第二章
《波旬皇》が動いた。
エレインの齎したその情報は、瞬く間に世界を駆け巡り、様々な憶測を呼び寄せた。
なにせ世界の抜きん出た矛を九つ揃えても封印止まりだった悪の首魁が、再びその畏怖を振り翳したのだ。《魔祓軍》と言う寄る辺のない今のコーズミマでは、希望よりも不安が勝るのは仕方ない。
少し浮足立った人の世界。しかしそれを縫い留めたのは、新たに掲げられた象徴だった。
《皇滅軍》。《魔祓軍》の遺志を継ぎ、今度こそ《波旬皇》を討滅せんと立ち上がった、人類連合軍。
その旗印には、《渡聖者》である俺を中心に、同じく《渡聖者》であり《裂必》の名を世界に轟かせるメローラと、聖人であり世界に一人しかいない魔瞳と言う特別をその身に宿したユウ。そしてユウの契約者であるベリルの転生者のショウと、魔篇として神の恩寵を一身に押し付けられたシビュラと言う、結構なネームバリューだ。
そして、プロパガンダとして流された情報により周知されることになったカレンとチカの存在。概念歪曲の剣と至高の魔術編纂能力と言う一対の柱が、まるでアイドルのように求心を果たして瞬く間に《皇滅軍》の名前を波及させた。
また、これまで敵対していた世界の裏側の支配者、《甦君門》を味方に引き入れたという情報工作によって、幾つかの不安はありながらも建前によってその存在は大きく認知された。
結果、これまで前線ではそれぞれの国の騎士と言う、縦でしか繋がれていなかった戦力が一つの集団の名の下に相互的に噛み合い、《魔祓軍》以来の強大な戦力の母体が出来上がることになったのだ。
国の垣根を超えた《皇滅軍》と言う組織は、すぐさま隊列が再編成を為され、より効率的に魔物の侵攻に対して事を構えられるようになった。
迅速な対応によって、ここまでの事がエレインの報告からたった三日。異例とも言うべき速度で進行したのは、偏に《甦君門》の力によるものだ。
主にカイウスの持つ能力、《慮握》によって大規模に意思疎通が行われた。その際に、チカの魔術編纂とノーラの《逓累》による魔術の感応増幅。そして俺と、メローラの魔障由来の膨大な魔力を組み合わることになった。
その行為が、国と、《渡聖者》と、《甦君門》が協力しているというデモンストレーションに繋がったらしく、殆ど反感もなくすんなりと進んだのだ。
お陰で今は戦線を少しずつ押し返し、こちらに侵攻しつつある《波旬皇》への反撃の準備を進められている現状だ。
エレインの話では、それまで《波旬皇》が居を構えていた《皇坐碑》より侵攻を始めてから四日。その間にかの存在は魔物の軍勢を作り出し、逐次前線に投入しながらベリリウムへと陣取ってこちらの出方を伺っているとの事だ。
まだ最前線に姿を現している訳ではないが、これまで沈黙を保っていた存在が表舞台に姿を現した以上、警戒は引っ切り無し。いつ本格的な侵攻があるか分からないという緊張感の中、不安定な睨み合いが続いているという状況だ。
「……で、どういうわけか《波旬皇》は金髪碧眼のいけ好かないイケメン姿を晒してるってことか…………」
「《波旬皇》って魔物なんだろ?」
ユスティリア大聖堂の一室。《皇滅軍》に宛がわれた当面の作戦本部に、広げられたコーズミマ全土の地図を見下ろしながらショウが問う。
疑問は解消しておくべきか。いざって時に判断が鈍る要素は予め潰しておくのがいいだろう。
少しだけ考えて口を開く。
「マリス。アーサーって名前に心当たりはあるか?」
「アーサー? そんなの有り触れてるけれど……」
「《波旬皇》に関係する名前だ」
共に地図を囲む白衣姿の女性に問う。
《魔祓軍》時代には、《瑾恢》の誡銘を持つ魔剣と契約し、治癒の魔術を用いて仲間たちを支え続けた援護の要の一人。
チカや俺が倒れた際に体の事を預けていた、魔の医療に関して造詣の深い《甦君門》の一角、《共魔》だ。
彼女は青い瞳の奥に思案するような間を宿した後、細い頼りに縋るように口にする。
「……どこかの本で読んだかしら。確か最初の転生者がそんな名前じゃなかったかしら? 魔剣と言う存在が生まれるより遥か昔。確か、後に《波旬皇》となる個体が出現するのとほぼ同時期にこの世界にやってきた、あなた達の先達に当たる人物…………だった気がするわ」
「また随分と曖昧だな……」
「読んだ文献も殆ど想像の産物だったもの。けれど一応歴史と照らし合わせてみても大きな相違はなかったし、固有名詞ははっきりしてたから。だから完全に正しいとはわたしも言い切れないのよ」
……そう言えばあいつとの話では明確な年数は殆ど出てこなかったな。俺が知ってるのは、元《魔祓軍》の面々が今から約40年ほど前にこの世界にやってきたくらい。
マリスの口ぶりから察するに、少なくとも桁一つ……若しくは二つ違うくらいに遠い過去の出来事なのだろう。
「ふぅん。ってか《波旬皇》ってその時から個体が変わってないのか。どれくらい昔なんだ?」
「わたしも正確には分からないわ。恐らく千年以上前でしょうね」
「そんな昔から魔物と戦ってきてるのかよ……」
の割には世界の文化水準が中世ヨーロッパ並みなのは……科学技術が発達しなかったからだろうか。どうやらこのコーズミマにおいて魔力や魔術では文化水準が大きく発展することはなかったらしい。
まぁ、魔に関する力は契約を前提としてるところが多い。国民皆兵でも布いて一律同じ場所に立たなければ得られない恩恵だ。……今この話はいいか。
「それで、そのアーサー何某がどうかしたのか?」
「……いえ、そもそもアーサーの名前をどうしてミノが知っているの?」
「そういやそうだな……」
二人に視線を向けられて仕方なく答える。
「……眠ってる間、俺の魂は《波旬皇》と共にあった。その時にこれまでの歴史を色々垣間見たんだよ。共生思想とか、魔剣とか……あんたらの英雄みたいな行いもな」
「流石にファンタジーが過ぎるんじゃないか?」
「知識は可能でも、経験までは共有できないだろ。ま、別に信じる必要はない。今は重要じゃないしな」
自分で言っていて悲しくなる。傍から見ればただの妄言だ。三か月も眠って頭がおかしくなったと思われても仕方がない。
が、そんな疎外感は直ぐに塗り替えられた。
「いやまぁ、こうして異世界にやってきてるんだからそういう事があっても不思議じゃないとは思うけどな」
