第五章
《波旬皇》と会敵し、その末に撤退。間際に魔術を受けて、引いた尾は中々に面倒臭い結果を残した。
魔に纏わる者の感情の暴走。特に正の感情……生きる原動力に繋がる本能的な部分に作用してそれを増幅させるという、如何ともし難い所業。
《波旬皇》固有の力、感情操作という破格の能力の一端と言えばそれ以上ない根拠は、現実に想定外を突き付けてきた。
契約+αを介して俺の周りに齎されたそれは、ここまで共に旅をしてきた仲間の理性の鍵を簡単に壊す────恋愛爆弾。
それぞれが秘めた想い人への熱情が留まるところを知らず溢れ出す……そんな、見ているこちらが恥ずかしい光景は、しかし当事者になってみればこれ以上に鬱陶し物はなく。
四六時中用もないのにべたべたされ。発する言葉、起こす行動一つ一つに過剰反応して都合よく解釈してくれるお花畑イマジネーションは、そろそろ借りている宿屋の板の床に、生えもしない花をにょきりと生やしそうなほど目に見えない空気となって辺りに充満する。
換気が効かない、物理法則ガン無視のピンク空間だ。……吐きそう。
それほどまでに甘く、重く、暑苦しいのには、理由が一つ。
それは────彼女たちの理想の一端がこれから順に叶えられるからだ。
一言で言えば、デート。想い人と共に過ごし、時間と引き換えに思い出を作るという、リア充のモデルのようなそれだ。
もちろん最初は断った。相手に不満があるわけではないが、そもそもこの魂の生き様は人を信じず敵を作ってきた。
その中途で積み重ねられた記憶には、当然異性と特別な意味を求めて遊んだものはなく。理想よりも躊躇いや不安が先立つ要素なのだ。
それに、共に居たいと隠すことなく告げる彼女たちの気持ちは本物で。それに応えられるだけの何かを、俺は持ち合わせていないという後ろめたさ。
これらが合わさって、最後に経験と知識不足がスパイスと隠し味になれば、都合のいい体調不良を期待してしまうのは無理からぬことだと思いたい。
俺は、彼女たちの期待に応えられる自信がない。言ってしまえば、たったそれだけの、男として不甲斐ない惨めさだ。
……誰か教えてくれ。どういうわけか自分の事を好ましく思ってくれる異性を喜ばせる方法とはなんだ? 俺に、何ができる?
きっと俺は怖いのだ。飾った自分を剥がされ、素の弱く小さな己を誰かに見られることが。その上で幻滅され、否定され、信じようと紡いだ繋がりを断ち切られることが。
もちろんそんなことはないだろうというのも、頭の片隅では理解しているつもりだが。
だが、それとこれとはやはり別問題で……どうにもこうにも簡単には呑み込めない。
どうにかして生きようと足掻き、身に着けた、空気を読む力。それがなければこうはならなかったのだろうかと夢想しつつ、そうして、捨てる。
…………もういい。考えるだけ馬鹿を見る。ノープランで、無計画にやり過ごそう。
時間が経てばこの状況も改善するとの事だ。これは、そのための我慢。
大丈夫。耐えることに関しては、それなりに慣れている。
「……よし、行くか」
「うん!」
一晩中膝を突き合わせて議論した結果、四人の中でどうにか順番が決まったらしい。
その順番は、カレン、シビュラ、ノーラ、チカと言うものだ。
既に諦めた俺にしてみれば順番など関係ない。いっその事四人で一緒にどうかと口にしたら、姦しく四つの抗議が重なった。
その時のシビュラの無感情で平坦な声が他の三人に掻き消され気味で、進言を受け入れてもらえない自分の境遇と重ね、少しだけ同情した。
そんな風に空しく終わった抵抗もすでに過去の事。引きずっても仕方ないと頭の中から捨て去り、とりあえず隣のカレンと共に街に出る。
「んで、どうするんだ? どこか行きたいところでもあるのか?」
「ミノが引っ張ってくれるんじゃないの?」
「これを頼んできたのはお前らだろ。なんで俺がプラン考えないといけないんだよ」
「むぅ…………。ま、いいや。今のここは賑やかだし、あれこれ事欠かないから気にしないことにする!」
「……おいっ」
断りもなく俺の腕に抱き着いたカレン。その拍子に、服の上から小さなふくらみが二つ存在を示して、流石に足を止めた。
「…………その、離れろよ」
「じゃあこう。いいでしょ?」
「……好きにしろ」
どう言葉にしていいか分からず、顔を背け零す。するとカレンは抵抗する様子もなく俺の声に従った。
どうやらあわよくばでわざと押し付けたらしい胸を引き、今度は指を絡めるようにして手を繋ぐ。これも大概だが、ごね始めたらきりがない。
「うん、好きだよ?」
んなこと訊いてない。
「で、結局どうするんだ?」
「とりあえず歩こ? ほら、私達みたいなの、結構沢山いるし。ミノが一番だって見せつけるの」
後半は聞こえなかった振りで足を出す。
言われて改めてユークレースの町中を見渡せば、確かに男女のカップルらしき姿がそれなりに見受けられた。
「……なんだこれ。新興宗教の集会か?」
「もしかしてミノ知らないの? 今ユークレースは空前のラブビームなんだよっ?」
「ブームだろ。光線出してどうする」
慣れないカタカナ使うからだ。
「元々コーズミマの結婚は教会が主に取り仕切ってるから、ユヴェーレン教の中心地であるユークレースはそういう人たちが沢山来るんだって。で、今はベリルとアルマンディンから避難してきた人がいっぱいいて、その人たちが、だったらこの機会にユークレースで結婚しちゃおうってことでブームらしいよ?」
「ビームな」
「ビー……って合ってるよっ!」
なるほど。それはまた随分気の抜ける話だな。ルチル山脈周辺では戦いが続き、つい先日には《波旬皇》まで姿を現したというのに。
……まぁ、その件に関してはあれこれ手を打っているらしく。この辺りでは例のプロパガンダの結果、特別辛気臭い雰囲気にはなっていないようだ。
「で、そうすると相手がいない人はそれを探さないといけないからってことで、こんなことになってるって訳。それにほら、こんな機会でもないと他国の人と交流するとかあんまりできないみたいだからさ」
コーズミマは広い。国境を越えようにも魔物の脅威があって、国を跨ぐような恋愛はし辛い。できても手紙等の間接的なやり取りになってしまう。
やはり相手は自分の目で見て、話して決めるのが一番信頼に足る。だからこうして街コンのような様相を呈しているのだ。
もし本当に国を超えて結婚したとしても、全てが終われば安全がある程度確保される。もしベリルやアルマンディンで共に過ごすのならば、疎開していた者達が国に戻るその流れを利用して、複数人で護衛を雇い移動すればいいだけの事。傭兵たちもそのおこぼれに預かって……人数当たりの稼ぎは少なくなるかもしれないが、仕事は溢れるのだ。少しでも稼げるのであれば、別に悪い話ではないはずだ。
「人が集まったらそこでお店を開けば儲けることもできる。だから屋台とか露店とか、こんなに沢山あるんだよ」
カレンの言う通り、ここが宗教国家ユークレースとは思えないほどに煩雑として活気に溢れている。宗教のお題目の一つである清貧とは対極のようなこの熱気は、ベリルの首都、ベリリウムの煌びやかさによく似ている。
ここに流れてきた商人たちも生活するために活路を見出した。その景色の一端だ。
「……で、それを誰に聞いたんだ?」
「ユウさんだよ」
だと思った。カレンが宗教に搦めてそこまで達者に説明ができるとは思わなかったからな。
「……まぁいい。それに、押し切られたとはいえ頷いたのは事実だからな。今日は付き合ってやる」
「ほんと? やったぁっ!」
