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名無しとカレンな転生デスペラードを  作者: 芝森 蛍
緑柱騒擾、魔魂鳴動
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第五章

 イヴァン達についてやってきたのは、《甦君門(グニレース)》の拠点の中の一室。様々な医療器具や薬品、ベッドにパーテーションにと医療関係の設備が一通り整った医務室らしき場所だった。

 ノックには、中から聞き覚えのない女性の声。扉を開けて中に入れば、白衣を身に纏った女が一人立っていた。


「いらっしゃい。とりあえずお姫様をそっちに寝かせて。直ぐに診るから」

「頼む」


 紫色の短い髪に青い瞳。どこか気だるげな印象を抱かせる双眸は、しかし真っ直ぐな光を湛えてレンズの向こうからこちらを一瞥した。

 医療用の固いベッドへチカを寝かせると、その傍に立って指先に灯した魔力で魔法陣のような物を複雑に描く。


「ミノ・リレッドノーだったかしら」

「……なんだ?」

「少しだけ手を貸して。わたしが合図したらお姫様に魔力供給。いい?」

「わかった」


 白衣や、この部屋の内装。迷いのない口調と落ち着いた雰囲気から、彼女に医療知識がある事はまず間違い無い。ならばとりあえず彼女に協力してチカが倒れた原因を探るのが先決だ。

 女の傍に立ち、一つ尋ねる。


「名前は?」

「マリス。《瑾恢(ギンカイ)》のマリス」


 左手で魔法陣を。右手で誡名のような二つ名を綴って名乗ったマリス。《瑾恢》と言う響きは、先ほどメローラが口にしていたものと同じだ。

 どうして彼女がその名前を知っていたのか……。疑問は募るが、それは今が片付き、彼女がここに来てからでいいだろう。

 そんな事を考えているとマリスが魔法陣を描き終えて両手を広げ、チカに翳した。

 次の瞬間、魔力の発露と共に淡い光がチカの全身を包み込む。


「…………これは……。…………魔力」


 言われてすぐ、契約を介しチカに魔力を注ぐ。すると彼女を覆っていた淡い魔力に琥珀色がところどころ混じっては消えた。


「ちょっと面倒ね。応急処置だけでもしておこうかしら。メド……はまだ帰ってきてないわね。ラグネル、手伝って」

「分かった」

「手伝う」


 ラグネルが頷くのと同時、黙って成り行きを見守っていたシビュラが声を上げた。


「代謝機能の亢進は出来る」

「ならそっちは任せるわ。ラグネルは隔離をお願い」


 多くを喋らない二人がチカを囲むようにして両手を翳す。


「魔力。少し多めに、断続的に」

「あぁ」


 言われるがまま繋がりを意識して再度送り込む。しばらくそうしていると、チカを覆う幕に再び琥珀色が混じり始め、今度は消える事無く段々とその範囲を増やしていく。


「エレイン、止めて」

「うん」

「ペリノア。丸ごとお願い」

「あんまり得意じゃないんだけどなぁ……」


 いつの間にかそこにいたエレインが手を翳すと、蠢いていた琥珀色の膜が蠕動(ぜんどう)を止める。次いでマリスの言葉にぼやきながら、ペリノアが力を一つ行使すると、チカを覆っていたその幕が空間ごと固められたように硬く変質した。


「…………ふぅ。これで一先(ひとま)ずは安心ね。ありがとう」


 それを見て一息吐いたマリスに尋ねる。


「一体何をしたんだ?」

「……わたし達が魔術とは別の力を使えるのは知ってるかしら?」

「あぁ」

「その力でお姫様……チカの体の崩壊と侵食を止めたのよ」

「崩壊と、侵食……?」


 背筋を鱗で撫でられるような嫌な響きを繰り返せば、彼女は順序立てて語った。


「今この子の体は別の魔力に侵されてたの。魔障みたいな感じね」

「理由は」

「さっき感覚が歪むほどの膨大な魔力を感じたでしょう? あれよ」

「何なんだ、あれは」

「ただの余波」

「余波?」

「《波旬皇(マクスウェル)》」

「なに……?」


 《波旬皇》。その言葉はこれまで何度も耳にし、口にしてきた。

 魔物の首魁(しゅかい)。《甦君門》の大地に騒乱を巻き起こし、封印された魔物の親玉。俺があの時感じたあれが、その存在の物だと言う。


「より正確に言えば、《波旬皇》の封印が緩んだ事による余波ね」

「封印が緩んだって……どういうこと?」


 カレンが認めたくない事実を否定したがるように問う。けれどもマリスは無情に言い切った。


「言葉の通りよ。《波旬皇》の封印は、解けかかってるの。所謂(いわゆる)時間切れってやつでね」

「元々|《波旬皇》の封印は完璧ではない。封印しきれない魔力が溢れ出し、その周辺では沢山の魔物が生まれる。コーズミマの大地で生まれる魔物の、おおよそ四割が封印地の近くで出現する。漏れ出した魔力だけでその始末だ」


 マリスの言葉を継ぐようにイヴァンが口を開く。

 封印の事や魔物の事に関しては旅の中でユウに聞いた。


「けど魔物は生まれた先から潰してるんだろ?」

「それも問題の一つだな」

「……どういうことだ?」

「考えれば分かる事だろう。《波旬皇》の魔力から生まれた魔物が討滅されれば、魔物を構成する魔力は辺りに散る。結果、その地域には《波旬皇》を祖とした魔力が満ちる事になる。封印されていると言っても意識がないわけじゃない。魔力が漏れるなら、小さい穴に糸を通すように外の魔力へも干渉が出来る筈だ」

「周囲に満ちた魔力を使って自ら封印を解こうとしてるってことか。それが進んで封印が綻び、さっきの空間を歪めるような魔力の波動となって撒き散らされた……」


 しかしと気付く。もしそれが本当ならば、イヴァンたちが焦らなくとも時が来れば《波旬皇》の封印は解かれるはずだ。再封印が行われるならばそれを妨害すればいい。それだけの戦力はあるのだから。

