第98話 東條英機
[ 命 令 書 ]
明治38年勅令 第227号
2月20日付 東京発
敵は大きな損失にも構わず東部戦線に新しい部隊を投入し、新しい領域を占領しながら都市や村を破壊して、沿海州の域内に深く浸透している。戦闘はハンカ湖湖畔で、ウスリー川近辺で、そして長白山脈のふもとで続いている。ロシアはウラジオストクに向け、彼らの持つ弾薬と穀物といかなる犠牲を払っても、罠をしかけた遼河、渾河、シホテアリン山脈を突破しようとしている。敵は既に長春、吉林、鶏西回廊、スパッスク=ダリニーのハンカ湖方面、アルセーニエフの半分を占領している。満州総軍の将兵どもは、恥知らずにも臆病で、パニックを起こし、枢密院からの命令なしに松花江ラインから去り、軍旗を恥で塗り潰した。
皇軍を愛し尊敬する我らが皇國の臣民は、皇軍がロシアの圧制者の束縛を受けている同胞を放置して南へ逃亡したことにより、信頼しなくなり、悪態をつきはじめている。一部の愚かな者達は、我々が四方を絶海に隔てられた本土をもち、多数の人口を抱え、十分な食糧を生産できるが故に、南へ退却することは問題ないと主張する。彼らは前線での振る舞いを正当化したいであろう。しかしこれは虚偽であり、敵を利するだけである。
すべての指揮官、皇國兵士および皇國将校は、我らの財産が無限ではないと理解しなければならない。敵が占拠し、または奪還しようとしている皇國の占領地には、軍のための食料及び物資、産業のための金属や燃料、軍に武器や弾薬を供給するための集積所や設備、鉄道がある。松花江や中央満州、長白高原すなわち鶏西回廊、およびその他の少なくない前年の血と汗の代償を失ったため、少なからぬ食糧、弾薬、陣地および集積所も失った。年始以後、我々は2万の兵士、4万トンの食糧、1万トン以上の金属を失っている。我々には、人的資源および食糧の面において、ロシア以上の優位性がない。
従って、我々が|無尽蔵の肥料火薬生産力《ハーバー・ボッシュ法》を持ち、四方に海洋を有する絶海要塞であり、多くの臣民を擁していると話すことを、断固退ける必要がある。このような話は間違っており、資源を横取りし、祖国を浪費し、かつ我々自身を消耗させる手段であり、もし我々が退却を止めなければ、食糧もなく、燃料もなく、金属もなく、原料もなく、工場も設備もなく、鉄道もなくなるだろう。
このことから次の結論に達する――『退却を止める時である。一歩も退くな!』
これは今から我々の主要なスローガンとなる。
各々がそれぞれの持ち場を、全ての領土を一寸単位で守り、血の最後の一滴を落とすまで、皇國の領土に触れようとする画策を阻止することが必要である。皇國は最大の困難を経験している。退却を止め、持ち場に戻り、損失を厭わず敵を打倒しなければならない。ロシア軍はそれほど強くはなく、臆病者のように見える。彼らの脆弱な兵站が彼らの重荷になる。いまは彼らの打撃に耐えることだ――これは春の到来を保証する手段である。
我々は打撃に耐え、敵を北に押し戻すことができるだろうか?――可能である。
なぜなら日本海の後方には素晴らしい工場と設備があり、最前線はより多くの飛行船を、装甲車を、大砲を、迫撃砲を得ることができるからだ。
我々には何が欠けているだろうか?中隊、大隊、連隊、装甲部隊、航空隊に死守の態度と陛下に殉ずる覚悟がない。これが我々の欠点である。現在の状況を救い、皇國を守るためには、我々の軍にはもっと厳しい命令と鉄の規律を与えなければならない。
指揮官及び将校は、部隊が許可なく持ち場を離れることを容認してはならない。指揮官及び将校は、臆病者が騒然とした戦闘状況において、持ち場を離れ、または他の者を連れて逃亡することを容認してはならない。臆病者と卑怯者はその場で処刑されなければならない。