絡めた手を握ったまま振り上げて歓喜を露わにするカレン。仕草に、赤と紫を織り交ぜた見慣れない私服の袖が揺れた。
少しゴシックな、けれどもどこかお姫様っぽいフリルの付いたワンピース。長い黒髪をツインテールに括り、すらりと伸びた足をタイツに包んだ装い。石畳を小さく鳴らす味のある茶色いブーツも相俟って、まるで精緻なドールのように目を引くその姿。
《天魔》として人を真似たが故に、敵を作るまいと必要以上に整った顔立ちが女の子らしく笑う。
そんな様子に、現実感のなささえ覚えながら視線を逸らして尋ねた。
「……なにが欲しい?」
「あー、んー…………。ミノが選んで。それがいいっ」
ここで飯の話題が出ない辺り、やっぱり今のカレンは普通ではないと思いながらも。
そうと分かった上で、それでも彼女がただの恋する少女にしか見えないのは……少なからず俺も《波旬皇》の魔術の影響を受けているのではないだろうかと、ありえそうな理屈を振り翳してみる。
するとそんな考えを否定するように、カレンがまた一つ交わす掌を小さく握って笑った。
「ほら、ミノっ。私を連れてって?」
終始普段の暴走っぷりが鳴りを潜めたまま、カレンとのユークレース巡りは終わりの時間を迎えた。
四人とそれぞれ公平にデートをする……と言う勝手な取り決めに従い、時間のないこのコーズミマでなんとなくの体感で区切りを付ける。
特別カレンを喜ばせるようなことをしたつもりはないが、彼女は終わり際に寂しそうに笑って「またデートしたい」と呟いた。
そんな彼女の右手の薬指には、途中で見つけた露店で買った黒色の指輪。天眼石を削って作った品らしい。
天眼石は瑪瑙の一種で、石に込められた意味は魔除けや共有。想いを束ね、悪意を挫くカレンにはぴったりな宝石だ。
買った直後、左手を差し出して面倒な催促をしてきたのを振り払い、逆の側に環を通してやった。
右手の薬指は創造力の象徴。カレンの力にぴったりなお守りになると思い、こんなことでもないと買ってやらないのだと諦めてプレゼントした。
俺からしてみればただの指輪だが、それでもカレンにとっては特別らしく。途中何度も確かめては、嬉しそうに笑顔を浮かべていた。
宿の近くまで戻って来ると、外にはシビュラの姿があった。彼女はこちらに気付くと、小動物のように駆け寄ってきて無言でカレンと繋いでいた手を引き剥がした。
そのことにカレンは抗議しかけたが、事前の取り決めでここからはシビュラの番だと思い出したのか、どうにか笑顔を湛えたまま宿に戻って行った。……どうせしばらくしたら忘れて、寝具の上に寝転がり指輪をチカたちに自慢しながらニマニマと鬱陶しさを振り撒き始めることだろう。分かってしまうのが悲しいな。
部屋の窓からチカやノーラに何か言われる前に退散するのが賢明かと。シビュラを連れて歩き出した。
「シビュラはどこに行きたい」
「こっち」
尋ねれば、どうやら目的地が明確らしい彼女に腕を引かれる。
足並みを揃える事とは無縁な、とても自分本位な歩調にシビュラらしいと納得しつつ、追い付いて行き先を委ねる。
するとしばらくしてやってきたのは、彼女との出会いの場とも言うべき無窮書架だった。
確かに、物静かで好奇心旺盛なシビュラならよく似合う場所だ。図書館で静かに本を読んで過ごすのも、互いが納得していればデートとしてはありかも知れない。
特別読みたい本があるわけではないが、だからこそ気の向くままに有意義な時が過ごせるだろうと。考えながら中に入れば、シビュラはずんずんと歩を進め、やがて建物奥の見覚えのある場所へとやってきた。
「……本を読みに来たんじゃないのか?」
何となく察しながら尋ねれば、けれども彼女は静かに頷く。……どういうことだ? 想像と返答が噛み合わないんだが。
考えていると、その大切な入り口近くに何故か立っていた、これまた見覚えのある館長へと一枚の紙をシビュラが差し出す。
「これ」
「はい。確かに本物ですね。ではどうぞ」
殆ど顔パスで扉の奥へ通される。先ほどの紙……恐らくだがファルシアからの一筆か。予め用意した上で、話もつけていたらしい。
高々デートに教皇の許可証使うなよ。何がしたいんだ……。
どうにも辻褄が合わず胡散臭く思いながらも、シビュラに連れられて仕掛けを解き────地下迷宮へと踏み入れる。
こうして正攻法での訪問は二度目。ここに《皇滅軍》の活動拠点を構えている為、最近は転移の魔術を使って出入りしている。
それ用のスクロールも貰っている為、こうして来るだけなら面倒な手順を踏まなくてもいいのだが……。
「シビュラ、そろそろ教えてくれ。俺をどこに連れて行こうってんだ?」
「こっち。もうすぐ」
広大な空間に反響する声。ひんやりと冷たい空気が肌を撫で、壁の松明頼りな薄暗い視界が入り組んだ道を迷いなく進んでいく。
答えになっていないシビュラの声に、これ以上訊いても意味がないと悟り、されるがまま腕を引かれて。
そうしてしばらく歩き続け辿り着いたのは、この迷宮の行き止まりらしい四角い空間だった。一辺が目測10メートル程だろうか。
そんな、何もない空間のど真ん中で。シビュラが無造作に空間を開き、木製の古びた椅子をどこからともなく取り出した。
「座って」
「……座ればいいんだな?」
事ここに至ってもシビュラのしたいことに見当がつかないまま。言われた通りに腰を下ろす。
すると背もたれに体重を幾つか預けた俺の足の上に、シビュラの小さな体が許可なくお尻を下ろした。
「おい」
「手貸して」
抗議を無視して俺の腕を取ったシビュラが、そのまま自分を固定するように腹の上で手を組ませる。
どうやら、落ちないように体を抱えていろと言う事らしい。
こうなったらとことん付き合ってやるしかない。そう腹を括って、彼女の腹に手を回す。
と、声を掛けずに少し力を込めたことに驚いたのか、シビュラは体をぶるりと一度震わせて、首だけでこちらに振り返った。
人形の様に無表情で整った顔が至近距離から俺を見上げる。
整髪剤なのか、シビュラの匂いなのか。甘いミルクのような香りが微かに鼻先を擽って、思わず胸の奥が跳ねた。
が、何を言うわけでもなく、一瞥を終えたシビュラが再び前に向き直り、口を開いた。
「本を読む」
「……この状態でか?」
そう言えば先ほどその為に来たと答えていたか。
「そもそも本なんかどこに────」
「シビュラ」
言うが早いか、彼女は足元に魔術を一つ展開した。
いきなりの事に何が起きているのか理解が追い付かない中、腿の上に座るシビュラが白髪ロングの頭を俺の胸に優しく寄せる。
次の瞬間、辺りの景色が一瞬にして染め上がり、地下空間とは思えない光景を辺りに広げた。
それは、どこかの馬車の上。雪が降り積もる景色は、季節が冬だと教えてくれる。
「これは…………」
……覚えがある。この景色は、ユークレースからセレスタインへ向かう道中の物だ。
俺が《渡聖者》となって、過去の清算にとセレスタインへ馬車を進ませた。その後メローラに襲撃され、城に軟禁されるなんて想像を全くしていなかった……自由の意味を噛み締めていた頃の、これは過去だ。
「シビュラの記憶。シビュラの物語」
「……確かに。これは立派な冒険譚だな」
視線がいつもより低く感じるのは、この過去がシビュラの視点から見たものだからだろう。
彼女の言う通り、今俺が目にしているのはシビュラがここから外に出て見聞きしてきたこれまでの旅の思い出。彼女視点の冒険譚だ。
正なる感情……恋愛感情が増幅され、行動に移さずにはいられなくなった彼女達。お陰でカレンとはこれまでにない時間を過ごしたのだが、シビュラとの今はなんだかとてもいつも通りだ。
