第四章
「……………………」
声にならない声を上げて襲い掛かってきた感情。
僅かに目を向けて逸らせば、視界を覆い隠そうとしていた巨大な鉤爪が目の前で静止し、次いで煙が晴れるようにほどけて中空に消えた。
それを見ていた他の衝動が示し合わせたように殺到してくる。どうやら無視できない脅威として認定されてしまったらしい。
けれど残念ながら、それは蛮行。力量差を自覚できない、哀れな行いだ。
ならばと、せめてもの慈悲に一瞬で。上げた左腕を、虫でも払うかのように軽く横に振れば、その多数の巨体が突如内側から弾け飛んだ。
後には、腕やら頭やらの残骸。しかしそれも直ぐに魔力へと還って消えた。
吹いた風に足を止める。足元へと向けていた視線をゆっくりと上げれば、そこには家のような巨躯が聳えていた。
「強者よ。いざ……!」
綺麗な発音の、人の言葉。きっと高位の中でも更に頭一つ抜けた存在なのだろう。
魔剣持ちでも、数人掛かりでやっと対等。そんな存在感を肌に感じつつ、大地を蹴ったその姿に目を閉じる。
姿が消えたようにすら錯覚する、全力の踏み込み。……けれどもそれは、目に頼らなければわかりやすく的だ。
愚直に繰り出された拳が、風切り音さえ置き去りに小さな体に迫る。それを左の掌で優しく受け止め、大木のような腕の内側に溜め込んでいた魔術を霧散させた。
「……空間圧縮術式。作りが雑だよ」
「っ……!?」
無造作に小さな掌で握り込めば、高位の《魔堕》は体ごと捻り自らの腕を引き千切って後退した。
次の瞬間、掴み上げた肩から先の腕だった物が、見えない壁に押し潰されるように捩じ切れて小さな欠片になり、そのまま霧散した。
賢明な判断だ。あと少し判断が遅れていればその体ごと今の腕みたいになっていただろう。流石は高位まで上り詰めた魔物。一体その一撃で、こからでどれ程の障害を圧し潰すつもりだったのだろう。
「こうだよ」
けれど。そんな空想は、やはり空想止まりだ。
徐に上げた右の腕。開いた手のひらを見据えた空間に翳せば、魔術が影響を及ぼした。
既に再生した魔物の腕を周りの空間ごと固定する。そのまま続けて間接らしい部分を捉えれば、その巨体は身動ぎ一つできなくなった。
「で、こう」
強者故の直感で、抵抗が無意味と悟ったのか脱力した《魔堕》。その負の塊に、情け容赦なく掌を拳に変えて見せる。
すると巨体を固定していた術式を頂点に、その内側へ多面体が出現。体の大部分を内包して、そのまま急速に中心へ向けて収縮していく。最終的に小さな点になって消滅すれば、多面体の外側に漏れていた腕や足が支えを失って大地に落ちた。
真似て作ってみたけど、失敗作だ。これでは固定後の隙に逃げられてしまう。とはいえ何もない空間をそのまま切り取ると揺り戻しが……。
……あぁ、そっか。術式起点を対象にすればいいのか。削り取る分だけ事前に空間拡張すれば、削り取っても元のままだ。
満足のいかない結果に再編纂。直ぐに改良点が見つかった所で、真後ろに迫っていた攻撃に振り向き、魔術を行使する。
振り向きざまの裏拳が頭部らしき場所を捉え、そのまま十数メートルは軽く吹っ飛んだ。
大地と再会するや否や、先ほどの接触で埋め込んだ術式が発動し、その体を余すことなく多面体が取り囲み、塵の一片すら残さず消滅させた。
「……触れないといけないなら駄目。術式階層も多すぎる」
埋め込み、膨張、空間固定、収縮。きっと膨張の段階で発動を阻害される……。部分的に消滅させても意味がない。
…………駄目だ。これは使えない。別の方法を探そう。
術式を連鎖させられれば有象無象相手には有効的だと判断し、一応記憶の端に。止まっていた足を再び動かし始める。
周りには蠢く負の感情。無数にも感じられる景色の中で、時折こちらに向く矛先をその都度折っていく。
三体目の高位を倒したところで、ふと気づいた。
「あ、そっか」
《天魔》だから狙われている。
ならばと近くにいた魔物を一体捕まえて、存在そのものを魔術に変え身に纏った。
《魔堕》の殻。これなら一々狙われる必要性はない。
魔力の波長変質。彼女の──ラグネルの《匣飾》の応用だ。
そこからはこちらに襲い掛かってくる《魔堕》が激減した。中にはこの混沌の中、仲間を喰らって成長をしようと言う面倒なのがいたが、それは潰しておいた。……ちょっと地形が変わった気がするけど、些事だ。
避けるのも面倒で直進する。目的地故に、他の《魔堕》とは擦れ違うばかり。その度に辻斬りの如く魔物の数が少し減る。
……一々視界を塞がれるのも鬱陶しい。いっそのこと全部『繋いで』消してしまおうか。
脳裏を過ぎった想像に、けれども無意味な力の行使は不必要だと至って切り捨てた。
有象無象を蹴散らしながら歩みを進める。
一体どれほどそうしていただろうか……気付けば魔物の軍勢を通り抜け、緑の自然の中にいた。
ここまで来たら姿を偽るのも意味がないと。維持していた魔術を解き……そして問う。
「何時まで隠れてるの?」
振り返って、一本の木を見つめる。するとその陰から、見覚えのある少女が姿を現した。
「隠れてたつもりはありません。……なので《慮握》の妨害をやめてもらえませんか? イヴァンたちに連絡したいんです」
「それはだめ。あの人たちを巻き込めない」
「巻き込む……?」
首を傾げる仕草に、黒い猫毛のロングヘアが揺れる。
そんな彼女に、納得を通り越した理不尽を告げる。
「約束したから。ミノを守るって」
「……それって…………」
「おやすみ、エレイン」
「ぇ、あ……」
魔術を一つ行使。予め彼女の足元の地面に仕込んでおいたそれを起動し、一瞬見せた隙に眠らせる。
次いですぐさま別の魔術を重ね掛け。結界と、封印と、隠蔽。
魔術の檻が少女を包み込み、視界から薄れて消える。
どこかに飛ばしたわけではない。ただ厳重に隔離して、簡単には見つけられないようにしただけ。
今は邪魔をされるわけにはいかないのだ。
「あとで開放するから」
胸の奥で謝って、それから再び足を出す。
木々の隙間から微かに見える空模様。黒く渦巻いた、禍々しいその中心へと大地を蹴る。
一度森の上へと抜け、そこから距離と方向を確認しつつ枝を蹴って跳躍した。
