第95話 新たなる英雄
『日清戦争時の旧型銃と、猟銃。酷いものでは…、刀剣や竹槍まで』
電話越しに、掛澗の重苦しい息を聞く。本土防衛用の予備師団までもが動員されたことで逼迫する内地の様相に、松花江ラインとの格差を思いやった。
「その状態で、先月のような一方的な防衛戦は……」
『持ちませんわ、ええ。持ちませんとも』
強い口調で掛澗は否定する。
『迫撃砲弾や石油、火薬、6.6mmの銃弾ならともかく……。大口径砲弾をポンポン産み出せるほど皇國の製鋼体制は整っていませんもの』
八幡、尼崎、室蘭の三大高炉がフル稼働しても、その生産限界は年産14万トン。史実の年産たった3万トンよりかは遥かにマシだが、それでもロシアの年産220万トンには遠く及ばない。
火薬生産量で言えばハーバー・ボッシュ法を世界で唯一手にした皇國は、ロシアの400倍の生産量を叩き出しているが、残念ながら硝安みたく水と空気から鉄を創り出すことはできないのだ。
『大蔵省の総力戦研究所より、現在の戦況から導かれる終戦時期が出ましてよ』
「結果は?」
掛澗はひとしきり息を吸って、こう告げた。
『2ヶ月以内に、皇國の戦争遂行能力は限界に達しますわ』
玲那はみるみる険しい表情を作る。
「……玲那たちが、負けるのですか?」
『いえ。それより先に国力が枯渇して、ですわ』
「具体的には」
『生産能力ですわ。松花江レベルでの熾烈な弾幕を展開できるのは、備蓄に日産分を加えた数字から消耗量を引いた数値が0を下回らない限り。ここから導かれる計算として――60日後に、皇國陸軍の弾薬は底をつきますの」
玲那は、弱弱しく首を振った。
「60日以内に、敵軍の反攻を頓挫させねばならない…ということですか」
その言葉は、どこか自身に言い聞かせているようで。
だからだろうか、掛澗は明確にそれを否定する。
『いいえ。正確には、それすらできなくってよ』
「どうして」
『60日以内に殲滅しようとより多くの弾薬を使えば、その分枯渇までの日数が短くなりますわ。いたちごっこですの』
玲那は息を詰める。
「もう、勝てないのですか。バルチック艦隊もまだ来ぬうちなのに」
『重砲を使わないならば、多少は持ちこたえることが出来ますけれど……』
「重砲を、使わない…、ですか」
『けれど、重砲を使わないで100万に達する敵軍を迎え撃つ、だなんて……』
その言葉に、ふと手が止まる。
重砲を使わないで済む戦場――?
脳裏をよぎる、あの『世界大戦』の分水嶺。
鉄十字と赤旗が入り乱れる地獄の惨景に、思いを馳せる。
近接戦闘。
明確に存在しない前線。
100万を同時相手しなくてよい正面幅。
ほぼ機能しない攻勢側の事前の作戦や兵站。
攻撃側の兵力逐次投入を誘発させる環境。
「ッ!?」
衝動的に机上の地図を覗き込んだ。
思考を研ぎ澄まして脳内の演算を加速させる。
『姫宮?』
「………」
掛澗の言葉も耳に入らない。
五分、十分。いや、一時間は経っていたかも知れない。
気づけば電話はとっくに切れていて。
窓の外に高く上がっていた太陽は、気づけば茜色に西空を染めていた。
「蕗は、未だ死なず?」
目を見開いて、そんな言葉が漏れた。
暗雲が去っていく。
濃霧が開けていく。
思考回路が、急速にクリアになっていく。
「――見つけた」
見えたのだ。
この敗北寸前の戦況をひっくり返す、起死回生の決戦地が。
衛戍府。
