第96話 ふきのとう
「前にも申しましたとおり、ナホトカやハンカ湖など、沿海州のすべての前線から部隊は後退しております」
不信感を隠さない目つきで、黒木は奏する。
「この状態で……どのようにウラジオストクを守ると仰せですか」
大聖堂にて、将帥たちは一同に玲那を見据えていた。
「然り。ゆえに、帥らに策を諮る」
「っ、いまさらですか……!」
「安心したまえ、叩き台程度のものは持ってきたゆえ」
玲那が目配せをすると、祭壇の裾から若い娘が現れる。
「別海睦葉中尉です。姫殿下に代わって、『桜花』総長代行を務めております。これより資料を配布しますので、御目通し願いたく」
別海が作戦書を配布していく。禁闕部隊を新たに召集した玲那の代わりに、空位となった『桜花』の長を代行している。
それにしても、作戦書の厚さにはつい笑いそうになる。いいや、『英雄ノ凱旋』だったか、前の作戦書が薄すぎただけか。
禁闕部隊
◎第1軍〈大阪鎮台 / 第十一師団〉
◎第2軍〈近衛師団 / 仙台鎮台〉
◎増強即応集団『桜花』
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①ウスリースク
②アルチョーム
③ウラジオストク市街地
④ナホトカ
「まずは半壊した仙鎮含めた、全ての師団をウラジオストク半島の付け根・アルチョームへ後退させる……だと?」
「な、初っ端から撤退!?」
読み始めて早速、将帥たちはざわつく。だから玲那は淡々と頷いた。
「当に然るべし。それとも、ウスリースクからナホトカまでの広大な戦線をたった4個師団で維持せよと?」
「ッ! し、しかしウスリースクは3鉄道線が交錯する交通の要衝です。ここをみすみす敵に譲り渡すなど……」
「譲り渡さなければよい」
藤井少将は言葉を失う。
「は…、はぁ? 殿下が、後退すると仰ったのでしょう?」
「後退しても渡さぬ方法など、難しくはあるまいに」
「ッ! お戯れはおよしください。やはり殿下には立案など――」
「焦土戦術」
彼は、ばっと顔を上げる。
「……な、何と?」
「ウラジオストクに繋がる、鉄道設備、道路、橋脚、隧道。ありとあらゆる物を寸断、破壊して、補給線を伸び切らせる……とまでは行かぬやも知れぬが、敵は大軍ぞ。進撃速度を鈍らせて、指揮系統をかき乱すことは出来よう」
続きを喋らせないように、玲那は素早く駒を動かす。
「また、ウラジオストク半島に籠もることで、正面幅を圧縮できる」
ウラジオストクの地形は愛知県によく似ている。
ピョートル大帝湾に一つ突き出す半島の様は、内海の伊勢湾と知多湾に挟まれた知多半島と、地理的にも面積的にもほぼ重なる。
その知多半島とほぼ同じサイズの半島の先端に、極東ロシア随一の大都市が所在する。
「長い塹壕では、多くの戦力が必要となる。限られた戦力では、多方面からの多重突撃には耐えられぬ。この時点で、現在の前線で持久するという選択肢は消える」
ナホトカからウスリースクまででも120km以上ある。仙台鎮台が壊滅した今、4個師団と1個即応集団あわせて9万人しかこちらの手持ちはない。
はるばる満州はハルビンからやってきた数十万の主力軍を正面にして、長白山脈を越えてきた部隊にも背後を取られながら、この長大な前線を持久するなど狂気の沙汰だ。
「されど――ウラジオストクは、半島なり」
「っ、だから何ですか……!」
「この半島の幅は、最も長いところでも7km弱。前線を圧縮できよう」
7km弱では、前線1mあたり6人の兵士が並ぶと考えても、正面は4万2000人で事足りる。前線に余裕が生まれ、即応集団が機動防御を展開することが可能になる。
「また、これにより敵軍の数的優勢が、その効を失する。なにせ戦場が狭いのだ。そこに大量の人間を詰め込もうとすれば、一本しかない補給線と一個しかない物資集積地に負担が集中し、前線が麻痺してしまう」
いくらロシア軍が100万の数を誇るからといって、その全てをたった7kmの前線に並べては補給が燃える。
ロシア軍は最大でも10万人ずつしか送り出すことは出来ないだろう。
「これで敵は――戦力の逐次投入という悪手を打たざるを得ぬ」
数で圧倒的に勝る相手と対峙した時は、各個撃破。
戦術学の基礎も基礎だ。
「し、しかし…! 皇國の継戦能力は残り30日と聞き及んでおります、各個撃破などしていたら期限が」
