第四章
「それで。しっかりと納得のできる説明してくれるんでしょうね?」
「もちろんっ」
暗転した意識が浮上する。曖昧な体の感覚を想像で補えば、輪郭を持って足の裏が地面のような何かを踏みしめた。
一度経験したお陰で、この空間での歩み方も何となくわかる。今はあの時よりも明確だ。
「結論から言うと、今のままじゃ《波旬皇》は倒せないの」
「……本当に結論ね。ま、それはあたしも何となく気付いてたけど。で? それがどうしてミノとの契約を斬った上にあんな特攻をかます事に繋がる訳?」
深呼吸。それから胸の奥の繋がりを意識して瞼の裏に道を描く。ゆっくりと目を開けば、そこには霧のように揺れる青墨色の一本道が浮かび上がっていた。
遠くに一際強い存在を感じつつ、徐に足を出す。
「うんと……じゃあまずは契約を斬った理由から。あれは、チカとシビュラを守るためだよ」
「シビュラ達?」
「うん。それがミノの考えだったし、流石に私も二人まで一緒に連れ戻すのは厳しいからね。何より、こっちにも戦力が欲しかったし」
足の裏が波紋を広げる。その輪が数えきれないほど幾重にも重なった頃、唐突に周りの景色が移り変わった。
そこは、見覚えのある場所。何となく今にも面影を残す、過去の土地────《魔統地》。
遠い昔、通商地として栄え、数多の商人や騎士崩れの傭兵たちが集まってできた場所。国未満の、ともすれば国よりも巨大な互助によって成り立った寄り合い所。
「……じゃあミノは──さっきの一撃は? そこで眠ってるのは何?」
「ミノはね、答えを探しに行ったんだよ」
「何処?」
「《波旬皇》のところへ」
後に共生思想が……ユークレース司教国が栄えることとなるその場所に。けれども今俺の目に映る辺りの風景は程遠く。暗く蟠った吹き溜まりが深遠より這い出したようにそこら中に屯している。
正確な時間はよく分からない。だが、繋がっているからこそ直感で悟る。
ここは、あの時間より千年以上も昔の、ある一瞬だ。
「これがその結果?」
「うん。ミノの意識は今、《波旬皇》と共に在る。丁度、封印が解けた直後にミノが呑み込まれたのと同じ状態だね」
「……だったら連れて行ってくれればよかったのに」
物流の拠点として築かれた町は、生れ出る魔物によって壊され、その殆どが形を残していない瓦礫ばかり。きっと、魔物達が己の衝動を持て余して当たり散らした結果だろう。まだこの頃の魔物は、人を己を肯定する存在と認めていなかった。
その証拠に、建物だけでなく仲間内でも傷つけ、争っている姿が散見出来る。恐らく低位だろう。
ここから仲間を潰し、存在する時間を得たものが時を経て中位へと成長し、微かな意識を持って人の世を襲い始める。
ここは、その源流。混沌の坩堝の中心だ。
「確かにチカなら着いて行って手助けも出来たかもしれない。けど、今回は誰かに守ってもらうわけじゃない。もっと深く、《波旬皇》を知るために、彼自身に自分で近付くことになる。だからきっと、こっちに戻って来る為の道も、扉も、手掛かりも、まず存在しない」
「だから、事前に斬り離したのね」
「戻れないなら、行かなけばいいだけ」
さて、そんな悪意に満ちた景色の中に、光が差す。
圧倒的な、何かを変える力を持った存在感を背中に覚えて振り返れば、遠く遠い遥かな向こう。道の、川の、町の、山の向こうに、天へ続く階段のような巨大な柱が見えた。
これもまた、直感で悟る。
あれが、この世界を動かす最初の原動力。俺やショウに至るまで受け継がれ、研鑽され続けることとなる、奇跡の偶然。
最初の英雄────アーサーの転生だ。
「ミノは?」
「そうね。行ったら戻って来られないなら、どうして行かせたのよ。幾らそこにしか方法が見つからなくても、カレンはそんな賭けをしないでしょう?」
「うん。賭けじゃないよ。ちゃんと勝算がある。ミノは私がちゃんと連れ戻す。その手掛かりは、もう準備してある」
そうして、思い出す。
俺が直接彼から聞いたその話。アーサーがこの世界に再び命を受けた、その裏で。もう一つ生まれた対を為す因縁。
俺が今向き合うべき、その全て。
目を向けた、《魔統地》。
そしてそこに、奴がいた。
「だから、私達のやるべきことは唯一つ。ミノが答えを持って帰るまで戦い続けて、時が来たら私が連れ戻す」
「……信じるわよ」
「私でもいいけど、ミノを信じるのはどう?」
「…………そうね。そうするわ。殺してやるって約束もしたしね。しっかり生きててもらわないと困るから」
「ミノはシビュラが守る」
「うん。じゃ、やろっか」
「えぇ」
「頑張る」
後に世界の悪意の象徴となる存在。
感情の魔物────《波旬皇》だ。
「それで? ミノが戻って来るのにはどれくらいかかるんだ?」
「正直わかんない。ただ、ミノがそう望めば私が分かるから」
「そりゃまた結構な賭けだな」
「でも、その先にミノさんの望む未来があるんですよね?」
「うん。きっと」
彼は、気付けばそこに居た。
他の魔物と同じように魔力の──感情の吹き溜まりに生まれる。そこに限って言えば、《波旬皇》は何の変哲もない魔物の一つだった。
だが彼には、周りにはない力があった。否、周りと同じ、異なる力を持っていた。
魔物が生まれながらにして知っている、魔術。後に、個を形作る核となる、唯一の理。
《波旬皇》が得たそれは、感情へ干渉するという力だ。
「じゃぁそれまでどうにか耐えるしかねぇな」
「大丈夫?」
「防御に専念すれば何とかなるだろ。危なくなったら言うさ。オレはミノほど捻くれちゃいないんでね」
「ミノさん程正直な人もいませんけれどね」
「流石ユウさん、分かってるっ」
「あんまり嬉しくないです」
生まれたばかりの《波旬皇》。まだその名で呼ばれる前の、脅威にすら満たない低位の魔物。
そんな、衝動に生かされ何も知らない赤子のような存在に、無慈悲な暴威が迫りくる。
それは、《波旬皇》より少し前に生まれた魔物。胸の奥の負の感情に突き動かされた、理由のない理不尽。
けれどもその攻撃が、《波旬皇》を捉える寸前で霧のように掻き消えた。
「ほら、無駄話してないで手伝いなさいよ。防御に徹したとしても、あいつの脅威が薄まるわけじゃないのよ?」
「チカはもう少し余裕もったらどうかな?」
「うるさいっ! 大体、誰の所為でこんなに苛立ち持て余してると思ってんのっ?」
「チカ、八つ当たり」
「感情知らないのはいいご身分ねっ! ほら、次!」
「ん」
少し考えて思い至る。どうやら無意識に感情に干渉する魔術を行使したらしい。身の危険を感じた、咄嗟の本能だったのだろう。
負の感情の塊だからこそ、死という恐怖には人一倍敏感なのかもしれない。
次いで、《波旬皇》が立ち上がる。その姿は、よく見れば何かの不細工なマスコットのようで。バスケットボールほどの体から腕と足を生やし、左右で形の違う顔のパーツを失敗した福笑いのように嵌めた、一頭身。