瞬く間に目的地の山へと接近する。と、その途中で目の前に壁を感じて急制動を掛けた。
着地した枝が思いのほか脆く、衝撃に耐えかねて音を立てて折れる。咄嗟に他の枝に飛び移り、掴んでくるりと一回転。殺しきれなかった前への力を逃がして、そのまま地面へと降り立った。
摩擦で擦り切れた手のひらが、微かな熱と共に直ぐに治る。
その手を小さく振り、作り出した短剣を投射すれば、見えない何かに阻まれて跳ね返った。
忌々しく見つめ、何もないそこに触れる。透明な壁に触っているような不思議な感覚へと意識を集中させれば、全容を把握することができた。
「大規模結界……ペリノアかな」
彼の《緘咒》……封印の力の応用。結界術式で内と外を隔て、そこに封印を組み込むことで被害を最小限に抑えているのだろう。
これはきっと…………。
「これがなかったら、もう戦いは終わってたかもね……」
この結界のお陰で外に出てくる魔物を大分抑えられている。つまりこの中には……。
「……でも関係ない」
最初から、躊躇など置いてきた。既に終わった想像を手繰り寄せ、結界に穴を開けて中に踏み入る。
すると次の瞬間、目の前に大口を開けた魚の頭があった。それだけで優に馬車の荷台ほどもある。人など抵抗する間もなく丸のみだ。
「邪魔」
けれどだったら、食われなければそれでいい。
湿った生温い咆哮と共に数多の牙が襲い掛かる。その口を、作り出した剣で下から串刺しに。次いで殴りつけ、一直線に吹っ飛ばす。
背後にいた魔物達が巨体に押し潰される中、殴った際に植え付けた魔術を起動。
沢山の魔物を巻き込んで飛んでいくそれを中心に、無数の短剣が肉片の如く飛び散った。
見渡せば、密集という言葉ですら生温い、魔物に埋め尽くされた景色。地面さえも見えない蠢く意識。
その中を、弾けた短剣が駆け抜け、狙わなくても当たる魔物へと突き刺さる。
すると今度はその魔物が内側から弾け飛び、再び無数の短剣を辺りへ飛散させた。
剣の刺さった魔物の魔力を食い潰し、同じ魔術を複製して辺りにまき散らす自己増殖術式。一度放てば文字通り殲滅するまで止まらない、情け容赦なしの鏖殺魔術。
数度呼吸する間に瞬く間に空間を席巻した刃の雨。見渡す限りだった魔物が消え去る頃には、その刃は億ではくだらない数へと拡散していた。
その殆どが高位に近い魔物達。数で言えば、500はいただろう……この世界そのものが壊滅しかねない魔物の軍勢が、たった一つの魔術で壊滅する。
…………それでもきっと、届かない。
そう直感で思いながら、結界内を埋め尽くす刃の軍勢を腕一振りで消し去った。
さて、邪魔者はいなくなった。あとは元凶だけだ。
剣を一振り。その刀身に、思いつく限りの殺戮を刻み込みながら歩き始める。
とりあえず消そう。話はそれからだ。
紅蓮に輝く剣を握ったまま、覚えのある洞窟へと辿り着く。
と、足音なく近づいてきたのは飛行型の魔物。まるで脅威を感じない、低位一匹。
「消え────っ!?」
空いた左手で退けようとした刹那、指先に違和感を覚えて咄嗟に横に回避。
研いだ鉱石のように怪しく光る翼が目の前を横切る。擦れ違い様、舞った髪が一房音もなく斬り落とされた。
旋回して再びこちらへと突っ込んでくる《魔堕》を睨み、その存在を屠るには不相応に強大な魔術を行使する。
体の奥から練り上げた魔力砲。本来ならば家一軒を飲み込んで消し去る一撃が、しかしたった一条の魔力の線になって飛行型の魔物を貫いた。
存在を保てなくなったそれが足元に転がり、霧散する。
けれどもそんな些事には気も留めず、『想像が結実しなかった』左手を見下ろした。
想定より大幅に弱体化した形で顕現した魔力砲。その理由に至れば、右手に握った殺戮の呪詛が弱々しく明滅していることに気が付いた。
「……これのどこが希望なの?」
嘲笑して剣を放り投げる。思いつく限りの残虐非道を詰め込んだ剣だが、あれでは運よく中位が一体倒せる程度。とてもこれから相対する敵には届かない。
洞窟内に響いた金属音。反響したそれが、まるで何かが壊れるような音に聞こえて耳を塞ぎたくなった。
脳裏を過ぎったのは、あの時の光景。
その記憶の錠前を悪戯に指先でつつくように、足元から吐きそうなほどの衝動が立ち上って頬を撫でた。
見下ろしたのは深い虚。まるで、底などないどこかにずっと落ちていけるような闇が遠く続いていく。
気付けば、身を投げ出すようにその中へと落下していた。
全てを放り出せば、きっと直ぐにでも永久に眠ってしまえる。そんな、圧倒的な感情渦巻く中を自由落下して…………やがて、地の底に辿り着いた。
感情任せに大地を抉り着地する。ひび割れた足元からゆっくりと顔を上げれば、そこには一人の少年が立っていた。
満ちた魔力に反応して、そこら中から青白い光がゆらりと上る。淡い光に照らされて、暗闇の下の顔を捉えた。
短い、黒い髪と、黒い瞳────
「っ」
次の瞬間、先ほどは満足に顕現しなかった魔力砲が、今度は商館さえも簡単に飲み込む規模で放たれていた。
空間を紅の光が埋め尽くす。感情そのものが形になった、概念歪曲の一撃。触れさえすれば、塵一つ残さずこの世から……概念から消し去る力。
そんな衝動が、しかし、まるで時間を切り取り、別の何かが代わりに挟み込まれたように景色ごと変貌した。
赤い魔力砲など最初からなかったかのように暗闇はいつも通り。そこに、白い羽根が雨のようにひらひらと振り注ぐ。
概念ごと、書き換えられた。『なかったこと』にされた。
これが……この力が。
「《波旬皇》」
「お気に召さなかったかな?」
少しずれた言葉が返る。
刹那に、再び感情が爆発した。
「その顔を、声を────ミノを、返せぇぇぇッ!!」
空間を埋め尽くす剣の切っ先が、紛い物に向く。心荒れ狂うままにそれを投射すれば、途中で再び羽根に変わった。
それはもう見た。
舞い散る羽根を、再び剣に書き戻す。すると今度は、支配権を奪われた。
殺到していた刃が静止し、こちらに先端を向けて再び動き出す。
須臾の間に、鼻先へと迫った切っ先。支配を簒奪し手をかざして止めれば、再び想像を重ねて刃の雨を束ね巨大な剣に。その柄を両手で握りしめ、左足を軸に一回転。剣術など一切関係ない、質量の暴力として横凪ぎの一閃を放つ。