これは各指揮官、皇軍兵士、将校にとって今後の絶対条件であり鉄則である――より高位の指揮官から命令がない限り、一歩たりとも退いてはならない。中隊、大隊、連隊および師団の各指揮官とそれに対応する将校が、より高位の指揮官から命令を受けずに撤退し、前線に穴を開ける行為は、皇國に対する裏切りである。なぜなら、勅令の遂行は皇國臣民の絶対的責務だからである。これは神名に代わる皇國枢密院の命令である。
勅命を実行せよ。皇國を保全し、我々の領土を守り、嫌われている敵を皆殺しにすることは、敵の敗北を意味する。
皇國陸軍が圧倒した前年の戦いにおいて、ロシア軍では規律が乱れた際、規律の回復のため厳しい処置を押し付けたが、これはロシア人には全く良い結果となった。彼らは臆病者または当惑した者、規律に違反し有罪とされた兵士からなる100個の懲罰中隊を編成し、彼らを前線の危険な位置に配置して闘わせ、罪を血で償わせた。同様に、臆病者または当惑した指揮官から勲章を剥奪し、およそ10個の懲罰連隊を編成してより危険な地域で戦わせた。最終的に、彼らは不安定な師団の背後に督戦隊を配置し、命令に背き逃亡したり投降したりしようとした臆病者を射殺した。知っての通り、この措置は効果的で、北満州におけるロシア軍は良く戦うようになった。彼らは現状では良い規律を持っているが、『劣等人種』を虐げるという目的しかもっておらず、天皇陛下の為に死ぬというより高い目的を持っていないがゆえに敗北で苦しむ。
我々の祖父母が過去の戦いで敵を研究して勝利を得た時のように、我々も敵から学ぶべきであろうか? ――私はそうすべきだと考える。
天皇陛下に信託を受けた枢密院戦争指導部は、次の通り勅命する。
東部戦線の司令官と前線指揮官は従わなければならない:
甲)枢密院の命令なしに兵を退却させてはならない。
乙)占有すべき位置からの退却を容認した司令官と前線指揮官は、全員無条件で更迭し、すべての勲章を剥奪、軍法会議にかけること。
丙)充分に武装した憲兵隊は、師団の中で臆病者と卑怯者が出た際に射殺できるようにし、忠実な将兵が皇國に対する義務を遂行できるために役立てること。
丁)指揮官、より高位の指揮官、それらに対応する上官将校は、1~3個の懲罰部隊を編成し、作戦に従事する全ての部隊から臆病者、卑怯者、または規律違反により有罪である者を編入し、皇國に対する罪を彼らの血により贖う機会を与えるため、前線で最も困難な位置に配置すること。
この命令書は全ての小隊、中隊、騎兵隊、砲兵隊、飛行隊が読むこと。
禁中典範の規定に基づき、勅令は明治38年3月1日を以てその効力を発す。
御 名 御 璽
皇國枢密院連名
「……はは、銃後まで、狂気にアテられたか」
玲那はため息交じりに、その電報をくしゃりと握り締めた。
『ごめん……くださいませ。わたくしでは、止められなくってよ』
受話器から漏れる、掛澗の打ちひしがれたような弁を聞く。
だから玲那は首を振った。
「いえいえ。正直なところ、さしたる問題にはなりませんし」
「と仰いますと?」
「玲那の発した命令との矛盾がございませんの。ダンケルク作戦は粛々と実行中ですし、ウラジオストクにおける市街戦の準備も、月内の完了を見込んでいます。この227号が来月に発効するのなら――さして気に留めるほどのものでもございません」
視線を窓の外へやって、曇天に覆われたウラジオストクの暗い街影を眺めながら、言葉を続ける。
「どのみちウラジオストクからは退けないのです。一寸単位で死守というのは些か厳しいかもしれませんけれど、その融通くらいは効かせてみましょう」
興亡を賭けた決戦を前に、玲那も案外気が動転したか。
心にもないことを呟いてしまう。
「そういう点では――この命令書も良いプロパガンダかもしれませんね」
「……ッ」
ぎり、と奥歯を噛むような音が聞こえた気がした。きっと掛澗の自責だ。
重苦しい空気から気を逸らしたくて、玲那は話題を転換する。