どうやらそれが、この世に生まれて直ぐの《波旬皇》だったようだ。
もしかすると、普通の低位よりも随分と足りない状態で形を得たのかもしれない。
「ユウ、さっきの幻術は?」
「連発は出来ませんよ」
「大丈夫。私とチカで援護するから。シビュラも似たようなの重ねてくれる?」
「うん」
「分かりました。ショウさん、魔力借りますね」
「おう、無理だけはすんなよ?」
「はい」
「ショウ、少し時間稼いでっ」
「任せろ!」
だとすれば、なんとなく同情と親近感が湧く。
《波旬皇》もまた、世界の爪弾き者だったらしい。
そんな魔物が、小さな体と歩幅で瓦礫の奥へと姿を隠す。
そこでふと、アーサーの言葉が脳裏に蘇った。
確か、《共喰》。倒した相手の魔力を喰らって自らの糧に変え、成長するという魔術。
だが、しばらく様子を見てみるがそんな変化は訪れない。まだ生まれたばかりで力の使い方を理解していないのだろう。
《波旬皇》が頭角を現し始めるのはもう少し後か。
そう考えて足を出すと、辺りの景色が歪んで変わり始める。どうやら次に移動するらしい。
さて、今度はどこに辿り着くだろうか。
「イヴァンっ」
「はぁあっ!」
「邪魔は、させないッ!」
一度暗闇に戻った景色が、再び焦点を結んで世界を描き出す。
が、そこはまたしても《魔統地》だった。
先ほどまでとの違いは……と視線を回したところで、荒れた景色に目を引く魔物を見つけた。
直ぐにそれが成長した《波旬皇》だと気付き、同時に既に中位に至っていると察する。
あれからこの混沌の中で生き延び、前線で戦えるほどには強大な存在なったようだ。
アーサーが言うには、この頃ようやく《波旬皇》は自分の魔術を手に入れたらしい。そうして《波旬皇》は、急速に成長を果たすこととなる。
「ヴェリエっ!」
「あいよ!」
「援護する。突っ込んで」
「稜威権化!」
景色が再び変わる。次の場面では、これまた俺の知る顔が《波旬皇》と対峙していた。
最初の転生者、アーサーだ。
この頃人間側には魔剣は存在せず、魔具だけが魔物を討滅する汎用的な手段だった。そんな中で転生者としてやってきたアーサーは、俺達が魔剣と契約をして得る魔術の行使という特別な力を、その身一つで扱えた規格外だった。
しかもその力は、チカとシビュラの魔術に対する造詣を合わせたほど。《珂恋》としての力を開放すれば別だが、ただの魔剣ではアーサーには及ばないという破格の力だ。
それくらいに期待を背負わされた救世主と相対するのが、《波旬皇》。感情に干渉するという術を手に入れた、新進気鋭の魔物の先兵だ。
「……っとぉ。イヴァン達もメローラもバケモンだな、ありゃ。首突っ込んだら真っ先に俺がやられそうだ……」
「でも、ショウさんが守りを固めてくれるから私達も魔術構築に専念できるんだよ? 役割分担っ」
「敵を目の前に攻撃できないのは何とも歯がゆいが……今はそれが役目だからな。で、どうよ」
「…………もう少し……」
後世まで長々と続く因縁の、その発端。転生者と魔物の首魁の衝突は、当初アーサーの有利に戦局が運んでいく。
だが、戦うほどに力を増すのが《波旬皇》の能力。敵の魔力を喰らい、自分の一部にして突き返す。時には周囲の魔物さえ吸収して存在を保ち、反撃を繰り出す。
やがて継戦能力に限りのあるアーサーが押しきれなくなり退く。……この瞬間に、その後の運命が決まっていたというのは、酷い話だ。
《波旬皇》についてを良く知らなかった当時の人間サイドは、ある意味幸せだったのかもしれない。
「……よし。行けるっ!」
「んじゃ、道作ってやらぁっ!」
「全員下がれ!」
「少し大人しくしててね、《波旬皇》っ」
更にまた、時が進む。早回しのように歴史が紡がれ、その中で何度かアーサーと《波旬皇》が衝突する。
その間隔が、どんどんと開いてく。気付けば《波旬皇》は、高位に届こうかという存在になっていた。
そうして、その時がやってくる。決死の覚悟を抱いて《波旬皇》との決着を求めた人類側。けれどもその願いは望まぬ形で現実へと変わる。
アーサーの敗北だ。
同時に、二つ歴史が動く。
一つは《波旬皇》がアーサーを喰らう事で人を知る。もう一つは、アーサーの死を楔にして、転生者召喚のシステムを手繰り寄せる。
ここから、千年以上に渡る人と《波旬皇》との闘いの歴史が紡がれるのだ。
「……まるで棺だな」
「これで、少なくともしばらくは動きを封じられるはず。その間に少し休憩だよ」
「うぅ、喉渇きました……」
「カレン、途中で術式の維持代わるから。そしたら休んで」
「ありがと」
時が流れ始める。
アーサーとの話では端折られた歴代の転生者と《波旬皇》の戦いが、順に回顧されていく。
その中で、歴史が紡がれていく。
アーサーの魔力に宿る記憶を喰らった事で人の知恵を知った《波旬皇》。彼は人の叡智である集団戦を魔物の側にも適応しようと考え、行動に移す。
しかし魔物は衝動の存在。指揮系統を構築しても意味をなさない。
だから《波旬皇》は無理に流れを変えず、結末を操作することにした。それとなく魔物の標的に干渉し、スタンドプレーが連携を生むように策を巡らせ始めた。
「にしてもやべぇな。カレンとチカ、シビュラにユウの力を合わせてやっと身動き封じられるだけとか」
「それも永遠ではありませんからね」
「こんなのを封印した《魔祓軍》の連中が規格外すぎるな」
「次元をずらした存在の封印、ですか……。カレンさん、再現できますか?」
「再現は可能だろうけど、効かないと思うよ。一度経験したことは《波旬皇》には効果がないと思った方がいい」
「抗体みたいなもんか。ラスボスに相応しいな。ほんとに弱点なんてあんのかよ……。もう克服してるんじゃねぇのか?」
「だとしたら次の弱点を探すだけよ。やらなければ負ける。泣き言言う暇があったら異世界の知識でも使って討滅する方法でも考えなさいよ」
「厳しいなぁ……」
それを突破した転生者は、力を付けた《波旬皇》が直々に相手をして、問答無用の暴力で返り討ちにする。
倒しされた転生者は《波旬皇》に喰われ、魔物の首魁はさらに強くなる。酷いループだ。
勝つ度に強くなるとかどこの主人公だよ。しかも転生者の方は前より強いのが現れるとは限らない。既にこの段階で、《波旬皇》討滅なんて無理難題にもほどがある。
そして、時代を経るにつれて《波旬皇》は更に知恵を付け、真理に近付く。
ある時、世界のからくりの全容を──己の存在意義を知り、絶望する。
「戦い続けられる相手を望んではいたけれど、実際に相手するとなると結構面倒ね、これ」
「《渡聖者》ともあろう者が弱音か?」
「まさか。ただ、どうにもあたしの魔障じゃ致命打にはならないっぽいからどうしたものかってね……。そっちはどうなの?」
