2024年より愛をこめて
手を開く。それから閉じる。
白くて小さな手だ。
「……この身は、少女なのですね」
「何をいまさら」
正面に座す閑院宮が、興味もなさげに息をつく。
「少女だとも。そのうえで、貴き血の少女だ」
彼は窓の外を覗く。わずかに朝日に照らされた雲が流れていた。
「連隊直属……禁闕部隊。お飾りに据えるには皇族が都合よかろう」
「とはいえ、どうして玲那なのでしょう」
「ああ。皇女とて、年端も行かぬ娘を戦地に送り込むなど――」
狂っている。遠い空を睨んで彼が零した言葉を、玲那は掬い上げる。
「次に迫る戦争のほうが、より狂ってございますよ」
「それは……預言かね」
「ふふ。あるいは、宣言かもしれません」
おもむろに船体が傾いて、立てかけていた小銃が倒れそうになる。ぱし、と銃身に手を添えて膝の上に置いた。
「どれだけ正気をかなぐり捨てようとも、前へ進まなければなりません。来たるべき『世界大戦』のためにも」
「……世界大戦、か」
「はい。玲那は破滅しとうございません」
そう言ったところ、閑院宮は呆れかえる。
「まだ言っているのか」
「玲那の至上目標ですもの。それに、この国の運命も懸ってございます」
保身のためにも、史実の再来はなんとしてでも避けなければ。
(史実、か)
ジリリリリと鳴り響く降下準備のブザーを背に、玲那は少しだけ思い耽る。
「続きは後だ」
短く言葉を切って、閑院宮は船首のほうへと去る。玲那も自分の落下傘を確認しながら鉄柵に命綱を架けた。背には閑院宮の声が響く。
「操縦士、観測士!」
「上空はほぼ無風状態。作戦遂行に支障なし」
「よし、今までの安全運航感謝する。どちらも持ち場を離れろ」
「はっ!」
目標の直上へ見事に舵を合わせて、彼らはそれぞれ脱出する。
「間もなく燃料尽きます」
「船体爆破準備完了」
「外気圧よし、全計器異常なし!」
その声にゆっくりと立ち上がれば、小隊長から不満げな声がかかる。
「準備終わりましたよ、闕杖官殿」
「ふふ。お飾りは肩身が狭いものですね」
玲那が自嘲すると、いっそう小隊長は顔を顰めた。
「嫌味ですか」
「いいえ?」
正直な感想だ。玲那が言い出したこととはいえ、洋上を渡って飛行船から飛び降りるなんて片道切符の地獄行き。こんな冗談みたいな特攻作戦にこんな歳の少女が駆り出されるなんて、お飾りでもなければありえない。
「闕杖官訓示」
あぁ、前世なんて記憶がなければこうはならなかったのだろうか――すぅ、と玲那は息を吸う。
「これより、われらは世界で初めて空から敵地に殴り込む」
ここは、高度二千メートル。
「当然ながら退路はないが、完遂の暁にはこの戦争が終わる!」
声を高く張り上げて。
「閑院連隊長宮をお護りするより、今宵の責は重いと知れ!」
仏暁を背に渤海より侵入した飛行船部隊は、彩雲を掻き切って現れる。清朝も、列強諸国も、世界の誰もが想像しえない必殺の一撃だ。
「千年秩序をぶち壊せ!」
「「冊封体制に終止符を!」」
「歴史に我が名を、祖国に勝利を!」
「「皇國に栄光を!」」
「小隊諸君、死地への覚悟は!?」
「「われら白蓮、華麗に咲いてみせましょう!」」
「よろしい、降下口開放!」
扉が開かれ、烈風が船内を馳せ走る。
「用意ィ、用意、用意ィーッ」
「降下ァー! 降下、降下ァ!」
身を投げ出す。
桃の咲き誇る荘厳の城を眼下に、思うのだ。
あぁ、なぜこんなことに。
玲那はうら若き乙女のはずなのに。高貴な皇女さまのはずなのに。
どうして小銃を手に、敵地上空へ投げ出されなければならないのか。
全身に圧し掛かる重力。顔を顰めて運命を呪う――なんで玲那は!
「悪役令嬢なのですかああああ!!」
まもなく開く落下傘。ぐっと身体が引き上げられて、同時に記憶が込みあがる。忌々しい前世の記憶が。
"なんでこんなこと!"
