第102話 神よ、なぜ我らを見捨て給うたのか。前篇
クロパトキン大将指揮の第2シベリア軍団は、早朝にドン川から出撃したブルシーロフ少佐の第11騎兵団を先鋒に急進し、午後4時過ぎに市の北郊ルイノクで待望の日本海に達した。制圧目標とされたのは、官公庁やウニヴェルマーク・デパート、二つの駅と港湾のある市街地南部だった。
「迅速に中心街へ突入せよ!」
「我に続けぇ!!」
高層建築物の並ぶ市域へ突入した歩兵部隊は、すぐに足を止める。
瓦礫によってメインロードは既に塞がれていたのだ。
「これは…。」
引き返すか、瓦礫を吹き越えて進むか。
決断に迷う部隊長の頭を――刹那、銃弾が吹き飛ばす。
「将校級、1名撃破」
戦果を呟いて、仙台の所属章を提げた老兵は次弾を込める。
東北狩人。
またの名を、マタギ。
日清戦争後の好景気による近代経済の地方への普及、輸入毛皮との競争。近代価値観の流入による、熊や鹿の胆肝の需要激減。
様々な要因で生計が成り立たなくなってきた伝統猟師たちを、狙撃兵として特別錬成過程へ雇い入れた仙台鎮台は実に賢明だった。
永らく奥羽の険しい山々を狩場として、木々に潜み静寂のうちに猛獣を撃ち殺してきた彼らの腕は、世間から不要とされて腐り落ちる前に、陸軍に拾われた。
雇用安定という皇國の社会福祉事業の一環でもあったのは確かだが、それ以上の絶大な副効果を仙鎮は手に入れた。
皇國の陸軍師団の編成は通常、1個連隊のもとに3個の歩兵大隊が直属するものであるが、仙台鎮台――史実の名を『第二師団』――に限っては、隷下の連隊に2個の歩兵大隊と1個の狙撃兵大隊を編成。
鎮台全体では狙撃兵大隊4個、総計約2600の辣腕の狩人が所属。
宮城野陸軍工廠は標準装備の三二式歩兵銃を改造、彼ら専用の狙撃銃を作り出した。何度も試作品を手渡して、実用の可否や便利な点不便な点をマタギたちから聞き、改良してまた試用という試行錯誤の連続だったが、この末に1901年の秋には『三五式狙撃銃』として制式採用が決まる。
宮城野工廠に専用生産レーンが設けられ、仙鎮は予備も含めて3年間で3000の狙撃銃を用意した。皇國の工場生産能力では妥当なラインだ。
三二実包6.5mmが小口径軽量であるせいで7.7mmの試作品より弾道が安定しづらかったり貫通力に劣ったりする欠点があるが、狙撃銃専用に7.7mm弾を製造して前線で使い分けるなどという高等テクニックを皇國が為せるはずもない。
通常歩兵との互換性を優先させた結果となった。
マタギたちの中には、スコープ代わりに大曲や天童の万華鏡の伝統工芸師たちに、その技術の応用での拡大鏡を依頼する者も現れた。
受け取ったそれを徹底的な演習で使い慣らし、射撃照準は実弾の飛翔結果に合わせて狙撃手たち一人ひとりが書き入れていった。そういうふうに、基本はマタギたちの個人技が命脈を繋ぐこととなる。
ゆえに狙撃銃が、その銃身に比べスコープだけめちゃくちゃに凝ったデザイン(しかも狙撃手一人ひとり違う)をしているのはご愛嬌だ。
――「英雄ノ凱旋」作戦で仙鎮の1個聯隊をまるまる失ったのは大痛手だった。
600に及ぶ貴重な精鋭狙撃手を含めた聯隊1個を溶かすには、あまりにも得たものがなさすぎた。
けれど――残る約2000の狙撃手は、刻下、市街地へ溶け込む。貴重で数の少ないロシア士官を、片っ端から暗殺するために。
『ウラジオストクは、もはや街ではない。』
廃墟から通るマタギたちの射線に、次々と高級将校が狩られていく。