「……信じるのかよ」
「他の誰でもない、ミノの言う事だしな」
それこそ妄信だろうに。その納得はショウだからこそかもしれないな。
「……それで、そのアーサーって言うのは?」
「俺が知る限りだと、エレインの報告にある《波旬皇》の姿がその最初の転生者と同じってことだ」
いきなりこんな話をされても信じられないだろうに……。
「…………アーサーのその後の逸話はなく、《波旬皇》は現に存在する。仮に、《波旬皇》がアーサーの姿を模したのだとしたら、別におかしな話ではないわね。高位の魔物が人型を取ること自体は事実だもの。過去に相対した敵の姿を真似たと考えれば十分にありえる話ね」
それはきっと、自らの納得の為のこじつけ。そうでもしないと埒外の象徴たる《波旬皇》への手掛かりが不意になりそうで不安なのだろう。
一度戦っているからこその反応と言うわけだ。
「他には何かないのか? 《波旬皇》攻略の手掛かり」
「そこに関しては俺よりもマリスたちの方が詳しいだろ。正面切ってやりあってるんだからな」
「さぁ、どうかしらね。生憎と封印するしかできなかったから。対策はあっても効果の見込める手段は思いつかないわね。《珂恋》の刃と、《宣草》の魔術以外にはね」
「《宣草》……って確かシビュラちゃんだっけか。なんであの子まで?」
アーサーとの会話が脳裏に蘇る。
これに関しては密に共有しておいた方がいい情報だろう。
「説明する前に一つ確認させてくれ。《甦君門》がシビュラを狙ってたのは、彼女の中に《波旬皇》を討滅する魔術があるかもしれないって考えたからか?」
「えぇ。《珂恋》の力を疑うわけではないけれど、手段が沢山あればそれだけ有利に事を運べる。だから《宣草》を手に入れようとして……それであなたがメドラウドとぶつかることになったのよ」
《共魔》と言う存在を、その名前を知ったのもあの時だったか。思うに、《共魔》との関係が協力ではなく敵対と言う方向に進んだのは、あの時の事が一番の要因だったように思う。
……だとしても、メドラウドがネゴシエーターと言うのはやっぱり失敗と言わざるを得ないだろうな。あんな勇み足の喧嘩っ早いのと話をしても、彼らが望む方向には進まなかった筈だ。
「だが実際、俺と契約したシビュラの力を見てあんたらは気付いた。《宣草》としての力は無数の魔術の行使であって《波旬皇》討滅の鍵にはなりえない。それだけなら、人工魔剣で契約者を増やして数の暴力で魔術を行使できるようにした方が、管理する方としてもやりやすいからな」
「……ん? けど今《宣草》の魔術も《波旬皇》討滅に役立つって……」
「知ったんだろ。シビュラの魔術がどういう代物なのか」
「えぇ、あなたが寝ている間に、彼女に直接話を聞かせてもらったわ」
頷いたマリスが、俺がアーサーから得た結論と同じ事実を口にする。
「《宣草》の魔術は、感情を伴わない。《波旬皇》の本質と対を為す、唯一の純粋な魔の力なのよ」
「感情を、伴わない……?」
……あぁ、そうか。ショウにはそこから説明が必要なのか。面倒だな。
「そもそも魔力ってのは負の感情なんだよ。吹き溜まりってあるだろ? 空気の悪い場所。そういう溜まり場に負の感情……魔力が集まって寄り合って生まれるのが魔物だ」
「今ではさらに区別して、負の感情を衝動とする魔物を《魔堕》。それと対を為すように、人間への興味や向上心……正の感情に突き動かされるのが《天魔》って呼ばれてる。自分が負の塊だから自分にない正の感情に惹かれるってことね」
「カレンたちが人型を取るのもその一つだ。人と共に歩む……ここユークレースの前身である共生思想が魔物の中に芽生えたことによって、一部の魔物は《天魔》として人と世界を共有し、やがて魔剣として共にある形を歴史の中で見出したんだ」
「ちょ、ちょっとまってくれ! いきなりすぎて頭が追いつかねぇ! ……えっと、魔物が感情から生まれて────」
納得を探すようにショウが反芻し始める。
ここからの話はこの前提を理解していないと更に混乱する。いきなりの講釈だが、知識だけでも追いついてもらわなければ。
少しして、ショウがどうにか自分の中に納得を落とし込んで顔を上げる。
「……よし、いいぞ。続けてくれ」
「で、魔物が感情から生まれるのだとすれば、その親玉である《波旬皇》はどんな存在だ?」
「……負の感情の塊ってことか」
「そしてそれ以上に、《波旬皇》は長い年月をかけて人と同じ知恵を得たことによって、自らが感情の塊であることに気付いたの。同時に、その使い方もね」
「使い方……?」
「《波旬皇》は、感情を操れるんだよ」
「は…………?」
感情を操れる。言葉にすれば何とも馬鹿馬鹿しい響きだが、その通りなのだから仕方ない。
「例えば、……ショウは幻術系の魔術が使えるだろ?」
「おう」
「それはユウと契約したから得た力で、そもそもユウの魔瞳の力だ」
「そうだな」
契約者は、契約相手が得意とする魔術の片鱗を扱える。カレンと契約をして剣を作り出すという魔術を俺が使えるようになったのもそれだ。
「で、本来得意とする魔術だが、これは基本的に一人一つだ。だから数多の魔術を使えるシビュラが特別視されて、一部では神の手記なんて呼ばれて神聖視されたわけだな」
実際のところ、シビュラの魔術は万能などではない。それに気付いたから、《甦君門》の連中も一度はシビュラへの期待を薄くしたのだ。
……まぁ、契約一つで多種多様な魔術を使えるというだけでも十分破格の力ではあるのだが。
「これを踏まえて考えると、《波旬皇》の得意とする魔術も一つ存在することになるな?」
「…………それが感情の操作ってことか……」
理屈は簡単。問題は、その力だ。
「そして、魔力は感情から生まれる。これが組み合わさると……」
「……感情から生み出される魔力。その魔力をエネルギーにして行使される魔術。その根本からが、覆されるってことか!」
「あぁ、つまり……《波旬皇》に魔術は効かない」
「だからわたし達は封印止まりだったの。しかもあの封印だって、《波旬皇》と言う存在自体を封印したわけじゃない。どうにか弱らせた《波旬皇》を、空間ごとずらしてこの世界から切り離したのよ。それがわたし達にできた精いっぱいだったの」