禁闕部隊の司令部であり、もとは上川離宮を鎮護するために組織されたこの部隊の本営だ。大内裏にもなぞらえられるそれは、この大聖堂に開かれて、孤立した9万の将兵を統べる将官たちが沿海州じゅうから集められた。
「この命令……、一体どういう意味かわかっているのですか!」
総軍司令の黒木大将がわなわなと震えながら、玲那を指差す。
司教座に腰かけた玲那は、足を組んで、ひじ掛けに肘をついて、首を傾げて笑う。
「何を。文が読めぬか、大将殿。召集令状ぞ」
「お言葉ですが皇女殿下、殿下は皇族と言えど中佐です。佐官が将官を集めるなど……そもそも!」
言葉を切って、彼は息巻く。
「我らは沿海州総軍です。満州総軍直属である殿下に付き従うことなど、軍令の定める指揮系統上あり得ません!」
「何が沿海州総軍か」
玲那は一蹴する。
「そんなもの、もう存在しなかろう」
「は。はぁ?」
「帥らが磯城参謀に渡した総軍の指揮権は、とうに妾が拝受したゆえ。軍規第42条に基づく正式な委譲によってな。なにより直後、妾はこの杖を振るっておる」
くるりと軽めに翠星杖を回す。
「知らぬか? 勅令を除く、政令軍令すべての命令に優越する号令ぞ。これを妾は拝受したすべての部隊に発したに過ぎぬ」
ゆえにもはや、ここには沿海州総軍も満州総軍もない。
ウラジオストクにはただひとつ、総勢9万におよぶ禁闕部隊のみがある。
方面軍規模に達する、前代未聞のスケールの禁闕部隊が。
「……召集命令によって、ナホトカの仙台鎮台も、あるいはハンカ湖畔の近衛師団も撤退を始めています」
「ああ。妾の意図する通りだ」
「意図、ですと。それでは9万人の命運をかけた作戦の立案を殿下お一人でなさっているのと同じことですよ」
「然り」
「っ――その意味がわかっているのかと聞いておるのだッ!!」
ダァン、黒木大将は机に拳を振り下ろす。
「たかが中佐が、それも誰とも合議せずただ一人の想定で練り上げた作戦など、信用なるか!!」
「……、たかが中佐、とな?」
「佐官などまだまだ戦場のことなどわかっておらん!立場を弁えろ!!」
へぇ、と感嘆げに息をつきながら、玲那は首を傾げる。
「たかが中佐が一人で練り上げた作戦に、手放しで喜び舞い上がり、光栄がって全指揮権をまるごと放り投げたのは――はて、どこの総軍であったかの?」
「「「――ッ!」」」
黒木は顔を真っ赤にして震えながらこちらを睨みつける。
参謀の藤井少将はそれを遮る、もしくは庇うように話し出した。
「磯城中佐は十分作戦立案の能力があるからこそ、ここに我らの参謀長としていたわけです。殿下は参謀ではない以上、畏れ多くもやはり経験というものが――」
「立案能力? 冗談はよしたまえ」
玲那は一笑に付した。
「英雄ノ凱旋、とやら。あの作戦のどこに智を感じろと申すかえ」
藤井も黒木も凍り付く。
「……お言葉ですが殿下、失敗の主因はロシア軍の想定外進撃であって」
「其のような表象の話などしておらぬ」
もちろん作戦自体もお粗末なものであったが、それ以前にもっとあるだろう。
「思い出したまえ。あの英雄とやらが、作戦中に何をのたまっていたのかを」
「っ」
「どんな言葉を並べておったかの。あまりに空虚で忘れてしもうた、特に作戦後半からがひどかった気もするが――」
次の瞬間、バタンと乱暴に扉が開いて、誰かが飛び込んできた。
「お待ちください、磯城参謀長!」
後ろからおろおろと入室する衛兵たちが、戸惑いがちにこちらを見る。
フーッ、フーッ、と荒い鼻息を聞く。
主人公・磯城盛太が、額に青筋を浮かべながら、大聖堂の扉に立っていた。