「そういえば。弩級戦艦『敷島』、就役となったのですね」
一拍遅れて、掛澗の声が届く。
『え、ええ。大英帝国のドレッドノートが昨明治37年11月に進水で世界を震わせましたもの。急遽戦時改造という名目で本2月1日に進水扱いとなりましたわ』
英国に続いたのがまさかの皇國であったからか、諸外国はこれを「猿真似」「欠陥工事」「手抜きボート」などと一面酷評。まぁなにせ弩級戦艦は今までの全戦艦への投資を無駄にするのだ。多少恨み言を掛けられても然りではある。
『泊地造成はいかがでして?』
「一連の整備は完了してございます。ウラジオストク市街の南端に水道一つ隔てて隣接、ピョートル大帝湾に浮かぶルースキー島・ノヴィク湾に戦艦『敷島』の専用泊地を設営しました。最も近い大陸側対岸のブリモルスキーからでも15km離れており、市街外からの敵の砲撃は届きません」
https://www.google.com/maps/place/ウラジオストク
「西部戦線、つまり満州のほうは……敵と長春を巡って一進一退の構図ですが、部分的には突破され、トーチカ付近での機銃陣地線も勃発しているようです」
閑院宮から送られてきた詳報を読み上げる。
「『如月大反攻』が始まって以来現在まで、ロシア軍21万人死傷に対し皇國陸軍は2.3万人が死傷。キルレートは相変わらずですけれど、対峙する残存戦力で見ればロシア軍88万に対し皇國陸軍は、西部戦線とここ東部戦線を併せても25万人。……損害比ではむしろ不利になってございます」
そろそろナパームこと焼夷弾を使わなければ厳しくなってくる。総軍参謀部曰く3月初頭には比較的温暖な四平の第二防衛線まで撤退するようだ。
ここにて、どこまで粘れるか。
「内地情勢はどうです」
『総動員体制は佳境を迎えておりますわ。内地防衛の4個予備師団の出征に応じる形で工場を抜けていった男たちに代わって、女性が工場動員されていますの』
「予備4個……4.8万人ですか。」
『それだけではありませんわ。民需工場群の生産レーンも多くは軍需に転換されて…軽工業から重工業へのモードチェンジですもの、多数の追加人材が必要になりますわ。それを支える製鉄所はすべてが前例のないフル稼働状態でして』
言葉尻だけでもわかる。
平時と違って、この戦争と総動員体制がどれだけの労働人口を必要としているか。
到底、徴用可能な男子を掻き集めて足りるような数ではない。全国各地の農家の娘たちを動員して足りるかどうかという水準であろう。
しかし、工場や製鉄所ならまだいいほうで。それらを支える根幹である鉱山は死物狂いで採炭を行わねばならない。一日12時間労働、太陽など見ることも叶わず地底にて灰燼と熱気に揉まれながらツルハシで岩肌を砕くなど、到底女性の身体的能力の限界を超えている。
これに男性労働力を吸い込まれる形で――埋め合わせと言うべきだろうか、都市の労働力への急速な女性動員が進んでいるのだろう。
『鉄道の貨物輸送量も逼迫、本年緊急採用の鉄道員の半数は女性労働力でして。船舶も、軍需工場も、みんな同じ状態ですわ』
男は地底に潜らされ、それの代替として女は家から地表へ引っ張り出されるわけだ。
フェミニズムとかそういうんじゃない。男女問わず、国家全体の状況が鬼気迫る。
『 "婦人報国挺身隊"…今年、"隣組"制度と同時に成立いたしましたの』
「どちらもネーミングセンスを疑いますね、縁起最悪ですよ」
『それに、予備4個師団の沿海州投入の代替で"国民義勇隊"も設立されましてよ』
「……国民、義勇隊ですか」
『皇國に本土を防衛する戦力は存在しないのですわ。そもそも皇國枢密院が、本土上陸の危険性に懐疑的でして』
百パーあり得ないなんて、誰も言い切れないじゃないか。
『日清戦争時に配備されていた旧型銃と、あとは猟銃。酷いものでは…、竹槍という部隊まである有様ですわ』
「……ッ」
