、玲那のせいだ。確実に、絶対に。
「あ――あ……」
ドチャァ、とその少女は泥溜まりに落ちる。
純白だった羽織は赤茶色に汚れて、びくとも動かない。
慌てて駆け寄ろうとする。それを遮るように銃声音が響く。玲那と少女を隔てるように、玲那の爪先に小さい土柱ができて、砂埃が舞う。
「い……や、っ――」
見つけた。藪に隠れて、銃口を向けるロシア兵。
撃てない。どうして。
ここでやらなきゃ――。
チッ、とおもむろに頬が掠れる。
銃弾が背後に着弾し、小さな土柱をあげた。
時間がゆったりと過ぎる。人間の命、人生を奪うこと、責任――前世の矜持と、本能の警鐘が玲那を挟み込んで、潰しにかかる。
「あ……」
するりと懐に手が滑り込んで、拳銃を引きずり出す。眼下のロシア兵を撃とうとしても撃てなかった、全ての準備を終えていた銃口が、上を向く。
ただ、滑らかに指が動いた。
ダァン!
次弾を装填していたロシア兵は、いとも簡単に崩れ落ちた。
「あ……っ」
あぁ、そうなのか。自分の意志で人を殺めて、初めて気づく。
玲那は、ゲームの登場キャラクターじゃない。そんな特別な存在なんかじゃない。紛れもない現実世界に、そのあまりに脆い命を賭して生きる、一人の人間に過ぎなかったのだ。
(乙女ゲーム? 悪役? 玲那の頭はお花畑なのですか……!?)
平和という絶対的な前提の下に、対話や和解の理想を謳歌できた未来の世界に、魂の半分を置いてきた大いなる愚か者。
ここは130年前、明治29年――戦争最前線。そこで未来の矜持がどうの、自分の運命がどうだのなんて、なんと悍ましく、烏滸がましく、どれほど傲慢なことか。
「時代が、違うでしょう……!」
決められたルート以外では死なない?
すでに運命は決められている?
そんな「乙女ゲーム」とやらをひっくり返すと、とうの昔に決めたじゃないか。
戦場の命に価値など無い。死ねば別の兵士がその位置に立つのみ。かけがえなんていくらでもある。自分だけが死ぬわけがないだなんていう、そんな無責任な保証はどこにもない。だからこそ命を必死に抱えながら、全力で足掻いて藻掻いて殺さねば、生き残れない。
元始、あらゆる生命はそこに在った。
玲那は確かに乙女だろう。
「けれど、決して『ゲーム』なんかじゃない――!」
ようやく玲那は、令和のくびきを断ち切った。