いきり立った英雄の登場に、将官たちは驚いて道を開ける。
すると彼は一番奥の司教座めがけて、ゆっくりと歩きだした。
「ふむ。妾は将官しか召集しておらぬが、佐官が何用かの」
「ふざけた口をォォォォッ!!!」
主人公の怒号が、大聖堂に響き渡る。
「俺を、佐官だと。たかが佐官だと。この皇國英雄たる俺がァ!?」
「……」
「俺から権限を勝手に奪って、勝手に作戦を立てて。挙句の果てに召集の場に俺を呼ばないだと――枢密院の代弁者たる俺を、排除しようだとッ?!」
「……その通りだ、有栖川宮中佐」
ふとそこへ、黒木大将が言葉をかぶせた。
「仮にも総軍参謀長は枢密院の御方なのだ。彼ら英傑は――我々の思考力など遥かに超える天才だ。我々程度の智能で推し量ろうとすること自体、畏れ多いと知れ」
「枢密院の人間は、全能であると?」
「いくら殿下とて、維新を導き給うた英傑たちの実力を疑うことはできまい」
「たはっ」
玲那はため息をついた。
失望の嘆息だ。
「あまりこのような手段は講じたくないのだが――咲来」
「はッ」
咲来が二階席から、司教座のもとへ舞い馳せる。
狩猟民族らしい軽い身のこなしだ。
「流せ。録音機だ」
彼女は頷くと、大聖堂のオルガンの裏へと行く。
まもなく聖歌用の大きな拡声機構から、音が流れた。
『何かの間違いだ!!』
第一声は主人公の声だった。
『俺の王道がひしゃげるはずがねえ!』
『包囲されましたね。どうするのです?』
そう問いただすのは、玲那の声だ。
『主人公に失敗はありえねぇんだよ! 正しい戦果を寄越せ!!』
次々と溢れてくる、焦燥しきった主人公の声。
プロパガンダ映画の素材にするために用意された録音機に残っていたものだ。マイクに紐づけられた高価な最先端技術で、こんな無駄づかいあるものかと呆れていたが、すぐに使う機会がくるとは。
『今まで読んできた転生モノに書いてあった…王道、テンプレ…!』
『今この状況にピタリと合致するもの…、試せるもの…!』
『ない、ない…ない!!』
集めた将官たちは静まり返る。彼らは思わずその「英雄」を見つめた。
大聖堂の中央で、愕然と立ちすくむ主人公を。
続くのは、ガン、ガンと響く机の音。彼が癇癪を起している音だ。
誰もが言葉を失ったために、大聖堂に良く響く。
「ひどいわね。なによこれ」
ぽつり。咲来の呟きが、静寂の場に際立つ。
黒木が俯く。藤井が目を逸らす。
主人公はカタカタと歯を震わせた。
『つくづく上手くいくぜ……まさかナホトカも占領出来るとは』
『あれ、また俺何かやっちゃいました? が発動したのか!!』
別の録音も流れてきて、玲那は思わず笑ってしまう。
「――あぁ。やっちゃってくれたとも。ものの見事に、包囲されよって」
「ッ……!」
敢えて煽るように主人公へと語りかける。いまさら何を言おうとも、彼に自省する気がさらさらないのはわかっているのだが、わざわざこうする理由は一つ。
口先こそ磯城を向いているが、その内容を聴かせる先は――むしろ、沿海州総軍の将校たち。この「英雄」にすべての業務を無責任にもぶん投げた大間抜け共に、まず、その責を自覚させねばならない。
「『英雄ノ凱旋』により仙鎮は半壊。日清戦争の総戦死者数を一日で更新してくれた果てに、肝心の防衛は失敗とな?…――本当にやらかしてくれた」
「……黙れ、よ」
主人公が、低く唸る。
『逆境をはねのける英雄補正、舐めるな…!』
『きっと、今すぐにでもアイデアが……!』
『こんな情報の濁流なんか、誰にだって処理できねえよ!』