本土決戦にしても拙すぎるその装備。
これでは史実の世界大戦末期よりも悲惨だ。
想定よりも、はるかに内地の様相は逼迫していた。
「どうして、こんな窮地に陥るのかなぁ……」
そんな呟きが、虚しく傾城の大聖堂に響き渡る。
「電撃戦をやったら一ミスで致命傷、大反攻を凌いだらまさかのウラル以西からの援軍。そんでもって決戦地が沿海州になって、そこに居すわる主人公を引きずり下ろすのに、玲那は英雄にならなくちゃいけなくて。……徹底的に裏目に出て、なにもかもが上手く行かない。まるで何かの反動ですよ」
忌々しげに、壁に飾られた大きな沿海州の戦略地図を睨み上げる。
「"反動"、か」
玲那は思い返す。
この紐づけられた、理不尽な運命を。
没落に追放、自殺と、大抵のシナリオで倒されるはずだったこの皇女。
だからそれらを回避するために、学修院では立ち回りを変えた。
皇太子には近づかなかった。有能なお嬢様を味方につけた。
婚約を避けるため、主人公との対立を避けるため、できる限り表舞台に立たないようにした。ゲームストーリーのような学修院での権力闘争に巻き込まれないように、裏から糸を引くことに徹した。
閑院宮の背中に隠れて、北方戦役を、日清戦争を戦った。
大連で契約した松方正義を使って、技術に投資させ、経済を構築し、軍拡をした。
すべてはゲームストーリーの天王山となるイベント、日露戦争のために。些細な立ち回りを誤ったとしても、めったに負けないような国力をつけさせるために。
(負ければ、登場人物は玲那含めてみんな処刑になるし)
乱暴なバッドエンドだ。
だから抗った。学修院での立ち回りを考えつつも、ロシア帝国に負けないように。
なのに、どこかで狂い始めた。
まず、紫禁城で表舞台に引きずり出された。次に聖上との謁見で、そしてとどめに、沿海州総軍とのゴタゴタで――救国の英雄を名乗らざるを得なくなった。
そして、戦況も日に日に悪くなっていく。まるで約束されているかのように、ドミノ状に連鎖するミスと悪手の連鎖。確率の穴を縫って、破滅へと突き進むその様は、もはや芸術的。
ゲームストーリーの修正力、存在しないシナリオへの免疫反応と言うべきか。
あるかどうかもわからなかったそれが、ここに来て姿を顕した。
「玲那は――今更ながら、恐ろしい物を敵に回しているのですね」
ここに至りて、宿命の根深さを知る。
破滅を約束された悪役皇女は、ほのかに身震いした。
・・・・・・
・・・・
・・
「なァに!?ウラジオストクを、未だ回復できていないだと!?」
皇帝ニコライ2世の怒鳴り声に、一歩も臆することなく不動の笑いで答える宮廷祈祷師こと、この皇帝の実質的掌握者・ラスプーチン。
「へェ…。民草には戦時強制徴用を行っておりますが、生産意欲を失って職務を放棄したり、悪い時にはサボタージュをする輩もおるんでさァ、陛下。」
「っ!列強国先鋒がなんたる無様!薄汚い農奴共め、なぜ我が祖国の偉大さが、朕の帝冠の輝きが理解できぬ!?」
上手く行かない国内情勢にただただ憤慨する皇帝へ、くつくつと声を漏らしながら、ラスプーチンはある勅令草案を皇帝の御前へ出す。
「では…かの如くどうしようもない愚衆どもに、しっかりと己の義務を思い出させる必要がありそうですなァ」
「『反体制怠業取締委員会(通称:チェカ)設立の建白書』、だと…?」
これはなんだ、と皇帝はラスプーチンの提出した草案を指して問う。
「反体制的怠業――労働、戦闘、その末の死を以て祖国に報いることを忘れてしまった卑賎な愚衆につける薬は、鉛の弾しかありません。陛下もそォーお考えでェ?」
「然り!そのとおりだ!!朕に尽くさずして、何がロシア帝国臣民だ!」
「仰せの通りでさァ。ですから……もし愚民どもが、ろくに弾薬も作らず麦も収穫しないでおきながら…『パンを寄越せ!』などと、宮殿の前を行進し始めた日には、このチェカで」