「手応えはある。だが、力を使えば魔障が進む。諸刃の剣だ」
「流石に命まで賭けるのは惜しい?」
「……わたしは生き過ぎた。ここで使い切ることに悔いはないが、懸念はある」
「魔物化? その時はあたしが斬ってあげるわよ」
「なら、まだ死ねぬな」
「はっ……。確かに、カレンの言う通りね。あんたもミノも、よく似てる」
「………………」
魔物の生まれを。その衝動の形を。
負の感情故に逃れられない楔に、目的を見失う。
人を殺せば、ストレスを発散する先が無くなる。かと言って、存在を構成するその感情をずっとは抑え込んではいられない。
人を攻撃しなければ自分が自分でいられなくなるのに。存在意義に任せれば己を殺してしまう。
矛盾によく似た、詰み。
強大になりすぎたが故に、既に解決できない問題。
底のない虚を覗き込んで、《波旬皇》は知る。
孤独という、正の実感を。
「イヴァン、あなたも無理はしないで。わたし達の体は普通じゃない。どんな想定外が起きてもおかしくないんだから」
「分かってるよ。それでも、必要な無理は押し通させてもらう。そうでもしないと、ここまで付いて来てくれた者に示しがつかないからね。私は、私の全てを賭して未来を守ると誓ったんだ」
「……大丈夫。イヴァンが無茶をした時はわたしが守るから」
「そうね。エレインがいればきっと止まってくれる。任せるわよ?」
「うん。だから、マリスも……」
「わたしの事はいいわよ」
だから夢見てしまったのだ。もしかしたらという希望に、縋りたくなったのだ。
その際限ない希求が、また歴史を動かすことになった。
魔物の中に芽生えた小さな熱。少しずつ肥大化してやがて離反を起こし、特別な名前さえ与えられた一大派閥。
《天魔》。そして、共生思想だ。
「しっかしあいつがここまでじゃじゃ馬だったとはなぁ。知ってれば少しは担ぎ上げるのも躊躇したってのに」
「けど、そんな規格外だからこそ彼女の器足り得たんでしょうね」
「人格に問題ありだろ。あんなに憶病なのが転生者って……最初はどうなる事かと思ったぞ?」
「その慎重さにも手を焼かされましたが、こうなってしまえばそれもいい思い出です」
「そこまで楽しめる度量は僕にはないね。それとも、《慮握》で考えが読めるからか?」
「気が合うってだけです。貴方ほど雑に生きられるのを逆に尊敬します」
「あんだ? 喧嘩なら買うぞ?」
「ほら、漏れ出たのが来ますよ」
《魔統地》の中から生まれた希望の光。正の感情に惹かれたその存在に、《波旬皇》はどうやら憧れたらしい。
この頃には既に高位の枠を飛び越えていた《波旬皇》。それ故に、後戻りはできなくて。行き着いた負の極致からでは、《天魔》のような道は選べなかったのだ。
そうして、憧れたが故に、傍に置いておくには眩し過ぎた。だから《波旬皇》は《天魔》から距離を置き、相対的に尊重することでその芽を守ろうとしたのだ。
《魔統地》を共生思想と《天魔》に明け渡し、自らは魔力の溜まり場であったルチル山脈に魔物と共に居を構えた。
こうして、このコーズミマに三つの勢力が生まれることとなったのだ。
「ラグネルはあっちに居なくていいのか? 一応世話係だろう?」
「手出しは出来ない。それに、ラグの居場所は元々《魔祓軍》だから」
「献身的だな。……そう言えば元はそういう生まれだったんだっけか?」
「……居場所はここ。昔の事は知らない」
「そこまでミノに似なくてもいいんじゃないか?」
「それに、命令しない主人に価値はない」
「清々しいね。王は民の奴隷とはよく言ったものだよ」
こうして彼の側から世界を見て思う。
歴史は語り手によって姿を変える。本当に正しい真実は、自分の信じた答えだけ。
このどうしようもない理不尽に、彼も気付いたからこそ抗っていたのかもしれない。
誰もが認める正義を……正しさを。この世界に必要な答えを、探していたのかもしれない。
過去、それを理解できたのはたった一人だけ。その一人も、既に生きてはいない。
故に、《波旬皇》はあの姿なのだと気付けば、胸の奥が寂しく重くなった気がした。
「──じゃあ、あの指輪で抑えてたの?」
「うん。あれには魔力石と同じで魔力が込められたから。疑似契約みたいな形でずっとミノの魔障に干渉してた。魔障の事はチカ達にもバレたくないみたいだったから、それもずっと隠してた」
「カレンの本気は卑怯」
「それが私の力だからね。私にとってはやっぱりミノが一番だから。……まぁ、指輪で繋がってても残念ながら本当の契約みたいに魔剣の姿を取ることはできないんだけどね」
「しっかし指輪ねぇ。ミノも大概気障な贈り物したもんだな」
「欲しいって我が儘を言ったのは私だよ。あの時のミノ、思いっきり困った顔してて面白かったなぁ……」
当初は、《波旬皇》にとっても《天魔》や共生思想が希望の一つだったのだ。
彼女達の存在は、魔物の存在意義さえ覆す奇跡。雁字搦めに嵌った世界のからくりを壊して作り返ることのできる手段だと、見出していた。
けれども、人の側がそれに気づかないまま、目先の欲望に囚われて行った。
我欲なんて負の感情そのものなのに……。《波旬皇》の方が余程思慮に富んでいたというのは皮肉な話だ。
「そういやこっちの婚姻ってどんな風なんだ?」
「婚姻ですか?」
「ほら、そう言うのはユヴェーレン教が一手に引き受けてるって言ってただろ? 何か特別な儀礼とか存在するのか?」
「そうですね。一般的なのだと、誓いの言葉に、口付けとかでしょうか。けどこれは、魔剣との契約が普及した後の話ですね」
「そうなのか? 確かにキスとか呪文みたいなのとかは契約の手法にもあったけど……」
「あれに影響を受けて人同士の婚姻でも誓いの言葉や口付けを行うような習慣が生まれたんです」
「つまり、私とミノはもう結婚してるってことだよねっ!」
「ノーラが聞いたらあれこれ振り回しそうね」
《波旬皇》達魔物側が共生思想を攻撃したのは、存在を疎ましく思っていたからではない。
乱戦で共生思想が存続する道を残し、いざとなれば内に引き入れる為だったのだ。思想や《天魔》が生きていれば、魔物の存在意義を……世界の構造そのものをひっくり返すことが出来るかもしれない。
そんな夢に、縋ろうとしたのだ。
魔物が……《波旬皇》が抱いた理想。感情を操れても尚届かない頂き。
人よりも、《天魔》よりも、共生思想よりも。誰よりも生きる力に焦がれていたのが魔物だなんて、酷い話だ。
「ショウさん達が元居た世界ではどうなんですか?」
「大枠は変わらないな。オレ達の世界じゃ宗教が複数あったから、それぞれで細かな差はあったけど。それでも愛する人と永遠を誓うって言う根本は同じだ」
「価値観とか言葉とか色々違うのに、凄いね」