魔術の効かない《波旬皇》をどうやって封印したのかと少し思っていたのだが、どうやらそういったからくりだったらしい。
結構えげつない方法だな。それでも40年しか持たなかったのだ。
逆説的に、たった40年で《波旬皇》は再び同じ世界に戻ってきたのだ。
……例えばの話、生命活動云々を抜きにして考えたとしても。どことも知れない宇宙空間に放逐されて40年で単身自力で元居た惑星の重力圏に帰還できるかと問われたら、まず以って不可能だろう。
「普通の魔術の根本は感情だから《波旬皇》には効かない。だが、シビュラの魔術には感情が宿らない。だから《波旬皇》への対抗策として効果がある。そういう事だ」
「……けどよ、感情の宿らない魔術ってどういう事なんだ? 魔力を使ってる以上感情が宿るんじゃないのか?」
確かにおかしな話だ。ショウに指摘されたその疑問は、しかしマリスが答える。
「あれは厳密には魔術じゃないのよ」
「魔術じゃない?」
「《宣草》がどんな魔具か知ってるかしら?」
「……たしか、元は日記だって聞いたな」
「そう。あれは日記よ。ある人の持ち物だった、ね」
言葉を濁したマリス。どうやら魔具となる前の、日記の持ち主の事を知っているらしい。
ユークレースがシビュラを回収したのが《皇坐碑》だったことから、そこを訪れた誰かの落とし物。そして、封印後周辺を厳しく監視されていただろう事を鑑みるに……恐らくそこに足を踏み入れることのできた人間は数が限られていて。
最後にマリスが知っているという情報を加味して考えれば…………元の持ち主は《魔祓軍》に関係のある誰かと言う推察が成り立つ。
「日記が日毎別の事柄を記すように、《宣草》は様々な魔術を記憶している。それは情報として記録するという事であり、そこから行使される魔術は、想像と言った不確実な原動力から生まれる結果ではないの」
「……つまり、シビュラの魔術は型に嵌ったプログラムと同じ情報の塊ってことだな。それなら確かに感情の介在する余地はない」
「だから《波旬皇》にも効果があるってことか……」
シビュラの魔術とは、魔力で瞬時に検索し、そこに書かれた魔術を読み上げソフトで機械的に顕現させた結果。
蛇口を捻って水が出てくるのと同じ道理と言う事だ。水は水であり、涙とは違う。だから感情を持たない魔術なのだ。
「魔に対する最も有効な手段は別の魔に関するものをぶつける事よ。そこに関しては、《波旬皇》の影響を受けず、しかし魔術として効果の見込める《宣草》の力は、《珂恋》程ではなくとも有効と言う事よ」
「シビュラ自体はただの魔具なのにな。そこいらの魔剣より優秀ってのは変な話だな」
「彼らは彼らで今前線を支えてくれているわ。土俵が違うものを比べるべきではないわよ」
魔剣より魔具の方が歴史が古い。単純な戦力で言えば、自力で魔力生産をできない魔具は長期間の戦闘継続に向かない。だから普通は、契約によって魔力の受け渡しが可能になり、循環させてより効率的に力を発揮できる魔剣の方が優れていると言われる。
しかしシビュラは魔具の中でも特別だ。内に秘める数多の魔術もそうだが、何より自分で行動できる疑似人格を持っている。
あれは本来魔剣の、しかも高位の《天魔》が宿ったものにしか許されない余剰形態だ。
シビュラを普通の魔具として扱ってはいけないというのは理解できる。……が、だったらなんと形容すればいいのかと言われると答えに窮する。
……まさか見た目がそうだからと普通の女の子として扱えとか言わないよな? 生憎と剣にも本にも欲情する趣味は持ち合わせてないぞ。
「そう言えば前線の奴らは魔剣を使ってるんだろ? 横に長い戦線を支えるだけの契約者がそんなにいたのか?」
「わたしが知る限り、四国を合わせても魔剣と契約しているのは200もいないわ。だからこそ彼らもわたし達の協力が欲しかったのよ」
「あぁ、人工魔剣か……」
国を跨ぐ長大な戦線。幾ら魔剣が強力な代物と言っても、それ一つで一騎当千と言うのはまずありえない。それこそカレンやチカ、そしてヴェリエのような一握りだけだ。
この世界に多くいる契約者の内、その大多数はギリギリ中位が相手できる者ばかり。国ではそんな者達を騎士として抱え、連携と言う知恵を掛け合わせることでどうにか高位の魔物にも対抗していた。……だから単身でその活躍の期待が見込める転生者と言う特別は手元に置いておきたかったのだろう。
今回《皇滅軍》として一つに纏まり、掲げた旗の下に協力できるようになったわけだが、まだ綿密な連携がとれている訳ではない。元はそれぞれの国に属していた騎士達だったのだ。
国が違えば戦術も異なる。思想が異なる。軋轢が存在する。
それをすり合わせ、嚙合わせるには、幾ら《慮握》で情報の共有を行ったとしてもまだもう少し時間がかかるはずだ。
であれば、大地を覆いつくすほどの魔物の軍勢。いつ飛び込んでくるともしれない《波旬皇》と言う埒外に対して、どうやって足りない頭数や戦力を補うか。
そこで四国が考えたのが、人工魔剣と言う賭けだ。
「《甦君門》を引き入れたのもそれが目的の一つってことか」
「廃棄品、失敗作とはいえ、正しく使えば使い捨ての魔具くらいにはなるもの。即戦力として組み込むのは悪くない考えよ」
「けどよ、それは暴走させなければの話だろ? 剣が壊れたら中の魔物が契約者に襲い掛かるかもしれないし、そうでなくてもオレの時みたいに呑まれるかもしれない。そしたら前線だって混乱する。綱渡りが過ぎないか?」
俺も至った疑問をショウが先に口にすれば、マリスはどこか誇ったように小さく笑みを浮かべた。
「あれを作り出したのはわたし達よ。当然、制御をするための仕込みもしてある。配備に当たってはメドラウドを中心に万が一の対策をしてあるわ。……とはいえそれも、あまり楽観視はできないけれどね」
次いで笑みを消した彼女は、最大の憂慮を口にする。
「メドラウド達が管理している間は暴走なんて起こさせない。けれどそれは今のままならばと言う条件付きよ。……もし《波旬皇》が前線に出てきたら、その時は人工魔剣だろうが普通の魔剣契約だろうがどうなるかは分からないわね」
「つまり、今前線を支えてる奴らが戦えるのは、押し寄せてきてる魔物の軍勢止まりってことか」
