幕間 ミドルアース
岬に面した宵限の台地には古い裁定場跡があった。今回の裁定にあたっては、その地に因んで議場、闘議場が整えられた。
足首ほどに短く草を刈られた草原の東西には、それぞれ郷里の陣が敷かれている。互いの姿が小さく見えるほどの広さだ。
中央に拵えた天幕は全周に幾重もの扉幕がある。今はその全部が巻き上げられており、まだ空席だが郷里の貴人、官吏、代闘士の座が見渡せる。
本来の裁定では帯剣の衛士はさほど多く必要とされない。だが今回は向かい合う人垣に武装した衛兵隊が層を成していた。これらは郷都統合府の要請によるものだ。
郷里の兵力には歴然とした差がある。郷都には常設の守護隊があり、その層は厚い。一方で王里の兵力は自治省庁が各個に保有する小規模なもので、裁定場に並ぶのはせいぜいその寄せ集めに過ぎなかった。
その明らかに不平等な条件を王里は飲んだ。むしろ郷都はそのことに疑心暗鬼を募らせている。
郷都統合府の首長は三人いる。エルフのエーミス、ドワーフのジレット、ゴブリンのサロネーが郷ノ皇だ。対する王里は同盟の里長が名を連ねるものの、ほぼバルター一人が全権を担っていた。
裁定の儀が宣言され、双方が中央の議場に歩を進める。そのとき番狂わせは起きた。
台地の縁に控えていたトロルが暴れ出したのだ。物言わぬ愚鈍な人足の巨人が、郷里の者を見境なく撥ね退けながら中央の天幕に近づいて行く。
双方のうちに境里で起きた出来事を知る者が幾人もいた。真っ先に反応したのは郷都の衛兵隊で、彼らは天幕を守るべく一斉に前進した。
一方で王里の陣営は兵を留めている。
事故か策謀か、後者ならば何者の企みか。貴人のひとりが声を上げようとした折、王里の陣よりもう一体のトロルが現れた。
それは浮足立つ郷都の衛兵隊を一顧だにせず、天幕に近づくトロルに駆け寄るや、わずか数撃で暴走するトロルをねじ伏せた。まるで手練れの人間のようだった。
誰もが呆然とするなか事態は意外な結末を迎えた。だが、それが混沌の始まりだった。
ガリオンとターヴはその光景に歯噛みした。二人は代闘士として王里の陣幕におり、傍には付き人として四人のゴブリンが控えている。
そこにニアベルの姿はない。事情を知っているのは二人と四人のゴブリンだけだ。そして恐らくその行方を知っているのは、裁定場の混沌を平然と眺め遣るバルターだけだろう。
当初、郷都の衛兵隊は暴走するトロルの鎮圧を見て引き上げるかに思えた。ところが彼らはもう一方のトロルに襲い掛かった。見分けが付かなかった訳ではない。恐怖に駆られたようにも見えなかった。
衛兵隊はトロルを囲みつつ、王里の企みであると声を上げ、陣幕に矛先を向けた。郷都にそれを留める者はいなかった。三皇の意見は割れたかも知れないが、兵は王里に迫った。
恐らくそれがバルターにとって、最後の許容点だったのだ。
バルターの合図とともに裁定場の周囲から複数のトロルが躍り込んだ。それは裁定場の整備に持ち込まれ、草原の縁に邪魔者のように留め置かれ人足たちだ。土を運ぶしか能がないはずの道具が一斉に動き出した。
トロルは郷都の陣幕の傍からも現れ、瞬時にして郷都の衛兵隊は攻める側ではなくなった。本陣そのものが包囲されていたのだ。
四方から侵攻するトロルたちは、まるで幼児が人形で遊ぶ如く片端から郷都の兵列を蹂躙した。枯葉のように頭上を舞う人の姿に、もはや敵味方の境なく恐怖した。
怒号と悲鳴が草原に満ち、音そのものが割れて羽虫の音のように響いている。攻めるや逃げるや混沌と化した土煙に、トロルの巨体が浮島のように突き出している。まるで網の中の魚をいたぶる子供のようだった。
戦況は混乱した。いや、混乱していたのは郷都だけだ。四方をトロルに囲まれたその間隙は、いつの間にか王里の槍衾に塞がれていた。もはや逃げることさえ叶わなかった。
郷都の陣幕は丸裸も同然、目の前で己が兵士が壊滅する様を見せつけられている。巨人の支配する怒号と悲鳴の戦場は誰も手の出しようがない。もはや降伏講和の伝令さえも、この戦場を渡ることはできなかった。
郷都統合府は敗北した。その兵の一人さえバルターに届くことはなかった。
ガリオンの顎先の髭は擦り減って、もはや疎らに残っているだけだ。重い息を吐いて隣のターヴを見上げた。声を掛けようとして、その視線が戦場にないと気づいた。怒号が煙るその上を向いている。ターヴは空を見上げていた。
何事かとそれを目で追って顔を上げ、ガリオンは言葉を見失った。
混沌の中にも騒めきと沈黙が拡がっていく。皆が騒乱の空にあるものを追い始めている。まだ何も終わっていなかった。
いや、裁定は始まっていなかったのだ。