第101話 陽動のオルレアン
「戦死比が落ち続けていますね」
戦闘経過を記録し詳報を纏め上げることを主任務とする『旗手』――晩生内が編纂した"戦史"に目を通して、玲那は呟いた。
「開戦一年目が一方的過ぎただけですよーっ? 騎兵と戦列歩兵を相手だったもん、そーなりますって」
「えぇ、もちろん。このごろは敵が慣れてきただけのことにございます」
そう返すと、察しのいい彼女は少し重げな息をつく。
「戦場に適応してきたのは間違いない、でしょーねっ……」
「旅順湾攻撃のときに20倍だった彼我の損害比は、1904年バルバロッサで10倍に半減したあと、松花江では7倍になりました。つづく冬季大反攻では5倍に落ちて、アルチョームの七三高地争奪戦にいたっては、ロシア兵士2人がかりで皇國兵士1人を仕留められるようになってしまっています」
「で、でも。そもそもの体格差じゃぁ白夜たち東洋人は勝てっこないんですから、よくやってる方だと――」
「よくやってる程度では、勝てないのですよ」
静かに吐き出す本音は、泥のように重い。
「開戦時には十個師団・18万人を擁した満州総軍はいまや12万人しかいないのです。師団定員は7割を切って、もはや戦力は枯渇していると申しても過分にはございません」
「……っ」
一年に及ぶ満州での攻防戦は、満州総軍に無視できない損耗を強いた。重砲から歩兵まで、なにもかもが足りていない。一方の東部戦線は、前身である沿海州総軍が今年の初めまで満州総軍の後方にいたために、幾分か戦力には余裕はある。
今のところはロシア軍がウラジオストク奪還にこだわっているために、東部戦線が矢面に立って受け止めることができているが、西部戦線のほうは破綻寸前なのだ。
「可能な限りのロシア軍をこちらでひきつける必要がございます。もしロシア皇帝の気が変わって西部戦線に兵を差し向けられれば……満州全土を失陥しかねません」
開戦時の三分の二しかいない戦力で、障害物のない満州平原では、ロシア軍80万の大攻勢には耐えられない。満州を失えば朝鮮まで危なくなる。そうなれば皇國はもはや大陸には居られない。
「死ぬ気で煽って、死ぬ気で目立って。そして、死守しなければならないのです」
ウラジオストクに世界中の目を引き付けて、本当の致命部位である西部戦線から目を逸らさせるために。さしずめここはオルレアンの戦いか。
(……玲那は、表に立たねばならぬ運命なのでしょうかね)
内地で発行されている新聞には、血を流す皇女に殴りかかる主人公の写真が一面に載っている。あのとき大聖堂で撮られたものだ。題は「英雄の交代」だという――そんなこと望んでもいないのにな。
そんな新聞紙で包まれた小包へと目を遣った。
「実は、内地から色々届いているのですよ。玲那たち宛てにね」
「白夜たちに、ですか?」
「ええ」
部屋の隅に置かれたその小包へ手を伸ばして、紐をほどく。
一番上にあった、可愛げな水玉模様の小さな封筒を手に取る。
「読んでみましょうか」
「いいんですかっ?」
静かに開けてみると、まずは一輪の造花。
「……かわいいっ!」
『へいたいさんたち、がんばってください! 6さい マツ』
たどたどしく、幼さ滲む文体で記されたお手紙。
「くすっ」
少し笑みを漏らす。嬉しいのもそうだけれど、21世紀の感覚ではおばあちゃん感拭えない「マツ」さんだけど、間違いなくこの時代では一般的な幼女の名なのだ。そのギャップがどこか面白くて笑えてきてしまう。
「笑ったのなんて、いつぶりでしょうか」
思い返してみる。