 ……ならばどうして今封印を解こうとしている? そもそも、そんな強大な存在を解き放ってどうしようと言うのだろうか。


「そして、その影響でチカは倒れたの」

「…………待て。どうしてそこでチカなんだ。……いや、どうしてチカだけなんだ。あの魔力の波動には、あそこにいた全員が(さら)されたはずだろ」


 違和感に気付き音にする。すると彼らは一様に押し黙った。まるで、パンドラの箱を目の前に立ち尽くすように。


「チカ、だけ……? それって…………チカが《波旬皇》の復活に関係してるって事?」


 同じ魔物、魔剣として、カレンが何かに気付いたように疑問を落とす。それに返る言葉はない。そして、その無言こそが答えとなる。


「……教えろ。チカは何なんだ。どうしてチカだけが倒れた……!」

「それは………………」


 詰問するような声に、重い口を開いたのはイヴァンだった。


「それは────チカの中に《波旬皇》の魂があるからだ」

「………………は……?」


 想像の斜め上を行く言葉に、一瞬思考がフリーズする。

 チカの中に、《波旬皇》の魂? 一体何を根拠にそんな出鱈目(でたらめ)を…………。


「────お姫様」


 カレンが、呟く。その意味に気付く。


「まさか────」


 《波旬皇》は、魔物の首魁。それは、言い方を変えれば────魔物の王様だ。

 そして、チカがお姫様と呼ばれていた、その理由……。もし彼女の中に《波旬皇》の魂があるという話が本当ならば、それは────


「チカは、《波旬皇》から生まれた魔物だ」

「っ────!!」


 王様の子供。その性別が、女の子ならば。一般的にその者は、『お姫様』と呼び習わされる。

 その、当たり前の事実が、ただただ深く目の前に現実として刻まれる。


「チカこそが、《波旬皇》の封印を解く為の鍵。《波旬皇》が産み落とした、再臨の為の布石だ」

「……だから、チカだけが倒れたのか。同じ魔力を持つチカが、封印が緩んだ余波に巻き込まれて…………」


 チカが倒れた理由は共鳴。そして、だとすれば先程のマリスの言葉も何となく理解が追い付く。


「崩壊と侵食を止めたってのも、チカを《波旬皇》の影響下から遠ざける為か」

「えぇ。あのままでは(いず)れ、《波旬皇》の魔力に侵されて彼女は消えていたの。だからわたしと魔篇(まへん)……今はシビュラって言ったかしら。二人と、それから貴方の魔力を借りて彼女の体を保って、ラグネルが《匣飾(コウショク)》で魔力の波長に干渉し、浸食を分離。更なる侵食が進まないように彼女自身の魔力で殻を作って、その魔力の流れをエレインの《霧伏(キリブセ)》で遅延。更に時間稼ぎが出来るようにペリノアの《緘咒(カンジュ)》でその殻の魔術を封印の応用で持続させたることで、体の崩壊を先送りにしたの」


 《緘咒》と言うのがペリノアの力の名前らしい。話の流れから察するに魔術の封印と言うのがその能力か。

 単純だが強力な力。彼の前では、魔剣との契約で得た魔術も全て封印……無効化されてしまうのだ。

 ……だが、少し引っかかる。チカを《波旬皇》から生まれた魔物だと知っていたなら、どうして今までそれを利用しなかった? どうしてチカを助けようとした? そもそも────


「…………どうしてチカが、《甦君門》にいた……」


 脳裏に閃いた別の視点へと目を向ける。


「チカが封印を解く鍵なら、どうしてお前達はそれを今まで使わなかった。復活をさせるだけなら、その力を解き放つならそれだけでよかったはずだ。……だが、そうはしなかった。《甦君門》で保護をして暮らさせ、まるで遠ざけるように…………」

「それだけでは足りなかったからだ」

「足りない……?」

「《波旬皇》の復活。それは確かに私達の目的だ。……だが、通過点に過ぎない。考えなかったか? 復活を果たして、その先に何を望んでいるのか」


 最初は、コーズミマの世界に再びの騒乱を起こそうとしているのだと思っていた。《波旬皇》を信奉する《甦君門》と言う集団が、魔物優位主義でも掲げて、人の世界に反旗を(ひるがえ)そうと……。そのためにカレンのような強力な魔剣を集めたり、ユウの魔瞳(まどう)や魔篇のシビュラと言った特別な力を手中に収めようとしているのだと。

 だから《甦君門》。『君主を甦らせる一派』なんて意味の組織名を冠しているのだと。

 一見すると何も間違いがないように思うが、しかしよくよく考えるとおかしいのだ。

 《波旬皇》は魔剣持ちの精鋭が束になってようやく封印できるほどの強大な存在。もしその復活がチカと言う存在でいつでも可能ならば、カレンやユウ、シビュラのような力に頼らなくてもいいはず。

 しかしそんなことはせずチカをお姫様と呼んで大事にしたり、カレンの力を振るう器を転生者に求めたりして、まるで言動がちぐはぐだ。

 だからきっと、《波旬皇》の威を借りてどうこうと言う話ではないのだと、今更に気付く。

 そもそもチカを鍵として使うなら、彼女を今ここで助ける必要はないのだ。


「そもそも、だ。どうして私達が、チカが《波旬皇》の生み出した魔物だと、その封印を解く鍵だと知っている? どうして《波旬皇》の封印が(ほころ)んでいる事を知っている? どうしてカレンの力を、ユウの魔瞳を、シビュラの智慧を欲している?」


 そう、そして────


「どうして私達が、『《共魔(ラプラス)》』と言う名を冠している?」

「っ!!」


 《共魔》。魔と、共に。

 魔と共に────何をしようとしている?


「その全ての答えが────」

「《魔祓軍(サクラメント)》」

「…………!」


 響いた声は、背後から。見れば、そこにはいつからいたのか、メローラが出入り口に(もた)れて立っていた。


「それって、《波旬皇》を封印して行方知れずの…………」


 ノーラが教えてくれた。《魔祓軍》の面々は、《波旬皇》の封印後、遺体も見つからず消息不明となったのだと。様々な憶測が飛び交い、人身御供(ひとみごくう)のようにその身を犠牲にして封印したとか、魔物に変化してしまったとか言われて……。

 ……魔物に、変化…………?


「魔と、共に…………行方知れずの、《魔祓軍》……」


 そうして、最後のピースが、(はま)る。


「《霧伏(キリブセ)》……」

「え……?」

「《慮握(リョアク)》。《志率(シソツ)》。《匣飾(コウショク)》。《識錯(シキサク)》。《瑾恢(ギンカイ)》。《緘咒(カンジュ)》。《皆逆(カイギャク)》」


 《霧伏(エレイン)》。

 《慮握(カイウス)》。

 《志率(メドラウド)》。 

 《匣飾(ラグネル)》。

 《識錯(トリス)》。

 《瑾恢(マリス)》。

 《緘咒(ペリノア)》。

 《皆逆(イヴァン)》。


「そして────ベディヴィア」

「う、そ…………」


 メローラの声に、カレンが呻く。

 だが、もうその可能性以外残っていない。


「ずっと、不思議だった。《共魔》のその力。魔力を原動力にしながら、魔術とは異なる異能。けど、それが《共魔》であるなら……」


 魔と、共に────在る。


「二つ名は、元々お前達が持っていた誡名(かいめい)……いや誡銘(かいめい)の方か。その力を宿し振るうお前達は、《共魔》」


 それは、ユークレースで。俺達が《渡聖者(セージ)》の肩書きを得た時に、ファルシアが言っていた言葉。


 ────……と言う事は、《共魔》と言うこの文字列は、魔物と一緒、ですか。体に魔物を宿している、と言う説が真実味を帯びますね


 そして、既にその証明は、俺の傍に随分前からいたのだ。

 魔瞳という、瞳に……体に魔物を宿すと言う、特別として。

 魔力を糧に、光と言う物質を介して結果を描き出す、異能として。


「だったらもう、答えは一つだな」


 イヴァンたちを見つめ、至った真実を告げる。


「お前達は、ベディヴィアと同じ元|《魔祓軍》。そして、元々契約し、振るっていた魔剣の力を……その内に秘められていた魔物を体に宿した、《共魔》。《波旬皇》を討滅しきれず封印し、刃を研いで今一度の決着を自らの手で夢見た、《甦君門》」