『仕方ないことだろうが!』
窮地に追い込まれていく声。
中身のある言葉は一向に出てこない。
「――のう、帥どもの間では、斯様な男に『天才』という言葉を使うのか?」
「「……ッ!」」
沿海州総軍出身の将校たちが、玲那を見る。
「どうやら妾の知っておる言葉と、意味が違うようでの。英雄だの、能力だの、経験だの……この体たらくを見て、使う言葉かえ?」
「それ……は……」
藤井少将が黙り込む。
「ふむ。左様なら、他の英傑も斯くのごとしと申すのか? 伊藤博文公も、西郷隆盛公も……あるいは、聖上陛下まで?」
「断じてそうではございませぬ!!」
黒木大将が叫んだ。
「聖上陛下は、威厳がおありで、よく落ち着かれ、決して臣民の前では取り乱されませぬ!」
「ではなにゆえ、コレを英傑と呼ぶ?」
「それ……は、っ」
焦燥しきった喚き声は、絶叫とも区別がつかなくなる。
こんな野蛮な鳴き声を玉音と並べることは、さしもの黒木大将も気がひけたらしい。
「枢密院の英傑は……絶対では、ない、のか?」
おそるおそる呟く黒木に、玲那は溜息をつく。
ここまでしないと、人々に刷り込まれた「枢密院議員は英傑である」「それゆえ我々が頑張ろうが枢密院には届かない」「我々は枢密院に従ってさえいればいい」という呪いを解くことができないのか。
「軍人たる者が、舐めた口を……。北方戦役の屈辱を忘れたか」
玲那が低く唸れば、黒木大将が俯いて震える。
「っ――なら、我々は一体何に頼ればいいのだ…!!」
その言葉を聞いて、思わず天を仰ぐ。
英雄という偶像は、このレベルの将校たちの思考力までもを腐らせるのか。
「まだ、誰かに頼るつもりか」
「……?」
「帥どもの首より上は、何のためにあるのだッ!」
思わず、そう嘆いてしまう。
八年前の日清戦争で見た、大山巌の繰り返しだ。
枢密院体制のこの国の本質は、北方戦役の頃から何も変わっていない。それはもう泣きたくなるくらいに、偶像崇拝そのものだ。
「沿海州総軍は、自力で作戦立案もできぬのか?」
「馬鹿にするなッ!!」
「英雄ノ凱旋とやらよりはマシな作戦すら、立てられぬのか?」
「できる! 磯城中佐が居なくとも、戦争はできる……!」
ヒートアップする黒木。まわりの将校たちも勢いづく。やはり自分たちの能力を疑われるのは耐えられないか。
反面、様子が弱々しくなったのは主人公のほうだ。
「やめろ……、俺から、将校たちを切り離そうとするな!」
それには答えず、玲那は淡々と録音を流し続ける。
『二つの戦線は山脈で、完全に隔たれているんだ』
『戦略シミュレーションゲームでいうところの軍事通行不能地帯さ』
『敵が満州方面から直接流れ込んでくるなんて、地形的に無理なのさ』
沿海州総軍の将校たちは動揺する。
「確かに……考えてみれば、あの作戦には穴が多すぎた」
「これが必勝の導きだと、なぜ我らは思い込んでしまった?」
将官たちから初めて注がれる疑念の視線に、主人公は息を荒げる。
『世界中から集った観戦武官とメディアの前で、俺は鮮やかな勝利を収める』
『世界から賞賛され憧憬されながら……栄光の王道を駆けるんだ』
「やめろ……やめろよ!」
『さっさと湖畔に突撃をぶち込んで、マヌケな側面を晒しやがれ……!』
『さーぁ、俺の戦術家としての無双、開幕だぜッ――!!』
「やめろつってんだろォッ!」
主人公は地面を蹴って、玲那めがけて飛び掛かる。
特段避けることもせず、まずは愚直に一発目を喰らった。
バコッ!