あぁ、あの日も同じような事をボヤいたな。
「クソゲーだ」
暑い夏の昼下がり。一人の高校生が、駅のホームでスマホに文句を垂れていた。
画面に映るのはイケメンたちの笑顔。数多くのユーザーを虜にするらしいそのシーンはされど、むしろ苦痛であった。
「こんなの、発表さえなければ……」
自由研究の班分けで「乙女ゲー時代考察界隈」を名乗る狂人3名と組まされてしまった哀れな自分。狂人たちはこう語りかけてきた。
"乙女ゲームはオトコによってイメージが歪められたの!"
「知らないって。夢女子じゃないし!」
"まず中世ヨーロッパ風なんてほとんどない。実際は時代物が多いの。特に人気なのは明治時代や大正ロマンで……"
それで渡されたのがこのゲーム。
主人公は現代のJCで、帰りの駅でホームから転落。電車に衝突して――目を覚ませば、そこは荘厳な宮殿。明言こそされていないが、モデルは明治時代か。そうして「転移」した未来人に折よく遭遇するのは、なんと皇太子御一行。
「皇太子出てくるの? 不敬じゃない?」
フィクションとはいえどうなんだ。それだけじゃない。
未来知識を持つ彼女を野放しにはできぬと華族学園へ。皇太子の同級生として入学するけれど、元が現代人なので華族の作法を知らない。結果、ほかの令嬢にひどくイジメられる。靴やドレスがうまく着こなせず笑われるわ、仲間外れにされるわ、散々なところを見かねた皇太子殿下が手を差し伸べる。恋が始まる一方、それが御令嬢がたの顰蹙を買う――陳腐なストーリーだ。
「そして主人公は攻略対象の皇太子殿下はじめ、近衛の青年隊長だの、宮中のイケメン執事だのに気に入られて……そこで、日露戦争勃発??」
なんとこのゲーム、歴史イベントを絡めてくる。
激動の時代。日清戦争では攻略対象死亡イベントが稀に起こるし、それを回避したとしても、なんと日露戦争では立ち回りをミスると敗戦エンドを引いて、ロシアの手で攻略対象ごと主人公は処刑されてしまう。
「なんなんこのゲーム!」
攻略ウィキいわく、陸軍や海軍のイケメン士官の攻略度合いが戦争の勝ち負けに影響してくるらしい。その要素いるか?
"皇太子殿下が、私を好き? そんなのありえない!"
「あり得るの! 早く気づけ!」
まるで進まない主人公。未来知識を持ちながらも歴史に振り回されるし、埒が明かない。業を煮やしていると主人公が嫌いになってしまったので、ストーリーに対して逆張ることにした。
「有栖川宮、玲那。かっこいい……」
その名は、例の乙女ゲームの主人公――のライバル、いわば悪役令嬢だ。皇族なので令嬢よりは悪役皇女と呼ぶべきか。主人公にこれでもかと嫌がらせをするカスみたいな性格だけれど、個人的には主人公よりマシだと思う。ストーリーが進まない一番の要因はこの女ではなく、主人公の鈍感にあるのだから。
(玲那ちゃん、いっつもかわいそう)
画面に表示される北海道の原野と、茫然とする悪役皇女。たった十数歳なのに、皇太子や主人公によって辺境に追放されてしまった。こんなふうに大抵のシナリオでこの少女は倒されるのだが、没落だの追放だの自殺だの、その全てにおいて救いがない。
『まもなく2番線に、12時ちょうど発……』
アナウンスが聞こえてくる。電車が来たかとふと顔を上げれば、ホームの上で少年が危なっかしく走っていた。
(電車が入ってきたってのに。あの制服……このへんの中学校か)
ホームに並ぶ人たちが、突っ込んでくる少年をおっかなびっくり避けていく。何を急いでいるのかは知らないが迷惑な子だ。ため息をついて、スマホをしまおうとした瞬間。
「!?」
ドン、という衝撃が走る。
少年は何かにつまずいたらしい。その勢いのまま、こっちに飛び込んできて――こちらの身体が宙に浮く。
『札幌方面・東室蘭行き、普通列車が――』
ぐわんぐわんと、痛いほど脳裏に反響するアナウンス。足が地につかない。ホームを踏み外したらしい。
『9両編成で……』
目の前には少年の身体。二人ともども宙を舞っている。時は、気が遠くなるほどゆっくりと流れている。走馬灯というやつだろうか。