こんなことになっても、シビュラの魔術で作られた人格は無表情、無感情のまま。それでいて言動は直線的で、まるで役目を与えられた人形のように粛々と目的を果たす。
旅を一緒に始めたころのシビュラも今と同じで、見た目には何の変わりもない。こうして何かにつけて傍に侍り、気付けば猫のように黄色い瞳で俺を見上げているのももう慣れた。
「シビュラは変わらないな」
思わず安堵から言葉にする。
と、足の上に座っていた彼女は静かに首を振った。次いで小さな手が俺のそれに重ねられる。
「止まらないから、こうしてる。離れるのは嫌。ずっとここにいて?」
飾らない、真っ直ぐな言葉。少しだけ、いつもより熱を持っている気がするシビュラの掌が、縋るように俺の指を撫でる。
「ミノ、分からない」
「何がだ?」
「キスしたい。……したら、分かる?」
脈絡を無視して、想いのままに音にする。
恥じらいなど一切ない剥き出しの感情。故に、浮世離れしている気がするその言葉を理解するのに時間がかかって、僅かの沈黙の後に訊き返していた。
「…………え? は?」
「したい。いい?」
「ちょ、まっ……!」
答えなど、初めから必要なかったかのように。気付けばいつの間にか器用に体を半回転させたシビュラが、俺の胸に手を添えて目を閉じ、顎を上げる。
虚を突かれた出来事に、思わず後ろに仰け反って。そうして崩れたバランスが、椅子ごと視界を大きく振った。
「ぃ……ってぇ…………」
じんわりと熱を持つ後頭部。閉じていた目をゆっくりと開ければ、先ほど周囲を彩っていたシビュラの思い出は消え、高い暗闇がどこかへ向けて広がっていた。
もぞりと胸の上で温もりが動く。視線を下ろせば、じっとこちらを見つめる黄色い瞳とぶつかった。
「…………いや?」
小さく首を傾げる仕草が変に絵になる。
鼻先を擽る匂いと、服の上から押し付けられた様々な柔らかさ、温かさが、無意味に感覚を刺激する。
一切揺れない視線に吸い込まれそうになる。……が、どうにか抜け出した。
「……そういうことは、好き合ってる者同士がすることだ」
「シビュラはミノが好き」
「俺は、それに応えられるだけの自覚がない。だから、その…………」
言葉にするのが恥ずかしくて、誤魔化すように尻すぼみになる。
そんな俺をじっと見つめたシビュラは、それから徐に体を持ち上げ、覆い被さっていた俺の上から退いた。
遅れて腕を突き、ようやく床へ座り込む体勢になれば、そこにはシビュラの背中があった。
「ごめんなさい。分からないから、知りたかった」
その言葉に、胸の奥が重くなる。
シビュラは、人を上手に真似られない。人に憧れる魔物としては、不完全な存在だ。
それは彼女の中に数多の魔物が存在し、感情が一つに纏まらないから起きている問題だ。
多重人格が同時に目覚め、一人の中で鬩ぎ合っている。そう想像すれば、なんとなく今の彼女が何に悩んでいるのかわかる。
…………いや、分かっていた。だからシビュラは知りたがっていたのだと、知っていた。
それなのに……俺はそれを今、拒絶してしまったのだ。彼女が知りたい自由の意味を、俺が跳ねのけたのだ。
それは、シビュラが俺を信じた契約を、真っ向から否定する行い。
俺は、否定してはならない感情を、否定したのだ。
過去にそれを経験したから、それが齎す結果を知っているのに……。
気付けば立ち上がり、その小さな背中を抱き寄せていた。
「……悪い。怖いんだよな、分からないことが。俺はその気持ちを知ってるのに……。他人に否定されることが、自分を見つけられないことがどれだけ寂しいのかを、知ってたのに」
シビュラはまだ、自分を見つけられていないのだ。
それは、俺が居場所を見失ったあの頃と、同じ状態だ。
その行く末にどうなるかを、俺は身を以って体験した。
────自ら選ぶ死なんて、生きている限りで最も価値のない選択肢だっ
シビュラはきっと、その道を無感情に選ぶことができる。そしてその引き金は、俺なのだ。
信じた俺に突き放されれば、シビュラは迷いなく自分を捨てる。
知ることを……生きることを、投げ捨てる。
それだけは、何よりも俺が認められない。
「ただ……悪い。俺もシビュラと同じで、知らないことがある。だから、教えられないことがある。シビュラが俺の中に見出したそれは、完璧なものじゃない。俺は…………俺も、怖いんだよ」
あの孤独にはもう、戻りたくない。敵しかいないあの世界を、見たくない。
そう考えてしまうくらいに、今の俺は満たされている。
そしてそれは、シビュラにとっても同じこと。
彼女が今立っているのは、集団の無意識に押しつぶされる寸前の俺と、同じ場所だ。
「だから、答えられないこともある。……けど、知れないことはないはずだ。それを否定したりはしない。したくない。シビュラには、俺と同じになって欲しくない」
絶望なんて、しないで欲しい。俺みたいに、ならないで欲しい。
「直ぐに教えられないことはある。でも、絶対に見捨てたりはしない。だから────俺の前からいなくならないでくれ」
シビュラを独りにしたくない。俺を見捨てないで欲しい。
俺を、嫌いにならないで欲しい。
そんな、飢えにも似た感情が、恐怖と共に這い上がってくるのを感じる。
怖いのは、俺も一緒だ。
「俺はシビュラを諦めないから。シビュラも諦めないでくれ」
贖罪のように、絞り出す。
自らの過去によく似た無感情の彼女を、肯定する。
敵ではない。そこにいていい。裏切らない。嘘を吐かない。
伝わりようもないそんな感情を、それでも伝われと、腕に力を籠める。
不意に、冷たく感じる指先が俺の手の甲に触れた。
「シビュラは、ミノが好き。知ってる? 知ってて」
「…………あぁ」
それは最早、恋ではなくて。
互いを支え合うような──愛のような何か。
だが、だからこそ、分かり合える。
俺はシビュラを独りにしたくなくて。シビュラは俺の傍に居たいのだと。
いつの間にかシビュラがこちらを向いていた。見上げるガラス玉のようなその瞳から、目は逸らさない。
そうしたら、なんとなく、そう思った。
「…………いや、だったか?」
不格好な口付けを……彼女の額から恐る恐る離す。
怖くて尋ねれば、シビュラは俯いて首を振る。
「ミノ、好き」
次いで彼女は、確かめるように俺の背中へと腕を回し、その細い腕で力一杯に抱きしめる。
感じる熱は、俺の物か。それとも、シビュラの感情か。
分からないまま、それでも心地が良くて。
そうして、俺もまた。まるで我が子にそうするように、シビュラの背中に腕を回した。
しばらくシビュラと二人、殆ど言葉なく彼女の記憶を追い駆けて。やがて俺が《波旬皇》の封印を解いた後、目を覚ましたところまで回想をし終わると、フィルムが切れたように辺りには静寂が戻ってきた。
シビュラの冒険譚を共に読み終えれば、彼女は座っていた俺の脚から飛び降りてこちらに振り返り、一言「終わり」と零した。
デートなんて名ばかりの、なんとなく気持ちを共有しただけの時間。それでもシビュラにとっては特別だったのか、心なしか弾んだ足取りでいつもの無表情のまま過去の居場所を後にした。
外に出れば、そこには次を待つノーラの姿。どこか飾った笑顔を浮かべた彼女は、試すように掌を差し出す。
「このままいいですか?」
「別にいいが、その前に昼にしないか? ノーラは?」
「そう言えばまだです。忘れてました」
恥ずかしそうに微笑んだノーラの手を取って足を出す。
自分から手を出しておいて握られると思っていなかったのか、目を見開いて驚いた彼女が慌てて隣に並ぶ。後ろからはシビュラの平坦な「いってらっしゃい」という声。