指揮統制を失って更に混乱する歩兵たちに、死の巨影が建物の間から覗いた。
攻撃飛行船はその毎分600発の猛威を、無防備な地表へ撒き散らす。
「うわぁぁっ!?」
「ぎゃ、俺の、俺の足が!」
「なぜだ!なぜ近接航空支援が?!」
さらに、瓦礫の間に設営された機関銃陣地も次々と火を吹く。
指揮官を失った歩兵部隊は、無防備のまま十字砲火の餌食となった。
「ぐぎゃぁっ!」
「た…助けぐぶッ」
「なぜ敵の地上戦力が残ってる!?」
「砲兵はなにをやってるんだ!」
「下等生物どもは街ごと吹き飛ばされたんだろ!?」
「飛行船だけで足掻いても無駄だというのに…!」
口々に不平を噴出させるロシア兵。
「掃討戦だぞ、フィナーレだぞ!ここで大規模戦闘などあるわけがないんだ!」
「クソっ、アレを出せ! 新兵器のところまで後退するぞ!」
一目散に退却を始める兵士たち。
「対空戦闘用意!」
ひとつ後ろの街路で、運び込まれた新兵器が砲口をキリキリと上げていく。
通常の砲の仰角をはるかに越えて、その照準器が狙うのは空のただ一点。
「爆発高度3000、撃ち方始め!」
『日中は、火と煙がもうもうと立ち込め、一寸先も見えない。』
続々と空へ灰黒の花火が咲いて、またたく間に2隻の飛行船を撃墜する。
「な…っ!?」
絶対的な天空の覇者であった浮遊要塞が呆気なく火を吹いて墜ちる様に、皇國将兵の誰もが愕然とした。中尉章を提げた別海睦葉とて、それは例外ではない。
「なんで…、あんな一瞬で…?」
攻撃飛行船が掃討に近づこうとするも、地上の砲のほうが射程は遥かに長い。容易に近づくことも出来ず、逃げることしかできない。
航空支援が途絶えた隙を見計らって、ここぞとばかりにロシア歩兵が反攻を始める。
「突撃ィっ!」
「我に続け!」
金鷲をあしらった三色旗が靡いて、半年ぶりにウラジオストクへ母国の旗が翻る。
しかし、そこへ現れるのは歓迎の声を挙げる市民ではなく――迷彩柄の大鉄塊。
ゴゴゴッ…オォ――!
履帯を唸らせ瓦礫を踏み越え、銃口を歩兵の大部隊へ突きつける。
「っ!不味い、伏せ…」
もう何も言わせまいとて、死神は鎌を振り下ろした。
「ギャァァ!脚が、脚が!」
「ど、どうして装甲器械がいる!」
続けて瓦礫の山から飛び出す皇國歩兵部隊。
戦車の援護のもと、突撃喇叭を鳴り響かせて軍旗を先鋒に突き進む。
「ぜんぜん敵の地上軍は残ってるじゃないか!」
「どうしてっ、どうしてこの瓦礫の山で生きている?」
「一晩掛けた援護射撃はなんだったんだ!」
濃密な弾幕に次々と倒れていくロシア兵。
「砲兵へ援護要請!敵の地上戦力はまだ生き残ってる、と!」
「もう既にやっております!」
「っ、ならなぜ援護射撃が来ない!?」
遠くで着弾音が響く。
はるか遠くの方だ。それこそ、市街地の北の端のほうで。
「……おそらく、届いていないのかと」
「届かない、だぁ!?貴様、重砲の射程を舐めているのか…!」
一向にここへは砲弾が降らず、向こうに時折見える弾道はその全てがここよりはるか手前で、建物の影に消える。
「思うに、近代市街地は…高層で堅牢な建築物が多すぎて、重砲では破壊しきれないのかも……」
「馬鹿を言うな!なら何のための準備砲撃だ?!」
「けれども事実、遮蔽物に遮られて砲撃が届いておりません…!」
「ぐぅ…っ、クソッ!」