そう足掻く黒木に、枢密院にもそういう姿勢であればいいのにと思いつつ、玲那は答えを返す。
「それは大口径砲弾の枯渇が近いゆえぞ。消耗戦を恐れ、近接戦闘を避けてきた皇國陸軍は未だ、溜めに貯めてきた小口径銃弾や迫撃砲弾を使っておらぬ」
正確には、松花江ライン攻防戦の終盤でトーチカを巡る奪い合いになってから機関銃による弾幕防御を展開、撤退に至るまでの1週間で長春にあった前衛基地集積の相当量を放出したらしいが、奉天や大連の集積庫にはまだまだ大量に眠っている。
松花江序盤から大量にぶちこんだ大口径重砲弾とは違って、近接武器の弾薬には余裕があるのだ。
「重砲を使わずに、相手をすればよかろう」
ダァン、と黒木は拳を机上に叩きつけた。
「ッ、重砲を使わないで数十倍の露軍を各個撃破ぁ? 簡単に仰いますが、戦争というのはですね――」
「市街戦を知らぬか?」
「はッ、はぁ?」
思わぬ一言に肩透かしを喰らったかのように動揺する黒木。
だろうな。皇國陸軍には市街戦の経験がほとんどない。
「そこらじゅう障壁だらけの市街戦では重砲攻撃の効果が非常に薄く、主体となるのは接近戦だ。そもそも、重砲陣地を設営できるほどの広大な空間が非ぬ」
白兵戦が中心となる真っ向からの兵力の削り合いだが、市街地というフィールドではそれを補えるほどのアドバンテージを防衛側が得る。
「遮蔽物の連続する地形。整備された街道とは裏腹に、細かく入り組んだ路地。予測のつく敵の進撃路。弾道が上下左右を飛び交う立体的戦場。使えない重砲と事前計画。猛威を振るう近接火器。入り乱れて把握が困難な前線様相」
玲那は笑う。
「これほどまでに、今の我らに都合の良い状況などあろうものか」
「な…っ。ま、まさか…殿下の狙い、は…?」
「第一命令。『街路にバリケードと戦車壕を造成し、市街地を迷宮化せよ』――敵をウラジオストクの路地に引きずり込み、可能な限り消耗させるのだ」
「ッ、しかしこちらも決して近接火器が整っているわけでは」
「手元の資料の注釈を読みたまえ」
「『焼撃隊は火炎放射器を装備し市街に浸透展開』……そういうことかっ!」
回送戦力として沿海州へ送り込まれた満州総軍の部隊は、中央即応集団と2個焼撃大隊の混成であるところの、増強即応集団『桜花』。
市街地という舞台で、突撃直衛中隊の重迫撃砲24門に焼撃大隊の火炎放射器、個人携行型の軽迫撃砲を組み合わせれば、鉄壁、いや炎壁の迎撃体制の完成だ。
が、しかし。
「同時に、民間人問題と補給の孤立を打破しなければならぬ」
「そうです、それが残っているでしょう! 仮に敵を市街地に引きこむとしても、補給が繋がらないことには――」
藤井少将の声を遮って、先手を打つ。
「輸送船から漁船まで全ての船舶を掻き集めて、内地から予備4個師団4.8万人と弾薬を送り込む代わりにウラジオストク市民35万人を脱出させる。」
弾薬を満載して、民間人を送り返す。
「ッ、夢見事を。そのような港湾設備がこちらに整っていたのなら、今宵のごとき補給断絶にはなってはいませんでしょうに」
「大鉄塊の重砲弾は大型港湾でしか荷下ろしできぬが、銃弾と迫撃砲弾ならば、リヤカーでも牽いて直接、桟橋に積み上げることも出来よう?」
松花江のように数千トンに及ぶ砲弾を使うわけじゃない。クレーンがないと揚陸できないような重量物ではないのだ。
ここに来るのは軽くてお手頃な6.6mm弾や手榴弾、迫撃砲弾なのである。
「食糧・弾薬庫と石油貯蔵所は最優先で司令部ともども地下壕に建設する。食糧と弾薬は今申した方法で積み上げ、石油は直接地下タンクへ流し込む」
これにて往路の任務は終了だ。
次は復路。掻き集めた船舶に市民35万を詰め込んで内地へ撤退させる大作戦。
「陸戦条約を遵守し、民間人の保護を徹底しなければならぬゆえな」
「ッ、皇國には35万の市民を収容する施設など――」
「ロシアに押し付ける。当たり前であろう?」
黒木が呆然と口を開ける。
「は…、はぁ?」
「陸戦条約を守らねばならぬのは向こうも同じ。捕虜ならともかく、自国の民間人ぞ? 世界の視線に晒されているこの場面で、皇國が全てのロシア民間人をニコラエフスクへ送還するという『人権的配慮』をロシア帝国が断るなんて、できようか?」
なにせ、列強国が極東の蛮族に倫理観で劣っているなどと言われればロシア帝室の面目は丸潰れだ。プライド的に、立場上、ロシア帝国は35万もの「難民」を極東の端に抱える選択をせざるを得ない。