「えぇ……。そして《波旬皇》の侵攻と妨害を……すべての対処を引き受けるのがわたし達よ」
わたし達。俺がそこに含まれているのは言うまでもないが、どうやらマリス達《共魔》も《波旬皇》との対峙には肩を並べてくれるらしい。
ショウが不安そうに尋ねる。
「けど大丈夫なのか?」
「ではまずミノから行きましょうか」
マリスの視線がこちらに向く。
因みに、殿なんて敬称を付けられると変な気分になるからそれは取ってもらった。……まぁ、大衆の前では表向きの立場もあるため仕方無く譲ることになっているが。
「ミノの場合は《珂恋》との契約があるからそれが繋ぎ止めてくれるわ。同様に、あなたを介して《絶佳》や《宣草》もね」
「つまり俺に関する契約は破棄されることはないってことか」
「恐らくは。そしてショウさん……の前に先にわたし達の事から説明した方が早いわね」
「……《共魔》か?」
「えぇ。わたし達は元《魔祓軍》……《波旬皇》封印以前は、あなた達と同じように契約を交わしていた魔剣がいたわ。けれどその後、魔剣の中にいた《天魔》をこの体に受け入れたことで《共魔》になった。これはね、言ってしまえば魔障と同じなのよ。半人間、そして半魔物。互いが互いの存在を維持し合って成り立っている、不安定な状態。だからそう簡単に切り離せないの」
マリスの説明に、それから同じような状態のバトルジャンキーを思い出す。
「メローラも同じか」
「えぇ。《裂必》は珍しい成り行きで魔剣と契約してる。そしてその体は今もなお契約相手の魔剣の中にいる魔物と魔障で繋がり続けている。彼女は、わたし達《共魔》に加えて魔剣との契約を果たしているという、類稀な存在よ」
……もう一人、脳裏を過ぎった似たような顔があったが、それは後にするとしよう。
「そしてショウさん、あなたも同じような話ね」
「オレがか? けどオレは魔障に罹ってないぞ?」
「そうね。けれどあなたの契約相手である《謀眦》の彼女はどうかしら?」
「ユウ……?」
マリスの言いたいことを察して先を継ぐ。
「ユウの目は魔瞳……原理的には体に魔物を内包している《共魔》とよく似てる。そんなユウと契約を交わしてるんだ。お前もその影響下ってことだろ」
「……なるほど。オレもそっちには参加できるのか」
「ただ、ミノやわたし達ほど結びつきは強くないから、対策は必要ね」
「対策?」
「《魔祓軍》譲りの対《波旬皇》」
「あ、そうか…………」
マリス達は何度も《波旬皇》と相対している。それでも封印の際までずっと魔剣との契約を維持し続けていた。
それは《波旬皇》との闘いの中で、かの存在に抗しうるだけの対策を打てたことの証明だ。
「簡単に言えば、結界のようなもので《波旬皇》からの干渉を防ぐのよ」
「それを前線で戦ってる奴らにも使えないのか?」
「できるけど無意味よ。彼らの力……中位を相手に精いっぱいの魔剣や不安定な人工魔剣では《波旬皇》には届かない。するだけ魔力の無駄ね」
「そううまくはいかないってことか……」
直接ではなくとも、例えばマリスのように、援護のような形でこちらの足元や背中を有利にできる力の持ち主もいるかもしれない。しかしそれを前線から引き抜けば、俺たちが《波旬皇》を討滅しきる前に戦線が崩壊し、人類が根絶やしにされる可能性がある。
人工魔剣を投入してようやく張り合っている戦力差なのだ。今《魔堕》の侵攻に対峙している彼らから出せる余剰戦力は存在しない。
「オレたちが人類最後の希望ってことだなっ」
「……なんで嬉しそうなんだよ」
「燃えるだろ?」
逆境を楽しめるのは才能かも知れないが、俺には共感できない。
やっぱり反りが合わないな。
不必要な精神論だと切り捨ててマリスに向き直る。
「……で、結局どうするんだ? こっちから仕掛けるのか?」
「それを決めるのはわたしではないわね」
「最後に丸投げかよ……」
「深く考えなくていいわ。ミノの決断に、皆ついていく。余り時間はないけれど、じっくり考えて結論を出して頂戴」
やっぱり旗印なんて引き受けるんじゃなかった……。
そう強く後悔しながら、話を切り上げて外へ向かう。
隣を歩くショウは、頭の後ろで手を組んで天井を見上げながら呟いた。
「なぁ。《皇滅軍》って四国の連合軍なんだろ? それってミノの上にはゼノ達がいるってことだよな。そっちに丸投げするのはどうだ?」
「返ってくるのが落ちだ。……心配しなくても答えは出す」
「そうかい。なら楽しみにして待ってる」
ショウの示してくれた未来に少しだけ心を軽くしながら前を向く。
時間の感覚がよく分からない曇天立ち込める外へと出れば、そこにはカイウスが立っていた。
「話は終わりましたか?」
「あぁ。カレンのいるところに連れて行ってくれ」
「分かりました」
未だに少し不思議な気分だと。過去対峙したことのある相手の手を取って目を閉じれば、微かな浮遊感の後に足の裏が土を踏みしめる。
途端、肌を撫でた魔力の残滓に目を開ければ、そこには最早見慣れた最前線が広がっていた。
見渡す限りの魔物の群れと。それを押し留める人の壁。衝突するその際で、どこからともなく爆発やら振動やらが重なり響いていた。
『カレン、どこにいる』
『ちょっと待ってて!』
契言で確認すれば、一呼吸の後に空間を割いて見慣れた黒髪の少女が目の前に現れた。
「話は纏まった?」
「まぁな。けどそれはあとだ。今は鈍った体を動かしたい。これ以上考えてたらまた倒れる」
「分かった。じゃ、思いっきりだねっ!」
これ以上なく破顔してカレンが掌を差し出す。
少女らしい、小さく柔らかい感触のそれを握り返せば、闘志に火を灯すように言葉として滾らせる。
「行くぞ、《珂恋》ッ!」
「うんっ!!」
右の二の腕に刻まれたカレンとの繋がりが熱を持つ。
次の瞬間には、魂の刃がそこに顕現していた。
ストレスを発散して心地よいベッドに倒れ込む。
《渡聖者》兼《皇滅軍》の象徴としてファルシアの好意で用意されたこの部屋は、本来国賓などの位の高い人間しか使えない特別な宿らしい。俺にはその権利があるのだとか。
とはいえ根が庶民な身としては、特段豪奢だと逆に委縮して気が休まらない。広い部屋にベッドがポツンとある寂しい景色は、寒々しくてどうにも合わないのだ。