生真面目にノーラはそれに答えて手を振ると、行き交う人の流れに混じって零す。
「どこで食べますか?」
「任せる」
言って、コース料理にでも連れていかれるかもしれないと考えたが、直ぐにその思考は切り捨てた。
というのも、ノーラの姿が少しおしゃれな町娘そのものだったからだ。
普段の女王然とした煌びやかなドレスではない、どこかにいそうな普通の女の子。桜色のストレートロングを結って纏め、どこか活発な印象を受ける髪型。
そんな恰好も相俟って、よくよく見なければ彼女がアルマンディンの女王陛下だと気付く者はまずいない、見事な町娘の変装だった。
……が、俺にしてみれば何となく安堵さえする容姿。それはきっと、彼女の本質がキャッスルブレイクを難なく敢行するお転婆なただの少女だと知っているからかもしれない。
「……どうかしましたか?」
「いや、そういう格好も似合うなと思ってな」
「ありがとうございます。わたし、こういう服装の方が本当は好きなんですっ」
そうして笑うノーラは有り触れて美少女で。女王様でなければ何の柵もなく惚れてしまいそうな気さくな女の子。
だからこそ逆に心臓に悪いと、少しだけ緩んでいる気がする理性を結び直しながら。
鼻先を香った匂いに飛び込んだお店は、ユークレースの郷土料理を主に取り扱う飲食店。そこで、折角ならばとこの土地ならではのスープ料理。鹿肉と沢山の野菜を煮込んだヴェルンレシアーノを二人で食べた。
冬の定番とも言うべきユークレースの一品に体の中から温まりつつ堪能すれば、店を出てノーラが向かったのは町の外れ。そこから出ている馬車に揺られて、近くの山を上って行く。
「色々行き先を考えたんですけれど、わたしが一番好きな場所にしました。ミノさんにも気に入ってもらいたかったので」
明確な行き先を告げずそう仄めかしたノーラは、辿り着いた馬車の発着場よりしばらく歩く。
するとそこにあったのは、張り出した地形を整備して広場となった、展望台のような場所だった。
柵に手を掛け見渡せば、広がる景色はユスティリア大聖堂の後ろからユークレースを一望できる絶景。ちらほら見える他の客の姿から考えるに、どうやらここは町を一望する観光名所らしい。
「ここはその昔、とある恋人が愛を誓い合った場所だと言われてます。ユヴェーレン教では聖地の一つなんです」
「宗教絡みか。そう言えばユークレースが崇拝するのは愛の神様だったな」
結婚などに祝福を与えるのは、ユヴェーレン教の聖職者の仕事の一つ。恐らくその起源とも言うべき言い伝え。
「その恋人は、世界には認められない関係だったそうです」
「……実のきょうだいとかか?」
「人と魔物ですよ」
言われて、思わず胸の奥が跳ねた。
近親だとか身分違いどころではない。それは種族を超えた恋愛。
そして何より、今の俺にとっても無関係とは思えない過去だ。
「人と魔物……より正確には、魔剣とその契約者です。それはまだユークレースができる前……共生思想が戦いを止めようとしていた頃なので、正確な時期は分かってません。ですがきっと、そうして結ばれて人と魔物は共に並び立てるのだと、証明したかったんだと思います」
世界を変えたかった共生思想。
けれどもこれは、そんな策略とは無関係な、純粋な感情だったのではないかと話を聞きながら思う。
「どうなったんだ?」
「詳しくはわたしも知りません。ですが人と魔物は生きる世界が違いますから。……だから繋がりが欲しかったのかもですね」
雰囲気から察するに、どうにも形としては成らなかったようだ。
ただ、事実婚のような形で生涯添い遂げたのだろうと言うのは何となく察せられる。
これまで旅してきた中で色々思案をしてきたが、まず大前提として人と魔物の間に子は為せない。だから婚姻関係を抜きにしても、この世界にはそうした存在と言うのは存在しない。
例外としてユウや《共魔》があるが、あれは特別だ。
結婚をし、家庭を築き。そうした幸福の延長線上に存在するのが、子孫を残すという行いだ。
子は鎹、ではないが。人と魔物では生きる世界が異なる。その為信じられる繋がりを欲して、せめて結婚と言う形を望んだのだろう。
「人同士で出来ることが、魔物とは出来ない。そんな悲しさの上に愛は平等である、と言うのが、ユヴェーレン教の教義の一つでもあるんです」
────必要以上に魔の存在を貶めない事です
過去にユヴェーレン教における禁忌を聞いた時にユウが言っていた。
教義では、愛の神様が施す祝福は魔物にも分け隔てない。共生思想が国となってユークレースに、そしてユヴェーレン教の興りへと歩んだ歴史の流れを考えれば、ある種当然の事か。
悪意を以って平穏を乱す《魔堕》には裁きを。人と共にある《天魔》には人と同じ祝福を。
恐らくは、ノーラの語ったここでの出来事も幾らか影響を及ぼして、そうした思想を形作っているのだろう。
「それでもやっぱり、人と魔物は人と人の様にはいきませんから」
「……その気になれば覆せるのもいるらしいけどな」
────理由が欲しいなら既成事実でも何でも作りなさいよっ!!
チカが言っていた。カレンならば、そのどうにもならない理屈を思いのままに捻じ曲げられると。
一応これでも人間の男だから、そういう欲求が全くないわけではない。特にここ数日は彼女達を意識する機会が多く、理性を働かせなければ頭の中で勝手なことを考えてしまいそうにもなる。
だから、カレンならばきっと、そのありえないを現実にして見せるはずだ。
そこまで考えたところで、隣から物言わぬ視線が突き刺さっていることに気が付いた。
「……ミノさん」
「いやまぁ、だからってそれが理由になるかどうかって言われたら……」
「もうっ! 違いますよっ」
どう話を戻していいか分からず、言い訳のように言葉を次ぐ。しかしノーラは、そうではないとあからさまに怒って、それから俺の手を握り直した。
「…………だから、その……。わたしと居る時は、わたしの事だけ見ててください……」
「………………お、おう……」
視線を伏せて、消え入りそうな声で呟くノーラ。
彼女が何に怒ったのか、遅ればせながら気付く。
そうだ。これはノーラとのデートなのだ。その最中に、しかも分かりきったライバルの話など聞きたくはないだろう。
理解できるのに……その失敗をしてしまった。
ノーラの本気は、それだけ真に迫っていたのだ。
「ミノさん」
「…………なんだ?」
「ごめんなさい。わたし、やっぱり本気です……」
「そう、か…………」
もしかしたらノーラは、諦めようとしたのかもしれない。
立場上、願っても叶わないと。過去にそれが証明されたこの場所にやってきて、自分なりの納得を見つけようとしたのかもしれない。
けれども、それは無理だったのだ。
「わたし、カレンさん達みたいに気持ちに突き動かされてるわけじゃありません。ただの嫉妬で……そうしないと居ても立ってもいられなくて、ミノさんを付き合わせてます」
ノーラは、《波旬皇》の魔術に影響されていない。契約という繋がりがないのだから当然だし、そもそも彼女は王族として悪意ある魔術から身を守る術を持っている。
今ここにいる彼女は、純粋に自分の気持ちだけで動いている一人の女の子だ。
「でも、やっとわかりました。諦めるなんて無理です。だって好きなんです。この気持ちが嘘だなんて、絶対に言いたくありません」
彼女の気持ちに偽りはない。それだけは認めないといけない。
ノーラの気持ちは、ノーラだけのものなのだから。
「だから、ごめんなさい。今だけは、こうさせてください」
気付けばノーラが、俺の体を抱きしめていた。
その謝罪は、俺ではなく彼女達への…………何より自分自身への言葉かもしれない。