「構わん、全員撃ち殺せ。」
ラスプーチンの言葉を待つことなく、皇帝はそう命じた。
その瞬間、祈祷師の両頬がこれでもかと釣り上がる。
「では、その『チェカ』の委員長は」
「ラスプーチン、君がやり給え。いいや、やってくれ。軍にも、民にも裏切られた朕は、貴様しか頼れる人間がおらぬのだ……」
「――喜んでやらせて頂きまさァ!」
彼は心中でこれでもかと皇帝を嘲り、自身の手腕に陶酔する。ラスプーチンはこの瞬間、チェカという「怠業取締」の大義名分を得た私兵組織を手に入れてしまったのだから。
「そうだ…。朕は、朕は、ラスプーチンを除いて誰一人として信頼できん…!どうせ、どうせ軍は怠業を敗北という言い訳で取り繕って、前年のように朕を裏切り、朕の帝冠に泥を塗って嘲ろうとしているに違いない…!!!」
ガリガリガリ、と豪華な執務机を爪で引っ掻くニコライ2世。
苛立ちと、不安と、恐怖入り混じった感情は、もともと弱い彼の冷静さを根こそぎ奪って、激情へと駆り立てる。
「……もう、もう我慢できん。朕が軍へ直接命ずる。」
「へェ?陛下、なんでさァ?」
よく聞こえなかったのか、首をかしげるラスプーチンに、ニコライ2世は机に羊皮紙を広げてインクに万年筆を突き刺してから紙上で荒ぶらせ、知識人でも読めないような崩れた走り書きを殴り記す。
「『皇帝命令第21号』」
すぐさまそれを、ラスプーチンに突きつけた。
「…はぃ?」
「『バルチック艦隊の帰港までに帰港先の港湾の奪還が出来ないなど、ロシア帝国のみならず朕までもが世界中の笑いものにされる。貴様ら臣民は命に代えてでも、祖国への嘲笑を断つ義務がある。喜望峰を回って来た我が艦隊の補給は逼迫しており、極東到着を遅らせることは出来ない。沿海州以外への反攻を直ちに中止し、ウラジオストク奪還へ戦力の全てを投入せよ。』」
その命令を受けた祈祷師は、いくら怪僧と呼ばれた男とて、開いた口をすぐには塞げなかった。
「な…、なんですたァ?」
「攻撃を中止して退却や逃亡を図る部隊は『チェカ』を以て速やかに射殺すべし。何があろうと前進を強行し、4月30日までにウラジオストクを奪還するのだッ!」
「は…し、4月でェ!?そりゃ泥濘が酷くて歩くことすらままならないてのに、ましてや戦闘なんて――」
「ラスプーチン!!?貴様まで、朕を裏切るのか?!?」
「ッ……!」
ニコライ2世の強迫の声に、頬をピクつかせるラスプーチン。
この時ばかりは、初めてラスプーチンは気圧される立場にあった。
「わかったか、わかったのなら速やかに取りかかれ…。
『皇帝命令第21号』は直ちに遅滞なく効力を発揮する。」
それほどまでに、この皇帝は―――。
「腐った劣等民族など、文明のひと蹴りで崩れ落ちるのだ!醜穢なるマカーキどもを劣種動物園の檻に突き返せ、速やかに!!!」
・・・・・・
・・・・
・・
「――だから、おそらく満州方面への反攻は爾後なくなる」
「言い切れる、と?」
「とまでは申しません。けれど、バルチック艦隊の極東回航がすぐである以上、列強最先鋒のメンツを被って戦うロシア帝国は、港湾の修復も考慮すると5月までにはウラジオストクを奪還しなきゃならなくてよ」
廊下にカツ、カツ、と二人分の軍靴が鳴り響く。
ほぼ昼夜無休の軍務の合間を縫って掛澗との通話をしに行った折、曲がり角で出くわした石原莞爾に、捜索がてら今後の展開予想の説明をしていたところだ。
「時間的猶予がない以上、ロシア軍は全力で戦力の投入に出るでしょう」
「そこまで考慮に入れて、あなたは、ウラジオストク籠城という――敵軍が戦力逐次投入せざるを得ない環境へ誘ったと。へぇ、……おもしろい」
「おもしろうございましょう、少なくとも兵学校の授業よりは。なにせここは戦場ですから」
兵学校の授業を机上の空論だと一蹴した石原にとってみれば、実戦ほど望んだ世界はないだろう。
「つまりは、『皇國の興廃此の一戦に在り』というわけと」