 それは────


「お前達は、今度こそと不屈を燃やし続けた──《波旬皇》を討滅する為の世界の尖兵。名も無き────《渡聖者》」


 この世界の最前線に今も尚生き続ける、亡霊たちの集団だ。


「そして、その全てに見出した希望が────《珂恋(カレン)》」

「ぁ…………」


 想いを、繋ぐ。

 それは、たった個人ぽっちの独り善がりではなくて。

 世界に終止符をと願われた、最後の希望。


「足りなかった過去を越える為に。願いを重ねた、《珂恋》の刃」


 彼らは、探していたのだ。悲願を果たす為の力……《珂恋》を振るえる、世界の救世主を。

 だから、彼らは。


『《珂恋》の契約者にして異世界よりの来訪者────《ナラズ》のミノ・リレッドノー。私と一緒に来い』


『そうそう、これだけは覚えておいて欲しい。君達はいずれ、私と共に来てくれる。その先にしか、君達の居場所はないのだからね』


『────《不名(ナラズ)》のミノ・リレッドノー。ぼく達と共に《甦君門》へ。そして、世界の平穏をこの手に』


『……一緒に来てください。そうしたら、教えて差し上げます』


『ぼく達と共に、《甦君門》へ来てはいただけませんか?』


『ミノ・リレッドノー。君がおれ達の下へ来てくれれば、全てを話して明かすことが出来る』


『どうぞ、わたしと一緒に《甦君門》へ来てください。世界の救世主たる《渡聖者》の貴方が、必要なのです』


『ミノ・リレッドノー。君には是非見て……そして知って欲しい事があるんだ。そうすればきっと、君たちは手を貸してくれる筈だ』


 あんなにも、俺の存在を欲していたのだ。


「だから、最後に一つ、教えてくれ」

「あぁ。答えよう。それがきっと、全ての始まりだ」


 全ての始まり。確かにそうかもしれない。

 この問いは、俺にとっても最初から引っかかっていたもの。

 そして、答えを知ってこそ、ここから更なる始まりが紡がれる、その全て。


「《珂恋》は、何者だ」

「王の戒刀だ」

「……そうか」


 納得を落とす。

 すると、彼らが静かに膝を突いた。


「僭越ながら、最初で最後の進言を」


 イヴァンが、エレインが、メドラウドが、カイウスが、ラグネルが、トリスが、ペリノアが、マリスが。

 俺を見て、告げる。


「《珂恋》の契約者にして異世界よりの来訪者────《不名》のミノ・リレッドノー。私達と共に、世界をお救いください。われらが、王よ」


 そう言えば、と、ふと思い出した。

 サクラメントとは、確か宗教用語だ。そしてその言葉には、もう一つの呼び名があるのだ。

 ならば、名無しの《渡聖者》が名乗るに相応しいのかも知れない。


「《皇滅軍(ミスティリオン)》」


 名は体を表す。

 そんなのは、語るべくもない。


名詮自性(みょうせんじしょう)。俺の世界の宗教の言葉だ。名前はそのものの本質を明らかにする。世界は、|ミスティリオン(秘蹟)を享受する」


 願い(りそう)は、現実(まほう)へと昇華する。




「それで? 実際の所どうしたらいいんだ?」

「さて、何処から答えたものかねぇ」


 もう(わだかま)りも殆どないと。ベッドに腰掛け、眠り姫のように動かないチカを見つめて零す。


「チカは?」

「彼女の魂は、今その体にはないわ」

「魂がない?」


 マリスの飾らない言葉に訊き返す。話を整理する間を空けて、再び彼女が紡ぎ出す。


「お姫様は《波旬皇》が生み出した魔物。今は魔剣ね。だから先の魔力の波動に共鳴して魂を揺さぶられたの。その時に、お姫様の魂が体から抜けてしまったの」

「今は?」

「恐らく、《波旬皇》の下に。元の魔力に引っ張られたんだと思うわ」

「つまりここにあるのは抜け殻って事か」


 呼吸もしない小さな体。生きているのか怪しいが、こうして時を止めるように処置を施したと言う事は、まだどうにかする手立てはあるのだろう。


「お姫様の魂は封印を解く鍵よ。だから今のままだと、何れ魂と封印が共鳴して自壊が始まる」

「封印が解けるって事か」

「本来は準備が整い次第彼女の意思で封印を解き、《波旬皇》を今度こそ討滅する手筈だった。……だが、想定外が起きたんだ」

「想定外?」


 イヴァンの声に、それから脳路を過ぎった記憶に引っ張られてトリスを見る。

 彼は、《眠慰島(アイルトゥーム)》で戦った時に予定が狂ったと言っていた。だから行動を起こす、早める必要があったのだと。それでトリスはソフィアとノーラの身を狙ったのだ。

 イヴァンの言う想定外とは、恐らくそれ。


「封印が急速に綻んだのだ」

「理由は」

「恐らく色々な要因が重なったのだろう。そもそも封印自体が年月の経過で効力が弱まっていた。それを維持する為に人工魔剣で無理やりに引き延ばしていた。《波旬皇》の封印から漏れ出た魔力で生まれた魔物を討滅し過ぎた……主なのはそんなところか」

「封印が弱まるのは分かるが、後ろ二つはどういうことだ? 人工魔剣で封印を維持してたのか?」

「元々あれは復活した《波旬皇》を討滅する為の武器だ。高位の魔物など今のコーズミマには殆ど存在しない。そうなる前に脅威として潰されてしまうからな。だから対抗し得る強力な魔剣を作り出すことも出来なかった」

「そこでわたし達が考えたのが、低位や中位の魔物を寄り集めて、高位に届き得る魔剣を作りだすこと」

「それが人工魔剣か」


 チカは《甦君門》にいた頃その開発に(たずさ)わっていたらしい。彼女は、自らを鍵と分かった上で、その先を託す為の力を作ろうとしていたのだ。


「だが余りうまくいかなくてな。下手に暴走させれば宿主を蝕む使い捨ての(なまく)らが沢山出来た。もちろん中には強力な物も誕生したけどな」

「トリスがあの時使ってたのは、その廃棄品ってことか」

「粗悪品と言っても魔剣は魔剣。秘めた力は魔術と同等だ。使い捨ての力だと割り切れば、数で魔物を圧倒する事も出来るしな」

「その中でも質のいい物を使って、儀式魔術を構築し、封印が弱まるのを遅らせていたのだ」

「だが、それも限界を迎えた……。封印が弱まれば、漏れ出す魔力量も増える。そうすれば、生まれる魔物の数も増える。倒せば魔力に戻るが、その魔力がまた封印を弱める。その悪循環が加速して、現状を留めておく事が余計に難しくなった」

「そこに、同じ魔力に由来を持つお姫様の魔力が混ざれば、呼び水にもなるって事よ」

「……これまでチカが魔術を使った所為か…………」


 とはいえ生まれた魔物を処理しなければ、その大群が外に出て行ってしまう。襲い来る脅威を跳ね除けなければ、今ある物は守れない。

 封印と世界の平穏。同じ物を天秤の左右に吊っているのに、互いが互いを邪魔するなんてどうしようもない。

 それこそ天秤自体を……封印を解いて、元凶を討滅でもしない限りは…………。


「だから事を早めた。君がここにさえ辿り着いてくれれば、こうして話を聞かせられた。話を聞いてもらえれば、協力を取り付ける余地はあった」

「じゃあどうしてそれを今まで黙ってたんだよ。言えばよかっただろ。《甦君門》は元|《魔祓軍》が作った組織で、《波旬皇》を倒す為に準備を重ねてる。協力して欲しいって」

「今ならば、な。しかし以前ならどうだ? 《珂恋》の力を手に入れる為に話し合いから(のぞ)んだが、その願いは跳ね除けられた。溝が生まれれば、認識は友好的とは言えなくなる。そんな状況で、世界を救う為に力を貸して欲しいなんて言われて、信じられるか?」

「………………」


 ショウの言葉にイヴァンが答え、沈黙が落ちる。

 俺が最初に頷いておけばこうはならなかった……? いや、だとしても。《甦君門》からカレンは逃げ出してきたのだ。自由を求めて俺と契約をしたのだ。そんな彼女を再び《甦君門》に戻すなんて決断は出来ない。