玲那は司教座ごと後ろに吹き飛ぶ。
青年の殴打となれば、やはり威力は殺せない。
「ぐ……っ!?」
受け身を取って、なんとか立ち上がる。
「おいおい、大見得切っといてこれかァ!?」
そう言いながら、主人公はゆっくりと近づいてくる。
「すぐこの音源を止めろ。さもなきゃ次は、顔面を引きちぎってやる!」
じんじんと痛む左の頬。
されど一歩も動かず、こう返した。
「では、玄関を開けようかえ」
殴られた頬から血が滴って、ドレスがつつぅと紅く染まる。
「は? お前、何言って」
「そちが集めたのだろう? 世界中から、観戦武官とメディアを」
主人公が一番よく知っている。自分の武勇伝を実況するために、ウラジオストクに呼び寄せたのだ。外から時折響いてくる怒号は、記者たちのものだろう。戦況の急転を受けて、世界中のメディアが緊迫した面持ちでこの大聖堂に押しかけている。
「な……っ」
目を見開く主人公。玲那は杖を手の上で弄ぶ。
「喜べ。今や戦局の暗転で、そちが望んだとおりの大注目ぞ」
「やめ……ろ」
「国際記者を通じて、国内外、数億人。みな、そちの勇姿を見たがっておる」
録音機からは、断続的に響く主人公の喚き声。
これを聞かされた沿海州総軍の将校は、まさに今、みるみるうちに主人公から離反した。さて、これを国際記者たちに聞かせたら?
想像に易いだろう。主人公からは一切の覇気が消えていた。
「やめて……くれ、それだけは」
「こう命ずるだけで十分かの――『開けよ』と、いま、ひとこと」
玲那が視線を飛ばした先には、玄関の扉の横で待機する咲来。
察しのいい女だ。樺太で命を救いあっただけはある。
それを主人公も認めたか、顔を真っ青にしてこんなことを言い始める。
「頼む、やめてくれ」
「それが人に物を頼む態度かえ?」
「っ、調子に――」
「咲来!」
玲那が呼ぶだけ呼ぶと、主人公は、ひぃ、と飛び上がって縮こまる。
「やめて……くだ、さい」
「はあ?」
「やめてください!」
「知らぬ。遅くとも十秒後には開けようかの」
いやだ、と主人公の声が漏れる。
オルガンの裏からは相変わらず大音量で英雄の切羽詰まった声が、空虚な言葉と滑稽な自己陶酔とともに流れている。
「いやだ。やめてください、お願いします!」
「それが皇族に赦しを乞う態度かえ?」
「じゃ、じゃあ、どうすれば!?」
玲那は口角を上げる。
「跪け。妾のもとに」
主人公はゆっくりと膝を折る。涙を流しながら、こう言って。
「ぐっ……くそ、くそぉ……っ!」
ビシィ!
主人公の背に杖を叩きつける。汚言を吐いたからだ。
皇族の御前にふさわしくない品性だ。
「いっだ……!?」
「あと五秒か?」
「ひぃ!」
背に血を滲ませながら、彼は玲那の足元に跪く。
赦しを乞えと言われて、必死に考えたのだろうか。こんな口上を述べ始めた。
「すびませんでしだっ。これまでずっと、舐めた口を利いて。調子に乗って戦争をして負けて、迷惑をかけて、でも。許してほしいんです。だって、俺を信じてくれた皇國臣民五千万に示しがつかな――」
不快だった。
その言葉すべてが。
「天誅」
だからその頭を思いきり――軍靴で踏み抜いた。
ガッ!