明日にでもファルシアに言って別の部屋に変えてもらおうか……。まぁ変わっても前線に出れば、戦いが終わるまで帰ってくることはなくなるだろうから、別にこのままでもいいのかもしれないが。
それでも、これまでのように敵の襲来を警戒して休んでも休まらないような寝食よりは余程快適だと。途方もなさ過ぎて逆に敵とは思えない《波旬皇》を棚に上げてふかふかの寝具に体重を吸わせる。
このまま寝てしまいたい。そう目を閉じれば、部屋に転がり込んできたカレンが、本来必要のない質問を投げかけてきた。
「ミノ、ご飯どうするの?」
「好きなの食ってくれ。俺はパスだ。朝にする」
「んー、じゃあちょっと出てくる。二人はどうする?」
「いい」
「行く」
答えたのはチカとシビュラ。珍しくカレンとは別行動をとったチカを置いて、シビュラと二人部屋を出ていく。
扉が閉まる音が余韻のように響けば、次いでベッドが微かに揺れた。
直ぐ傍に感じる存在感に、煩わしさを感じて目を開ける。
「……何のつもりだ?」
「……………………」
問いに答えはない。
…………いいだろう。そっちがそのつもりなら、遠慮なく踏み込んでやる。
「チカ」
「…………」
「お前、記憶戻ってるな?」
「……だったらなに?」
険のある声。その響きに、どこか懐かしささえ感じながら尋ねる。
「いつからだ?」
「不必要に助けられてから」
「カレンが泣くぞ」
「……」
どうやら《波旬皇》に囚われた魂を切り離した時には既に記憶が戻っていたらしい。
考えるに、生まれ故郷にでも戻って鍵が開いたのだろう。
「助けなくてよかったのかよ」
「……あんただってもう気付いてるんでしょ。あたしが何のために作られたのか」
「《波旬皇》復活の鍵か…………」
《甦君門》と、そしてアーサーから聞いた。しかも片方は生みの親に近しい存在。最早疑う余地はない。
「あたしの役目は、あれで終わりでよかったのよ。なのにまたこうして……」
言って、忌々し気に自分の手を見下ろしたチカ。そのライムグリーンの瞳には、風に吹かれる蝋燭の火のような彼女の本心が曖昧に揺れていた。
きっと彼女は、今ここに自分がいる理由が分からないのだろう。勝手に与えられた未来に、戸惑っているのだろう。
目的を、見失ってしまったのだろう。
「《甦君門》の奴らがお前を管理してたのは、《波旬皇》を復活させるため。…………けど、それだけじゃない」
「…………」
「あいつらは、お前を一人の存在として見てたんだ。だからお前が倒れた後も、必死になって連れ戻す算段をあれこれ考えてた」
自らの存在意義。居場所。
チカにとってのそれは、《波旬皇》なのだ。与えられた使命……《波旬皇》の復活がなされた今、チカにはやるべきことがない。
それでもと願われた未来が、ここにある。
「何よりカレンが悲しむからな。あいつが力を発揮するためにも、お前は必要なんだよ」
記憶を失う前のチカがカレンに見せていた愛情。あれが本当に嘘だったとは、俺には思えない。
例えそれぞれが目的のための道具だとしても。そこに存在して、考えて、何かを為せる…………自我を持つ者として、根源足る感情までが作りものだとは、俺は思わない。
「…………あんたは」
「……?」
「……なんでもない」
一体何を言いかけたのだろうか。……あぁ、いや、そうか。
「まぁ、俺だって成り行きとはいえ契約したしな。そうしたいと言葉を交わしたのは、記憶をなくす前のお前だ。契約を交わした以上、それを勝手に不履行にされるのは納得がいかない。だから勝手に連れ戻した。怒りたければ怒れ」
「別に……」
視線を逸らしたチカ。俺の視界からでは、琥珀色の後頭部が見えるだけで、表情までは知れない。
だからこそ、言葉を連ねる。
「それにな──必要なんだよ、お前が」
「っ……!」
今更隠すことでもないと。胸の内をそのまま言葉にすれば、ようやくチカがこっちを向いた。
彼女は、ライムグリーンの瞳で俺を強く睨む。
その鋭い表情に、安堵する。
「やっぱり、そっちの方がいいな」
「な、にを……」
「チカはそうして、俺を目の敵にしてる方が似合ってる。その方がしっくりくる」
俺が初めて出会ったチカがそうだったから。真っ向から衝突して、相容れなくて。
そういう、互いを遠慮なく思い合える方が、チカらしい。
記憶をなくしてからのチカが悪かったわけではない。だが、心のどこかでどう接していいか分からなくて戸惑っていたのは確かだ。
だって、俺にとってのチカは、今目の前にいる彼女だから。例え共に過ごした時間が少なくとも、それが俺にとっての彼女なのだ。
「……がう…………」
静かな部屋の中に、それでも聞き取れないほど掠れた声が落ちる。
その言葉を訊き返そうとベッドに手を突いて体を持ち上げた…………次の瞬間。
「違うわよ、このクソ馬鹿っ!!」
いつの前にか手近にあった枕を掴んだチカが、思い切りそれを振り被り、力任せに振り下ろした。
咄嗟の事に成す術なく打ち据えられて、再びベッドに叩き戻される。
すると今度は止めでも刺すように俺の上に馬乗りになってチカが声を張り上げた。
「どこまでふざけたら気が済むの!? あたしの気持ちはどうなるのっ!? 感謝ならしてるわよ! けど、そんなのしたって何の意味もないっ! そんなんじゃ満たされないし! そんなんじゃ何も足りない!」
こちらの息が止まるほどの奔流で吐き出された言葉。その言葉の意味を理解するより早く、次の音が重なる。
「カレンがどうして一人で突っ走ったと思ってるのっ? 分かってんでしょ? あんたが約束破らせたからよ! いい加減気付きなさいよ! それがあたしとあんたのたった一つの答えでしょ!?」
どうして今カレンが…………いや、そんなことより。俺とチカの答え? 約束? 一体いつの事を…………。
「結局あんたはいつだって独り善がりで、誰が相手だって信じてないんでしょ!? だからカレンを置いて泣かせるのよ! 名前だってあげた癖に! あの子の全部を受け入れた癖にっ!!」
名前。そう言われて、気付いた。カレンとの約束、それは────
「カレンはあんたを助けたかったのよ! 死んでも死にきれない中途半端な馬鹿を、もう一度立たせたかったの! あんたを独りにさせたくなかったのよっ!!」
────だからお兄さんは……ミノだけは私の前からいなくならないでっ!
