第五章
「真っ直ぐっ!」
チカの声に導かれて通りを駆ける。
アルマンディン城で起きた騒動は、その剣戟の音や魔剣の能力の所為で城下町の知れ渡る所となっていた。
城内での戦いが落ち着いたお陰か、町中の雰囲気も緊張感こそ巡っているが命の危機を感じるほどではない。
殆どの者が城の方を気にしながら、野次馬根性で何が起こっているのかを知ろうと足を出す。
そんな雑踏の中を、逆走するようにしてすり抜け、後ろ腰の魔剣の声に耳を傾ける。
「次の角を右っ。そのまま真っ直ぐだよっ」
魔術での追跡。一度捉えた魔力を辿って逃げた《共魔》を追い駆ける。
宮中に潜んでいた《甦君門》の手先。結局事ここに至っても誰が《共魔》だったのかまでは見当が付いていない。城内で一悶着あった際も、その顔に見覚えはなかった。恐らく名のある誰かの振りをしていたのだろう。
今回に限って言えば、本当に後手の連続だった。敵がいる事は何となく分かっているのに、その所在が掴めない。尻尾が見えたかと思えば、既にそれは自切された後の切れ端で。オセウスと反攻の矢を番えかけた直後に事を起こされ、その具体的な対処まで何もかもが刹那に迫られてばかりだった。
総合して考えれば、ノーラの護衛と言う俺の任務は失敗と言う結果が似つかわしいのだろう。《渡聖者》としてほぼ初めての大きな仕事がこれでは先が思いやられると……。驕っていたとは思っていないが、改めて己の無力さを噛み締めた。
俺が手にしている力は、全て契約と言う借り物。何の因果か三つも結んだ繋がりだが、それは元々俺が持っていなかった力だ。ただ偶然の連続で、唯一無二を手に入れただけ。ただの外付けで、鍍金の鞘だ。
こんな俺に何かが出来るなんて、自分にすら期待していないが。それでもやはり、どうにかしようと思索を巡らせて行動に移して、それがこの様と言うのは中々に受け入れ難い話。
だからこそ、折角得たチャンス……ここで最低限は取り返さなければ本当に存在価値を見失ってしまう。
俺はまだ、この世界で二度目を歩き出したばかりなのだ。こんなことでようやく見つけた自由を捨てられるかっ。
「止まってっ!」
いつの間にかたどり着いていたのは海岸線。コーズミマの大地における、東の果てのどこか。
目の前でさざめく潮騒を眺めながら辺りを見渡して呼吸を整える。人の姿へと戻ったチカが掌の上に魔術を展開して、くやしそうに顔を顰めて握り潰した。
「……痕跡がこの辺りで消えてる」
「何か手掛かりを探さないとな」
とは言ってもここは沿岸部。人が住む場所と言うよりは、港と形容した方が近い区域だ。まだ陽の昇りきらない朝ならば賑わっているのだろうが、昼も回ったこの時間帯では人の姿は見えない。
しかし、ならば何か目立つ物があるのではと防波堤に登って遠くまで見渡す。するとぽつんと一つ人影を見つけた。
近付けば、その人物が老爺である事に気付く。
「少しいいか?」
「ん、なんだ? 客か?」
「この辺りに男が来なかったか?」
「男ねぇ……」
せめて逃げた方角でも分かればいいのだが。そう思い尋ねるが、やり取りの声から色よい返事は期待できそうにない。
と、隣から緊張感の欠片もない能天気な声が挙がった。
「お爺さんはここで何してるの?」
「わしは船渡しをしておるのだよ」
「船渡し?」
「ほれ、沖に群島が見えるじゃろう?」
「……あれって確か…………」
「《眠慰島》」
カレンが思い出すより先にシビュラが淡々と告げる。彼女の言う通り、海原の上にはあちこちに島が点在する島嶼地帯……ここアルマンディン王国が管理する共同墓地、《眠慰島》が見えた。
昔は罪人の流刑地として使われていたらしいが、今では潮騒の音で魂を安らかに眠らせる海上の墓標だ。
「…………あぁ、そうだ」
「どうかしたの?」
「いや、わしの所には来なかったんじゃがな、向こうの桟橋から一艘船が出ていくのを見たぞ?」
「行き先は?」
「行き先も何も、ここは《眠慰島》がそこかしこにある所為で海流が複雑に入り乱れておる。小船ではあれを抜けて外に出ることなど出来んよ」
情報に確証はない。が、確認をすれば真実は確かめられる。何より、他に手掛かりはない。
「その小船は《眠慰島》に向かったって事でいいんだな? ……なぁ、悪いが船を出してくれるか?」