それでもノーラは、本物なのだ。
「……あぁ」
それだけの気持ちを向けられて、全く答えないのも男の名折れだと自分に言い聞かせて。
せめて服に埋めて顔を見せようとしない彼女を泣かせないようにと、その体を優しく抱き留めたのだった。
帰途に着くまでそうして過ごして。宿に戻ってくれば、チカが建物の壁に背を預けて寂しそうに爪先を見つめていた。
「チカ」
「……おかえり。ノーラは?」
「仕事があるらしいから途中で別れた」
「送って行かなかったんだ」
「時間もぎりぎりだったしな」
本当は、ノーラに必要ないと断られたからだが、それをわざわざ言おうとは思わなかった。
あれ以上一緒にいたら四人の内で交わされた約束を破ってしまう。そんな予感が彼女にはあったらしく、あの展望台からの帰り道は、ノーラの方が意識して少し距離を取って歩いていた。
それが彼女の願いならばと仕方なく折れて、こうして一人帰って来たのだ。
「最後はチカの番だな。どうする。どこか行くか?」
実を言うと朝から結構歩き回って足が疲れているのだが、彼女達に付き合うと約束をしたのだ。少し無理をすればチカ一人に付き合うくらいは問題ない。
何より状況が状況とはいえ、根底にある彼女たちの気持ちは本物なのだ。それを理解している以上、正面から向き合わないのは男として廃る。だから多少気張ってでも願いの一つくらいは叶えてやりたい。
「………………」
「チカ?」
そう思って尋ねてが、再び俯いたチカは答えを返さない。
何か気に障ることをしただろうかと。彼女が口を閉ざす理由を考え始めたところで、無言のチカに手を取られた。
「お、おいっ……!」
そしてそのまま腕を引かれ、足が向いたのは宿の中。
彼女は呼びかけに答えないまま俺を引っ張り、既に見慣れた道を通って。
「なぁ、チ……うぉっ!?」
俺の泊っている部屋の扉を開け放つと、魔力で強化された膂力で掴んだ俺の体を振り回し、寝具へと少し乱暴に投げた。
蹈鞴を踏んで、けれども突然の事と疲労から足に力が入らなかったことが合わさり、ベッドに倒れ込む。寸前でどうにか仰向けになり、寝転がって天井を見上げれば、体を起こすより先に視界が影に覆われた。
見れば、チカが俺に馬乗りになっていた。
どこか真剣な表情の彼女に、それから呟く。
「この前も押し倒されたな……」
「うるさい」
「……なにに怒ってるんだ?」
話してくれなければ分からないと。飾らず問えば、チカはそのまま俺の胸に体を被せて預けた。
服越しにチカの柔らかい体が押し付けられ、鼻先に琥珀色の柔らかい髪が擽る。
「怒ってない。………………やっぱり怒ってる」
言い飾ろうとしたチカだったが、次いで観念したように零して俺の服を掴んだ。
「無理しないで。疲れてるでしょ? 三人と歩き回ってるんだから」
「……いいのか? それだとチカの行きたいところに行けなくなるぞ?」
「そんなのない」
言って、まるで安堵でも求めるように深呼吸をする。それから彼女は、一層体の力を抜いて俺に寄りかかると。
「ミノと一緒だったら、どこでもいい……」
静かにそう続けた。
宿の部屋なんて、旅をしてきた身からすれば何の特別感もない。けれども、だからこそ。彼女の温度を感じるままに、そこにチカがいることを意識して思わず胸の奥が跳ねる。
「ドクドクいってる……」
「聴くなよ」
「安心する…………」
声にそれまでの棘はない。
そのことが逆に俺を搔き乱して早鐘を打たせる。
「ね。寝よ? このままぎゅってして」
「飯は」
「起きたら食べる。カレン達にはそう言ってある」
どうやら最初からそのつもりだったらしい。
知ってしまえば、彼女の優しさをこれ以上疑う理由はなかった。
「ね、ミノ。早く……」
縋るように掠れた小さな声が耳朶を打つ。その言葉に誘われるように腕をチカの背中に回した。
「……もっと強く」
言われるがまま、力を籠める。
「ふふっ、痛い。……でも、そのまま…………」
何故か嬉しそうなチカに、つられて小さく笑って。
それから彼女の願いを叶えるべく、心地のいい姿勢を探すように横向きに転がる。
すると俺の背中に腕を回したチカが優しく抱き着き、膝を抱えて胎児のように丸まった。
「ミノ……好き。…………おやすみ……」
「あぁ、おやすみ」
チカの優しさに感謝して頭を撫でれば、擽ったそうに一つ笑みを零して頭を胸に預けてくる。
しばらくそうしていると、やがて本当に規則正しい寝息が零れ始め、それに耳を傾けていた俺も導かれるように眠りの底へと落ちて行った。
頬を撫でた冷たい空気に意識が浮上する。ゆっくりと目を開ければ、そこは暗い宿の部屋だった。
閉め忘れていたらしい窓からは冬の夜風が流れ込んでくる。上に何も掛けずに寝ていたのだ。風邪を引いても文句は言えなかったが……頭痛や熱はなさそうで安心した。
頭の再起動に小さく深呼吸。すると覚えのある匂いが鼻先を掠めて視線を落とした。
見れば、眠りに落ちる前の記憶と重なる琥珀色の頭がそこにある。
どうやらあれから寝返り一つなくお互いに眠りこけていたらしい。傍から見れば随分と間抜けな光景だったことだろう。
と、そんなことを考えた直後、俺の気配に気付いたようにもぞりと動いた彼女の体。次いで何かを探すように頭をぐりぐりと動かして俺の胸にこすりつけ、やがて寝惚け眼でこちらを見上げた。
「ぁぇ……?」
「目が覚めたか? チカ」
「あー…………。……さむい」
「だろうな」
まだ覚醒しきっていない思考が少し舌っ足らずに言葉を紡ぐ。
見た目の年齢よりもより幼く見える起き抜けのチカに小さく笑って、ゆっくりと回していた腕を引き抜いた。
チカを一人寝かせ、俺はベッドの縁に腰掛ける。直ぐ傍にあった水差しに手を伸ばし、コップに注ごうとしたところで背中に温かさと重みが加わった。
「……おはよう、ミノ」
「まだ夜だけどな。飲むか?」
「口移しー」
「あほか」
寝惚けている振りではなかろうかと疑いつつ、コップを渡して。自分は直接水差しから飲んで思考をクリアにすれば、ベッドに座り込んだチカが「ぷぁっ」と小さく息を吐き出した。
「気分はどうだ?」
「……………………」
尋ねれば、僅かに俺を見つめた後、分かりやすく視線を逸らしてくれたチカ。どうやら《波旬皇》の影響は大分薄れているようだ。
と、次いでチカは反撃のように訊いてくる。
「……ミノこそ、もう大丈夫?」
「あぁ、多分な」
「そっか…………」
「気付いてたのか?」
「なんとなく」
主語は、俺の言動についてだ。
「考えれば当然だよな。そもそも《波旬皇》の魔術を受けたのは俺だ。それが契約を介して三人に影響を及ぼして、ノーラはその変貌に危機感をと嫉妬を覚えて、あぁなった。だったら、一番《波旬皇》の魔術に曝された俺にも何かしらの変化はあって然るべきだ」
「それがあの素直なミノ?」
「素直さは、捨ててきたはずなんだがな……」
諦めるように告げて、小さく笑う。
カレン達が正の感情を増幅され、特に恋愛感情に振り切って様々な言動を見せた。時間が経てば治まると言っていたマリスの予想通り、既にチカの中の衝動は殆どいつも通りの様だ。
そしてその影響は、俺にも表れていた。
おかしいと気付いたのは、カレンと町へ繰り出した時。彼女に手を握られて、特別悪いとは思わなかったし、強く拒絶もしなかった。理由を付けて無理に振り払う事をしなかった。
確信へと変わったのは、シビュラの額へキスをした時だ。今思えば恥ずかしいことこの上ないが、あの時は何故かそうしたくなった。してしまった。
気付いてしまえば、抗い難かった。心の赴くままにそうしている方が心地よかった。