直接手に取っていればそう簡単には改変されない。信じて、認められないそれへと思い切りぶつける。
が、彼に当たる寸前、手の甲で木の枝のように受け止められ、次の瞬間炎の塊へと変化した。
直ぐに手元まで伸びてきた熱に、咄嗟に手を放し後退。地面に両手をついて、彼の足元から剣を生やす。
いくら何でも一度に複数は…………。
「ぁはっ……!?」
腹に、鈍痛。見れば、いつの間にかそこに彼がいた。
次いで浮いた体がそのまま後方へと吹っ飛び、空中で受け身を取るより先に壁に激突した。
痛みはもうない。殴られたときに切った。しかし痛覚はなくとも体への衝撃までは殺せない。
攻撃を食らえばそれだけ体に負荷がかかる。直そうとすれば幾らか意識が割かれて、目の前の対処に隙が生じる。傷を放っておけば、動きが鈍って的になる。
……それに、あの攻撃は威力が桁違いだ。先ほどの殴打だけでも、高位の魔物三体は吹き飛ばせる。
耐えられたのは、攻撃そのものに私を消滅させる意図がなかったから。もしそれが込められていれば、今頃ここから消え去っていたかもしれない。
……しかし、だったらどうしてその機会を不意にしたのか。
立ち上がりながら悠然と立つ彼を見据えて、魔力を練り上げる。
攻撃は受けたが、お陰で突破口は見えた。あの体に直接触れて存在ごと書き換えてしまえばそれで終わる。
両腕に灯した紅蓮の魔力。加えて当たるという未来を想像で手繰り寄せ、地面を蹴る。
人の脚力と知覚など優に超えた一瞬の移動。踏み切った音や土煙さえ置き去りにした急接近で懐に潜り込み、躊躇いなく腕を突き出す。
防御をする暇もない一撃。想像通りに拳が捉える。が、直ぐに気付いて背後の空間を削いだ。
剣の盾は意味をなさない。そしてそれ以上に強力な、空間そのものをずらした防御。これならば幾ら攻撃をしてきても、ずれた次元である以上こちらには及ばない。
背後で空間の裂け目同士が干渉し合い、目に見えない衝撃波が辺りにまき散らされる。
足が宙を掻いたが、今度はしっかりと空中で勢いを殺し姿勢を正して着地。腕に纏わりついたままの、彼の姿に見えていた唯の魔力の塊を喰らい散らした。
分身……と言うよりは、存在の置換。殴られる寸前に、殴られた自分と殴られていない自分を作り出して、本体の意識を後者へ。次いで背後から攻撃を仕掛けたという事だ。
お陰で唯の魔力の塊を殴る嵌めになった。狙っていたのは術者。爪の先にも満たない魔術ではない。
それに、次元断層の壁も直ぐに対処された。あれではもはや──
「自分と戦ってるみたい……」
想像を現実にする《珂恋》の力。もしそれが二つあればこんな戦闘が繰り広げられていたのかもしれないと想像する。
けれども、あれはそうではない。傍目から見れば似ているが、全くの別物だ。
私とは別の形で概念に干渉している。書き換えている。
そしてそれは…………私以上。
つまり、今の私では天と地が入れ替わっても敵わない。
だったらひっくり返して。さらにもう一回……。敵うまで続けるだけだ。
「────」
想像の翼を際限なく。今度は腕だけでなく体中を理想の紅で覆いつくして大地を蹴った。
始まるのは、概念の主導権闘争。どちらが相手を上回って自分の想像を押し付けられるか。
それは最早、終わりなどない繰り返しだ。
精神が擦り切れた方の負け。たったそれだけの、至って単純な答えだ。
「殺すから──シネ」
冥府を、振り翳した。
「終わりなら、終わりだ」
耳に届いた声に、指がぴくりと動いた。その刹那、わたしの体を圧し潰していた瓦礫が宙を裂いて彼に飛来した。
礫の雨がその視界を埋め尽くす、次の瞬間。いつの間にか上がっていた彼の右腕の前でそれらが静止し、一つの塊に変化してこちらに帰ってきた。
「…………」
横に避ける暇もなく、岩塊が文字通り体を貫通する。……もう次元のずらし方も分かった。物理的な攻撃は全部無視だ。
私を透過し、背後で壁に突き刺さったそれには目もくれず、ゆらりと足を出す。
刹那に、目の前にあった互いの体。既に打ち出された拳が、真正面から受け止められる。
…………初めて触れたその体は、嫌に生々しく彼の通りだった。
触れている部分から存在を喰らってやろうとしたが、結果は顕現しない。直接でも、駄目らしい。
「……お願い。その顔だけはやめて」
彼と戦い始めて、体感で半日は経っている。それだけの時間、たった一人で目の前に立ち続けているだけでもきっと常識外れなのだろう。
それでも届いていない。思いつく限りを重ねてみても、その全てを不意にされてしまう。
概念と戦うというのは、そういう事。分かっていたはずなのに、分かっていてもどうにもならない。
結局、足りていないのだ。その理由も、分かっている。分かっているから、悔しくてたまらない。
呼吸さえ聞こえる距離で俯いたまま、絞り出すように告げる。すると彼は意外にも優しく頷いてくれた。
「ならこれでどうだ?」
「…………誰?」
「アーサーと言う名前だ。覚えは?」
「ない」
顔を上げれば、そこにあったのは短い金髪に青い瞳の青年。一切の動揺も見せない澄んだ表情は、ミノとは正反対の存在感。
……きっと彼は、わたしの大好きな人とは全くの真逆の生き様を歩んだのだろう。絶望など知らないままに、死んだのだろう。
それが幸せかどうかは当人次第。
ただ私にとっては、底冷えするほどに相容れない顔だった。
掴まれた拳を振り払って見上げる。
「ミノを返して」
「それは出来ない。許せ」
言葉に嘘はない。しかし、真実にならないわけではない。直感でそう気づく。
ミノは返せないが、戻ってくる。そう言葉の裏を読み取って、胸の内で展開していた想定外の魔術を解いた。
因みに、想定外の魔術とはその名前の通り。術式に意味を込めていない、私自身にも何が起こるか分からない完全なる結果だけの術式。
これならば何かしらの結果が残るだろう思っていたのだが……どうやら不必要だったらしい。
「彼が戻ってくれば、届くと?」
「もちろん。だってミノは──私のたった一人だから」
「そうか」
根拠などない。けれどもこればかりはきっと彼にも覆せない真実。