あの上野駅の夜行ホームで、別れ際に、4人で笑い合ったのがきっと最後。
そうだよな。またああやって集おうと誓って、玲那は銃を取ったのだ。
「部隊全員に配りましょうか」
「うん!それがいいと思いますっ」
晩生内はどこかほっこりとした顔で、小包の中身を持っていった。
ふと、部屋の隅に残された包装紙に目をやる。さっきの新聞紙だ。けばけばしい文字面で戦況を誇張する紙面が、さっきの手紙と比べればすこし淀んで見えた。
(御大層なプロパガンダですよ)
国民への宣伝ならそれでいいのだが、それに間違って目を通した軍人が鵜呑みにして舞い上がって、変な自己過信を始めてしまうと冷静な判断がつかなくなる。
「これは、しばらく封印しましょうか」
小包ごと奥の横穴に押し込んで、土を被せて塞ぐ。
こういうのには土壁むき出しの地下壕は便利だな。
「ではそろそろ行くとしましょう」
「は、はい!」
そうして振り返ることなく、一歩踏み出した。
その姿に声をかけられるとしたら――間違いなく「すぐにその新聞を全部読め」と叫ぶだろう。封印してしまったその全てを知るのは――あの日じゃ、遅すぎたから。
・・・・・・
・・・・
・・
「ようやく、敵軍は市街地へ撤退した。」
達成感とともに溜息を一つ、クロパトキンは晴れ渡る顔で空を仰ぐ。
七三高地を含め、ロシア軍は皇國陸軍の重砲陣地を全て制圧した。
「もはや市街のどこへでも砲撃を降らせることが可能だ。いくら敵に飛行船があろうとも、郊外から降り注ぐ榴弾を阻む術はない」
皇國が遺した陣地の跡に、新たに市街方面へ砲口を向けて重砲陣地を建設したロシア軍。掩体壕付きの砲台であるから爆撃時は退避可能。ロシア軍の防空兵器も確立されてきている。
「4門しかできあがっていないが、あの改造砲も…投入できる。」
機関銃を直上へ向けただけでは射程不足だと悟ったロシア軍が、急遽前線で作り上げた改造砲も準備済み。ここに至っては、もう誰もが疑わないだろう。
湾内を一望する七三高地を取られた皇國に、もはや勝ち目はない。
「残すは市街掃討のみ。ようやく、エンディングだ」
近代都市に立てこもってもろくな抵抗はできやしない――都市計画によって整備されたパリで革命を起こした市民軍が、広い大通りと整然とした街路網ゆえに立て籠もりづらく、容易に鎮圧されたパリ・コミューン事件。
以降半世紀に渡って市街戦をほぼ一切経験していない欧州諸列強の中では、重砲の登場と発展の中で、市街地戦闘は無謀という考えが暗黙の前提と化していた。
そんな風潮の中で、「市街掃討」という言葉は事実上の勝利宣言を意味するようになる。だから彼らは想像し得ない。
続く言葉を、固唾を飲んで待ち構える兵士たちへ、クロパトキンは振り返る。
「総員、『掃討戦へ移行せよ』!」
ロシア軍陣地が、わぁッ――!と沸く。
掃討戦移行という言葉に沸き返るロシア軍は、昼夜を通じて22時間に渡る熾烈な砲撃を市街地へ浴びせ続けた。
砲兵による入念な準備射撃。
敵陣地を根こそぎ吹き飛ばしてから、歩兵の大量突撃によってねじり伏せる――強烈で広範囲な破壊力を有する重砲の登場によって、そのような力任せの戦法が可能になった。
従来の戦列歩兵的な防衛陣では重砲の猛火力に抗うことは出来ない。よって突撃前の長時間に渡る濃密かつ徹底的な砲撃は、近代戦法においては常識である。
「見よあの大火を!」
大公アンドレイは、燃え盛るウラジオストク市街を指して叫ぶ。
「我らが騎士道の文明国に逆らうような未開な部族だ、その知性の低さには神も呆れ果てただろう…。くくっ」