だからノーラの事も抱き締めたし、チカともこうして二人きりで眠った。
彼女たちがそれを望んでいたから。それを叶えられるのが俺であり、何より俺もそうしたいと思ってしまった。
これが、《波旬皇》の魔術の影響。チカ達が気持ちを抑えられなくなった正の感情の、その片鱗。
普段の俺では考えられないことをしてしまった。けれどもそれが何故か心地よくて……落ち着いた今も少し胸騒ぎがする。
が、もう理性で制御できるレベルの昂りだ。これ以上はない。
「どうだった?」
「……まぁ、その…………悪くは、なかった。もうしないけどな」
「本当? ……その気があったら、似たような魔術作るけど?」
「あほか」
んな事したら今度こそ行くとこまで行ってしまいそうだ。
それならせめて自分の意思で……って、何を考えてるんだか。やっぱりまだ少し抜けきっていないらしい。
「腹減ったな。何食う」
「任せる」
丸投げされて、さてどうしようかと考えたところで、脳裏を過ぎった顔。
考えて廊下へと顔を出せば、そこには当然のようにラグネルがいた。
「何か軽く食べられる物を頼む。それが終わったら今日はもういいぞ」
「畏まりました」
空模様は曇り、月の位置は分からない。時間は曖昧だが、体感ではもうそろそろ日を跨ぐ頃だろう。
部屋に戻り、そんなことを考えながら窓の外を眺めて、独り言のように零す。
「……そう言えば、ここでも月は一つなんだな」
「ツキ?」
「ほら、夜になると丸くて白いのが空に浮かんでるだろ?」
「あぁ、オトスの事?」
「太陽は? 日中出てる明るいの」
「キネ」
太陽に月。言葉の意味など考えても埒が明かない。このコーズミマではそう呼ぶというだけだ。
「俺の居た世界でもキネとオトスは一つずつだった。……中にはオトスが80以上もある惑星もあったけどな」
「なにそれ」
地球の月に当たる土星の衛星は数多存在する。その中でも幾つかの有名なものの名前くらいは知っているが……少なくともコーズミマはそんな惑星ではないようだ。
北半球に位置し、太陽と月が一つずつ。何となく似ている気もするが、それだけで。見上げる星空に共通するものは見つけられない。
そもそも俺の知る銀河にあるかどうかすらも分からない。とりあえず、どこか未開で未知の異世界だというのは確かだ。
そんなのとどうやって繋がったのか……魔術は不思議に尽きる。
「……寂しいの?」
不意にそんなことを尋ねられて、一瞬固まる。
「…………いや。ただちょっと懐かしく思っただけだ。もう帰れないしな」
ホームシックではない。ただ、時折そうして記憶の何かが重なって、ふと思い出してはそんなこともあったと考えるだけ。
「それに……今はチカ達もいるしな」
「……そう」
微かに残った胸の奥の衝動を言い訳に、少しだけ本音を零す。
今日はそういう気分だった。そう考えてしまうのは……彼女たちのデートが、存外心地よく、満たされたからかもしれない。
やっぱり俺は、愛に飢えてたんだな。
ノックの音が響く。両手が塞がっているだろうラグネルの為に扉を開ければ、彼女は微かに目を見開いて驚いたような表情を見せてくれた。
「……どうぞ」
「おう。おやすみ、ラグネル」
「よい夢を」
最後に珍しい物が見れたと気分を良くしつつ、腰を折った彼女の言葉を受け取って。
「ほら、食うぞ」
「…………食べさせて」
「へいへい」
随分と甘えたがりで恥ずかしがりやなチカに失笑しつつ、隣に腰を下ろして食事に手を伸ばしたのだった。
翌日には、カレン達も元通りだった。
が、質悪く記憶が明瞭に残っているようで、朝食の時間はどこかよそよそしかった。
いつも無表情なシビュラも、明確に距離を取ろうとしていたのには流石に驚いた。記憶を共有したのが恥ずかしかったのだろうか。俺としてはシビュラの一端を垣間見れた気がして理解が深まったような、そんな気分なのだが。
そんな風に朝の時間を過ごして、俺たちがそうならばとマリスの下へと向かう。するとそこにはエレインもいて、開口一番真っ直ぐに問うてきた。
「調子はどうかしら?」
「いつも通りだ。そっちは? 《共魔》だからって変な影響出てないだろうな」
「えぇ、大丈夫よ。…………まぁ、別の意味で後は引きずりそうだけどね」
言って、カレン達を見やったマリス。
この様子だと、それぞれイヴァンとベディヴィアに直接会いに行ったのだろう。
そこで何があったのかまでを訊こうとは思わないが、そうして誤魔化したくなるほどには、気持ちに素直になってしまったという事だ。
……個人的には、エレインとイヴァンよりもマリスとベディヴィアの方が気になる。変に拗れていなければいいが……。
「あぁ、それと。デーヴィが協力してくれることになったわ。これはあなたに……と言うよりはわたし達にとっての嬉しい話ね」
「そうか。元《魔祓軍》の全力が見られるってことだな」
一度は《波旬皇》封印まで漕ぎ付けた実力が、今度こそ再現される。そこにカレンやメローラの力が加われば、悲願の討滅に手が届くかもしれない。
「で、どう打って出る」
「逆です。来てもらうんです」
「何?」
過程はどうあれ、戦いから離れて休息をした。決戦に望むための準備もできた。
であれば後はどうやって舞台に上がるか。そう問えば、答えたのはエレインだった。
「《波旬皇》は、戦うに足る相手の前にしか出て来ない。そうですよね?」
「あぁ」
アーサーから聞いた話を総合して考えればそういう事だ。
有象無象の魔剣持ちでは相手にならない。《波旬皇》がその身の負の感情を発散する相手は、その力に耐えうるだけの地力を秘めた者だけだ。
その前提が、転生者。ここではない世界の理で生きてきて、死の底より這い上がってきた概念の外の存在。転生に際し特別な力を得た転生者ならば、普通の魔剣持ち以上の力を発揮する。
逆に、高位でもなければ成す術なく討滅される《魔堕》に代わり、《波旬皇》が前線に出てくるという事だ。
「そしてそれは、前の接触で確認済みです。《共魔》とミノさん。どちらがその引き金かは分かりかねますが、臨戦態勢で戦場に姿を現せば、《波旬皇》はそれを察知したようにやってくる」
「なるほど。こっちの土俵で仕掛けられないのは痛いが、探す必要はないって訳か」
「それに、来ると分かっていれば前のような不覚も取らないわ」
それに今度はベディヴィアもいる。
今の俺達が持つ、最大戦力。後はどれだけあの無法を否定できるか。それだけだ。
「よし。なら頑張るとするか」
「……ミノの口から頑張るとか聞く日が来るとは思わなかったよ」
「うるせぇ」
男は何時だってガキなんだよ。
カイウスの《慮握》によって連絡を取り、集合する。
全員が揃った場所は、横に長く伸びた《魔堕》との前線のど真ん中。ベリル連邦とユークレース司教国とを繋ぎ隔てる、ルチル山脈の中腹だった。
少し蛇行しつつも続く一本道は、本来人が行き交う国境越えの整備された山道。俺も過去に一度通り、その時は魔障に侵されたドラゴンと対峙した、あの道だ。
思い返せば、あれは《渡聖者》になる前の事。まだ俺がこの世界の一部になれていなかった頃だ。
そんな爪弾き者の俺も、今や人類の版図を魔物の軍勢から守ろうと活躍する《皇滅軍》の象徴。言わば、今のコーズミマの旗印だ。
あの頃はこんなことになるなんて想像していなかったし、例え過去に戻って伝えても信じはしないだろう。人間、生きていると結構想定外に巡り合うものだ。……まぁ、俺は一度死んでるけどな。
死んでいるのか生きているのか。転生なんて言う理解の外の概念に振り回された身には、未だに理解のできない現実だ。しかし、だからこそ一つだけはっきりしていることがある。