だから絶対なのだと、笑顔で告げれば、無表情のまま彼は呟いた。
次の瞬間、予備動作もなく体が横殴りに吹っ飛ばされて宙を舞う。それとほぼ同時、上から彼女が降りてきた。
それでもまだ足りないとひとりごちつつ、地面に衝突する前に笑顔はしまって転がった。
「カレンっ!」
彼女の……チカの足元に伏せる。
流石に力を使いすぎた。魔力も殆ど空。自力で立ち上がれそうにもない。
けれども彼女が傍に居てくれることに安堵して。余計に力が抜けてしまう。
「チカ……」
「カレン……よかった……! 立てる?」
「ん」
差し出された手を取って寄りかかりながらどうにか体を支えれば、遅れて彼の存在に気付いたチカが隣で息を呑んだ。
「カレン、あれって…………」
「《波旬皇》」
覆らない真実に、それから最後の気力で笑みを浮かべた。
「ごめん、勝てなかったや……」
途端、体が鉛になったかのように重くなる。チカがどうにか抱えながら必死に名前を呼んでくれることに嬉しく思いつつ、わたしは目を閉じる。
……次に目が覚めた時に、ミノが戻ってきてくれてるといいなぁ…………。
* * *
「よっ」
「っ……!」
体が宙を舞う。天地が逆転して浮遊感を味わい、そのまま硬い床に腰を打ち付けた。
「ぃ……ってぇ…………」
「ふむ。合気道と言うのは面白いね」
「何で俺ができないことをお前ができるんだよ……」
「センスがいいんだ」
「黙れっ」
すかした態度に苛立ち、起き上がる勢いそのままに床を蹴って殴りかかる。すると今度は腕を掴んで引き込み、勢いを利用されてその場に組み敷かれた。ご丁寧に肩の関節まで決められる。
「ああぁあっ!!」
「おっと、悪い。大丈夫かい?」
「クッソっ! お前本気でやりやがったなっ!?」
「いきなり殴りかかってくる方がどうかと思う。素直に負けを認めたらどうだい?」
「試合でも稽古でもねぇただの息抜きだ! 勝ち負けなんかあるか!」
「それだけ熱くなってるのが答えだと思うけれど」
「うっせぇ!」
自分から提案した暇潰しだが、こうまでいいように弄ばれると余計にストレスが溜まる。
「ふぅ…………しかしいい運動になった。どうだい、そろそろ休憩は終わりにしないか?」
「……勝手にしろ」
無駄に疲れた……。アーサーの言葉に乗せられて武術の知識なんて教えるんじゃなかった。過去の自分を殴ってやりたい。
……とはいえ気分転換として大いに意味があったのかもしれないと。色々抱えつつも少しだけすっきりした頭で腰を下ろす。
「ほら、話に戻れよ。共生思想が魔剣と共に確立して更なる三つ巴の続きだ」
これ以上今し方の話をしても仕方ない。そう切り出せば、アーサーは肩を竦めて応じた。
「……人類と魔物。両陣営にとって障碍となった共生思想を排除するために、暗黙の了解で同時に攻撃を仕掛けたそれぞれ。けれども窮地に立たされた共生思想内に魔剣との契約と言うイレギュラーが表れたことで状況は一変。彼らはその矜持を形にして誇示し、思想が根絶やしにされることを逃れたんだ」
「前に聞いた話だと、一旦は戦線が離れるんだろ?」
「あぁ。共生思想の根幹は人と魔物の融和。つまり彼らは自ら争いの火種として戦いに参加することはできない。もしそんなことをしてしまえば、これまで積み重ねてきたものや折角授かった奇跡を蔑ろにしてしまうからね。そして何より、矜持を捨てた時こそ、本当に世界が牙を剥いてしまう。だから彼らは、万能とも言うべき力を持っていてもそれを行使することはできなかったんだ」
聖職者は刃のある武器を扱えない。宗教と言うのは、そんな様々な制約の上に成り立っているからこそ、尊く意味のある存在なのだ。
ユークレース司教国の前身足る共生思想には、宗教未満ながらその芽が既にあった。己の願いを遂げるため、一度掲げた旗を降ろすわけにはいかなかったのだ。
「だったら手を出さなければ蜂の巣をつつくこともない。人と魔物、どちらにとっても魔剣の力は厄介だった。ならば敵に回さないまま、今ある戦いを終わらせて共生思想を根底から崩壊させる。人か魔物、どちらかがいなくなれば共生思想の思惑は破綻してしまうからね」
「結果、共生思想を蚊帳の外に人と魔物が再び正面から事を構えることになるわけだな」
少しだけ局面は変化したが、構図は元に戻ったのだ。世界にとっては共生思想と言う商品が顕在化しただけの事。
「……けど、だったら同じことの繰り返しだろ? 魔剣の存在は分かってもそれ自体が手元にない人類側には、結局魔物を打倒する決定的な手段がないことに変わりはない。共生思想の介入で戦線こそ五分に戻ったが、魔具だけじゃまた押し込まれるだけだ。違うか?」
「あぁ。ただそこは人類だからね。これまで策を積み重ね、時には魔物よりも余程悪魔的な手法で戦ってきた者達。直ぐに一つの手段を思いついた」
言葉の先を追い駆ける。魔剣の登場以前と以後で変わったこと。恐らくそれが人類側の手段であり──そしてそれは、魔剣以外にありはしない。
つまり…………。
「魔剣を戦場に引っ張り出して利用したのか」
「体裁だけは守りつつね」
頷くアーサーに、思いついた汚い手段を音にする。
「……共生思想は変わらず人と魔物が手を取り合う事を目的としている。その為にはどちらかが潰えることは許されない。だとすれば、魔具でしか対抗できない不利な人類を庇護することになる。均衡の先の共生こそが彼らの望む形。折角の戦線だ。維持に努めることになる」
「だから人類は、あえて攻勢の手を緩める。結果的に魔剣の協力を、建前に守られたまま取り付け、人類としての被害を最小限に抑える」
「だが《波旬皇》の側だって黙ってないだろうからな。魔剣が出てくれば、当然退く。そしたら今度は魔物の戦線が押されて、今度はそちらに共生派が出現する」
「人類の狙いは…………二つか。一つは魔剣と契約のシステムを我が物にすること。例え共生思想を抱き込めなくても、彼らが持つノウハウさえ手に入れば大勢の立て直しは……覆すことさえ可能だ。そしてもう一つは、共生思想の消耗だな?」
「あぁ。彼らの勢いが弱まるのは自らの首を絞めることにも繋がるが、弱った所に手を差し伸べればそれごとを手中に収めることもできるかもしれないからね」