「もしそれさえも押し通して説明をしたところで、きっとその情報は世界に共有されていた。《波旬皇》の復活と言う間違った解釈で、私達は今よりも早く襲撃を受けていた。……しかしそれでは駄目だったのだ。《波旬皇》を討滅する。その為に必要なものが足りていなかったからな」


 イヴァンの言う通り。もし知っていれば《渡聖者》の肩書きを得た段階でユークレースを介して国を、世界を動かしていただろう。

 だが、もしそうなっていれば、彼らは中途半端な準備で事を早めなければならなかったのだ。

 彼らは元|《魔祓軍》。《波旬皇》がどれだけ強大な存在なのかを知っている。

 それに対抗する為の切り札……《珂恋》の力も、あの頃の俺は存分に振るえていなかった。だから彼らは全てを明かすことが出来なかったのだ。

 そもそも…………。


「カレンは《甦君門》から逃げ出しただろ。しかも、チカの手引きの上でな。例え話を聞かされていたとしても、だからこそ俺は反発しただろうな。カレンの自由を奪うなってな。……やってる事が矛盾してる」

「いいや。矛盾などしていないさ。あれは賭けの一つだったのだ」

「賭け?」

「もし彼女が、《珂恋》としての力を、その本質を無意識の上でも使えるのだとしたら。彼女の意思こそが全てを変えるのではとね」


 《珂恋》の力。因果を捻じ曲げ、想像を結実させる概念再構築の能力。それは彼女が心の底から願って、初めて可能性の生まれるものだ。

 《甦君門》は《珂恋》の力を受け入れられる器を見つけられなかった。一度見つけた候補者も、脱走によって逃がしてしまった。

 ならば、カレン自身が自由を…………居場所を求め未来を手繰り寄せたなら。その先に彼女を許容する何かがあるのかもしれないと、そう賭けたのだ。

 そして、俺はカレンとあの時出会った。

 偶然なんかではない。あれは、カレンが無意識に嘘偽り無く願った理想の結実だ。


「それでカレンを逃がしたのか。俺と出会う可能性に賭けて」

「そして本当に、(えにし)は結ばれた。あとはお膳立てをするだけだった。危地に追い込み、契約をさせる。その上で君を手に入れられれば、目的は達せられる」

「だったら。カレンをあそこまで追い詰める必要は無かったんじゃないのか? こいつは、全てにおいて本気だったんだぞ? 《甦君門》に対してだって……」

「ミノ。……いいよ、大丈夫。話を聞いたら、ちょっと納得できたから」


 黙って話を聞いていたカレンがどこか嬉しそうに微笑む。


「ありがと、私の代わりに怒ってくれて」

「…………俺が呑み込めなかっただけだ」

「うん」


 ……くそ。勝手に邪推してくれるなよ。


「ですが、事実としてカレン様を追い詰めてもいました。その事に関しては謝罪をさせてください。すみませんでした」

「…………うん」


 頷く事が、彼らの為だと気付いたから。相変わらずカレンは自分よりも他人の幸せを願う方が好きらしい。


「でもね。悪い事ばかりじゃなかったんだよ? イヴァンみたいによくしてくれた人もいたし、それに────チカと友達にもなれたんだから」


 そう言って、カレンがチカの手を取る。


「だから、助けるよ。私が私でいられたのは、チカのお陰だもん。友達が困ってるなら助ける。そうだよね、ミノ」

「……《波旬皇》の鍵だとか知ったことかよ。チカは俺と契約してるんだ。勝手に死なせるか」

「うんっ」


 事ここに至っても素直に認めるのは気恥ずかしくて。言い訳を振りかざせば、カレンは全てを理解しているように微笑んだ。

 だからお前は…………もういい。やるべき事は変わらない。それでいい。


「……それで。具体的にどうすればいい? 今の話から考えると、チカの魂を《珂恋》の力で分離すればいいのか? ショウの時みたいに」


 前に一度、ショウが人工魔剣を暴走させて魔物化した際にそうした事がある。思えば、あの時に《珂恋》の力の片鱗を見たのだ。斬るだけではない。道理を覆す埒外の刃を。


「確かにお姫様はそれで助かるはずだ。切り離した魂は魔剣化……剣奴徴礼(けんどちょうらい)の魔術を応用して再び体に定着させる。……これも全て、魔剣化して契約を果たしてくれていたお陰だ。もし彼女が魔物のままだったなら、魂を持っていかれた時点で体を失っていたはずだからな」


 魔剣は剣に魔物が宿った存在。カレンがこれまで炎を嫌っていたように、魔剣化した魔物の感性は剣の性質に引っ張られる。

 つまりそれは、魔剣化した魔物にとって剣が体と認めている証拠だ。

 チカは今、体から魂だけを奪われた状態。それを分離する事が出来れば、一度魔剣化して定着した魂を再び戻す事は可能なはず。

 気取って言えば、元の鞘に収まる、というやつだ。


「だが、本質的な部分はそれでは終わらない。お姫様の魂を分離するということは、《波旬皇》を斬ると言う事だ。例え魂だけを先に分離できたとしても、既に封印が解けるのを回避は出来ない」

「どう足掻いても《波旬皇》自体を斬って討滅しないと先はないって事か……」


 そもそもそれこそが彼らの目的であり、悲願。《魔祓軍》として果たせなかった過去を、今度こそと願った執念。

 だが、本当に可能なのかと疑問が浮かぶ。


「話は分かった。チカは必ず助ける。とは言えその為にはまず《波旬皇》の事を知らないとな。敵の事も分からないのに突っ込むのは愚策だ」

「ふむ。……ならば私達の過去を参考にするか?」

「……そう言えばお前達は封印には成功してるんだよな。討滅までは足りなくても、封印できるくらいには追い詰めたって事だろ?」

「結果はそうだが、事実は逆だ。追い詰められていたのは私達の方で、封印する以外の選択肢が無かった。《波旬皇》は……あれは、最早概念だからな」

「概念……?」


 不穏な話の成り行き構える。魔物の親玉が一体なんだというのか……。

 そう考えた所で、扉をノックする音が部屋に響いた。


「誰だ?」

「急いで報告しようと思ってな」


 顔を見せたのはこの場を離れていたメドラウドとトリス。次いでメドラウドが部屋と、それから俺を見て尋ねる。


「……この様子だと話は纏まったのか、イヴァン?」

「あぁ」

「そうかい。そりゃ僥倖(ぎょうこう)だ。ここまで来て跳ね除けられたら全部水の泡だからな」

「お姫様の様子は?」

「体への侵食からは切り離したわ。余り時間はないだろうけれどもね」


 この部屋に最初からいたマリスは、その白衣姿から考えても医療に造詣が深いのだろう。その彼女が言うのだからタイムリミットはそんなに残されていなさそうだ。

 早くチカを救い出さなければ。


「それで、向こうはどうなっていた」

「あぁ、そうだ。それなんだがな、もうこれ以上騙し通すのは難しそうだ」

「人工魔剣での封印の維持か」

「それも話したのか?」

「《甦君門》の目的と今はな。これから対抗策を練るところだ」

「んなもん、我らが希望の力で斬っちまえばいい話だろ?」

「《波旬皇》は、各国の騎士が()って(たか)って封印するのが限度な魔物の王なんだろ? 幾らカレンでも効果がない力の使い方じゃ意味ないだろうが」

「はぁ? んなの向かい合えば分かるだろ」

「それは君だけだ、メドラウド」


 口を開けば中々な阿呆さ加減だが、どうやら彼は魔に対して特別な感覚を持っているらしい。

 ……いや、そうか。彼の力、《志率》と言う能力は魔の統率だ。支配下においてコントロールする為には、相手を御さなければならない。その過程で干渉を及ぼす魔物の力を暴く事が出来るのか。