「なんだ? その船の客人の連れか何かか?」
「それが仕事に必要か?」
「……老い先短い冗談にさえ付き合ってくれぬか。行き急いで何になる」
そう零しつつ、しかし船は出してくれるのか、桟橋を渡って係留された一隻の小船の下へ。
「ほれ、乗れ」
「これで足りるか?」
「……若いくせに物分りはいいようだな」
この際代金がどうとかはなしだ。無駄に払ったならそれだけ働いてもらえばいい。
「あんたが見たって言う小船を追ってくれ」
「追わずとも辿り着くよ。複雑だが、海流は決まっている。この時間帯なら一本道よ」
「ならできるだけ急いでくれ」
「老骨を虐げて楽しいか、小僧」
減らず口を叩く船頭だ。今日は色々と運が悪いらしい。
せめて水難にだけは遭わないようにと気を付けつつ、漕ぎ出した小船で少し落ち着く。
『けど、どうしてあの島なんだろうね?』
脳裏に響く疑問はカレンの声。それを考えるには十分な休息だ。
「なぁ爺さん。あの島には墓以外何かあるのか?」
「人なんぞ住んでおらんよ。ただ共同墓地になる前に建てられた建造物なら廃墟のように残ってるがな」
『そこに何かあるのかな?』
『いっそのこと《甦君門》の拠点でもあれば分かり易いんだが……』
これだけ面倒な相手がそんな分かり易い所に隠れ家を置くとは思えないが。しかし、そうなると確かに理由が見つからない。
『……痕跡が捕まらない。もう流れちゃったかも』
『遮るものなんてないからな』
チカの追跡技術を持ってしても海の上となると形無しらしい。
ノーラの話では海上には魔物が生まれるほどの魔力溜まりが存在しない。それは地上のように物が溢れ魔力の流れに規則性が生まれないからだ。
考えるに、空間を切り取って考えれば通常魔力は一定値を示す。それが地形などによって淀む事で魔物が生まれるような吹き溜まりが出来上がるのだ。
海原には当然それが出来るだけの障害物が存在しない。つまりは魔力があちらこちらに飛散している。
そんな状況で魔力の痕跡を探そうと言うのは至難の業で、そもそも魔力の密度が低いから通常の魔術も地上ほど効果を発揮できない。
直ぐに散り散りになってしまう魔力と、それを追い駆けるだけの力を行使できない魔術。海の上と言うのは、魔にとって不都合ばかりの環境のようだ。
『一応訊くが、海に出て気分が悪くなったりはしてないか?』
『契約があるから大丈夫だよ。ミノがここに繋ぎとめてくれてる』
『そうかい』
魔力が薄い場所と言う事は、魔物は当然魔剣にも居心地の悪い場所。だから気になったのだが、その分は契約を介して補われているらしい。
逆に考えれば、一つの光明が見える。
『つまり契約をせず自力で魔術を使う《共魔》にとっては不利な状況って事だ。契約でいつも通り戦えるこっちにとっては好条件だな』
『畢竟、余計に《眠慰島》へ行く理由が分からない』
シビュラが考えの先を代弁する。……どうでもいいが、畢竟なんて難しい言葉良く知ってたな。元になった日記のどこかに書いてあったのだろうか?
因みに畢竟とは、『つまり』や『結局』と言う意味だ。
『やっぱり何かあるのかな……?』
『警戒だけはしとけよ』
『うん』
ただ単に俺を誘き寄せるだけだと言うなら、武器を投げ捨てた敵の懐に飛び込んでいるだけの哀れな構図。どう転んでも不安要素しかない。
だが、今更《甦君門》の誘いに頷く理由はない。敵が自ら戦闘を拒否してくれると言うならば、そのまま捕まえて洗い浚い吐かせるだけだ。
しばらくして辿り着いた《眠慰島》の一つ。その島の、ただ桟橋が突き出ただけのそこへ船を寄せ、揺れる感覚を振り払うようにしながら船を下りる。
海の上の島と言う事もあって吹き付ける風は強い。この辺りは雪が降らないのか、それとも溶けたのか。足下は冬らしい土気色を広げていた。
足跡でも分かればもっとよかったんだが。
そんな事を考えた直後、脳裏にカレンの上手く言葉にならないような声が響く。
『ミノ、船が……』
「あ……?」
振り返ってみる。が、そこには俺達が乗ってきた船が一隻、係留されて波に揺れているだけ。
別に船頭に騙されて取り残されたわけでも…………。そう安堵しかけたところで、気付いた。
船が────一隻?