一応もう一つ、魔剣の力を借りて魔物を根絶やしにするという可能性も、まぁないわけではないが。それは余程の大番狂わせがない限りありえない。だからこれはチャンスを窺っての腹案だったに違いない。
「魔物側の狙いは何だ? まさか魔物が魔剣を使おうと画策してたわけじゃないだろ?」
「それは無理な話だ。そもそも魔物は負の感情……魔力の塊。そしてそれは魔物を内に秘める魔剣も根本的には同じ事。例え契約が可能であったとしても、それは混じり合い、反発してしまうだろうね」
同じ磁極同士では、反発してくっつかない。もし仮にくっついたとしても、それはさらに大きな一つの磁石になってしまうだけだ。磁石は、真ん中で切り離してもその断面が新たな極になるだけ。
つまり、魔物が魔剣を手に入れたところで、扱えないか、はたまた一方がもう一方を吸収してしまうだけ。異なる二つの力を身に着けることはできないという事だ。
「だからこそ魔物の側は、魔剣と言うその形態にこそ目を付けたんだ」
「形態?」
「魔剣は、剣に魔物が宿った存在だ。そしてその根本は、先ほども言ったように魔力を内に封じ込めているだけの単純な構造。だとすれば、同じく魔力を体内に持つ人間だって、剣の中に封印することが可能だとは思わないかい?」
「…………そうか。魔力か、もしくはその存在そのものか……。どちらにせよ、何かしらの形で無力化できれば、戦局は決着にさえ行き着く。……中々想像に難い話だけどな」
人が剣に封印される、と言う形が上手く思い浮かばない。なにせ人には肉体と言う器が存在する。感情が形となった、精神体のような魔物とは在り方が異なるのだ。
だとすればあり得るのは、魔力や魂と言う概念だけを抜き出して別の何かに封印するという形。
それならば魔剣の形態によく似ている。魔術を容易に扱う魔物ならば、再現も可能かもしれない。
「……とはいえそれは自己否定に繋がらないか? 自分達の対極を解き明かし、封じ込める。その過程で魔物の根源と存在意義に気付いてしまえば、《波旬皇》の二の舞だろ?」
「あぁ、そうだね」
自らがストレスの塊だと自覚し、その発散相手である人間を無力化する。しかしそれでは何れ、人類の滅亡によって自らの存在意義であるストレス発散を行えなくなり、魔物と言う存在自体が自然消滅してしまう。
これはかつて《波旬皇》が辿り着き、その構造に絶望した再現だ。
自ら衰退を招くという行いは……きっと魔物にとって最も恐れる最期だろう。
────自ら選ぶ死なんて、生きている限りで最も価値のない選択肢だっ
それは、負の感情の、存在意義の消滅だ。
魔物は、敵がいなければ成り立たない。
「だからって人間を存在そのまま封印してサンドバッグとして管理するってのは厳しいだろ。魂を魔術的に定義することが不可欠だからな」
「それが可能であれば、魂を操作する魔術によって魔物は戦いに勝利し、その果てに存在意義を見失って既に消滅しているはずだからね」
チカやショウの記憶云々の時にも似たようなことを考えた。
目に見えない曖昧過ぎる概念は、魔術には落とし込めない。それが魔術の限界。
「つまり現実的な範囲で言えば、魔剣の構造を解析し魔力を封印する術を確立。それを抑止力として人類を降伏させ、管理する。それが魔物側の狙いってことか」
「そこまで考えていたのは魔物の中でも一部だけれどね。少なくとも《波旬皇》はその可能性に至っていたはずだ」
際限ない悪意の衝動。大きくなりすぎた存在と力は、抑え込み続ければ何れ爆発してしまう。
その為の発散先として転生者が召喚されてはその都度相手取って来ただろう《波旬皇》。
そんな存在にとって、人を管理しサンドバッグにできるという可能性は渡りに船。少なくとも己を殺して欲望と戦い続けることに比べれば余程望みのある未来だ。
「……想像するだけで悪寒のする話だな。もしその道が成っていたら、今頃この世界は魔物の物で、人類は彼らの管理下ってことだろ?」
「人の世界にだって支配は存在するだろう? それが個人か、世界規模か。たったそれだけの話さ」
「お前どっちの味方だよ」
「結果論の、そして未来の味方さ」
非道に笑うアーサー。現実に干渉できない彼にとってはすべてが道楽と同等。
ともすれば不干渉の神様のように、世界の行く末をのんびりと見守ることだけが彼の楽しみなのだ。
現実に足掻く者達とはまた別な、それも立派な苦行だろうに……。
「たらればの話をしても仕方ない。話を戻そうか」
「あぁ……」
勝手に呼びつけたいいご身分だが、少しだけ彼に同情しながら。今必要な目の前に話の焦点を戻す。
「共生派の魔剣持ち達の介入によって戦線は硬直する。時に転生者が現れて歴史が僅かに動くこともあったが、ある程度の停滞は続くことになる。その間、人類と《波旬皇》は互いに牽制しながら共生派への干渉を続けていたんだ」
「何よりも味方につけることが最優先だからな。宗教を軸に日和見な集団相手ってのは骨が折れそうだが」
力押しは難しく、かといって敵対陣営と協力して事に及べばそれは共生思想の思う壺。結果生み出される均衡は、まさに共生派の筋書き通りというわけだ。
この瞬間に限れば、戦いは決着していたも同然だったのに。
それでも終幕とならなかったのは、人と魔物の根底に巣食う互いへの嫌悪故。
「……そもそもの前提が狂ってるよな。人の負の感情から生み出された魔物はその衝動を発散する相手として人類に向けて侵攻し。対して人類はそれに抗し正義を掲げて刃を交える。元はと言えば人が自ら生み出した自分自身との闘いなのに」
「君がそれを言えた立場かい? 孤独という絶望から逃げ出した君が」
「……………………」
そう、それこそが人と魔物との争いの理由。
人間は、どれだけ群れても最終的には個の存在。独りを恐れ、同調を求め、自己を探す。
根底にある恐怖は、いつだって自分との闘い。
人は善なる感情だけで生きているわけはない。苛立ち、怒り、悲しみ。そんな負の側面と向き合って、それでもどうにか前を向いて立っている。
自分の中にありながら、決して交わることのない自分自身。