主人公は、顔面を大理石に強く打ちつける。
ポキィ、と骨の折れた音がした。
「いっでぇぇえええ!!?」
どばっと血を流す主人公。
ぐりぐりと踏みにじる玲那の脚を撥ねのけて、彼は直ちに飛び上がる。
「殺じでやる――いまずぐに!!!」
血まみれの顔で、鼻腔もつぶれたままの声で、玲那へと殴りかかる。
だから杖を使った。
まっすぐ、彼に突き出すように。突っ張るように。
「開けよ!!」
一言を添えて。
まもなく、外の光が大聖堂に差し込む。
主人公の身体が杖に突っかかったのと、咲来が大聖堂の玄関を開け放ったのはほとんど同時だった。
「ぁ……」
主人公の動きが止まる。
玲那の杖がみぞおちに突き刺さったのもあるだろう。
けれど、多分それだけじゃない。
パシャリ。
眩いフラッシュ。
怒涛のように雪崩れ込んできた国際記者たちが、玄関から撮ったのだ。
血を流す皇女へと殴りかかる、ぐちゃぐちゃの英雄の顔を。
『なんで、完璧だったテンプレが…、うまくいかないんだよ…!!』
『こんなの、夢か幻だ!』
そして大聖堂の中には、とめどなく録音が流れ続けている。
降りしきるフラッシュの中で、誰もが知る皇國英雄の声が、無様にわめいている。
『俺は、英雄で…主人公なのに!』
『世界が、鮮やかに勝利を収めた俺を褒め称える筈なのに…!!』
『ぜんぶ話が違うじゃねぇかよ!!』
どぱっ、と杖に感触があった。
液体を受け止めたような感触だ。
見ると、主人公が杖の先で吐いていた。
みぞおちを突いたからだろうか。それとも、記者たちがメモ帳を出して録音を書きとめ始めたからだろうか。外傷的なものか精神的なものかは知らないが、血反吐交じりの吐瀉物を、杖の上から大理石の床にぶちまける。
松方に押し付けられたものとはいえど、大切な杖なのだが。
眉をひそめて杖を引くと、主人公はその場に崩れ落ちた。
「穢しおって……」
蹲る彼の身体を杖の先で転がして、付着した汚い体液を拭う。
パッパッ、と最後に杖を振りかざして払うと、玲那は左の頬につけられた打撲傷を指差して、血を垂らしながらこう言った。
「刑法第75条。皇族ニ対シ危害ヲ加ヘタル者ハ無期懲役ニ處ス」
その文語は、大祭壇に重々しく響く。
「現行犯だ。連れていけ」
「は……、はッ!」
衛兵が駆けつけて、主人公を引きずり上げる。
血だらけでぐちゃぐちゃの顔は白目を剥いていた。意識がないらしく、衛兵たちは持ち上げるのに難儀して、結局はあきらめたらしい。
身廊の絨毯の上をずるずると引きずられていく主人公の股間からは、とめどなく何かが垂れて、絨毯に線を引いていった。
「失禁か。最後まで汚い男よの」
ぽつりと呟いて、その男の「主人公」としての最後の瞬間を見送る。
血と汚物にまみれたままで、正面の玄関へと退場していく姿は、それはもう小さいものだった。
やがて、大聖堂の玄関は閉ざされる。
録音機から流れる声も、いつのまにか止まっていた。
静かな冬場の陽光だけが、ステンドグラス越しに祭壇に差し込んでいる。
9万の将兵を束ねる将官たちと、雪崩れ込んできた国際記者は、祭壇の上にひとり残って立ち尽くす、その皇女を見つめていた。
「主人公は退場した」
ぽたり、血が滴る。
「ゲームは終わった。乙女ゲームという、汚い権力闘争が」
杖が、カツンと壇上に鳴る。
あしらわれた水晶が、きらりと陽光を反射する。
「禁闕部隊の将官各位、そして万国の記者諸君。篤と聴け」
百に達する彼らの、その目が見開かれる。
「皇族に手を出す不届き者の英雄は、かく去りき。皇國陸軍の意思は妾のもとに統べられたり」
国際記者を巻き込んでしまった以上、言わなければならない。
混乱は終わったと。苦い敗北からの再起は完了したと。ゆえに。
「これより、決死の防衛戦を敢行する」
皇國は負けないと。
そう言わなければならない。
「妾は禁闕部隊をして――ウラジオストクを死守せんとす」
ゆえに、なるしかなかったのだ。
皇國のジャンヌ・ダルクに。
「皇軍よ、皇女が御許に銃を取れ。われらが祖国を救うのだ!!」
「……やはり、次なる玉座にふさわしい」
雄叫びの中で、ぽつりと誰かが呟いた。