「魔物をコントロールするのがお前の力なんだろ? それで《波旬皇》操れないのか?」

「馬鹿言うなよ。お前は一人で山動かせるのか? 出来たらこんなに苦労してないっての」


 何となく気付いていたが、彼の力もどうやら万能ではないらしい。恐らく統率できるのは自分より弱い魔物のみ。……それでも高位の魔物を操っていた事を考えるに、彼自身のポテンシャルは凄まじいとは思うが。

 どうでもいいが、メドラウドから見て《波旬皇》は山と同格らしい。そんな存在が意思を持って力を振るってくるのであれば、人の身では封印する他選択肢がないのかもしれない。


「ま、そう言うわけで次の手を打たないと今すぐにでも復活しちまう。準備が必要ならそれだけの時間を稼がないとな」

「そうか……。しかしわたし達にとっては《珂恋》こそが切り札だ。そっちの準備も進めなければ…………」

「ならばそちらはぼくが引き受けましょう」


 名乗りを上げたのはカイウス。


「ぼくの《慮握》では封印の手助けも出来ませんからね。皆さんは《波旬皇》の方へ。彼への説明はぼくがしておきます」

「…………任せる」

「封印の傍では魔物が引っ切り無しに生まれるんでしょう? ならそれも潰さないとよね?」

「《渡聖者》の力を借りられるなら心強い。こちらからお願いしよう」

「……そういうわけだから、少し運動してくるわ」

「オレ達も行く。少しでも戦力があった方がいいだろ」

「信じてますから。できるだけ早く来てくださいね」

「分かった」


 メローラに続いてショウとユウが腰を上げた。

 元|《魔祓軍》に、《渡聖者》の第一人者と、転生者に魔瞳の少女。肩書きだけなら随分と大盤振る舞いな面子だが、きっとそれでも届かないのだと悟る。

 そんな存在に、《珂恋》一振りでどうやって対抗すると言うのか…………。全く想像の出来ない未来に、けれども目を背けている場合ではないと己を叱咤して彼らを送り出した。

 トリスの空間転移で姿が掻き消えれば、医務室の中も随分と寒く感じた。


「……で、どんな話を聞かせてくれるんだ?」

「ではまず、ぼく達のことから知ってもらいましょうか。元|《魔祓軍》……彼らがどのようにして《波旬皇》を封印したのか。そして、どのようにして《共魔》が…………彼女達が生まれたのか」


 カイウスが物語でも語り始めるかのような口調で紡ぐ。その始まりに、チカと、そしてカレンに視線を向けながら。


「それは、今から40年ほど前の出来事です────」




              *   *   *




「いつもこうなの?」

「《渡聖者》が来てくれたんだ。きっと《波旬皇》なりのおもてなしなんだろ」

「それは嬉しいわねっ」


 目の前に広がる光景を眺めながらメローラさんが喜色満面に闘志を(みなぎ)らせた。

 その感性を、わたしは一生理解できないだろうと思いながら改めて前に視線を向ける。

 そこにあったのは、この世のものとは思えない世界だった。

 冬にしても一段と低い雲が不自然な形で蠢いて暗く空を閉ざし。大地にはまるで孵化したばかりの蟻が犇いているような、これまた黒い絨毯。

 その模様が、よくよく見れば大小様々な魔物の群れで。それらが元の大地を覆い隠して居場所を競い合うように遠くまで続いているといえば、大体の景色は掴めるだろうか。


「あれ全部魔物か?」

「あぁ。まだ完全に復活してないからその余波だがな」

「全盛期は一体どんな地獄絵図だったんだよ……」


 わたしが契約を交わす相手。ミノさんと同じ世界から転生してやってきたショウさんが、呆れを通り越したような声で呟く。

 彼の言い分も理解出来る。それくらいに途方もない数の魔物が大地を占拠し、進む方向もばらばらに好き勝手動き回っているのだ。見ているだけで気分が悪くなってくる……。

 だが、不思議な事にその軍勢も未だこの地を離れていく様子はない。その事に気になって尋ねる。


「殆ど場所を移動してませんけれど、ここに何かあるんですか?」

「あるのは二つ。一つは封印された《波旬皇》。そしてもう一つが、それを覆う巨大な結界だ」

「結界……なるほど、それでですか…………」


 答えてくれたガハムレト……ペリノアさんの言葉に納得を導き出す。

 どうやらここまで一所に留まっているのは、結界に阻まれているかららしい。


「元々は漏れ出した魔力が形を持って魔物となり、外へ出て行こうとするのを感知する為の代物だよ。何処から抜けているのかが分かれば、戦力の投入も最小限で済むからね」

「ここを守ってたのは国じゃなかったのか?」

「あぁ。だから僕達はそれに紛れて遊撃を行っていたのさ。姿まで一々変えてね」

「ここから出現する魔物は無尽蔵とも言うべき《波旬皇》の魔力から生まれています。その数はコーズミマ全土の魔物のおおよそ四割を占めるほどですから。その数を討ち漏らす訳には行かないのです」

「いざって時に協力する相手がいなくなるものね」


 エレインさんの言葉にメローラさんが答える。

 《甦君門》……《共魔》の目的は単純で、過去|《魔祓軍》として成し得なかった《波旬皇》の討滅。その為には当然、《波旬皇》を討つだけの切り札と、その切り札を十全に使えるだけのお膳立てが必要だ。