「そう考えると、愛の神様を崇めてるユヴェーレン教はある種の真理かもしれないな。……でだ、この話をしたのには理由があってな。オレ達の世界だと、婚姻の時に指輪を送り合うんだよ」
「そうなんですか?」
「こっちだと指輪は魔除けとして身に着けるわね。魔力や魔術を込められる物も存在するから」
「だからオレ達の価値観からすると、指輪を送るってのは結構覚悟を感じるって言うか、責任の形と言うか……まぁ、そういう事なんだよ」
「…………ふへっ」
「カレン、ずるい。シビュラも欲しい」
共生思想に最も近かったのが、破壊しか術を知らない《波旬皇》。
もしそれが現実のものとなっていたら、今頃コーズミマの世界はもっと違った歴史が紡がれていたことだろうと。理想郷のような光景を脳裏に描きつつ足を出す。
すると踏みしめた景色は、見覚えのある浮島だった。
どうやらここは《皇坐碑》……《波旬皇》が得た仮初の居場所らしい。
「そっかぁ。それでミノ、あの時あんなに慌ててたんだ……。そう言えば、あの時のミノ、指がどうとか言ってたような…………」
「指ですか? ショウさん、何か知ってますか?」
「指輪で指っつうと……まぁ十中八九左手の薬指の事だろうな」
「左手の薬指? そこに嵌めると何があるの?」
「左手薬指の指輪。それはまさしく、結婚指輪を意味するんだよ」
「…………くそぅ……粘ればよかった……」
「だからミノも渋ったんだろうな」
「……あれ。でもそれって、そういう可能性をミノさんが考えてたってことですよね?」
「…………ぬひっ」
「変な笑い漏れてんぞー」
人と魔物と共生思想。三つ巴が生じ、魔剣という存在が世界に生まれて。
より一層事を構えた世界に見つけた、寄る辺。
人にとっては空に浮かぶ敵の根城であり、恐怖の象徴。いつ強大な牙を剥くともしれない、畏怖すべき存在。
けれども《波旬皇》にとっては、自らを守るための箱庭だ。
見つけてしまった、奇跡の解法。絶対に辿り着けない、永遠の問題。
共生思想というその価値観が、考えることを知る《波旬皇》にとって、毒であり救いとなったのだ。
共生思想が潰えてはならない。人を無為に減らしてはならない。自らは消えたくない。衝動は、殺しても殺しきれない。
そんな板挟みの末に逃げ延びたのが、ここ。
全能にして、孤独を知った。引き籠りの居城──《皇坐碑》。
《波旬皇》は、俺とは真逆の立場で、同じ世界に行き着いたのだ。
たった一つの、叶わぬ望みを抱いて。
「ミノ、お仕置き」
「そうね。全部終わったら一体誰が隣にいるのが相応しいのか、しっかりと教え込まないとね」
「絶対に渡さないからっ」
「勝手に決めつけないでくれる? ミノはカレンだけのものじゃないっ」
「決めるのはミノ。選ぶのはシビュラ」
「…………」
「…………」
「…………」
「オレ知ーらねっ」
「ショウさん……」
最早これは、同情すら抱けないと。胸の奥に新たに燃え始めるその未来から、少しだけ視線を逸らしつつ次を望む。
歴史という過去を《波旬皇》と共に追体験する。そのことにある種の心地よささえ覚えて辿り着いたそこは、望まぬ結果の後だった。
三分されていた世界が、正面衝突という構図に逆戻りする。共生思想が人間と手を組み、《波旬皇》討滅を掲げた後だ。
《波旬皇》にとっては、悲嘆に暮れる景色だ。
欲した希望が、遠のいてしまった。見方を変えれば、悪意に染まったとも受け止められるか。
絶望という言葉がよく似合う。
だから《波旬皇》は、見限った。
人の悪意に際限はないと、落胆した。
負の感情から生まれたその塊に掃き溜めの烙印を捺されるとは、何とも皮肉な話だ。
「……ま、いいや。契約よりも余程大切なものがあるって分かったから。これ以上は────っ!」
「カレン?」
「皆、休憩終わりっ! 直ぐに準備して!」
「え、嘘。しばらくは大丈夫って……」
「《波旬皇》に常識はない」
「来るよ、構えてッ!」
互いが互いの障碍となる。
そんな分かり切った構図に小さく息を吐いて目を閉じれば、周囲の空気がまたしても移り変わった。
深呼吸と共に閉じた瞼を開けば、今度はそこに俺も知る過去が描かれ始めた。
特別な剣を手に持つ、九人の英雄。
長き歴史の終止符を乞われてこの世界に呼ばれた、過去より今に至る、ある種の特異点。
人の願いの旗印────《魔祓軍》。
コーズミマの人類史における、英雄達との戦いだ。
「何? おねんねして元気にでもなったわけ?」
「気を付けろよ相棒、さっきまでと違うぞ」
「……姿形は変わらんが、変質したな」
「…………そっか、その可能性を考えてなかった……」
「カレン、あれどうなってる訳? どうして幻術があんなに早く破られたのよ」
「ミノを取り込んだ所為だよ。ミノの魔力……感情と共鳴して、これまで以上に力が強くなってる」
「最終決戦で更に進化するとか、主人公気取ってんじゃねぇぞ……!」
《波旬皇》と《魔祓軍》の衝突。短い期間に幾度も繰り返されたそれは、過去《波旬皇》が力を振るった中で最も鮮烈な時間だった。
ようやく全力を賭して衝動をぶつけられる相手。存在意義を肯定してくれる者達。
《波旬皇》にとっては待望にして焦がれ続けた瞬間。ともすれば、風変りな恋とさえ言い表しても遜色ない一時だろう。
アーサーが一人で対峙した時とはまるで違う存在となり果てた《波旬皇》。それを考えると、たった九人で受け止め、果てに封印まで漕ぎ付けた《魔祓軍》の面々がいかに優れていたかがよく分かる。
何かが違えば《波旬皇》討滅にまで至っていたかもしれない。そんな想像さえ巡ってしまうほどだ。
「これもう手加減してる暇ないね……」
「カレン」
「大丈夫。ミノが戻って来るまでは倒れたりなんてしないから。……ふぅ…………よし。ここからは私の事無視して戦って! 時間稼げば勝ちだからっ。倒さなくていいからっ!」
「それが一番大変なんだがな……! やらなきゃ何もかも終わりだっ」
「さぁ、やろうか、《波旬皇》っ! あの時の続き……今度こそ最後まで付き合ってあげるっ!」
「デーヴィ、合わせろっ!」
「あの頃のままだと侮ってくれるなよっ!」
けれども、これは過去の追憶。どれだけ願ったところで今も尚流れ行く現実までは書き換えられない。さしもの《波旬皇》も既に確定した歴史には干渉できない。
それに、もしそんなことができたなら。《波旬皇》は真っ先に己の過去を書き換えるだろう。
今紡がれているこの現実は、彼にとって失敗した未来だ。だから彼は、見限ってしまったのだ。
足掻いても仕方がない。望めばそれだけ突き落とされる。
負の感情故に、正を希求し。正に縋るが故に、負に呑まれることを忌避する。
生きることは苦しいこと。
違う形で俺も経験したその真理に絶望し、瞼を閉ざした《波旬皇》。
だからこそ、今ここに俺がいることに感謝さえする。
お前は、この未来を願っていたんだろう?