「……、なるほど。粋なことを申しますね」
「?」
首をかしげた石原だが、無理もない。その言葉の持つ意味など、知らなくて当然だ。史実――世界をひっくり返した運命の海上決戦の、その火蓋を切って落としたフレーズなのだから。
そのまま捜し物を探りつつ歩みを進めていると、前の柱の陰から、二人の前に一人の皇國士官が躍り出た。
「お待ち下さい」
「東條……?」
玲那たち、特に玲那の前に立ちはだかる東條。
齢20。まだまだ青年真っ只中のその姿からは将来禿頭になるなど想像もつかない。
「何の用にございます」
部下とはいえあまり失礼なことは考えるべきじゃないな、と思いつつ尋ねる。
そうして返ってきた答えはあまりにも意外過ぎるものだった。
「指揮系統を破壊した件について、ご弁解願いたいと思いまして」
「弁解……?」
「っ、ご理解頂けなかったですかね? 姫殿下が、せっかくの皇國枢密院じきじきの戦争指導の機会を潰した件でありますよ!」
「はぁ?」
話の筋が全く理解できない。
「待ちなさい、話が見えません。貴官は指揮命令を聴いてはいなくって?」
「指揮命令、といいますと?」
「玲那が『英雄』とやらから指揮権を継承した命令放送のことです」
磯城が「俺は英雄だ」かなんだか言って、自分から恥を晒しまくった例の茶番劇のことである。あの一件を経て、磯城に依存していた将校たちの「皇國英雄」に対する信頼は失墜したと思っていたのだが。
「指揮本部命令ですか。それなら、前線指揮所ではないので、本官のもとには届いておりません」
東條の答えに、玲那は目を見開く。そうだ、ほかならぬ玲那の逮捕によって、『桜花』は遊兵化していた。前線に配置されなかったのだから、指揮所も何もない。
肝心の『桜花』の士官たちは、あの磯城の体たらくを知らないのか。
「そのような放送があったという噂は存じ上げておりますが、維新の英傑たるお方が、聞く所の様な無様を晒すはずがありません。根拠不明のデマとして、耳に挟んだ次第です」
そしてやはり、この世界線でも「体制への忠誠心」は彼に健在だ。史実でも統制派に属して、血気盛んな皇道派の青年将校たちを鎮圧しただけはある。
枢密院体制に喧嘩を売るような玲那の立ち振る舞いが気に入らないのだろう。
これが『桜花』機甲部隊の中隊長か、うわぁ面倒臭いことになったな……」
「総長、声に漏れている」
「おっと失礼、石原軍曹」
邪険に扱われたと思ったか、東條はきッと声を荒げる。
「っ、何が面倒でありますか!? 我らの英雄が、あのような屈辱――」
「あー、あーバカ、やめろ。聞きたくもない」
耳をふさいで懈そうに石原が言った。
「ッ……!? な、何を!皇國の誇りたる英雄が」
「は、英雄だと?」
彼は笑う。
「アレのどこが英雄だ? 奴の書いた作戦書でも読んでみろ、ウラジオストクと満州どちらも守るだなんてバカバカしい。補給も戦線も到底追いつかん。アレはただ英雄になりたかっただけのアホンダラだ」
「あ、アホンダラ、だと…」
その言葉に衝撃を受けたか、東條の反論の息が少し弱る。
「そのへんの将官をひっ捕まえて、お前が『根拠不明のデマ』と断じた噂の御放送について尋ねてみるんだな。全員にして同じ反応が返ってくるぜ?」
「しょ、将官がたに声をかけるだと。できるわけないだろう……! それに、噂は噂に過ぎない。英雄には妬み嫉みの1つや2つ立って当然だ!」
「はーぁ…。だから言っただろ?」
肩をすくめてから、彼は東條に指をさす。
「お前ばかなんだよ、東條」
「ッ…!貴様、下士官の分際で無礼な!!」
「お前みたいなのがいるから士官学校卒が机上のエリートだって馬鹿にされるんだ、覚えとけ、恥さらしめ」
「なッ――!!」
あまりの傲慢不遜にして罵詈雑言に、さしもの東條とて脳内が真っ白になったようだ――石原の去ったあとでも、しばらく不動であったくらいには。