悪意の塊と相対して受け入れられる存在と言うのは、自らを殺す刃に躊躇せず諸手を広げられる者の事。
そしてそれは、生きようとする生なる意思と正反対の衝動。
つまり人は、生き続ける限り負の感情と戦い続けなければならないのだ。
「敵とは他人ではなく、自分自身だ。他人を敵だと言う者は、許容できない自分自身を他人に重ねているに過ぎない。人が人である以上、絶対に隔絶などできない孤独だよ」
「……だから宗教なんてものができたんだろ? 人が人である理由を別の何かに肯定させるために」
神様を信じる者が聞けば説教をしてくれそうなほどに酷い言葉。だがそれは、世界に必要なことなのだ。
頷いたアーサーが話を進める。
「それぞれの陣営が抱いている目標こそが宗教にも劣らない矜持だけどね。そんな戦いの中で、また一つ流れが変わり始める」
「俺が知ってる歴史だと、共生思想を人類側が取り込むんだったか?」
「結果だけ言えばね」
ここまで拗れると最早修復など不可能に思えるが……。だからこそその擦れ違いが景色を変えたのだ。
「順を追おうか。人と魔物が戦いを繰り広げている間も、水面下では色々策が講じられた。その主なところは共生思想の……魔剣と契約に関する部分だ。《魔統地》の辺りから戦場を迂回して戦線の打開を考えたりね。けれどもそれには共生思想と話を付ける必要がある。戦いを望まない彼らの手の届く範囲を脅威が蠢くんだ。約束も交わさずに踏み込めば無為な被害を受けることになるからね」
共生思想を味方につけるように立ち振る舞い、可能であれば戦場に引っ張り出す。一度それが叶えばあとはなし崩しで抱き込んだりもできる。
戦場を、共生思想の無視できない場所……《魔統地》へ。そんな思惑もあったはずだ。
「仲間に引き入れようとし。そうでなければ敵方を貶し。権謀術数蔓延る面倒な戦場だ。そこにある時、一つの話が出てきた。それは共生思想にとって一つのきっかけになった」
「共生思想の根幹に関わる、そもそもの問題。人と魔物の共存だろ?」
「あぁ。彼らの姿勢は最初から変わっていない。それを変えることは続く戦いを終わらせるより困難を極める。けれども時は移ろい、その中で変わったものも確かにあった。それはたった一つの理由だ」
「最初に気付いたのは人類側か?」
「いいや、《波旬皇》だろう。ただ、これを持ち出すには過去を認めなければならなかったからね。不利に立たされると知っていたから、その話題だけは両陣営共避けていたんだ」
けれど潮が満ちるように、その時はやってきた。
「魔剣との契約が生まれる前に仕掛けた暗黙の了解の襲撃。人と魔物が時を同じくして共生思想根絶へと踏み切ったその時の、それぞれの背景。人類は、共生思想に巣食う魔物を。《波旬皇》は、同胞を悪として行った侵略行為」
「それが、魔物にとってだけ都合の悪い理由であると、共生思想を攻め落とそうとしたことを謝罪して、人類が懐に入り込んだんだ」
人が魔物を悪とすることに矛盾はない。それはこれまで人類が魔物相手に戦ってきた、その最も根深いところにある行動指針だからだ。
だが魔物が同族を非難するという行いは別。その考えは、共生という考えどころか、自らの存在意義さえ揺るがしかねない動機なのだ。
「魔物が魔物を排するというその考えは、共生を掲げる者たちにとってタブーだ。彼らにとって人と魔物は手を取り合える存在。同族同士での争いは、共生思想との決別を意味する」
それは人と人が争っても同じこと。共生思想と正面切って事を構えるという事は、彼らの思いを跳ね除けることと同義だ。
それを魔物は犯していた。その過去を、人類は自らの過ちを認めることと引き換えに、糾弾したのだ。
「人類は共生思想を認め、容認する。対して、根底より言動の乖離した魔物に共生の術はない。その志を貫きたくば、人と共に歩もう。……まぁ、平たく言えばそんなところだね」
「聞こえが良いのが余計に質が悪いな」
嘘は言っていないのだ。認め、容認したところで、手を取ったわけではない。共生思想を受け入れ、その思いで行動することを確約したわけではない。
ただ、魔物にその芽が潰えたから、活動拠点として人の世界を使えばいいと。その矜持を貫くのは自由だが、人類の全てがその思いに賛同するわけではないと。
冷静に、言葉の裏を紐解けばそれだけの思惑が見えていたはずなのに。それでも共生思想が頷いたのは、きっと……。
「彼らも疲れていたんだ。幾ら言葉で語っても、人類と魔物は歩み寄る気配はない。だからと言って自らが戦場に出れば、その行いは共生の矜持に悖る。彼らにできることは言葉で心に訴えるだけなのに、それでは解決しない。魔剣と言う痛烈無比な力も、象徴だけでは意味がない。そう気付き始めていたんだ」
「そこに、人類が釣り糸を垂らした。餌などない唯の鈍い針なのに、甘い汁を幻視して」
共生思想には同情をする。
掲げていた理想は立派だった。ただ、この世界において共生という考えは、極少数に限られた……妄言と紙一重の砂上の楼閣だったのだ。
相容れない、正と負の感情の衝突。誰からも好かれる者など、この世には存在しない。
「結果、人類は共生思想という建前を……魔剣と言う力を手に入れ、戦いの終わりへと手を伸ばし始めるんだ」
終わりの見えない戦いは疲弊の先に絶望さえ滲ませる。
確かに宗教に裏打ちされた信念は立派で固い決意だ。そう簡単には揺らがないのかもしれない。
だがそれでも、意思を胸に抱く者達は人間だ。全員がその気持ちを終生貫き通せるわけではない。
それに、この頃の共生思想には神様のような偶像があったわけではない。手にしていたのはとても現実的な魔剣という繋がりだ。
その万能とも言うべき力で以ってしても願いが叶わないと悟ってしまえば、疲れて折れてしまってもおかしくはない。それを責めるのは酷と言う話だ。追い詰めるくらいなら、この雁字搦めな状況を打開できる策を誰か教えてやってくれ。
「人は魔剣と言う力を手に入れ、大きく躍進することとなる。硬直していた戦線は動き始め、やがて《魔統地》も人の版図となる」
「……そう言えば、《波旬皇》はどうしてたんだ?」
《魔統地》。その名前が出たところでふと気になって尋ねる。
「どうとは?」