『後ろ』
「っ……!?」
短いシビュラの声に、気付いた時には既にカレンを抜いて振るっていた。
遅れて背後から膨れ上がった気配。振り返り様の一閃が、こちらに向かって振り下ろされていた刃を交わり、そして両断する。
微かな金属音を立てて宙を舞った両刃の刃先。それが直ぐ傍の海へ落ちるのと同時、間欠泉のように大きな飛沫を吹き上げて辺りに局所的な海水の雨を降らせた。
だがそんな事にかかずらっている場合ではないと、構え直しその敵を睨む。
目の前にいるのは、中ほどから切られた剣をつまらなさそうに見つめて、それから放り投げた……老人。彼は、先ほどまで船を漕いでいた船頭だ。
「残念。不意打ちは失敗か」
既にそこには先ほどまでの意地悪な老爺は居ない。見た目の年齢に不釣合いなほどにきっちりと背筋を伸ばし、その瞳に強い光を灯らせる何かがそこにいた。
「……もう少し早くに気付くべきだったな。《共魔》がここに来てるなら、船が二隻ないとおかしいからな」
『あんなに近くにいても気付かないなんて……』
「そういう魔術だからな」
『っ……!』
まるで契言を読まれたような錯覚に────いや。
「魔力を隠して、思考を読み、姿を変える。それが《共魔》としての力か?」
「中途半端な正解だ。それらはおれの能力じゃない」
どこか楽しむように答える男。
俺が口にしたそれは、これまで《共魔》と関わってきて知った、彼らが垣間見せた能力だ。
メドラウドも、カイウスも、ラグネルも。いざ戦闘となった時以外はその存在感を魔力ごと隠していた。そんな芸当、普通の魔物には出来ない。もちろん魔剣と契約する人間もだ。可能なのは、魔術でそれを行っている場合だ。
更に、カイウスと対峙した時にも今と似たことがあった。彼もまた、どこかで俺の思考や契言を見透かしたような言動をしていた。
そして目の前の男。こいつは城を飛び出したときと、そして今の船頭とで、全くの別人に成り変わっている。これもきっと《共魔》が有する力の一旦。
もう一つ加えるとすれば、メドラウドは魔に関する物を操る力を持っていた。
それらの情報と、そして今し方語られた彼の言葉を総合して考える。すると見えてくる可能性は一つ────
「……《共魔》は一人一つ、何かしらの特別な力が使える。そして《共魔》同士は、それを共有できる」
「おや、すごいな。全くの正解だっ」
老人顔のまま、大げさなリアクションで手を打つ男。
しかしからくりが分からない。どうやって互いの力を共有している? 根の部分で契約のように繋がっているのか?