 その舞台を作るのは、物量には物量をの考えからなる、四つの国の戦力。

 彼らは、国を、世界を抱き込んで今一度悲願を為そうと計画を立ててきたのだ。

 各国に《共魔》を潜り込ませていたのは、そういうことなのだろう。

 ……わたし達のしてきた事は、彼らの願いを、世界の願いを踏み(にじ)ってきたのだ。そのつもりは無かったけれど、結果的に同じ事。

 もし……もしもっと早くに彼らの事を知っていれば、こうなる前に手が打てたのかもしれない。


「んで? あれは薙ぎ払ってもいいわけ?」

「あぁ。これ以上は結界でも抑えきれないからな。今更少し復活が早まったところで誤差。少しでも数を減らして時間を稼ぐのが我々の課題だ」

「元凶を潰せるのがミノとカレンだけって事は、それまでの耐久戦って事だろ? 気の遠い話だな」

「それでも、やる。でないと世界が消える」

「はい」


 深呼吸一つ。それから右目の眼帯を外し、ベリル連邦で手に入れた魔具を腰から抜く。

 隣ではショウさんが指輪から魔具を取り出していた。その手には、見覚えのある槍。あれは、まだミノさんと和解する前に振るった事のある、雷の槍だ。


「お、結構いいものが出たな。これならそれなりに戦えそうだ」

「ふむ。雷を操る槍か。強力な魔具だな」

「見ただけで分かるのか?」

「そういう力を持っているからな」

「……そういえばイヴァンの能力はよく知らないな。確か、《皆逆》……とか言ったか」


 確かにショウさんの言う通り彼の力は未知数だ。

 前にカレンさんの刃……想像を結実させる概念攻撃をただの剣で受け止めていた。あの時は硬化の魔術で想像を上回っているだけかと思ったが、どうやら違うようだ。


「そういえば言ってなかったな。私の力、《皆逆》は、相手の力の対になる能力だ」

「……どういうことだ?」

「その雷の槍。確かに破格の力を持つ魔具だ。だが、その力の殆どは雷に由来するだろう? わたしはその槍と相対した時、雷を無効化する術を得るのだよ」

「相手に合わせた対抗策を振るえるってことですか?」

「あぁ。だがその場その場で使える力は違う上に、場合によっては攻撃に転用できない事もある。それに一度に相手取れる能力は一つだけと言う制限付きだ」


 敵に合わせた対抗策を得る力。全ての障碍となる力。だから《皆逆》……皆の逆。

 ベリルで準備している間にミノさんに教えてもらって覚えたが、どうやら本当に誡銘や誡名には意味があるようだ。

 前にミノさんが言っていた、名は体を表す、と言う奴だろう。

 ショウさんが自分の指に嵌った環を見て告げる。


「オレのこの魔具と似てるな。こっちは完全ランダムだが、イヴァンのそれも状況に左右される。使い辛そうだな」

「だが、上手くすれば敵の戦力を完全に潰す事が出来る。《珂恋》の刃を止めたのもこの力のお陰だ」

「因みに、カレンさん相手だとどんな能力なんですか?」

「名前は特にないが、強化や硬化の最上級だな。願う分だけ武器に不壊の加護を授ける。《珂恋》の想像で斬る力と対になる、想像で破壊を否定する力だ」

「……その場合どっちが勝つんだ?」

「より理想が高く真に迫っている方が優勢になる。あの時は、私が《珂恋》の力を知っていたから……そして彼と彼女が存分に力を発揮できていなかったから、私の不壊が勝っただけだ。今同じようにやり合えば、きっと紙でも裂くように斬られるだろう。私には、概念を覆し塗り替えるという実感がよく分からないからな」


 それが普通ではないだろうか。そして、だからこそカレンさんがこれ以上なく特別なのだ。

 それこそ、《波旬皇》に届き得る一振りとして……。


「簡単に言えば、《皆逆》ってのはあの魔剣ちゃんとは別の意味で魔の天敵って事だな。何せ一対一の状況下なら、イヴァンに勝てる能力はそうありはしないんだから」

「あって貰っては困る。でなければ過去|《魔祓軍》に選ばれた理由に傷がついてしまうだろう?」

「こんな感じに結構自信過剰だからな。取り扱いは気をつけてやってくれ」

「メドラウド」


 これから魔物の軍勢に突っ込もうというのに、軽やかで賑やかに笑うメドラウドさん。彼はどうやら《共魔》の……《魔祓軍》のムードメーカーのようなお調子者らしい。

 お陰で少しだけ緊張もほぐれた。これならどうにか戦えそうだ。


「そろそろ限界近いぞ」

「よし。なら文字通り掃討と行くとするか。エレイン」

「任せてください」


 言うが早いか、エレインさんが魔力を爆発させて辺りに散らす。

 その光景を魔瞳で見て、彼女が何をしようとしているのか気がついた。


「抑えてくれるんですね。助かります」

「そうしないと無尽蔵に沸いてくるからな」


 エレインさんの誡銘、《霧伏》。その力の本質は魔力の流れに干渉するというもの。彼女はそれを最大限行使して、これ以上魔物が生まれて増えるのを抑え込もうとしているのだ。

 空間丸ごとを支配下に置くだなんて……規格外にもほどがある。


「幾ら破格の力を持っていてもそれを行使する為に必要な魔力は有限だ。できるだけ早く片付けて、彼の道を作っておくとしよう」

「えぇ! さぁ、暴れるわよっ!」


 メローラさんの掛け声を合図に、一斉に魔物の軍勢へと飛び込んでいく。

 《波旬皇》へ向けての足掛けが、始まった。




              *   *   *




 閉じていた意識が開いていく。いつの間にか(つむ)っていた目を開ければ、そこには荒れ果てた世界が広がっていた。

 懐かしい。不意にそんな感慨が胸を過ぎる。

 …………あぁ、そうだ。あたしはこの景色を知っている。……ううん違う。あたしこそが、この景色を作り出したのだ。

 こんな事、望んでなどいなかったのに……。

 空虚な喪失感が体に穴でも開いたかのように去来していく。

 そこでようやく、自分が一人である事に気がついた。


「……あれ。ミノ……? カレン……?」


 名前を呼んでみるが、返事はない。直ぐに首の後ろに刻まれた繋がりを意識して手繰る。


『ミノ……。ミノ……!』


 だがしかし、それでも返る声はない。

 誰も、いない。あたし以外には、誰も……。

 …………いや、実は何となく気付いていた。だって体の感覚は不自然に曖昧だし、足下を見下ろせば地面からは浮いているし。そもそも服だって────


「っ……!」


 意識して、それから脳裏に衣服を思い描けば、次の瞬間旅の道中でよく着ていた私服が何処からともなく現れあたしの体を包んだ。

 今のは……あたしが望んだから?

 直感的な出来事に手を伸ばす。すると今度は景色が変わった。

 望んだのは状況把握。結果目の前に映し出されたのは、どこか現実感の薄い光景だった。

 まるで天井に張り付いて俯瞰しているように。白い部屋の様子がぼんやりと浮かび上がる。そこにいたのは──


「ミノっ、カレンっ、シビュラっ!」


 思わず声に出して名前を呼ぶ。あたしの大切な契約者。あたしの過去を知る友達。あたしの対極のような少女。

 けれども声が届いていないのか、彼らがこちらを向く気配はない。


「あ……」


 と、そこでもう一つおかしな物を見た。……いや、見えていたけど目を背けたかった事実をどうにか認めた。


「あたし…………」


 そこにいたのは寝具に横たわったあたしの姿。

 次いで、脳裏に抜け落ちていたこれまでの事が凄まじい勢いで蘇る。

 …………そうだ。あたしは、あの魔力の波動に巻き込まれて……まるで辻斬りでもされるかのように、誰かに意識を体から剥がされたのだ。

 あの感覚……どこか懐かしい…………。あれは一体……。


「思い出した?」

「え……?」


 気付けば部屋の景色は消えていた。

 そこは、見覚えのある場所。知らないはずの、知っている場所……。

 ルチル山脈。その、地下坑道を抜けた先。

 どうして知っているのか。その答えに辿り着く前に、耳が聞き覚えのある声を捉えた。

 振り返ってそこにいたのは────


「あた、し…………?」

「そう。あたしはあたし。貴女が自ら封印した、本来のあたし」

「本来の…………っ!」


 自分の顔。自分の声。

 何処をどう見ても間違えようのない己の姿に、次いで脳裏に知らない景色が、声が巡る。

 なに、これ……。こんな会話、知らない。こんなあたし、知らない……!


「なんだ。そう言う覚悟かと思ったのに。違ったんだ」

「覚、悟……?」

「犠牲の覚悟。世界を……今ある美しさを壊す覚悟」


 《絶佳(ゼッカ)》。その()が思考を掠める。

 彼に教えてもらった。絶なる佳。佳なるものを絶つ。それは、形ある物を壊すという意味だと。


「あたしは……あたしたちはその為に生まれたの」

「何の、話……っ!」


 疼く。頭の奥が、熱を持つ。

 まるで衝動に突き動かされるように。足下がぐらぐらと揺れているような感覚に(おちい)る。


「ね、教えて? 貴女はこの世界をどう思う?」

「世界……」

「彼の事を、どう思う?」

「……ミ、ノ……」


 名を呼ぶ。呼応するように胸の奥が高鳴って。届かない繋がりが熱を持って。

 そうして────


「好き、だよ……。世界も。ミノも。失いたくなんてない。壊したくなんてない!」

「だから魔術が嫌いなの?」

「違うっ」


 魔術は、あたしの。あたしは、魔術で────え?