先年の陥落時とは比較にならない規模で、極めて広大な範囲を破壊された市街地は、黒鉛を吐きながら瓦礫に埋もれ、誰が見ても生存者がいるようには思えない。
「あげく天にあせられる神の領域たる空へ――醜い黄色猿の分際で入り込んだのだ!蛮族は愚かにも神の怒りに触れ、あのごとく火炙りに処された!!」
大公は悠々と演説する。
「我々は神をも味方につけたのだ!」
前日の屈辱を晴らすように。
「我らの姿――いいや、帝紋を見ただけで縮み上がって逃げ出した腰抜け共だ。自ら重砲陣地を譲り渡して一目散に潰走する程度には、知能もない!」
誰もが忘れ去ってしまいたいから。
「そのような中、ついに『掃討戦』が発令された。」
くくくっ、と大公はこらえきれずに嘲笑いだす。
「つまるところ、帝室の竜騎士の登場に怯え上がってしまったのだ!もはや、奴らには戦う意志さえない。なければ――我々貴族様が、直々に、二度と歯向かわないように『教育』しなければなるまい!」
貴族たちはようやく自分たちが戦場にいることを思い出す。
「ゆくぞ!ウラジオストクへ!!」
「「「うぉぉぉっ!」」」
貴子息たちは目を輝かせる。
「勝ち戦だ!」
「蛮族征伐なら…奪うも良し、犯すも良し!」
「グッフフフ、全て俺の好きに…!!」
下劣な視線を含めて、彼らは欲望を煮えたぎらせる。それもそのはず、彼らにとっては凱旋こそが、焦がれて止まない『戦争』だったから。
「諸君、凱旋だ――!!」
果敢に響き渡る進軍喇叭とともに、夥しい数のロシア歩兵が進発する。
大量突撃ドクトリン。
前大戦型のそれにおいて一般的な戦術だ。
にもかかわらず、竜騎兵の貴族たちはため息をつく。
「見ろ、あの機関銃を。あのような兵器を蛮族に持ち出すなど無駄以外の何者でもないと、農奴には理解できないらしい」
「しかも銃口が上を向いているぞ?空に向かって祝砲でも撃つつもりか?」
極東軍が歩兵に随伴させた機関銃牽引の馬車を見て、嘲る竜騎兵たち。
その銃口が一律に空に向いていることが、彼らにとっては更に軽蔑の的となる。
「銃弾は敵の正面に撃ち込むことだというのもわからないらしい!この学の無さでは…農奴共も有色人種の仲間入りだな」
「冗談はよせ。農奴共は文字は書けぬが、まだ言葉は喋れる。だが、劣等人種はキッ!ウキッ!と歯を丸出しにして威嚇する程度しかできぬ!」
寄り目でサルのジェスチャーをして、物真似を見せる貴族に笑いが起こる。
「猿の効率的な掃き方など、この高貴なる騎馬の一蹴に尽きるのになァ」
「ひと駆けで蛮族共は逃げ出すに違いない。あの薄汚い肌に見合った真っ黄色の汁を股間からダダ漏らしにしてな!」
貴族たちは各々の騎乗銃を取り、英雄譚に記されるような凱旋を思い描く。
そこへ並ぶ顔は自分たちであると少しも疑わず。
「全騎、続けィ!」
3月の夜明けとともに。帝室紋章を掲げたロシア大公アンドレイが率いる帝室竜騎兵は、七三高地の野営を進発し、坂を眼下の港町へ向けて下り始める。
「相手は西洋人に愚かにも噛み付いた下等生物!猿真似で付け上がった知性なきペットなど愛玩ですらない!慈悲は要らぬ、わからせろ!」
「「「うぉぉぉッ!!」」」
騎士団出身の貴族たちは、穢らわしき農奴たちの国軍とは違うという自負があった。
ゆえに、この帝室の竜騎兵さえ来たれば戦争など一瞬にしてひっくり返るものだと、疑わなかった。
1905年3月2日、午前9時45分。
帝国極東軍は11個師団9万人の兵力で、砲撃援護とともに、七三高地からウラジオストク市街地への突入を開始した。