「っ、このッ……!」
「メローラ!」
「……っぶないわねぇ……。何なのよ全く。魔障まで弾き始めたわよ?」
「ミノは《波旬皇》由来の魔障に罹ってるからな。それを取り込んだ結果、魔障に関しても知識を得たんだろ」
「だから対策してきてるってことね。これじゃああたしが荷物じゃないのよ」
「そう不貞腐れるなよ、相棒。今は出来る事からだ」
「気に食わないわね……」
「……メローラさん。余り魔障を使い過ぎないでください。引っ張られ始めてます」
「……魔瞳、便利な眼ね。カレンの護衛に回るわ。後よろしく」
「あぁ、任せとけ」
だから俺がここに来た。あのいけ好かないイケメンの尻拭いと、底抜けに馬鹿な世界の希望が揃って抱いた理想を叶えるために。
ショウの思い込みをぶん殴ってやるために。
ユウの過去を笑ってやるために。
シビュラに扉を叩かせるために。
チカの楔を抜くために。
カレンを笑顔にするために。
……なにより、俺が俺を慰め、肯定するために。
否定なんてしてやらない。誰にもさせない。
都合のいい結末は、何も間違っていない。
なりたければなればいい。英雄でも、正義のヒーローでも。どれだけ恥ずかしかろうと、胸を張ればいい。
だから、そう。もう一度だけ────
「……んで? 引っ張られてるってなんだ?」
「魔障は魔術とは異なります。魔術は魔物の理を魔力で成し遂げる術。簡単に言えば道具です。だから振り回すだけなら大抵の人には出来ますし、借り物故に《波旬皇》には効きません」
「そういやメローラは魔障を魔術に落とし込んでるんだったな」
「はい。そもそも魔障とは、魔物と人が魔力によって繋がった状態……つまり、感情が互いに干渉し合っているんです。その繋がりを利用して、魔物の力そのものを体に宿して振るうのが魔障。魔術が道具なら、魔障は魔物の腕そのものなんです」
「……なるほど。魔障に侵された奴が魔物になるってのはそういうからくりか」
「ショウさんには依り代と言った方がいいですかね。魔障は魔物化という変化の中の一つに過ぎません。なので当然、力を使えばその症状は急速に進行します」
「メローラはそれを魔術でコントロールして抑え込んでるって訳だな」
「ベディヴィアさんも、それからミノさんもですね。少しずつ形は違いますが、全員似たような事をしてます。……そんな状態の体に外から直接干渉を……しかも感情を揺られたらどうなると思いますか?」
「それが引っ張られてるって奴か。《波旬皇》の感情操作もそれだけで厄介極まりないな」
「どう足掻いてもここ……《皇坐碑》は《波旬皇》の支配領域ですから。《共魔》の皆さんが展開してくれている対抗魔術で《波旬皇》の干渉は最小限に抑えられてますが、それでも完全に遮断は出来てません。魔障を使用して魔物に近付いたり、思考が悪意に傾いたり……。そうした《波旬皇》に優位に動く状況は可能な限り避けなければなりません」
「一人じゃかなわない相手を目の前に、力を使い過ぎるな、ネガティヴになるなってのは酷い拷問だな……」
「そっちの注意はわたしが引き受けます。ショウさんは皆さんの援護に専念してください」
「おうっ。そもそも負けを考えるだけ無駄だ。全力で勝つ、最初からそれ一つだけだっ!」
景色が変わる。壮絶な戦いの後が大地に刻まれ、空を暗雲が覆い、砂塵が視界を遮る。
リアルでなくても肌に覚える魔力の残滓は、この瞬間が今に至る歴史の転換期の一つだと悟る。
《波旬皇》と対峙する影は、八つ。これはベディヴィアが負傷し、他の面々が攻勢を仕掛けた時だ。
満身創痍とも言うべき出で立ちで、けれどもその瞳に失意の色は全くなく。俺の見覚えのない顔の戦士たちが、世界が悪と定める敵と睨み合い、吐息を吐き出す。
次の瞬間、欠けた英雄たちが大地を蹴り、その瞬間へと手を伸ばした。
《波旬皇》封印の瞬間。彼が望まなかった、安寧の始まりだ。
「それで、ペリノアはまだなのか?」
「あれでも王様の代わりだ。柵を放り出しては来れまい」
「一時とはいえ皇帝をしてたのが言うと違うな」
「……ん、噂をすれば、だな。これから来るそうだ。土産を持ってな」
「お、そりゃいい。……けど土産ってなんだ?」
「来れば分かるでしょうけど、この場にどれほど有益かしらね」
「なんにせよ、これで勢揃いだ。ペリノアが来ればもう少し余裕が出来る。彼が戻って来るまでもう一踏ん張りだ」
景色がブラックアウトする。次いで闇の中に浮かんだのは、俺もよく知る封印の空間だった。
どうやら《波旬皇》の視点からあの場所を見渡しているらしい。
と、背後に気配。振り返れば、いけ好かないイケメンが立っていた。
……どっちだ? 本物か? それとも《波旬皇》が化けた姿か?