「ぁ…………」


 何かが、すとんと胸の奥に嵌る。欠けていた最後の欠片が、最初からそこにあった事を思い出したように。

 いつしか、直ぐ目の前に彼女の……自分の顔があった。口元が、にやりと(わら)う。


「そう。貴女は世界を愛してなんかいない。だって貴女は世界を壊すもの…………《絶佳》なんだから」


 くすくすと耳元で笑い声が響く。足の力が抜け、体を支えられなくなりその場へ膝を折った。

 俯いて、呟く。


「あたしは」


 この世界を…………。


「おかえり」


 不意に、声が聞こえた。男の声だ。

 安堵さえ覚えるその響きに、警戒も忘れて顔を上げる。

 そこには、寂しそうに微笑む、金色の髪を撫で付けた一人の男がこちらに手を差し伸べていた。


「アーサー…………」


 あたしは、彼を────




              *   *   *




「カレン。準備はいいな?」

「うん!」


 話を聞き終えて、決意と共に腰を上げる。

 なんてことはない。やるべき事は簡単だ。最初から、何も変わってなどいない。


「チカのことを頼んだ」

「えぇ。だからお願いね。彼女を、絶対に連れて戻ってきて」

「あぁ」


 チカの体をマリスに任せ、目の前の二人に向き直る。


「シビュラ」

「……?」

「お前にとっては酷な相手だな」


 これから俺達が刃を向けるのは、彼女の対極に位置する存在。世界に根を張った、概念。


「だからこそ、お前の力が必要だ。お前の中の願い、叶えてやらないとな」

「うん」


 頷くシビュラ。相変わらず感情の起伏が皆無といっていい受け答えだが、その言葉の奥には確かな意志を覚える。

 ならばそれを果たしてやる事こそが、彼女に()われた俺の責務。

 シビュラに、彼女が求めた自由の意味を、教えてやらなければ。


「カレン」

「何?」

「前に言ってたな。俺の正義になるって」


 ────今度は私達に、ミノを助けさせてよ


「うん」

「だがそれだけじゃ不十分だ。だからカレン、お前は夢を背負え。全員の、願いを背負え」

「大丈夫だよ」


 自信に溢れて笑顔を浮かべる。そこに偽りがない事を、もう疑う必要はない。


「だって私、《珂恋》だから」


 誇りを。決意を持って。

 ようやく彼女は、自分を認める。


「だからお願い。ミノの願いを聞かせて?」


 馬鹿な事を。そんなの、最初から一つも変わっちゃいない。


「俺は俺の自由を振りかざす。それだけだ」

「うんっ!!」


 これ以上無く破顔して、それから彼女が手を伸ばした。


「行こう、ミノっ!」


 手を、重ねる。

 それはまるで、約束を、出会いを、別れを果たすように。

 気持ちを、重ねるように────




 大地に降り立つ。途端、直ぐ傍で膨れ上がった殺意が、空気を焼くような轟音と光で塗り潰された。


「おせぇぞ、ミノっ!」

「悪い、待たせた」

「準備は?」

「問題ない」

「よしきたっ!」


 短く言葉を交わせば、槍を持った俺の過去が口端を持ち上げた。


「カイウスが来れば契約が無くても契言みたいなので連携できるって聞いてたからな」

「そうなのか?」

「ぼくの《慮握》は思考の傍受です。応用すれば距離の離れた他者と意思疎通を行う事も、それを介する事もできます」

「なるほどな」


 セレスタインで彼と戦った時、まるで考えを読まれたような会話をした事を思い出す。あれは彼の能力だったらしい。

 思考が読めるということは、次の動きが読めるということ。後の先を取って対処する、その技量があれば相手の出鼻を(くじ)く事も容易いという事だ。

 あの時チカの魔力弾の嵐を(ことごと)く無力化していたのもその応用。チカが次々に編纂(へんさん)し、組み替える魔術の命令式を思考から読み取って対処していたのだ。

 もしあれがもっと複雑で大規模な魔術だったら彼の力では対処できなかったかもしれない。が、チカが使っていたあの魔力弾の嵐は、その単一で考えればとてもシンプルな魔力の弾。それ故にどうにか対処も出来たのだろう。


「ってなわけで頼む。このままタイミングを合わせて一斉攻撃で道を(ひら)く。ミノはそこを突っ切って《波旬皇》のところへ行ってくれ。こっちももうしばらくで片付く。そしたら直ぐに合流する」

「あぁ。…………任せた」

「おう!」


 一度は決別しようとした己の過去。そんな彼に背中を預けるというシチュエーションにむず痒さを覚えながら、それ以上の信頼を抱く。

 実の所、手を取りはしたがイヴァンたちの事を完全に信用し切れてるとは言えない。もしかしたら彼らの語ることが嘘で、《珂恋》の力を悪用する為に耳障りのいい言い訳を並べているかもしれないと、まだ心の何処かで疑っているのだ。

 言葉である以上、それを疑えば嘘も真実も曖昧になってしまう。

 だからこそ俺はこれまで、誰かを信じるという事を(かたく)なに避けてきた。

 信じて裏切られるなら、最初から信じなければいい。必要であればこちらから裏切ればいい。そう考えて、ここまでやってきた。

 けれども言葉以上の記憶が…………過去が、それさえも越えた理由のない確信を一つだけ抱かせる。

 ショウは……彼だけは違う。魔術の契約もなければ、過去の一方的な事実もあるのに。それでもそう思ってしまう。

 ショウならば、信頼出来ると。

 …………あぁ、いや、違うか。

 ショウにならば、殺される未来が想像出来ると。

 だから背中を預けられるのだ。

 裏切りたければ裏切れ。その可能性が、お前の中には眠っている。だから背中を向ける。預ける。

 裏切られても、文句はないと。それがショウの全てだったと、認められるから。

 歪んでいるだろう。ふざけているだろう。

 けれど、そういうものなのだ。

 絶対に嘘を吐く……嘘しか吐けない少年は、何処まで行っても正直者。そう言う事だ。


「じゃ、行くぜ…………!」


 だからショウは、俺を殺さない。そう信じられるのだ。

 手に持った槍を後ろに引き、顔の横に構える。半身を引き、これから槍投げをするかのように真っ直ぐ前を見据えたショウが、それから魔力を思い切り(たぎ)らせ、握る魔具に込めた。

 途端、青白い閃光をバチバチと爆ぜさせ、槍が高密度のエネルギーを纏い始める。

 雷の槍。彼と出会って最初に見た魔具も、そういえばそれだったと思い返しながら。隣の呼吸に合わせ、己のタイミングを整える。

 刹那────


霹靂の鏑槍(ショーダウン)ッ!」


 臨界まで達した稲光が、大地と並行に魔物の軍勢の中を一騎掛けした。

 投擲を終えたポーズのまま、一瞬の空白。次の瞬間、軌跡を追い駆けるように眩いばかりの雷が大地を揺るがす轟音と共に視界を染め上げ、黒々とした群れを瞬く間に呑み込んだ。