俺と似たような立場の奴が、対極にいることだ。
その名を、《波旬皇》。魔物と言う、魔力から生まれた存在であり、その根源は人が吐き出した負の感情の塊。
言わば怨念のような存在のかの概念は、生きていると仮定するべきか、生きてはいないと仮定するべきか、これまで幾度か悩んだ。
自らの存在意義を知り、そのために成り立つ世界構造に絶望し。己の胸の奥の第一衝動と向かい続けた《波旬皇》は、人ではなく……そして人の対極として、最も人らしい考えを持っている。
であれば、その身が望む答えは唯一つ。
俺と同じ────意味と言う結果だ。
何のために存在しているのか。自分が今、どこにいるのか。
それを知りたい────ただの子供だ。
居場所を見つけられず一度死んだガキと。寿命と言う概念を超越してそこにいる魂と。
それぞれが抱き求めるのは、答え。
その問題の解き方を、とても純粋に互いに尋ねる。
相手が死ねば、自分は生きる。
それはまるで、椅子取りゲームのように。
たった一つしかない存在の席を奪い合う……これはそういう、原初の戦いだ。
だからそう、思ってしまうのだ。
「おう《波旬皇》。俺と遊ぼうぜ?」
「さて、何をしようか?」
俺もお前も、ただの同族なのだと。
「んなの決まってんだろ? 喧嘩だよっ!!」
「上等だ!」
剣戟が、鳴り響いた。
事前に命を下したお陰で、ここ一帯には前線を維持していた人間はいない。そして魔物もまた、それを承知したようにこの場から退き、別の場所でぶつかり合っている。
単に互いにとって邪魔だった。だから両者がそう取り計らった。
こうなって欲しいというのはある種の賭けだったが、それ以上にこうなるだろうという確信があった。
なにせ俺と《波旬皇》は似た者同士だから。そう互いを信じられたのだ。
お陰で周りへの被害を殆ど考えず全力が出せる。
「はあぁあああっ!!」
防御をかなぐり捨てたイヴァンの全身全霊の一撃が振り下ろされる。その刹那、顕現した《波旬皇》の魔術が目の前のイヴァンの体を包み────襲い掛かる寸前で、不自然に軌道を変えた。
まるで光の屈折のようにイヴァンの目前で折れ曲がった魔術が、そのまま彼の背後にいたベディヴィアに殺到する。
《庇擁》。仲間に向いた魔術に干渉し、ターゲットを己へと改竄する力。その見た目から、仲間への攻撃を庇い守る剣の後ろの盾として、仲間に、世界に認められた異能。
転生者としての概念さえ覆すその結果に、更に暴論を叩きつける。
「ふんっ!」
自らへ引き付けた《波旬皇》の魔術。その一つでさえ中位の魔物を難なく消し去る攻撃を、気合と共に放たれた剣の一振りで薙ぎ払い、無力化する。
ベディヴィアの剣には今、ラグネルの《匣飾》の能力が宿っている。
その力は、魔力の波長の変質。本来は戦闘に向かない力だ。
が、物は使いよう。魔力に波長があり、それが認識、定義、改竄できるならば。例えば逆位相のようなものを作り出してぶつけ、中和することで、魔術の顕現を無力化することができるのだ。
もちろん魔力の波長を乱すだけで、そこに込められた魔術の齎す被害までが無くなるわけではない。想定外の形で破綻した魔術は、結び目の解けたネックレスのように瓦解し、そして暴走する。
そうして撒き散らされる脅威を対処するのが、ペリノアの《緘咒》だ。
問答無用で魔術を封印し無力化する彼の力のお陰で、破綻した魔術は次の瞬間抑え込まれる。
敵の攻撃が失敗すれば、今度は剣を振り被ったイヴァンの番。《皆逆》による、全てを否定する彼の力は、感情を操る《波旬皇》の攻撃すら時に凌駕する。
当然致命足り得る攻撃を易々受ける《波旬皇》ではなく。アーサーの姿を模した彼はこれまで数多の転生者と戦い、その末に簒奪した知識や武技を駆使してイヴァンの攻撃を受ける。
果敢なる攻勢。抉じ開けた扉の先に踏み込まんと邁進し、構えられた槍衾と対峙する。
それを援護するのがメドラウドの《志率》とエレインの《霧伏》だ。
トリスの《識錯》によって姿を消した二人が、《霧伏》の力で魔力反応さえも隠匿して《波旬皇》を急襲する。それぞれが人工魔剣を手に取り振るって、それでもなお対処されればわざと暴走させ、解放される衝動を《志率》によって《波旬皇》にぶつける。
人工魔剣の中に込められた魔物は継ぎ接ぎで、低位ばかり。当然ながら《波旬皇》に対する有効打にはなりえない。
しかし僅かでも対処する意識とリソースを割かせれば、その分主戦力であるイヴァンの一撃が通る見込みが増える。
そうして直接相対するイヴァンは、《波旬皇》から繰り出される、ベディヴィアが庇いきれない魔術を事前に察知して応手を繰り出す。
カイウスの《慮握》によって齎される《波旬皇》の思考の断片。それを共有して、攻撃に先回りしているのだ。
言葉無き連携が生み出すその景色。それはまるで、絵画の世界のように優美な、そうあるべきに流れ続ける戦いの時間だ。
これが《魔祓軍》。《波旬皇》を封印まで追い詰めた、この世界最高峰の戦士たち。
そして今再び、過去を再現し、追い越そうとする最前線の亡霊だ。
「すごいね」
とは、カレンの素直な感想。
けれどもそれ以外に表現できない何かで確かに繋がっている彼らには、俺もメローラも首を突っ込めない。
彼らは彼らで完成されている。だからこそ強いのだ。
しかし任せてばかりでは味気ない。何より求められる役割は、彼らの先にある。
そこに辿り着かなければならないのだ。
『イヴァン!』
タイミングを見計らい、《波旬皇》の呼吸の外から大地を蹴る。
刹那に、俺が踏み込んでイヴァンが後退し、アタッカーが寸分狂わず入れ替わる。
俺には彼らのような命さえ預けられる仲間はいない。
けれども、俺にできないことをできると信じられる相棒ならば、ここにいる。
「はぁっ!」
握った日本刀の刀身に、紅の魔力を帯びる。裂帛の気合と共に振り下ろせば、咄嗟に受けた《波旬皇》の剣が滑らかな断面と共に両断された。
刹那に、くるりとその場で一回転。意味をなくした武器には目もくれず、アーサーの姿をした彼が小さく身を屈めてその脚で鋭い蹴りを放つ。
『ミノっ!』
脳裏に響くチカの声に全てを預け、手首を返して逆袈裟を構える。
その瞬間、俺の腹部に突き刺さるはずだった《波旬皇》の一蹴が、どこともない空間から這い出てきた鎖に絡みつかれ止まっていた。
次いでその鎖が蛇のように一人勝手に蠢き、脚から体へと伝って《波旬皇》の体を縛り上げて行く。
『させない』
と、次いで過ぎったシビュラの声。しかしそれは今や過去の出来事で、目の前には既に魔力の残滓があちこちで花火の様に散っていた。
拘束されるのと同時に《波旬皇》の放った数多の魔術。それと同数を、無感情な魔術を作り出したシビュラがぶつけて相殺し、消えるという結果が視界の端のきらめきを生み出したのだ。
《波旬皇》との、互いの呼吸さえ聞こえる至近距離での攻防。そんな中で交わす視線は、俺も彼も示し合わせたように熱と衝動に満ち、口元は喜悦の如く歪む。
刹那の交錯。何もかもを塗り替える概念同士が、そうして衝突する。
振り上げた逆袈裟が、見えない壁に阻まれる。奔った衝撃は、一瞬見えた六角形の防御陣。
『斬り』
「裂けぇっ!!」
手応えと共に、唯一無二のカレンと思いを重ね、振り抜く。
次の瞬間、ガラスを噛み砕いたような不快な破砕音と共に、身を捻った《波旬皇》の左腕を斬り飛ばした。
瞬きの後には既に《波旬皇》がバックステップを終えており、距離を置いて対峙する。
「クソが。あれだけやって腕一本かよ……」
「だあぁああっ!!」
