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応接室に入ると、ソファに座っていた王太子アレクサンドル殿下が立ち上がりました。
「カロリーヌ、大丈夫かい?」
そう言いながら、私のところへ駆け寄ってこられます。
……嫌な方。
結婚してもべつの女には指一本も触れたくないほどミュゲ様を愛しているくせに、こうして優しくなさるのです。
いいえ、王太子としては当然のことでした。
王太子が後ろ盾の公爵家と不仲だなんて噂が広がったら国が乱れます。
お亡くなりになった妃殿下はあまり大きな家の出ではなく、政略ではなく恋愛で国王陛下と結ばれたために殿下には我が家以外の後ろ盾がないのです。
「ああ、まだ顔色が悪いね。君の顔を見られて嬉しいけれど、調子が悪いなら無理をしないでも良かったんだよ?」
「……殿下」
心配する言葉と優しく髪に触れる手が、私の心に喜びと怒りを呼び覚ましました。
ああ、なんて愚かな! もう知っているでしょう、カロリーヌ! 殿下は私のことなど愛していない。本当に愛した女性を殺した犯人だと思い込むくらい、私のことを信じていらっしゃらないのですよ。
私は王太子の婚約者として公爵家の令嬢として、けして言ってはいけない言葉を口にしました。
「私との婚約を解消してください」
「カロリーヌ?」
「お願いです、婚約を解消してください」
「いきなりどうしたんだい?……好きな男でも出来たのかな?」
「好きな方がいらっしゃるのは殿下のほうでしょう?」
「ミュゲのことかい?」
殿下の眉間に皺が寄りました。
私が彼女のことを口にすると、いつもこの顔をなさっていました。
そして、困ったような微笑みを浮かべておっしゃるのです。
「それは誤解だよ、カロリーヌ。僕と彼女は友達だ。彼女は僕以外の男に恋をしている。その相談に乗っていただけなんだ」
「でも殿下はあの方をお好きではないですか!」
「……好きではないよ」
「私を騙せるなどと思わないでください! 私にはわかるのです。ずっと殿下をお慕いしてきたからこそわかるのです。あの方を見る殿下の瞳に恋慕の炎が灯っていることが!」
「カロリーヌ! 誤解だよ。僕は……」
アレクサンドル殿下はおっしゃいました。
「君を愛している。愛しているんだ、カロリーヌ」
「……ふふっ」
「カロリーヌ?」
「あはははは」
「どうしたんだい?」
いきなり笑い出した私に、殿下は戸惑っているようです。
だけど笑うしかありません。
だって私はわかったのです。わかってしまったのです。
「……これは夢なのですね」
「な、なにを言ってるんだい、カロリーヌ」
「殿下がそんな言葉をおっしゃるはずがありません」
これは夢。
学園の生徒だったころの幼くも愚かな私が見た夢に違いありません。
あのころの私は、王宮の宝物庫にあるという願いを叶えてくれる妖精が封じられた壺を欲しがるほど、愚かでした。ただの伝説に過ぎないのに。
今の私はわかっています。覚えています。
殿下が私を愛しているとおっしゃったことなどありません。
どんなに私が想いを伝えても作った笑顔で、僕もだよ、とお返しになるだけなのです。
そもそも『愛』という言葉自体を口にするのを嫌がってらっしゃいました。
殿下の口から『愛』という言葉を聞いたのは、初夜から一年経ったあの夜だけなのです。それも私のことは愛していない、ミュゲ様を愛しているという宣言ででした。
きっとミュゲ様を裏切るようなことは嘘でも言いたくなかったのでしょう。公爵家の後ろ盾のため、私の機嫌を取らなくてはいけないと思っていらしても。
「そんなことはないよ。僕は君を、カロリーヌを愛している!」
なんて悲しく切ない夢なのでしょう。
ですが、今の私はもうこんな夢で自分を慰めなくてもいいのです。
そうです。この夢が始まる前の記憶は窓から飛び降りて終わりではありませんでした。私は、王宮に泊まり込んでお仕事をなさっていたお父様に連れられて王都の公爵邸へ戻り、そして──どこからか朝の光が差し込んできて、殿下の姿が消え去りました。夢は覚め、長い夜が明けたのです。