そう考えた直後、胸の奥が言葉にならない熱を持つ。その感覚に、後者だと悟った。
言葉を発するより感情を直接交わした方が楽という事だろう。嘘も吐けないしな。
まぁ、吐くだけの嘘が存在しないというのもあるだろうが。
「よぅ、お待たせさん。遅れて悪い」
「いい頃合いだな。あいつも強くなったからこっちも戦力が欲しかったところだ」
「そりゃ結構。だったら丁度良いもの持ってきたぞ」
「物扱いしないでくださいっ!」
「え、その声って……まさか!」
「ノーラ、なんで?」
「世界の危機です。なによりミノさんが戦ってるんです。見ているだけなんてできませんっ」
「相変わらず変な度胸だけは座ってるのね。国の頭が最前線に出張って来るなんて、先代が聞いたら卒倒するわよ?」
「わたしはわたしにできることしに来たんです」
「出来る事?」
「《逓累》だよ」
『何をしに来たのか』。そう問われて答えようとした矢先、それを察したかのように《波旬皇》が続ける。
『そうか』。……どうやら感情を先読みして会話を成立させているらしい。
『ならば見て行け。その上で、成してみろ。信じるなどと言う事が、お前にできるのならばな』。余計なお世話だ。何よりこれは、俺だけの願いではない。お前がそこに至れなかったその理由、お前こそしっかり見てやがれ。
そう胸の奥で念じた直後、アーサーの姿をした《波旬皇》が姿を消す。
……何しに来たんだよ。暇なのか? あとアーサーの姿借りるのやめろよ。他にも転生者喰って来たんだろ? なんでわざわざイケメンの顔で俺の前に出てくるんだよ。嫌がらせかっ。
「《逓累》って……けどそもそも魔術は……」
「それも聞いたよ。でも、わたしの《逓累》の力は魔力を増幅させるわけじゃありません。魔術によって生じる結果を増幅するんです。つまり、シビュラさんやカレンさんの力を増幅させればいいんです」
「……そっか。確かにそれなら意味はあるね」
「話は分かった。けどここは危険よ? 生憎と貴女を守ってる余裕はない。死んだら自己責任よ」
「分かってます。それに、覚悟ならここに来る前に置いてきました」
「置いてきた?」
「ペンダント」
「ペンダントって…………あ、そっかっ」
「はい。あれには魔術反射の力があります。けどあれを持っているとペリノアさんの力でここに転移してくることが出来ないので外してきました」
「……本気なんだね?」
「ミノさんの為です。協力させてくださいっ」
「…………分かった。絶対に傍を離れないで。ノーラさんがいなくなったら、ミノが悲しむから」
「はい」
一頻り悪態を吐いて今一度焦点を結ぶ。
すると次の景色は、《皇坐碑》が整備され、《共魔》の監視下に置かれた後だった。
時が流れる中で、《共魔》となった彼らや《甦君門》の構成員だろう姿が何度か様子を見に来ては、何事もないのを確認し、湧いていた魔物を討滅し姿を消す。
これが繰り返されることによって封印の周囲に徐々に《波旬皇》由来の魔力が増え、やがて封印を弱める事になる。
そんな景色が一体何度繰り返されただろうか。十回以降から先は数えるのもやめてゆっくりと過ぎていく時間の流れを見守っていると、ようやく景色に新たな変化が生まれる。
青墨色の霧が一か所に集まって空間を歪ませ、結果を手繰り寄せる。不可解な対流でも生まれているかのように渦を巻いて収束したその霧が、しばらくの後にゆっくりと晴れていく。
するとその後には、先ほどまでいなかった少女が一人、裸のまま呆然と座り込んでいた。
それが、世界の希望の始まり。願われて形を持った、俺を繋ぎ止めた唯一。
魔剣、《珂恋》の誕生だ。
「……それで、その、ミノさんはどこですか?」
「ミノなら今《波旬皇》の中よ」
「え? それ…………えぇぇっ!?」
「煩いわね……。死んでないから叫ばないで」
「説明はオレがする。状況が呑み込めたら改めて協力してくれ」
「は、はい……。それで、一体何がどうなって…………」
そこからの流れは話に聞いていた通りだった。
《波旬皇》の封印を監視していた《共魔》がカレンを見つけ、保護。その後同じようにチカが、しっかりと目的を得た状態で体を得て生まれる。
最初から高位の魔物として生み落とされたチカは、その胸にあった使命に従って外へ。そして、《波旬皇》の復活…………討滅を掲げる《甦君門》に出会い、協力関係を築く。
手段を得た《甦君門》が動き出すのと時を同じくする頃、今度はシビュラが生まれる。と、どうやらこの時《波旬皇》の封印の様子を見に来たらしいユークレースの面々が、後に神の手記などと呼ばれることとなるシビュラを保護したようだ。
流石の《甦君門》もユークレースの調査隊を妨害して敵に回すのは得策ではないと判断して通したようだ。結果的に、シビュラがユークレースの手に渡り、彼女の存在を巡って無窮書架で《共魔》であるメドラウドと俺が衝突することになるわけだ。
そういう意味では、《甦君門》と俺とをしっかりと交わらせたのはシビュラと言う事になるか。彼女がいなければ、俺が《共魔》と強調し、《波旬皇》と対峙するなんて言う未来には至っていなかったかもしれない。
もし結果的にそうなっていたとしても、それはもっと後になっていたはずだ。
この今は、シビュラが手繰り寄せた結果でもあるという事だ。
「──そんなことになってたんですね。それで、ミノさんの真意を知っているのがカレンさんだけ、と……」
「仲間割れはやめてくれよ?」
「そんなことしませんよ。ただ、後できっちりとお話はさせていただきますっ」
「おー、ミノ頑張れー」
「話、終わった?」
「はい。もう大丈夫です。これから全力で協力します!」
「正直、心強いよ。《波旬皇》もミノを呑み込んでから一段と強くなってるから。……でもこれで、少しくらい反撃が出来る。……ノーラ、行くよっ!」
「っ、はいっ!」
カレン、チカ、シビュラ。俺が契約するに至る三人が生まれ、世界は少しずつ《甦君門》の暗躍によって動き始める。
来る決戦に向けての根回しに、各国へ《共魔》が潜入する。そこでベリル連邦の大統領たるガハムレト……生前の本物とは協力を取り付ける。
俺がこの世界に来るまでに、《甦君門》が全て手中に収めていたのはベリルの一国だけ。本来であればそこを足掛かりに他の三国も半傀儡にしていざという時に動き出せるように手を回す予定だった。
そして、予定が狂った。
俺と言うもう一つのピースが現れて……過去に囚われたまま、歯車を掛け違えた。
ここからは俺も身を以って経験した歴史だ。
「な? いい土産だったろ?」
「結果論です。彼女の有用性はその存在を認知した時から認められていました。トリスが傍を離れた時からわたし達の眼から離れ、どう転ぶかは想定外でした」
「相変わらずラグネルは堅苦しいなぁ。良い方に向いたんだからそれでよしとしようじゃねぇか」