「だったら責任を取りなさいよっ! カレンが唯一許したたった一人なんでしょっ? 言い訳なんてしないでよ! 全部受け止めなさいよ!」
カレンの声が頭の中で反響したまま、耳は叩きつけられるようなチカの声を追い駆け続ける。
「魔剣だから何!? カレンは理屈も常識も、概念だって捻じ曲げるの! その気になればどんな理不尽だって覆せるの! あんたの悩みなんてそんなことでしょっ? 理由が欲しいなら既成事実でも何でも作りなさいよっ!!」
そんな声が、いつしか涙に濡れていることに気が付いて。
覆い被さったチカが、首元を握っていた掌が、まるで慈しむように俺の胸に添えられていて。
やがて、それだけが真実であったかのように、チカが苦しそうに吐き出した。
「じゃないとっ……この気持ちをどうしていいか分かんないじゃない…………」
想定の外の言葉の羅列。雨のような彼女の感情に、その半分もまだ頭が理解できていない。
それなのに、今チカが殺しきれない涙を流す意味だけは、何故か理解できた。
「……お前、記憶が…………」
「最低の、ならず者ぉ……!」
俺の言葉を否定するように、俺の上に馬乗りになったままのチカが崩れ落ちて泣きじゃくる。
そんな彼女が、魔剣として旅をしてきたその姿と重なって……。
気付けば琥珀色をした絹糸のようなショートヘアを撫でていた。
「………………悪かった」
答えなんて、分からないのに。
ただ、今は。チカを泣かせているのが自分だという罪悪感から、全てを甘んじて受け止めるほかなかった。
泣き疲れて寝たチカを寝具に横たえて、俺は一人風呂に浸かっていた。
ファルシアの好意で直ぐに風呂を用意できるようにと取り計らってくれていたおかげで20分もしないうちに準備が整う。元居た世界ではボタン一つでできていたことも、こちらの世界では何人もの手を借りて特別に贅沢をしていると思えば、素直に楽しむ気持ちにもなれなかった。
そしてそれ以上に頭の中を埋め尽くすのは、今もまだ耳元に残っているチカの、津波のような感情の滂沱。その最中に語られた、俺がこれまで無視をし続けてきたもう一つの可能性。
…………なんとなく、知ってはいた。けれども様々な理由を振り翳して、直視しないようにと逃げ続けてきた。
中途半端な事ばかりをしてきた。それ以外で塗り潰してきた。
それでいいと、思い込もうとしていた。
俺には、よく分からない。だから向き合えなかった。
ある日、世界が一転して逆棘に包まれ。見出した光明も闇に染まり。味方などおらず、さりとて敵だとは断定できない。そんな、有り触れた不義理の裏切り。
俺は、純粋な好意というものが、どんな形をしていたのか、最早分からない。
だから、好かれようとも、自覚できない。自分がそうなれない。
魔剣だとか。魔物だとか。女王だとか。
肩書きこそが信ずるに値する繋がりだと…………それがないと、自分を見つけられないから。
だからきっと、俺は────自由というものが、怖かったのだ。
何もない場所に独り放り出されることが、嫌だったのだ。
周囲に支えられていたかったのだ。寄りかかっていたかったのだ。
見下していたかったのだ。主導権を握っていたかったのだ。
対等になるのが、怖かったのだ。
相手を認めてしまえば…………信じてしまえば。また、裏切られるかもしれないから。
向き合う事を、恐れていたのだ。
けれども、気付いてしまった。独り、認めてしまった。
彼女たちの気持ちは、本物だ。
もう見て見ぬ振りはできない。言い訳は、意味がない。
真実しか、存在しない。
「なんで、こんな時なんだよ……」
全てを投げ出すように脱力すれば、視界が温かく曖昧に包まれた。
部屋に戻ると、そこにチカの姿はなかった。
ただ、風呂に入る前の事が嘘ではなかったと告げるように、涙に濡れ、乱れた寝具がそこにあった。
まだ、何をどうしていいかは分からない。けれども、無視をすることもできない。
どんな気持ちで、顔で、明日会えばいいのだろう。
そんなことをぐるぐると考えながら横になり目を瞑れば、鼻先に微かに彼女の匂いを覚えながら。意識は逃げるように眠りの中に落ちていった。
微かな喧騒を遠くに聞いて目が覚める。重い体を持ち上げて視界を回せば、窓が片方開いているのが目についた。
……昨日閉め忘れたんだな。お陰で最高に理想的な、最低の目覚めだ。
次いで、何よりも先に喉が渇きを訴える。ベッド横の机に目をやって、水差しがない事に微かに眉根を寄せ、どうにか寝具から体を出した。
とりあえず頭を覚醒させよう。あれこれはそれからだ。
ぼーっとした思考のまま、部屋の扉を開ける。すると真横に気配を感じて一気に頭が冴えた。
「おはようございます」
「うぉっ!? いたのか……」
「はい。身の回りのお世話を仰せつかってますので」
挨拶から続けて淡々とした口調で答えたのは赤い髪をポニーテールに纏め、メイド服に身を包んだラグネル。彼女は俺個人の傍付き兼護衛として宛がわれた人物だ。
なんでも、《渡聖者》だかららしい。いざと言う時の連絡役も兼ねているのだとか。
とはいえ、起き抜けにそう陰からぬっと出て来られると胆が冷える。お陰で色々吹っ飛んだ。
「どうされますか?」
「……顔洗ってくる。何か食べるものを頼む」
「畏まりました」
機械的にそう答えたラグネルは、音もなく踵を返し階下を降りていく。その後姿を少しだけ見つめて、過去の記憶を重ねた。
俺がセレスタインに召喚された直後も、彼女はあんな風だった。