 しばらくして閉じていた目を開ければ、そこには放射状に焼け焦げた大地と、そこに開いた一本の道。

 魔具の性能限界まで行使するショウの力、《諸悟(ショゴ)》によって描き出された、一度限りの殲滅の理想。

 空気が焼けるにおいを微かに感じながら、飛び出す前に尋ねる。


「なんだよ、それ」

「格好いいだろ?」


 認めるのが(しゃく)で鼻で笑ってやれば、彼は魔力の大量放出で立っていられなくなったか、その場に尻餅を突いて叫んだ。


「行けぇっ、ミノっ!!」


 その声を合図に、最大限強化した脚力で大地を蹴る。

 凄まじい勢いで景色が背後に流れていく。ジェットエンジンのような風の音が耳元で鳴り響く中、唐突に脳裏に声が響いた。


『援護する! そのまま突っ切れ!』


 最早疑う余裕も無く、盲目に真実と理想だけを信じて駆ける。

 開いた穴を塞ぐように、魔物が左右から迫り来る。(さなが)ら蠢く壁のようだと思いながら、しかし不思議と恐怖は無かった。

 殺到する悪意が疾駆する俺に群がり触れる────その寸前。殺到した獣の前肢のような魔力の塊が、まるでマリオネットのように不自然に動き、隣にいた別の魔物を攻撃したのが見えた。

 魔物の支配、メドラウドの《志率》の能力。それが肉薄していた魔物達を次々に操り、同士討ちさせていく。

 支配できる魔物の数や脅威度に制限はあるだろうが、彼のお陰で有象無象は瞬く間に俺に近付く事を阻害されていく。

 その気になれば魔を宿す人間さえも操れるのではないかと脳裏を過ぎりながら更に一歩。

 すると今度はメドラウドが簡単には御しきれない高位の魔物が数体行く手を阻むように立ち塞がり、迎撃体制に入ったのが見えた。

 が、それに抗する術は準備せず、愚直に突進する。

 もう数歩でその攻撃が届く距離……そこまで近付いた所で、不意に俺の体を魔力の流れが取り囲んだ。

 何が、と考えたのも束の間、次の一歩で魔物の攻撃が届く範囲内に踏み込む。……がしかし、魔物達が構えた攻撃を一向に放ってくる様子はない。そこで気付いた。

 存在の透明化、ラグネルの《匣飾》の能力。俺自身の認識を魔物から逸らす事で、敵が攻撃対象の姿を見失ったのだ。

 高位として知能がある故に通じる姑息な手段。だが、その一瞬の隙に魔物の背後まで駆け抜け、更に先を目指す。

 ラグネルとは距離が離れている所為か、透明化は一瞬。再び姿を現した俺に気付き、魔物達が巨体を捻る。

 しかしその魔物達が俺を捕らえるより早く、巨体を揺らす一撃が横殴りに襲った。

 微かに見えたのはトリスとペリノアの姿。刹那、彼らが捕らえた魔物が崩壊と封印によって無力化される。

 魔力の変質、トリスの《識錯》の能力。元|《魔祓軍》である事がばれないようにと、その身の魔力の波長を変化させていたその応用で、魔物の体その物を構成する魔力に干渉し、内側からの崩壊を引き起こし。

 魔力の封印、ペリノアの《緘咒》の能力。そもそも魔物自体を封印し、身動きを取れなくするシンプルにして強力無比な干渉。

 その二人のお陰で憂いなく前を向くことが出来るのだと。

 そうして洞窟の入り口のようなものが見え始めた所で、その行く末を阻むようなうねりが視界を覆い隠した。

 入り口付近に再集結した魔物の軍勢。それらが互いに寄り合って、天さえも穿ち破らんとばかりな見上げる巨体を作り出した。

 恐らくメドラウドの《志率》に似た力を持つ魔物が、大地を埋め尽くすほどに集まった魔物達を束ねて一つとしたのだろう。

 あれは最早高位と言う枠組にすら収まらない……災害の如き魔の塊だ。

 もしシビュラが暴走すれば、あれと同じような魔物が出現するのかも知れないと頭の片隅で考えながら。それでも腰のカレンには手を触れず、愚直に大地を蹴った。

 次いで目の前には、何処からともなく現れた白髪に翡翠を嵌めた無為に顔立ちの整った男が一人。

 その彼と、視線を交わらせ、覚悟を決める。

 魔物の咆哮が地震のように空気を揺らす。だがそれに怯む事無くただただ疾駆すれば、彼が……イヴァンが片手をこちらへ。もう片手を背後の魔物へと向けた。


「行け、ミノ・リレッドノー」


 次の瞬間、イヴァンが広げていた掌を握る。すると俺の体が一瞬の浮遊感に包まれ、再び着地した。

 そのときには既に、目の前には先程の魔の塊が存在していなかった。

 遅れて響いたのは、背後からの音と振動。

 カイウスに聞いた彼の力。能力への叛逆、イヴァンの《皆逆》。概念を覆すその力は、彼の認識全てに作用する。結果、俺とあの魔物の位置を空間ごと入れ替えると言う妙技さえ可能にするのだ。

 背後の巨体を彼に任せ、洞窟の中へと飛び込む。するとそこは世界の口のような底の見えない縦穴で、その中を自由落下で降りていく。

 空気が冷たく、重くなっていく。それが得体の知れない怪物の(ふところ)なのだと気付いた次の瞬間、体が唐突な浮遊感に包まれて、まるで羽でも生えているかのようにゆっくりと足の裏が地面を捉えた。

 シビュラの魔術に感謝をしつつ、暗闇に目を凝らす。

 と、俺の立つ空間がぼんやりとあちらこちらから淡く発光をはじめ、やがてその青白い光が辺りをライトアップしてそこに鎮座する物を浮かび上がらせた。


「これが、《波旬皇》の封印か」


 そこにあったのは。……否、いたのは、一人の男だった。

 よくよく見れば辺りを照らしているのは苔のようなもの。一体何に反応しているのか、俺がここに降り立ったことで発光し始めたらしい。

 そんな淡い光を受けて反射するのは、見る角度によって虹色に煌めく六角水晶。その中心に、まるでコールドスリープでもするかのように、金髪の男が安置されていた。


「《波旬皇》って、人なの……? 魔物の王様って言うから、てっきり凄い形相をした魔物なのかと思ってた」

「……………………」

「ミノ?」

「いや、なんでもない」


 一瞬、過ぎった想像を振り払う。

 今考えても仕方ない。封印を解き、チカを開放する。先ずはそれからだ。


「行くぞ、《珂恋》」

「……うん!」


 ようやく彼女に手を掛ける。胸の奥の魔力を引き絞りながら、すらりと鞘から引き抜いた。

 淡い光に照らされて漆黒の刀身と紅の()の目模様が妖しく輝く。柄頭に嵌った白瑪瑙(めのう)が小さく光を反射した。

 どこか幻想的な空間に映える彼女を綺麗だと思いながら、祈りを剣に捧げる。

 仄かな紅の魔力が徐々に刀身を覆い、これまで何度か見たように信念を灯した。


「シビュラ、何かあったら頼む」

「ん」


 首許からの声に後の事を任せ、目の前に全てを捧げた。

 視界には綺麗な水晶。その中心にいる金髪の男と、目に見えない契約を辿って夢を手繰り寄せる。

 気付けば振り下ろしていた一閃。音のない刃が、概念を斬る。


「み、つけたぁっ!!」


 まるで釣りでもするかのように《珂恋》を振るえば、舞った軌跡に紅の尾。そしてその先端に、琥珀色に揺らめく小さな灯火を見つけて、手の中に掬い上げた。


『駄目っ! 今すぐ逃げてっ!!』

「っ────」


 脳裏に響いたチカの声。たった少ししか離れていなかったはずなのに懐かしく感じるその響きに、しかし浸る暇は須臾(すゆ)さえなく。

 彼女の声と肌を撫でた圧倒的な奔流に構えた。刹那────

 ガラスが割れるような小さな破砕音の後、感覚全てが噴き出した世界の流れに呑み込まれて、瞬く間に自分と言う物を見失った。

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