「元々は《魔統地》にいたんだろ? けど共生思想が台頭してから、そこを収めてたのは彼らだ。《波旬皇》は追い出されたのか?」
「宗教に対抗できるものはそう多くはないだろう? そうでなくとも負の感情の塊である魔物が傍で問題を起こせば、共生派は自己防衛を謳って刃を向けるはずだ。流石にそれで傷を負うくらいなら、潔く明け渡した方が賢明というものだろう。そもそも、魔物には国と言う概念はない。今いる場所が存在の全てだ」
「じゃあどこに……」
「ルチル山脈さ」
《魔統地》は今のユークレースの辺り。つまり《波旬皇》は、南下して天然の要害を手に入れたのだ。
また、セレスタインや《魔統地》に対して山脈を壁にすることで、それ以南、以東への侵攻を阻むことができる。つまり三つ巴が起きていた時代、コーズミマの半分を《波旬皇》が、四分の一を人類が、もう四分の一を共生思想が統治していたという事だ。
それだけでも魔物と言う存在がいかに強大な個々の集団であるかが容易に想像がつく。明確な策や連携はなく、世界の半分を手にしていたのだから。
「あの場所はコーズミマを隔てる自然の産物だ。当然吹き溜まりにもなる。魔物にとっては結構住み心地がよかったはずだよ」
「その状態で人と共生派が手を組んだところで、手にした力程劇的な変化は起きないってことか」
「やはり、攻め入るより守る方が戦うのは有利だからね」
もはやそれは自然を相手にしているのと同義だ。幾ら個が強大な力を持つ魔剣でも、一朝一夕には事が運ばない。
結局のところ、その力を扱うのは小さな体の人間なのだから。
「魔剣を手に入れた人類と、自然の防衛線を上手く利用した魔物。両者の衝突はさらに激化して、戦いの歴史でも指折りに入るほどの鮮烈な時間が紡がれることになる」
「大きく歴史が動くのは、転生者が現れた時ってことか……」
転生者の特別な力と魔剣の契約。その二つが合わされば戦局を動かす重要な一因となる。
そして、強大な敵が現れれば《波旬皇》が姿を現し、戦場を更に混沌とさせる。
転生者が倒されれば再び戦線は硬直し、次なる英雄を待ち望む……。
そんな繰り返しが、一体どれだけ続いたのだろうか。
「もちろん、直ぐに無為な事だと気付く。とすれば世界さえも覆す大きな策を企てるのが、人の結晶だろう?」
「……転生者の意図的召喚か」
「今度は魔剣の力もあるからね。契約をすれば魔術を扱えるようになる。その継ぎ接ぎな知識を折り重ねて偶発的だった奇跡をある程度現実の物へと落とし込む。とはいえ世界を跨ぐ魂の理だ。これも結構な時間が必要だったみたいだね」
俺個人では全く想像もつかない。
だが、先人は不屈を胸にどうにかして再現性を高めようと、文字通り命を削ったのだろう。
「理解の助けになればいいが、小さくとも繋がりはあったんだ。その糸を少しずつ太くすることによって今に繋がる転生者召喚の基礎を作っていったみたいだよ」
「言葉で説明するのは簡単だな」
魔術は理解の産物。異世界とを繋ごうと思えば、それに見合った想像が必要なのだ。
宇宙人を信じられるか? 異世界は本当にあるのか?
きっかけはあったとはいえ、それを再現するのは概念を新しく作るのと相違ないはずだ。
向こうからやってきた俺にさえ意味が分からない……。荒唐無稽の前人未踏。空前絶後にもほどがある。
馬鹿と天才は紙一重とは、まさにその通りかもしれない。……世界ぐるみなら、妄言も希望か。
「時間は掛かったけれどどうにかものにすることはできた。とは言っても当初と比べて確率が上がっただけ。君が召喚された時だって偶然を捕まえただけだ。本当にその理を掌握するにはまだまだ時間がかかりそうだね」
「命に干渉してるも同然だ。まさに神の御業……人が到達するには程遠いってことだろ」
それに、《波旬皇》の件に片が付けばその意味も変わってしまう。
転生者を抱えた分だけ国が発展するのならば、今度は人同士の争いの世になるだけだ。
もっと平和的に歴史が紡がれればいいが……きっとそんな理想は消え去ってしまう事だろう。
「転生者召喚云々に関してはもう少し先に意味を持つ……だから少し話の時間を戻そうか。魔剣の力を使って人類は魔物の侵攻を押し返す。それに合わせて魔物に支配されていた土地も取り返し、祖国から避難、疎開していた人々が国に戻って、コーズミマの世界が形を取り戻す。その時に、一つ大きな動きがあってね」
「…………《魔統地》か?」
「察しがいいね。かの地は《波旬皇》の占拠から逃れた後、共生思想の人たちが居城としていた。アルマンディンやベリルが自国の領土を取り戻していくその流れに乗って、彼らも仕返しをしたのさ」
仕返し。その相手は、人類の反抗拠点となっていたセレスタインだろう。
「国が国としての役目を取り戻せば、一丸となっていた人類の団結力に綻びが生じる。戦力もそうだが、主に政治的な部分でね」
「当然だな。特に魔剣絡みで色々あっただろ」
人が国を取り戻すという事は、そこが新たな前線になるという事だ。
であれば当然魔物と事を構え、折角取り返した土地を守る必要性が出てくる。その為には対抗手段として絶対ともいえる魔剣を国の内側に抱え込んでおきたい。
それは今に繋がるパワーバランスの試行錯誤。どこの国がどれだけ魔剣を保持するのか……面倒な人間同士の化かし合いだ。
「そんな混乱の中で、共生思想の人々が旗を掲げたんだ。人々が故郷を取り戻すのであれば、自分たちが矜持を振り翳してもいいはずだと。幸いにも北の大地は彼らが治めていた実績がある。元|《魔統地》を三国で分譲して争いの火種を作るよりは、どこの国にとっても平等な条件で不干渉な存在が統治すればいい。もちろん他にも色々思惑はあったけれどもね。彼らはうまく混乱に乗じて共生思想を一思想として再び世界に根差したんだ」
「セレスタインとしては痛い話だが、他の国に丸ごと取られるよりは余程よかったのかもな」
「そうして世界に、四つの国が出来上がるんだ」
東にセレスタイン帝国。西にアルマンディン王国。南にベリル連邦。そして北にユークレース司教国。
「共生思想がユークレースの名前を冠してユヴェーレン教を国教としたのもそれと同時ってことか」