「そもそもメドラウドが彼と敵対さえしなければもっと穏便に事が運んだはずです」
「僕の所為かよっ。あれは致し方ない成り行きって結論で落ち着いたろっ? あの時点じゃシビュラの嬢ちゃんを切れなかったんだ。責任なら勝手な正義感で悉く裏目を引っ張ってきやがったあいつに言ってくれっ」
「彼に責任はありません。強いて言うなら、勝手な被害妄想で情報の開示を渋って不信感を煽ったイヴァンにも責があると思います」
「まぁ、それを言われると返す言葉はないんだけどね……」
「……ラグネルさん、後でお話いいですか?」
「はいはい。じゃれ合いはそこまで。折角元《魔祓軍》が揃ったんだから協調性持ちなさいよ。……こんなんじゃ肉体より先に精神的疲労で倒れるわよ?」
「…………変わらんな、貴様らは」
「そうこう言いつつちゃんと連携できてんだ。口で何を言おうが、懐かしいだろ、デーヴィっ」
「あとで貴様も斬ってやる。覚悟しておけ」
「おぉいいぜっ。着いてなかった決着、白黒つけてやらぁっ!」
一体どこからが彼の願いで、カレンが望んだ今なのかは分からない。
唯一つ理解できることがあるとすれば。それこそが俺が知りたかった答えだという事だ。
安堵のように吐息を零す。
すると景色は暗闇に包まれ、次いで背後の気配に向けて振り返った。
そこに立っていたのは、相変わらずのいけ好かないイケメン面をした魂。
『本気か?』。もちろんだ。
『可能か?』。不可能ではない。
『信じられるか?』。……無理だから、信じられる。
答えれば、イケメンは一切喋ることなくその姿を青墨色の霧に変えて俺の傍を通り過ぎる。一瞬、包まれるようにしてその感情を浴びれば、胸の奥が一際強くドクンと脈打った。
途端、曖昧だった感覚が熱を持って引っ張られるように意識を束ねていく。外側から大きな掌に包まれているような安堵を覚えれば、身を委ねるようにして目を閉じ心の底から願う。
そこには既に存在しない繋がり。けれども無いとは決して言えない繋がり。
彼女の──カレンの存在を、強く思い描く。
「こんなに便利ならもっと早くにこき使っておけばよかったわねっ」
「これはミノさんの為ですっ。チカさんを認めた訳ではありません!」
「………………」
「憧れますか?」
「いいや。全く。ただまぁ、あそこまで真っ直ぐだと逆に疑っちまうな。ミノの気持ちも分かるってもんだ」
「ショウさんまでそっち側に行かないでください。わたしの負担が増えます」
「オレの心配は無しか。悲しいな」
「っ……!!」
「カレン?」
「皆、手伝って! 私を《波旬皇》のところへっ!」
「周りはわたし達がっ!」
「おう、任せろっ!」
「並列起動。チカ」
「分かってる! ノーラ、増幅して!」
「行きますっ! カレンさん!!」
「フッ────はぁあああっ!!」
次の瞬間────暗闇に光が溢れる。ありもしない熱を感じる程の眩さに思わず顔を腕で覆って目を逸らせば、次いでカレンの声が直接胸の奥を突いた。
『ミノッ!』
「っ────!」
声のした方に手を伸ばす。
刹那に、掌を温かい感触が包み込んだかと思うと、体中に重さと嘔吐きたくなるほどの衝動を感じてほぼ強制的に意識が引っ張り上げられた。
「……あぁ、気持ち悪い…………」
「ミノ……!」
「おう……生きてるからあんまり叫ぶな。頭に響く」
声に導かれるように顔を上げれば、直ぐそこにいたカレンが心配そうにこちらを覗き込んでいた。
俺の目的を理解していたはずだが、それとこれとは別らしい。
軽い酩酊を覚えつつ、どうにか立ち上がる。が、上手く力が入らずふらついてバランスを崩した。
受け身をと巡った思考がとりあえず顔だけ守ろうと体を捻りかけたところで、脇から両腕が伸びてきて俺の体を微かに傾いた状態で受け止めた。
咄嗟に感謝を言い掛けてその顔を見たところで、口を突いていたのは別の言葉だった。
「……何でノーラがいるんだ?」
「なんでも何もミノさんを助けたいからに決まってるじゃないですかっ! バカなんですかっ?」
「…………分かった。それでいい」
「なにもよくないですっ。……でも、おかえりなさい」
「あぁ、ただいま」
少し強く抱き着いたノーラの気持ちを察して素直に答えれば、ようやく感覚を取り戻して自分の足で立つ。
「ミノ、体は?」
「大丈夫だ。知りたいこともちゃんと知れた。後はやるだけだ」
「うん。それが一番大変だね」
言って笑ったカレンに、改めて確認する。
「カレン」
「何?」
「契約は無理か?」
「……うん。戦いながらあれこれ試したけど、やっぱりそこはどうにもなりそうにないかな」
「そうか。ならそっちは俺がどうにかする」
「出来るの?」
「…………まぁな」
具体的な事を言えばきっと彼女は駄目だというだろう。そう首を振らせる前に少しくらい無理を通してでも彼女の力を借りる必要がある。
この状況で押し問答は必要ない。
「その代わりカレンには俺の全力を預ける。何が何でも俺の願いを叶えろ」
「それはいいけど……本当にするの? 目的は変わらないまま?」
「嫌か?」
「正直嫌。だって嫌な予感しかしないし」
「つまりできるんだな?」
「ミノそういうところは嫌い」
「それでもカレンは断れないだろ? お前のそういう素直さは好きだぞ」
「その好きはいらないっ」
残念、振られてしまった。
だが、最終確認はこれでOKだ。後は唯目的を押し通すのみ。
そう覚悟を固めて、右手の薬指に嵌っていた点岩石の指環を抜いてカレンに差し出す。しばらくそれを見つめて俺の決意と対峙した彼女は、やがて負けを認めるように小さく息を吐いて受け取り、自らの左手薬指に嵌めた。
……なんでそこなんだよ。
胸の内で唸れば、無感情に突き刺さる視線が淡々と音を紡いだ。
「ミノ、シビュラは?」
「あぁ、ありがとな。感謝してる。そんでもってもう一つだけ力を貸してくれ。契約術式だ。出来るな?」
「分かった」
先ほどカレンが否定したはずの未来。
けれども理由は聞かずに頷いてくれるシビュラの頭を撫でれば、彼女は目を細めてされるがまま頭を振る。
と、その手首を横から力一杯に掴まれた。
「ミノ」
「なんだ、チカ」
「信じていいのね?」
「あぁ。不満は後でいくらでも聞いてやる」
今彼女を納得させられるなら少しの無茶くらい付き合ってやる。
それくらいの馬鹿をこれからしでかすのだと真っ直ぐに告げれば、チカの掌がするりと俺の手を撫でて指を絡め取った。
「なら覚悟しておくことね」
「俺を誰だと思ってる。見縊るなよ?」
「ふふっ。楽しみにしてるっ」
《波旬皇》との戦闘の最中だというのにどこか緊張感の抜けた会話。だからこそ、彼女達がそうして肯定してくれることに居場所を再確認しながら、この場に似つかわしくない少女に視線を向ける。
「ミノさん……」
「心配掛けて悪かった。けど、幾らお転婆だからって無茶はし過ぎるなよ?」