そして迫りくるのは普通列車の前照灯。これは助からないと悟った。
(あ、だめなやつ)
ふと、握ったままのスマホの画面が光った。
それはもう、燦然と。
” ――Now Loading―― ”
刹那、脳裏によぎる声。
光が弾けた。
「……っはぁ…!」
飛び起きるみたいに目を覚ました。直立不動で、背に汗をびっしょりとかいている。白昼夢だろうか。
真っ白な視界に少しずつ景色が見えてくる。
「は?」
見覚えのない薄暗い廊下が横たわっていた。
「……え、ぇ…」
赤い絨毯の敷かれた廊下に一人佇む。
少なくともここは家じゃない。
「玲那くん! こんなところにいたのか」
遠くにぼんやりと見える人影が、カツカツとこちらに向かってくる。
「諮問会議に呼ばれたかと思えば子守りとは……閑院宮家も舐められたものだ」
ぶつぶつ文句を垂らす立派な髭と、いかつい軍服。それとは対照的に若々しい足取りで、青年は目の前に立つ。
「勝手にこのような場所に行ってはいかんぞ、まったく」
と言われても。このような場所って、ここどこですか。
「あ……あのぉ。一体ここは」
「幼女が喋ったァ!?!」
とんでもない勢いで飛びのく青年。
「幼女? 誰が??」
「や、すまなかった。ここまで流暢に喋れるとは、さすがは有栖川宮のご令嬢」
有栖川宮――あれ、どこかで聞いたような。しかし一旦は隅に置いておく。
「ご、御令嬢? まさか、そのへんの高校生ですよ」
「は……?」
「というか、ここはどこですか?」
「わ、わからないのか?」
慌てる青年へと首を傾げた。記憶が正しければここは。
「北海道札幌市発寒区、JRの発寒中央駅では」
「有栖川上――お嬢様がご乱心です!!」
廊下に響き渡る大声。
「ちょっ、待ってください!」
「高校だの北海道だの……何かに憑かれているに違いない……」
「本当ですって」
「……いいか、玲那くん。そもそも、北海道に高等學校なんてものはない」
「なっ、そこまで田舎じゃないですって。札幌は200万都市ですが」
警戒を解かず、じりりと青年は言い返す。
「不毛の泥炭地に、そんな巨大都市があってたまるか」
「不毛って。農業出荷額全国一なんですけど」
「はっ。あんな気候でまともに農業など……鎮台さえ設営できないのだぞ」
「……『鎮台』?」
「聞いたことがないのか? 陸軍の部隊だ」
「陸軍って。軍は戦争に負けてもう解体されたでしょ……」
いったい何をしてるのだろうと心中嘆く。何が悲しくて立派な髭相手に一般常識を説かなくちゃならないのか。
「れ、玲那くん……今、なんと」
「いや、敗戦で解体されて今は自衛隊って」
「玲那くん」
一瞬のうちに彼の出す空気が、殺伐としたものに変貌する。
まずい――そう喉を鳴らす間もなく、青年は動いていた。
「幼子とて、言ってはならぬことがある」
ザッ、と首元を刃が突く――そう錯覚するほど、刹那、強い殺気が頸部から全身を貫いた。
「わぁぁああっ!」
恐怖に従って後ろへ倒れ込む。
手元に握っていたスマホが飛んで、床に転がった。
「っ、玲那くん!」
慌ててこちらを抱き支えようと手を伸ばす青年が、ふと立ち止まる。
「いたたた……」
ゆっくりと身を起こせば、青年の唖然とした顔がある。立派な髭が冷や汗を乗せていた。その視線は一点、こちらの頭の右上へ。
「なん……だ、それ、は」
点いたままの乙女ゲームの画面を怯えながら指差す青年に、ごく普通の答えを返す。
「す、スマートフォンです」
「光で……数字が、書いてある?」
こちらを乗り越えてスマホへ駆け寄る青年。
そこに羅列された数字にくぎ付けだ。
「こっ、このような時計が!?」
画面に大きく映された数字が示す時刻――”12:13 2024/8/15”。
「2024……だと?」
「年号ですよ、令和6年」
「レイワ? 何の暦だ、皇紀とは違うのか?」
「元号ですけど」
「は、はぁ? 前後の元号は??」
「前は『平成』ですよ……」
「いい加減にしてくれっ、君は一体何を言っているんだ!? 和暦がわからないなら、イスラム暦でも仏暦でも、西暦でもいい!」
西暦――!