「他国の政治的な思惑を躱すためだね。共生思想という集団のままではいずれまた同じようにどこかへ併合されてしまう。自らの思想に誇りを持っている彼らが独立を志すのは何も間違ってなどいないさ」
「……ん? ってことは、この世界に宗教がユヴェーレン教しかないのは…………」
「他の三国はまだユークレースと言う土地を諦めていないという事だよ。現状魔剣を管理しているのもかの国だしね。宗教という門下に下ることにはなるが、足掛かりだけは途絶えない。ユークレースとしても宗教を広めることで、新参者として世界への浸透と影響力を強められる。それぞれに思惑あっての事さ」
「《波旬皇》と戦い続けてるってのに随分呑気な話だな」
「それくらいに手を回す余裕が生まれたという事だよ」
それだけ魔剣との契約が世界にとって大きな転換期だったのだ。
…………やっぱり、《波旬皇》封印時点で戦いに勝ってたのはユークレース──共生思想だ。
まぁ、広義には『みんな仲良く』がモットーなのだ。そういう意味では俺は彼らの味方なのかもしれない。
諍いも疑心暗鬼もない世界。そんな夢物語を描かない人間はいないのだから。
「そうして生まれた四つ目の国。東西南北それぞれを治めることで一先ずの平等が保たれたコーズミマの世界にとって、人間同士で争うよりも大切なのは魔物との行く末だ」
「ルチル山脈に居座る《波旬皇》は四方を囲まれた形になるのか……」
「一応は包囲殲滅と言う戦い方になるんだろうね。けれどもやはり、高位相手となると魔剣一本では押し切れない。《波旬皇》ともなればなおさらだ」
カレン程の規格外なら一振りで高位を相手取ることもできるだろうが、中位を秘めた程度の魔剣では同じく中位の相手が関の山。
つまりそれ以上との闘いは、単純に数を重ねることになる。
「とはいえ魔剣はそんなに数があるわけじゃないだろ?」
「いや、魔剣自体は存在する。《天魔》の同意を得て剣にその存在を封じるだけで生み出すことはできるからね。ただどうにも、それを扱える人数に限りがあったんだ。特に強力な魔剣はね」
「魔食量か…………」
魔剣との契約に際し、人が渡す力の対価。魔力と言う分かりやすい指標は、しかし俺が例外中の例外であり、本来人はそれほど多くの魔力を体の中に持っているわけではないのだ。
「そもそもの魔力保有量と言うのが、人間は少ない。彼らにとって魔力とは、最悪なくても生きていける概念だ。しかもその根源は負の感情……。外に発散し、敵である魔物を生み出す仕組みは、結果的に人の体から魔力の元を吐き出してしまうことになる」
「……一つ聞きたいんだが、負の感情が一か所に集まることで魔力に変化するんだろ? で、それがさらに集まって魔物になるわけだ。けどそもそも、感情が外に出ていくってのがあまりよく実感できないんだが……」
感情は目に見えない。言葉や行動で表現することはできるが、結局のところ触れられないのだ。
空気がそこにあっても、意識しないように。人にとっての感情は、持て余してしまう不可侵。
それを勝手に吐き出しているというのはよく分からない感覚だ。
そんな考えに、アーサーは答える。
「怒ったり、悲しんだりしたことはあるだろう? それが感情だ。その際に、声を荒げたり、物に当たったり、涙を流したり……。何かしらの形で昂った感情を解消する。そして、それには当然エネルギーを使う。このエネルギーこそが魔力だ」
「衝動ってことか?」
「そうでなければ、魔物があそこまで短絡的に破壊を振りまかないだろう?」
確かに。感情の化身である魔物が、その存在意義として負の感情を持て余し発散する。魂に刻まれたその本能は、基本的に破壊の衝動となって辺りへと被害を及ぼす。
そして、その手段こそが魔術……魔力なのだ。
「人は自らの感情を御しきることができず、無意識に垂れ流す。結果、魔力の源である負の感情を吐き出すことで、必然魔力保有量も少なくなる」
「じゃあ魔力量が多い奴ってのは……」
「感情の使い方が下手な引っ込み思案と言うわけだね」
腑に落ちる。
疑問だったのは、どうして俺が底無しとも言うほどに魔力を秘めているのか。
だが、アーサーの言葉が真実なら、納得はできるのだ。
周りに敵しか見つけられず。足掻いたところでどうにもならないと諦めて。最終的に全てを抱え込んだまま終わりへと進んだ、過去の自分。
そうして転生した俺の体の中には、五年以上殆ど発散されることもなく積もった負の感情が渦巻いていたのだ。
それが、召喚に際してこちらの世界にチューニングされることによって、莫大な魔力量と言う結果に変わる。
「……魔物は魔力の塊であり、その本質は負の感情。人と魔物との争いは、人が自らの負の側面と戦い続ける終わりなき不毛。……あぁ、最高にクソったれだな」
自らの掌を見下ろして嗤う。
俺のその力は、俺の過去そのもの。
どこまでも愚かな、自作自演。
「逆に、魔力保有量が少ない者と言うのは、感情に頓着しないある種の災害だ。自ら力を手放していることにすら気付いていないのだからね」
魔力量が極端に少ない人物。俺が知る最たるそれは、ファルシアだ。
彼は神の信徒として、聖なる者としてその体質を受け入れているが。どうやらそれは、感情に対してルーズと言うだけらしい。
敬虔なる子羊が、よもや悩みを悩みとさえ思わない能天気とは。呆れて、一周回った上で尊敬さえ浮かぶ。
彼ほど馬鹿になれたなら、俺は今ここにいなかったかもしれないな。
「……魔物を憎んで行動に起こすほど、感情を発散させて魔力量が減る。戦う力を失う。皮肉な話だな」
「歴史を経れば、その考えは最早覆らない常識にさえ進化してしまう。だからいくら強力な魔剣が存在しても、それを扱える者は殆どいなかった。有効とされる包囲殲滅を掲げても、それを成し遂げるだけの戦力が揃わなかったんだ」
これまでも色々あったが、歴史とはままならないものだと独りごちて。
けれども結末を知っている身としてその先の想像を音にする。
「だが結果的に《波旬皇》は封印される。……その立役者が、このタイミングか?」
「あぁ」
鷹揚に頷いて、それからアーサーは最終幕の始まりを告げた。
「《魔祓軍》の発足だ」