ロシア軍はパンクしている補給線をどうにかやりくりして、攻略に最低限必要な砲弾を沿海州へ運び込んだ。つまるところ、ロシア軍は昨晩通しで砲弾を撃ち尽くし――今注いでいる砲撃も、雀の涙ほどの残弾を使い切っていることは容易に想像がつく。
けれど、その全てが無駄であったのなら。
市街地という戦場に重砲は端から効かなかったのなら、あまりにも残酷だ。
「重砲が、効かない…だと?」
「っ、ならもっと砲兵を前方へ進出させれば!」
「大きすぎて市街地へ搬入できません!」
「そん、な…。」
一連の流れを路地に潜んで窺っていた別海も、ここに至って動くことを決意する。
「…我々も動く。直衛中隊、進発。」
「しかし総長代行、どこへ」
「敵の新兵器を破壊する。あれを壊さない限りは、航空支援が戻らないから」
別海の命にしたがって、市街地に唯一有効な『重砲』を――重迫撃砲を携えた中隊が裏通りを進み始める。背後から敵を葬り去るために。
『まるで炎に照らし出された巨大な炉のようだ。』
ロシア歩兵は戦術を、対空砲の射程範囲内における展開へ切り替えた。
範囲外への進攻には煙幕を使い、狙撃と航空支援の猛威を掻い潜ろうとしたが、物資不足に悩まされるロシア軍は早々に煙剤不足となってしまう。
さらに、将校の狙撃が深刻になるにつれて悲惨な人事も目立つようになってきた。
「まずは狙撃部隊を撃滅しろ!」
将校の致死率高騰に音を上げたロシア軍は、マタギたちが潜む建築物の制圧を優先することになり、歩兵部隊を分隊単位に細分化して廃墟の確保を開始した。
しかしながら、そこへ中央即応集団『桜花』が回り込む。
「突入、突入、突入ッ!」
「ウラァぁぁぁッ!!」
ロシア式の号令とともに1階へ侵入した歩兵たちは、まず入口に仕掛けられた即席の硝安爆薬の餌食となる。
それでも物量に物を言わせてなだれ込むロシア軍は階段付近で大規模な犠牲を出しつつ2階へと到達した。するとすぐさま皇國兵は3階へと退避する。
一転、もぬけの殻となった階層に呆然とするロシア兵。
「焼撃兵、噴射用意」
そこに差し込まれるのは火炎放射器の管。
「噴射」
静寂なる密室を業火が焼き尽くす。
一瞬で酸素を奪われたロシア兵たちは肺臓まで火傷して死に絶える。
大慌てで階下から外へ逃げ出すロシア兵を、屋根に陣取る歩兵たちが無慈悲に鴨撃ちする。
ただそれでもロシア軍を押し止めるには数が足りない皇國側は、一旦の離脱を決めて、屋根を渡って退却していった。
「進めッ!掃討戦で苦戦など列強の恥だ!!」
安堵と復讐感情に突き動かされるまま、次の建築物へ進んでいくロシア軍。
その直下を――真逆の方向へ突き進む影が、いくつか。
「地上、上空、そして地下。三次元の戦争芸術ってやつを見せてやらなきゃねっ!」
『桜花』の旗手たる晩生内は笑う。
張り巡らされた地下道と下水道を縫って、皇國兵は突出したロシア歩兵部隊の背後へと回り込む。
まさか悪臭と汚物にまみれた下水道に人間が入り込むとは思わなかったのだろう。マンホールから飛び出してきた皇國兵士を最初に迎えたのは、ロシア軍の前線指揮所だった。
「なッ、なぜ奴らがここに!!?」
「下水道だと?!蛮族め、汚らしい!」
「ぎゃァっ、助けてくれぇ!!」
突撃喇叭と、靡く軍旗。
久しく太陽の光の差し込まない粉塵の廃都に、旭日が翻る。
「撃て撃て撃て!」
「止まるな、進めぇっ!」
ここに留まらず、同時多発的に前線指揮所を地下から強襲されたロシア軍は、指揮系統をメタメタに寸断されて麻痺してしまう。
「空挺団、降下用意。」
「降下地点確認。敵影見えず」