吐き捨てた声を掻き消す咆哮は、そんな距離を取った《波旬皇》の頭上から。空気を割く濁った怒声が、建物さえ難なく倒壊させる一撃と共に降り注ぐ。
空からの落下斬撃……否、打撃。最早質量体と化した乱暴な攻撃は、稜威権化によって魔障を身に纏ったメローラだ。
彼女のお陰で少し呼吸を整える。そうして暴君のような刃を振り回す姿を見ながら、この景色を俯瞰する。
《波旬皇》は強い。感情を操り、魔力に干渉し、全てを書き換える概念のような存在。それを討滅しようというのは至難の業だ。
だからこそ、やるべきことは単純で。殺せるときに殺す、なのだ。
その為には攻撃をし続ける必要がある。疲弊と言う概念があるのかすら定かではないたった一人を相手に、入れ代わり立ち代わり襲い掛かって理想の未来を手繰り寄せる。
酷く馬鹿らしい作戦だが、結局のところそれに尽きるのだから仕方ない。
変に策を弄したところで彼の前では無意味。できることは唯一つ、愚直なる正面衝突だけなのだ。
「……悪態吐いても仕方ねぇ。やれるだけやる。行くぞ、カレン!」
「うん!」
間断ない波状攻撃は闇がすぐそこに迫るまで続いた。
途中何度か《波旬皇》を捉えることはあったが、存在を斬り裂く程の深手は終ぞ与えられることなく、やがてこちらの疲弊が積み重なり限界を迎え始める。
可能な限りこちらのペースで攻撃を仕掛け続ける以上、休憩と言う休憩は殆ど許されない。当然食事や水分補給もなく、まさに戦いっぱなしだ。
体感では、陽が完全に沈む頃で約半日ぶっ続け。そろそろ誰が倒れてもおかしくはない状況だ。
加えて《波旬皇》は魔物。姿こそ金髪のイケメン……最初の転生者であるアーサーではあるが、その本質は魔物。人間の生理現象や疲労感とは無縁の精神体のような存在であり、片隅にあった疲労から生まれるミスを誘うという策は一度たりとも成功していない。
今も尚彼は崩れない姿勢で呼吸一つ乱さずこちらの攻撃を捌き、反撃している。
こんな状況でさえ、けれどもどうにか景色を保っているのは、偏に執念の為せる業だ。
生きる亡霊となってまで《波旬皇》討滅を胸に燃やし続けた《共魔》と、そんな彼らと過去共に戦ったベディヴィア。強敵を目の前にこれ以上なく昂っている戦闘ジャンキーのメローラに、援護に徹して身を粉にするショウとユウ。
そして何より、心の底から相容れず…………だというのにどこか同情さえしてしまう面持ちで対峙する俺は、誰もがこの先にあるはずの理想を夢見てただただ全力を振り絞る。
確かに削っている。手応えはある。その進展が、逆に引き際を曖昧にさせる。
だからと言って盲目のバカにはなれず、どうにか理性で心を律し。
結果、決定打を未だ見出せぬままルチル山脈が暗闇に包まれようとしているのだ。
体を動かすためのエネルギーを振り絞ろうと声を上げ、それでも衰えない太刀筋でイヴァンが斬り掛かる。その様子を見つつ、考える。
…………もう時間がない。何か、この状況を打開する一手を……!
半日も戦えば、相手の呼吸もよく分かる。何が通じ、何が駄目なのか。戦いの中で言葉もなく共有し、新たな戦術を何度も試す。
それを繰り返してきたからこそ、焦れるのだ。
焦れて、冷静になって、考える。己に言い聞かせるようにして、全てを浚う。
……そうして至ったのは、なんとも馬鹿らしい答えだった。どうにも俺には、軍略と言う物を講じるだけの頭がないらしい。
それでも、或いは、だからこそ……。
最早それ以外に活路はないと覚悟を決めて、呼吸を整える。
「……カレン。いいか?」
「駄目って言ってもやるんでしょ? だったら付き合うよ。大丈夫。ミノにはわたしがついてるっ」
「そうだな」
微かに笑みを浮かべ、言葉と共に体の熱を吐き出す。
……なに、怖くない。死ぬことに比べれば、怖くない…………!
『マリス。後任せる』
『え? …………待って! 一体何をっ!?』
脳裏に響いた彼女の声を無視して飛び出す。どこまでも冷静に大地を蹴り、澄んだ心でカレンを握って、振るう。
次の瞬間、目の前にゲートがあった。それはどうやら、何かを察してラグネルが顕現させた転移魔術。
たった一瞬、僅かの距離を詰めるだけの空間移動。けれどもその数歩を跳躍することで、相手の呼吸の内側に滑り込んだ。
俺がそうすることを織り込んでいたようにイヴァンが退いて、真正面から一対一。意表を突いたはずの接近にすら、まるで未来を見て来たかのように当然の如く反応した《波旬皇》が、鏡合わせに剣を構える。
そして────
「ぐっ……!?」
彼の突き出した切っ先が、俺の左の脇腹を残酷に貫いた。
硬く、冷たく、熱い異物が腹を裂いて背後に突き抜ける。軌跡とも呼べない結果に、追い縋るようにして鮮血が溢れ、鮮やかな花弁が咲いた。
その、魔術で肩代わりしても尚意識が飛びそうになる激痛に抗って唇を思い切り噛み締め、思いを繋ぎ止める。切れた口端から、約束の証のように細い血河が一筋流れた。
「おおおぉおおおおおオオオォっ!!」
獣のような咆哮を上げ、結果を手繰り寄せる。
一瞬遅れて、《波旬皇》の左の鎖骨下辺りに、深々とカレンが突き刺さった。
これが、これこそが俺の見つけた答え。負傷前提の、カウンター。シンプルすぎるが故にずっと避けてきた、奥の手以下の無謀だ。
だが、これで互いに逃げられない。
交錯した須臾の視線でそう互いに理解すれば、後はそこに結果ばかりが殺到した。
想いと感情の鬩ぎ合い。己の想像と理想を押し付け合う、概念闘争。
どちらが先に消えてなくなるか────たったそれだけの、果てしない一瞬だ。
自らの魔力を相手に流し込み、内側から塗り替える。互いが互いを侵し合う……ノーガードの殴り合い。
けれどもそれは、周りから見れば刹那の出来事で。二人が刺し違え、僅かに硬直した後──景色が傾いだ。
「それでは、届かぬ」
零れたのは、《波旬皇》の無慈悲な声。
次いでそこに、現実だけが再現された。
まず最初に、カレンが魔剣から人型へと戻って直ぐ傍へ弾かれ転がった。次いで支えを失った俺が更に深々と《波旬皇》に貫かれ、どこから逆流したのかも定かではない紅が口から気泡と共に重く溢れた。
それから煩わし気に貫いた体を見やった《波旬皇》が足の裏で俺を蹴り、ぬるりと剣を引き抜く。
残滓のように微かに宙を描いた血の弧。それが形を崩すのと同時、俺の体が地面に落下して横たわった。
静寂が張り詰める。
だというのに、耳元では煩いほどの鼓動が鳴り響く。
不思議と、その声は聞こえた。
「きっかけも用意したが、その程度か。期待外れだな」
答える言葉は頭になかった。代わりに、呼ぶ。彼女ならばと、手を伸ばす。
「か、レン……!」
だがそこで、気付いた。
────カレンとの繋がりを、一切感じないことに
魔力はあるのに。腕は動くのに。気持ちはこんなに猛っているのに。
カレンから返る魔力はなく。契言も届かず。魔剣化もしない。
と、そこで、カレンを見つめた視界が、それを目にした。
「ぇ……?」
震えて自らの掌を見下ろすカレン。地面に座り込んだ彼女が、認めたくない何かを探すようにゆっくりとこちらへ振り向く。
そうして、その首筋に────俺の知らない契約痕が浮かんでいるのが、目に入った。
息が止まるのと同時、それを思い出す。
首筋に。服の裂けた脇腹に。腕に。腿に。
数多の契約痕が、まるで黒い衣のように浮かんでいる、その事実を。
「ミノ…………わ、私……」
赤い瞳のその端に、小さな一粒がきらめいて。
カレンが絞り出すように、震える唇で告げた。
「契約が、切れちゃった…………」
絶望と名高いその言葉を、泣きながら。