「平気です。私はいつだってミノさんの味方ですからっ。足手纏いにならないように食らいつきますし、もしそうなら素直に言ってくれて結構ですっ」
果断に言い切る女王、レオノーラ・チェズ。自らを守る力もない癖に最前線でそこまで堂々としていられるのはある種才能だと。その頑固なほどのポジティブさに頼もしさを感じつつ、彼女の背中を軽く叩く。
「悪いな、素直さはどこかに捨ててきた。だから、ここまで来た以上一緒に戦ってもらうぞ」
「望むところですっ!」
威勢のいい少女の言葉と共に前を向き直せば、そこには《魔祓軍》の連携を弾き飛ばしてこちらを見つめる金髪碧眼のイケメンがいた。
「……さて、《波旬皇》。そろそろケリ付けるぞ。覚悟はいいな?」
「終わりはせんよ。この苦しみに果てなどない。諦めろ」
あれは…………どうやら俺の知っている《波旬皇》とは違うらしい。いやまぁ、《波旬皇》には違いないと言うか、シビュラの言うところの対人用人格のようなものなのだろう。
俺が先ほど会ってきた《波旬皇》の方は、殆ど潰え掛けた残り粕。今目の前で、己の衝動を持て余し、その身の力として振るう事に明け暮れているのが現在の彼の大部分の様だ。
……つまりあれだ。やっぱりあいつは、どこまで行っても俺と反りの合わない────同族と言う奴なのだろう。
その事に気付いて、嬉しくなる。
俺にもしっかりと、ここに立つ理由が存在する。彼と対峙し、己の理想を押し付けるに足る意味が存在している。
俺は今、ここにいる。生きている。
だから《波旬皇》、お前もきっと────
「一度諦めを知ったらな、もう次はないんだよっ!!」
過去の己を糧にして感情を昂らせる。
次の瞬間、想像の及ぶ限りに理不尽を追い縋り、衝動に任せて理想に手を伸ばした。
「カレンっ!」
「任せてっ! チカっ、シビュラっ、ノーラっ!」
言葉にする前に察したカレンが一人《波旬皇》に向けて駆ける。その背にチカとシビュラの複合魔術が、ノーラの《逓累》によって増幅された計り知れない大規模災害の様に折り重なって援護の風となる。
そんな光景をぼんやりと見つめながら、胸の奥の錠前を外す。
刹那に、俺の右腕を瞬く間に覆った青墨色の靄。《波旬皇》との間に繋がれた魔障が生む、俺の体を蝕む魔力だ。
これまでは契約や指輪を介したカレンの力によって抑え込んでいた進行。それが揺り戻しのように一気に俺の体へと伸びて、魔物に変貌させようと覆い始める。
が、不思議と落ち着いた面持ちでそれを眺めて。それからゆっくりと胸の奥を引き絞った。
すると俺を魔力の繭に閉じ込めようとしていたその衝動が、まるで逆再生でもするかのように徐々に元に戻り始め、やがて俺の掌の中に妖しい炎の塊となって禍々しく顕現した。
「……思った通りだな」
己の考えが勝手な都合を手繰り寄せたことに安堵して思わず笑みを零す。
俺はずっと、カレンと契約していた。彼女と歩んできた旅の中で、その力の片鱗にずっと触れ続けてきた。
感情を現実へと変える力。魔力を媒介に行われる道理を覆すその概念は、一度届かない物だと見限ろうとした。
その結果は、俺もよく知っている。《波旬皇》相手に歯が立たず、カレンの力を最大限に引き出すことなく敗北を喫した。
その後はカレンの魔力の宿った指輪を媒介に抑え込んでいたこの力。
だが、ある時ふと気づいたのだ。
《波旬皇》の魔力に由来するこの力は、当然その性質を濃く引き継いでいるのだと。そして何より、《波旬皇》とカレンの力は、正反対のようで、けれども結果論は同じ根源と結末を描くのだと。
だったら……と。もしかしたら俺は、勘違いをしていたのかもしれないと。
そう思って手繰り寄せた結果に、納得する。
…………そうだよな。負の感情を一身に背負い込んで転生してきたから、底無しの魔力を得ることになったのだ。
それはつまり、カレンのポジティブさに由来する正の魔力よりも────《波旬皇》が持つネガティブな負の感情にこそより高い親和性を持っていてもおかしくないのだ。
だから、ほら。俺は一人でも、この感情を扱える。
《波旬皇》の抱える感情を知っているからこそ、共感して、共に在ることが出来る。
共に、生きている。
それがこれだ。
世界の救世主と煽てられた人間が、実は敵の首魁と最も相性がいいとか。馬鹿らしいにもほどがあるが、今その事に感謝する。
お陰でこうして、魔障由来の《波旬皇》の魔力を、一部とはいえ掌握できる……!
「ふぅ……」
落ち着いて、深呼吸。
それから振り絞った暗く深い己自信と共に、嗤う。
「これでもまだ、信頼できないか? なぁ、《波旬皇》っ!!」
「っ……!!」
「ミノ、それっ……!」
感情の限りに、たった一つの魔術を行使する。
それは俺がこの世界にやってきて、唯一まともに覚え、使える異能。世界の理を歪め、正し、馴染む理。
そして────俺と彼女の、始まりの繋がり。
「契約者ミノ・リレッドノーが告する! 我が倖を縛りし刻印をこの身に勒し、魔の理統べるかの意志と契りを交わせ! 付する天枷の銘は────カレン! 証憑印す其の形持て、我が手に剣となりて顕示せよ!」
「ミノっ……!!」
想いのままに、叫ぶ。
次の瞬間、いつの間にか直ぐそこにいたカレンが、感情そのままに俺に抱き着いてきた。
それを────今度こそ真っ直ぐ受け止めて。
時間がないのだと嘯きながら、唇にたった一つの答えを求めて重ねた。
魔力が、溢れる。行き場を求めて暴れ出す。
だがそれは、あの時とは違って契約痕にはならない。
これは、そう。どう足掻いても姑息に衝動だけで世界を騙しただけの疑似契約。《波旬皇》が施した契約妨害の上から無理矢理想いだけで塗り潰した、たった一時だけの幻想。
それでも────だからこそ。そうして結実する今だけが、俺の証をそこに刻み付ける!
「……もう、無茶ばっかり。時間はないよ?」
「分かってる。だから、直ぐに終わらせるぞ」
「うんっ」
響く声が心地よく。返る重さが安堵する。
まるでそれは、初めて手に取るような錯覚と共に。忘れていた思い出をようやく拾い集めたような安心感と共に、ゆらりと彼女に手を掛けた。
拵えは黒を基調とした和を想起させる落ち着いた雰囲気の一本。柄頭から切っ先までおよそ100センチ……刀身は二尺三寸の重さは1kgと少しと言ったところだろうか。
柄をしっかりと握って、滑らせるように刃を抜き放つ。既に止んだ魔力の暴風の残滓映す陽光が反射をする刀身は、闇さえ吸い込むほどに暗い黒で、波打つ刃文は彼女の瞳と同じ深紅。柄頭に白瑪瑙を嵌め、鍔は違い菱、下緒は緋色の巻結びだ。
翳して透けるほどに輝く刀身に懐かしささえ覚えながら、無理を強いた結果を握りしめて真っ直ぐに構える。
「行くぞっ、想い繋ぐ魔剣、《珂恋》!」
「そっちこそ! ちゃんとついて来てよっ、《不名》のミノ・リレッドノー!」
その手の中には、魂の証のような、綺麗な日本刀が一振り握られていた。




