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車椅子はお父さんの足(分岐点)

作者: 勝っちゃん

 1976年生まれ。脳性マヒ妻と子供の6人家族。

「分岐点」

 私が算数だけ普通学級に通い始めた時に、ほぼマンツーマンで教えてくださった担任の先生が私に「普通学級で習ったってお前の肥やしにならないだろう、俺が教えるのに」と言われた事を今でも覚えている。

 小学6年生から算数の授業だけ普通学級で習い、中学校は知的障害者が多い特殊学級に入学したため、授業は5教科だけ普通学級で授業を受け、他の授業は特殊学級で受けた。

 特殊学級では、体育と体力作りの授業の時は機能訓練を行い、作業の時間は1年に1回行うバザーの売り物の「木の踏み台」の制作だ、この踏み台は毎回好評で売り出したらすぐに品切れとなった。

 この作業の授業で彫刻や糸のこで木に触れる事が好きになった私は、高校進学後も「技術」として木工を選択し学んだが、担当の先生が教頭で「この授業の時ぐらいは集中し精神を鍛えろ」と授業なのか、怒られているのかわからない授業であった。

 普通学級の授業はノート取るのも一苦労で、中間・期末テストで悪い点を取りテスト用紙を親に見つからないようにするのだが、特殊学級の担任と親との連絡帳にきめ細かく書かれ、テストを見る前に怒られ、見た後には激怒された。

 私が「障害があるから仕方がないだろう」と口応えをすると、「アーそうかい、アンタだけ障害があって、アンタだけかわいそうなのかい?だったら、誰もいない所で豆腐の角に頭ぶつけて死んでしまえ!産まれた時みたいに息を吹き返すなよ」と言われると何も言えなくなった。

 本当は、健常者の友達と一緒に帰ったり、遊びに出かけたりしたい年頃だけど、訓練に通ったり親に送り迎えをしてもらったり、学校も家から15分ぐらいかかる所だったのでそうもいかなかった。

 障害のある友達の多くは家に行ったり来たりして遊んでいたが、本当は健常者と遊びたい気持ちは捨てきれない。

 たまに、普通学級の友達が家に来て来れる事もあったけれど、ちょっと変わっている友達か、ちょい悪の友達が「花札やろうぜ」と家に来て、自分の小遣いを根こそぎ取られる事もあったが一緒に遊べる事がうれしく、バレたら遊べなくなると思い、大人達には言えなかった。

 いじめも度々あったり、授業について行くのがやっとで、どこに行くにしても母親と行動を共にするのも思春期の私にとっても嫌で仕方がないのもあり、「普通高校に入れ」という父親の反対を押し切って養護学校に行く事にした。

 父親は「俺の言う事に逆らって自分で決めるのだから、これからは自分の事は自分で決めろ!応援するから」と私の背中を押してくれた。

 高等養護学校の授業も中学校の時と変わらなくついて行くのが大変で、親には「障害があるから仕方がないだろう」という言い訳も効かなくなった。

 大きく言うと人生の分かれ道だったのかも知れない。選択しなかったもう一つの道である普通学校へ行っていたならどうなっていただろうと時々思う。

 障害のある私に「人生の分岐点」を作ってくれた両親に感謝している。


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