私語と言う概念を知らないように責務に忠実で、言われたことを愚直にこなす。かといって全てが受動的と言うわけではなく、時にこちらの欲している物を先回りして用意したりと、使用人としては文句ない仕事ぶりの少女。
あの短い軟禁生活の中で、恐らく最も信頼していたのが彼女だったと思えるほどには、確かに記憶に残っている存在だ。
そんなラグネルと再会して、衝突して……。今やまたこうして主従のような関係で肩を並べているというのはなんだか不思議な感覚だ。……が、《甦君門》の目的を知った今、その言動に偽りは一切感じず。ともすれば今、誰よりも信頼のおける存在かも知れないと思うほどだ。
「そう言えば……俺はあいつらの事をまだよく知らないんだな」
元《魔祓軍》。このコーズミマにとってはそれだけで説明に事足りる存在達。
けれども俺にとっては、今に至る歴史の通過点に存在した、語り部上の過去の者達。
力を、性格を、少し知ってはいるけれども。それだけだ。
「知るべき、なんだろうな……」
これから、命さえ預けて共に立つ戦友。一方的に傅かれるのではなく、肩を並べて助け合う存在。
彼らの事を知らずして、きっと想像は形にはならない。
だから、歩み寄るべきなのだ。
「…………あいつらにも……」
呟いて。それから脳裏を過ぎった顔。
けれども答えは見つからず、曖昧悶々としたまま、胸の奥に蟠る。
その気持ち悪さを払拭するように宿の裏へと足を向け、汲み上げた冷たい井戸水を躊躇なく顔へと叩きつけた。
途端、顔面が痛いほど引き攣って、項垂れる。微かに濡れた髪先から雫が滴って、井戸の縁を濡らした。
「………………ふぅぅぅ……。…………よし」
深呼吸一つ。そうして顔を上げれば────目の前にカレンの顔があった。
「っ……!」
「おはよう、ミノ」
「お……はよう…………」
今し方整えた息が詰まる。
「ねぇミノ」
「…………なんだ?」
「ごはん、一緒に食べよ?」
提案には、無言で頷くしかなかった。
カレンと共に宿の食堂へと向かえば、そこには豪勢な朝食が机一杯に並べられていた。
と、その机に設えられた五つの椅子の内、三つが既に埋まっていることに気付いて、入り口で足を止める。
こちらへ注がれる三つの視線。その一つ一つを見回して、再確認。
「おはようございます、ミノさん」
肩書きを脱いだ年頃な少女の微笑みは、レオノーラ・チェズ。
「おはよう。食べよう?」
無表情に催促と提案の間で揺れるのは、シビュラ。
「…………ん」
頬杖を突いて視線を逸らしてくれたのは、チカ。
「ミノ?」
次いで振り返ったカレンが、不思議そうに名前を呼ぶ。
その段に至ってようやく意識して呼吸ができた気がした。
「……あぁ、そうだな」
曖昧に返事をして、席に着く。カレンが先に座った所為で、自ずと決められた俺の椅子はカレンとチカの間。
そこに腰を下ろせば、隣のチカが怯えたように小さく肩を揺らした。
けれども逃げ出すような事はせず。かと言って一切視線を交わらせようともせず。壁に仇でも見つけたように顔を逸らし続ける彼女。
そんなチカを、まるで母親のような眼差しでカレンが見つめ、擽ったそうに笑みを浮かべた。
居心地の悪さが半端じゃないと。話題を探し始めたところで、意識の外で準備を進めてくれていたラグネルが足を止める気配。
見れば、机の上がこれ以上なく賑やかに彩られていた。どうやら準備が終わったようだ。
「それでは食べましょうか」
「……そうだな」
ノーラの声に答えて、きっと食べきれない朝食に手を付ける。
こんな時でさえなければ楽しめたのだろう豪勢な食事は、けれどもとても美味しくて。空腹を満たしてそちらの満足感が膨れ上がると、反比例するように別の懸念が浮き彫りとなってくる。
やがて無視ができないほどに胸の奥で膨れ上がると、きっかけを探すように思わず吐息が零れた。
その瞬間、黙々と朝食を取っていたチカが怯えるようにまた一つ肩を揺らし。不器用に指先で食器を跳ねて、床へと取り落とした。
静かな空間に響いた金属の跳ねる音。次いでチカが、逃げるように立ち上がる。
その背中に、気付けば声を掛けていた。
「チカ」
命令でもなければ強制でもない。しかしチカは、素直に呼び止められてその場に立ち尽くす。
そのことに少しだけ安堵しつつ、互いの為に時間を設けた。
「……部屋で待っててくれ。食べ終えたら、話がある」
返事は……ない。けれどもこの静寂の中で聞き間違えることもあるまいとそれ以上の言葉を呑み込めば、やがて彼女は静かな足取りで食堂を後にした。
途端、部屋の空気が弛緩する。見れば、ノーラがあからさまに安堵して、カレンが困ったように笑っていた。
「…………なんだよ」
「ううん。でも、あれだね。ミノって不器用にもほどがあるよね」
「うっせぇ」
そうして、他愛なく交わした声にようやく自分らしさを見つければ、自らの気持ちに一つ答えを見つけられた気がしたのだった。
それから、幾らか言葉少なく会話をして。やっぱり食べきれなかった朝食の片づけをラグネルに任せ、部屋に戻る。
一応扉をノックして中に入れば、そこには大概律儀な琥珀色の頭髪の少女がこちらに背を向けて座っていた。
俺も未だ、どんな顔をすればいいのかは分からない。
だから仕方なく、彼女と同じように背中を向けてベッドに腰を下ろす。
そして────
「……で、なんでお前ら一緒にいるんだよ」
「えー? なにそれ酷くない? 私達だって無関係じゃないでしょ?」
「権利があると思います」
ノーラはともかく、カレンもかよ……。
つぅかシビュラはどうなんだ? 相変わらず表情は乏しいし、本当にお前もなのか……?