知っているなら何故わからないんだろう。
「そう、西暦ですよ西暦! 今年は西暦2024年、即ち令和6年!」
「ッ!?」
青年は固まる。
「いや、ですから明治、大正、昭和、平成ときて令和!」
「………『明治』、明治と言ったか!?」
「ええ、明治です! 開国と近代化の時代で、1868年から19――」
「待て、それ以上は!」
すべてを言い終わる前に、正面から肩を掴まれ揺さぶられる。
「馬鹿、な……」
こちらの困惑をよそに彼は真顔でこう言った。
「今日は、明治23年即ち西暦1890年8月15日……だろう」
「……令和6年、つまり西暦2024年8月15日じゃなくて?」
震える声で青年は問う。
「玲那くん――いいや。君は、誰だ?」
「わ、わたしは」
答える隙もなく、青年は動き出す。
「いや、よい。ついて来たまえ」
手を引かれて廊下を歩む。
「これ以上面倒なことは知りたくない」
「?」
「どうせ今日限り。君が誰だって別に良いんだ」
ただでさえ宮家の末席で、断絶間際を継がされた肩身の狭い身分で、これ以上面倒ごとを背負うのはごめんだ。そう独り言ちながら、青年はずんずんとこちらの手を引いて赤絨毯の階段を上っていく。
「幼児の自我などそもそも曖昧だろうし……とはいえ、いま降りてきた未来人の人格をどうしろと」
「未来人?」
「あぁ」
階段の途中、大きな窓の前で青年は立ち止まった。
「外を見てみるとよい」
そう指した青年の先に、視線を動かす。
それから言葉を失った。
「――嘘でしょ?」
堀を挟んで、どこまでも瓦屋根が続いている。
高い建物なんてない。
ここは地元じゃない。現代でもない。
どこなんだ、ここは。
「ここは明治23年の帝都、枢密院本庁だ」
「め……い、じ?」
青年は固い表情のまま言う。
「予は閑院宮載仁。閑院宮家6代当主。有栖川上より、今日一日限り、君の面倒を任されている」
そしてその君は――、閑院宮は窓とは反対のほうを指し示す。
螺旋階段の踊り場に立つ小ぶりの姿鏡。
それでも、全身を映すのには十分だった。
「は…、ぁ……?」
知っている。この姿。この身なり。この顔。
「有栖川宮家、その第2皇女たる有栖川宮玲那。融合だか憑依だか知らぬが、それがいまの君だ。ちなみに5歳」
「5さい」
知っている。海馬に絵の具をぶちまけたみたいに、全ての記憶が蘇る。いいや、違う――この身体に宿る魂が、有栖川宮玲那の意思と融合していく。その仕草が、言葉遣いが手足に至るまで染みていく。
「ありえま、せん」
閑院宮曰く、1890年8月15日。それはまさに、あの悪役皇女が登場する日付。
間違いない。ここは、前世で見たゲームの世界だ。
「あはは……」
もういちど自分の身体を見下ろす。
小さい手。低い視界。藍色がかった長い髪。まだ幼い姿だが、瞼に焼き付けて覚えている。どれほど逆張り推したことか――愛してやまないその悪役は、けれど、どうして。
「なぜ玲那なのですかあああ!?」
閑院宮がびくりと震えるが、気にする余裕もない。没落、国外追放、自殺。数多くのルートでこのお姫様は破滅する。それだけならまだしも歴史イベントとか訳のわからない要素を混ぜてきて、立ち回り次第では戦争に負けてゲームオーバーときた。
この小さな手で、イケメンたちのみならず、清朝やロシアまで攻略しろだって?
「どう……しろと、申すのですか……」
明治23年・極東、とある小国。
唐突に運命を突きつけられた皇女は、茫然と立ち尽くした。