「さてこれで、ただでさえ逼迫しているロシア軍の補給線に『35万人の民間人』がのしかかる」
藤井少将がその真意にたどり着き、愕然とする。
「敵の補給を麻痺させる気ですか!?」
「陸戦条約と民間人保護という素晴らしい大義名分があろう。これを使わない手はあるまいに」
ウラル山脈より西から極東の端まで35万人の衣食住を、半壊したシベリア鉄道を単線酷使して送り込む羽目になるのだ。ただでさえ120万の軍隊の補給が限界状態であるそこへ、その負担は計り知れない。
「ロシア帝国を、その補給線から体制まで、内側から突き崩すのだ」
民間人とはいえ35万もの海上撤退劇。
ヨットだろうが艀だろうが、日本海を渡れるならば全部を動員する必要があろう。
「弾薬どころか食糧の補給さえも不能な軍隊など…もはや、まともな行動はできまい。ここまでが作戦――『ダンケルク』。」
「『ダンケルク』、だと……!?」
ダイナモ作戦という名も考えたが、やはりあの奇跡の名を借りるのが望ましい。
もっとも、その由縁を理解できる人間はここにいないのではあるが。
「さぁ、あとは陣地構築、援軍揚陸、民間人避難の時間を稼ぐのみ」
4個予備師団の増援は、すでに磯城の旧『英雄ノ凱旋』作戦にて内地側もこちら側も準備済み。一週間もあれば輸送船を動員して送り込むことができよう。
船舶掻き集めが懸案だが、陣地構築も、民間人の桟橋誘導も、7日あれば十分だ。
「そのための命令こそ、アルチョームへの撤退ぞ。すべての部隊は焦土戦術をもって後退し、半島の付け根、アルチョームの七三高地に籠るべし」
アルチョームには堅牢な機関銃陣地を拵えて、史実の二百三高地よろしく熾烈な消耗を敵に強いる。
ルースキー島にある、泊地ついでに設営した飛行場からの航空支援も含めれば、敵軍が市街地に至るまでに相当の打撃を与えることができよう。
「アルチョームでは十日を稼ぐ。その間に、市街地へ重機を全力投入、戦車壕から塹壕、地下にも司令部や弾薬庫から食料庫を造成、連絡通路を張り巡らせる。これらを以て――蕗の芽吹くまで、3月1日からの二ヶ月を耐える」
これまでの激戦で、中央満州は焦土と化した。
この麗しの沿海の大都とて、例外じゃない。
かくて、世紀の決戦地となるのだ。
『ウラジヴォストーク攻防戦』
その名で永遠に語り継がれる逆転劇を、ここに。
「にに二ヶ月ゥ!? 敵は100万に達するのですよッ!」
「そんな……そんなに上手くいくわけがない!」
「第一、そこまでの展開力など――」
「装甲車と空挺隊の統合運用により、市街地における迅速な機動防御を実現できる。もはや『桜花』は、従来までの混成旅団とは比較にならぬ」
眼下の正方卓に広げられた戦略地図に視点を戻し、『桜花』の駒を持って見せる。
「指揮統制と情報処理を犠牲にする代わりに、現場裁量に任せた柔軟な戦略機動力を確保する――それが『桜花』に根ざす戦略思想ぞ」
斯くして、図上のコマを全て市街に詰め込み、建物という建物に、屋上から地下まで陣地を張り巡らせる。
「整然としたメインロードには、くまなく射線が通るように建築物の上から下まで機関銃陣地を設営。入り組んだ裏路地には、要所の建築物を爆破解体して袋小路を形成、退路を塞ぐように分隊単位の待ち伏せを決行」
たった4個師団のその駒は、途中から本土増援の4個師団が加わり、8個師団12万人へ。市街に引きずり込まれた敵を各個撃破で弾きつつ。
地下壕とトラップ織り成すこの世の地獄が、ロシア軍を10万人ずつすり減らす。
「空挺団と焼撃隊による強力かつ迅速な建物制圧には、最大正面を10万に制限されるロシア歩兵では追いつくことができぬ」
これぞ、漸減戦法。
「敵が数に勝り、此方が質に勝る。ならば――敵の数を強制的に制限すればよい。そのための舞台を、用意すればよい」
それが此処、ウラジオストク。
それが3月1日開演の『ウラジヴォストーク攻防戦』。
氷空を塞いで。
路地を縫って。
地下で耐えて。
泥水を啜って。
堪えて、粘って、凌ぎ切って。
「以て、春を待つ。」
そうしてやっと。
110万というおびただしい数の敵が、雪解けの泥濘に呑まれるのだ。
根雪が溶け切るまで耐えた蕗ノ薹だけが、芽吹けるのだ。
「「「は、蕗ノ…薹――…!!」」」