「はぁ……。好きにしろ」
追い出すのも馬鹿らしいと諦めれば、カレンはベッドへダイブを、ノーラは椅子へと腰かけて……シビュラはなぜかたった一つの出入り口の前の床に直接座り込んだ。
置物みたいだからやめてくれ。……逃げるつもりはない。
ともすれば、シビュラが一番の不安要素かも知れないと思いつつ。呼吸を整える間を空けて、それから大前提より紡ぐ。
「……最初に断っておくが、俺はそう言うのからっきしだからな」
「知ってるよ」
なにせこれまで、人を信用するという事を徹底的に避けてきたのだ。
裏切られるのが怖くて、だったら自分が裏切る側に回れば、傷は最低限で済む。そう考えて、味方というものを認めてこなかった。
そんな俺が、信用や信頼の極致とも言うべきその感情を純粋に受け入れるなど、まず以って不可能の話。
それでも…………俺はきっと向き合わなければいけないのだ。
「だから、なんて答えていいのか、よく分からないんだが……。…………俺は、お前たちを嫌いにはなれない」
好きだとも、断定できない。
だってそれは、いきなりすぎたから。
「その上で訊かせてくれ。……何で俺なんだ?」
「馬鹿だから」
答えは、真後ろから。
棘に塗れたその言葉は、けれども随分と優しく響く。
「嫌いに、なりきれなかった。それだけよ」
「……そうか」
まるで自分に言い聞かせるように。
けれどもその言葉が、随分としっくり胸の奥に落ちる。
俺の短い返答に、チカが堰を切ったように続けた。
「あたしの中には、これまでの記憶がちゃんと残ってる。《波旬皇》の復活に共鳴して……その時に、全部思い出した。同時に、これまでの事も、あたしの事として頭の中に定着した。だから今のあたしは、過去のあたしで、一緒に旅をしたあたし」
チカは、魔剣化によって失った記憶を取り戻した。そして、記憶を失ってから紡いだ思い出も、失わずに引き継いだ。
二人のチカが一つになって……人格は、本来そうであったのだろう、昔のチカに統一された。それが今の彼女だ。
だからと言って、どこか気弱で、けれども理知的で。自らの扱う魔術が可愛くないと不満を漏らし、時に猫のように甘えていたチカがいなくなったわけではない。
彼女が経験し、得たものは、確かに今のチカに引き継がれている。
「だからこそ、相容れなくて、どうしようもなくて…………もうあたしにはどうすることもできないの」
そんな、まるで自分ではない自分への苦しみに耐えられなくて、昨日チカは感情を吐き出したのだ。
知らなくてもよかった感情。それを知ってしまって、どうしようもできなくて……。
それは、今の俺と全く同じだ。
「でも、ミノは違う。だってミノは……あたし達の事をそうとは考えてくれないでしょ? ……だから遣り切れなくて、困らせて…………」
ずっと、考えていた。考えすぎて、いつ眠ったのかも分からなくなるくらいに、自分に問いかけ続けた。
その果てに、たった一つだけ気付いたことがあるとすれば、それは────
「そうだな。そう、思ってた」
自分に嘘を吐いていたのだという事だ。
「肩書きばかり振り翳して。直視することを避けて……。俺は多分、お前達を認めるのが怖かったんだよ」
それは、ただの逃げ。
「ショウと向き合っても、過去を全て吹っ切れた訳じゃない。だから傷つけられる前に傷つけようとして……自分が傷つかないように、我が儘に当たり散らしてただけだ」
そう、俺は────
「もっと単純に、俺が傷つけたくなかっただけなのにな……」
他人に虐げられる痛みを知っているから。自分がそうなりたくないから。
棘のある言動で着飾って。安全圏に逃げ込んで。
そうして、責任のとれない結果から逃げていた……それだけの事なのだ。
「お前らを、魔剣だとか女王だとか。そんな肩書きで括ってたのは、認めるのが怖かったんだ」
それでも、知ってしまったのだ。
「魔物は、感情から生まれる。羨んで、憧れて。それはつまり、魔物は人と同じ感情を持っていることの証明だ」
そして気付いたのだ。
「だったら、形だけ見てるのは間違いだろ。レッテルを押し付けるのは、違うだろ。……俺は、それを誰よりも知ってたんだ。なのに…………」
誰よりも目を背けていたのは、自分なのだと。
「俺は結局、お前たちに自分の後悔を押し付けてただけだ。見てなかったんだよ、何も…………」
カレンと言う心を。チカと言う存在を。シビュラと言う想いを。ノーラと言う個人を。
「だから────悪かった」
認める。
自らの愚かさを。
彼女たちの気持ちを。
それが始まりだと思うから。
「その上で、よく考えさせてくれ」
「…………いやー……」
と、その段になってようやくカレンが口を開く。
思わず視線を向ければ、彼女は枕に頭を押し付けてベッドに顔面を埋めていた。
「なんて言うか、そこまでだとは思ってなかったって言うか……ね?」
「ミノさんは、律儀な人ですね」
続けたのは、含み笑いをしながらのノーラ。彼女は困ったように……はたまた追い詰められたようにはにかむ。
「正直すぎる」
「……ぐ…………」
真っ直ぐな声はシビュラ。
飾らないその言葉に、ようやく彼女たちが何を言いたいのか察する。
けれども俺が何かを言うより先に、チカが口を開いた。
「別に、答えが聞きたかったわけじゃない。ただ、知ってて欲しかったの」
気持ちを…………ではなくて。
「ミノはもう、独りじゃないんだよ」
そんな、言葉にしなくても伝わる彼女たちの想いに、羞恥心が込み上げてくる。
「もちろんそれもだけど……。今はまだ、いいから。だからミノ…………あたしたちの事、ちゃんと見てくれる?」
「………………あぁ」
そう答えるしか、残されていない。
……くそっ。勘違いではないはずなのに……なんでこんなに恥ずかしいのだろうか。
一体何の羞恥プレイなのかと。一頻り、五人でそれぞれに馬鹿を噛み締めて。
やがて息苦しい空気を跳ね飛ばしてくれたのは、疑いようのないくらいに元気なカレンの声だった。
「どぅあっせーいっ! で、で! 結局ミノは誰なのっ!?」
「うるせぇ! 知るかっ!」
「……ヘタレ」
「誰の所為でこうなったと思ってやがる!」
「シビュラはミノ、好きだよ?」
「そりゃどうもっ!」
「ミノさん……幾ら相手が魔に纏わるカレンさん達でも、一夫多妻って言うのはちょっと…………」
「んなの俺が許せるかっ!」
もはや自分でも何に反論しているのかさえ曖昧に声を張り上げる。
そんな風に、どこか無理矢理に……賑やかに。
まるで旅がまたここから始まるかのような空気を感じながら、互いに溜まっていた感情を吐き出し続けたのだった。