「用意ィ、用意、用意――降下ァッ!」
その一瞬を突いて『桜花』隷下の空挺団が上空に展開、落下傘でロシア軍正面部隊の後背の廃墟群を空から制圧する。
地下と上空から挟み撃ちの奇襲を食らったロシア軍は、突出部分を包囲される。
その数およそ8万。
貴重な対空砲2門を含め、数多くの戦闘物資とともにロシア軍主力は、中心市街地に取り残されたのである。
『それは焼けつくように熱く、殺伐として耐えられないので、犬でさえ下水道に飛び込み、必死に泳いで海にたどり着こうとした。』
「なんなのだ、ここは…。」
マッカーサーは愕然と、崩れ落ちた廃都に佇む。
「掃討戦?狂ってる。こんなもの、『戦争』ではない…!」
そう葉巻を握りつぶす合衆国軍人。
そこへ一人のプロイセン将校が声をかける。
「どうかな。我々も10年後には、ヨーロッパでこれをやっているかもしれない」
「ふざけるな、我々文明人は下水道を這おうなど思わぬ!」
グォォン、と遥か高空に器械音が響き渡る。
二人の観戦武官が見上げた先には、羽ばたかない鉄の怪鳥が映っていた。
「なん、だ。あれは……!」
「飛行機、と言うらしいな」
主翼に赤い丸を描いて飛んでゆく人工物に、合衆国軍人はあんぐりと口を開ける。
「人間が…空を、飛ぶ?空気袋もなしに、機械だけで…??」
「偵察用の新兵器だそうだ。ロシア軍の対空火器の充実で、飛行船では被弾率が跳ね上がってしまうのだと」
流暢にルーデンドルフは語るものの、その兵器のどれをも米独は有さない。世界覇権の座を競う両国が理解すらできない兵器が、極東の隅で急速な発展を遂げていく。大きくプライドを傷つけられたマッカーサーは、顔を背けて奥歯を噛んだ。
「神のおわす空に踏み込もうなど…、発想自体が劣等人種なのだ…!」
「いつまで言ってられるかな。きっと5年経たず、あの飛行器械は機関銃や爆弾を積み始めるぞ」
きっ、と振り返るマッカーサー。
「我ら優等人種ならとっくにバカバカしくてこんな戦争やめておる!」
「……」
「どれもこれも、白人より知能が低く、理性のない有色人種ゆえの行動だ!」
「けれども、それにスラヴ人共は付き合っているんだよな」
ルーデンドルフは煙草を吹かす。
「いいや、付き合うばかりか日に日に戦火は燃え広がり、激しさを増している。どうしてだろうな、植民地人さんよ?」
「文明国には、美学がある。」
マッカーサーは段々と語気を強めていく。
「文学もある。哲学も、倫理もある!」
「だからどうだというのだ?」
「文明国の軍人は、"戦場美"というものを持つのだ…! 千年前から騎士道精神を育んできた我々が、その根幹たる騎兵を否定するような…そんな戦争を、やるはずがない!」
彼は息を継ぐ。
「生存本能のままに醜く殺し合う有色人種とは違うのだ!!」
「どうかな、我らとて感情に走ることはある」
「奴らはモンキーで、我々は人間だ!」
そう吐き捨てて合衆国軍人は、踵を返した。
「白人は決してこんな戦争はしない。理性ある我々には有り得ない話だッ」
「……さぁ、どうだろうな。」
去っていくマッカーサーの背中に、届かないとわかっていて。
「我々はフランスという宿敵と、狭い土地を巡って数百年前からいがみ合っているから、思うのかもしれないが…。」
ルーデンドルフは静かに呟く。
「人間というのは案外、賢明でない選択肢を平然と取るときもあるから、な」
『動物さえこの地獄から逃げ出す。人間だけが、耐えるのだ。』