「残念。それは的外れな推論だ。正解はもっと単純な仕組みさっ」
当然のように思考を傍受してそれに答えた男。次いで彼は腕を振り、魔力の風を引き起こす。
咄嗟に腕で庇えば、直ぐに収まった暴風の向こう側に歳若い…………見覚えのある顔をした男が立っていた。
「う、そ…………」
「……宿の支配人までお前か」
「いやぁ、あの結界は厄介だったね。どうにかして孤立した所を確保しようとしたんだが、解除しようにも術式が複雑すぎてすぐにおれの存在がバレてしまう。流石は我等がお姫様謹製の術式だ!」
滔々と何かに酔うように語る、宿屋の店主の顔をした男。
こちらの動向を全て知っていたのは最も身近な所に潜んでいたからか。
あと、カレンを囮に結界で網を張ったのはチカの魔術。つまり彼の言うお姫様と言うのはチカのことらしい。
チカは元々《甦君門》にいた。その頃から魔術の才能には秀でていて、先ほど斬り裂いた人工魔剣の制作にも関わっていたらしい。そんな天賦の才でも崇めてお姫様なんて呼んでいたのだろうか……。
「……何の為にここに来た。船の上での会話も筒抜けだったんだろ?」
「もちろんそうさ。あれは半分正解で、半分不正解だな。ここでは全力が出し切れないのは本当だ。だが、《共魔》が他に潜伏していると言うのは間違いだな。ま、証明する手立てなんてどこにもないんだが」
となると僅かに考えていた可能性……。ここに《甦君門》に繋がる何かがあるというそれは…………。
「それも的外れだ。が……一つだけあったな証明方法が」
そう言って男がこちらに掌を差し出す。
「ミノ・リレッドノー。君がおれ達の下へ来てくれれば、全てを話して明かすことが出来る。それが今ここにいる全てだ。そうは思わないか?」
つまるところ、これは俺が追い駆けて来る賭けに彼が勝ったと言うだけの事。ノーラの力を狙ったり国を乗っ取ったりは、あくまで現状副案。《甦君門》の方針としては、カレンやチカと契約を交わす俺の身柄の確保と言うのが第一方針で固まっているようだ。
そこに関してはぶれない言動が、一周回って清らかにさえ見えるが……。やろうとしている事が《波旬皇》の封印解除では清濁の釣り合いが取れていない。
どうでもいいが、きっと俺意外が追い駆けてきた時はその誰かを人質に俺の身柄を手に入れるなり、更に分断して俺の孤立を狙っていたことだろう。あれだけ騒動を起こしておいてまだこれだけの策が見えているあたり、やはり油断ならない相手なのは間違い無い。
「そんなに警戒してくれるなよ。先に理由を話せない事に関しては正直すまないと思っているんだ。それが出来ればもっと簡単に君を勧誘できるだろうからね。だがそれでは、君が一貫しておれ達から情報を引き出そうとしているその魂胆にみすみす乗っかってしまう事になる。例えどれだけこちら側に正しい道理があろうとも、やろうとしている事は世界に弓引く行為にならない。世界はそれを認めないだろうし、《甦君門》は国々と対等にはなりえない。だからこうして君の知るように色々な方法で可能性を模索しているんだ」
正しい道理……彼の言う所の正義が本当かどうかはこの際どうでもいい。問題は唯一つ、彼らはそれが自分たちの目的として一貫し、疑っていない事。
だからこそ俺が鬱陶しいと思うほどにしつこく勧誘してくるし、やり口がどうあれ目的はいつだって明確に一つだけなのだ。
「さぁ、じゃあ一体どうやったらこの溝が埋まると思う?」
「…………まずは名乗ったらどうだ? 交渉ならそうあるべきだろ?」
「おっと、そうだったね。ごめんごめん。間違いは指摘しないと気が済まない性質なんだ。許してくれると助かる」
そうして、男がまた一つ腕を振る。再び吹き荒れた魔力の風。今度は彼自身を隠すように渦巻いたそれがやがて晴れれば、その向こう側から見覚えのない顔の男が姿を現した。
黒色掛かった緑色の長髪を首の後ろで一つに括った、灰色の瞳の男。歳の頃はカイウスやメドラウドとそう変わらない、20代後半から30代前半くらい。長い髪以外に特徴的な何かがあるわけでは無いが、だからこそ輪郭が曖昧に見えて不思議な感覚がする。
まるで存在が世界からずれているような……。これは彼が《共魔》だからだろうか?
「改めて自己紹介だな。《共魔》のトリスだ。よろしく、ミノ・リレッドノー」
「よろしくする理由があると思ってるのか?」
「寂しいな。折角期待に応えて名乗ったのに」
言いつつ、トリスの内側から湧き上がる魔力が滾るように大きくなっていく。直ぐに肌を刺すような威圧感に変われば、カレンを握り直した。
「おや、もしかして交渉はもう終わりかな?」
「どうせ今以上にそっちが明かせることはないんだろ?」
「それはそうなんだが……。ふむ、なら、仕方ないか」
少しだけ悲しそうに零したトリスが何もない中空に両腕を突き出す。するとそこに黒い虚がいきなり開いて、穴に腕を突っ込んだ彼が何かを引っ張り出した。
だらりと下がった腕には、先ほどまでなかった剣が二振り握られていた。
『ミノ、あれ魔剣……ううん、人工魔剣だよ』
「正解っ。これね、結構使い勝手がいいんだ。本物に比べると劣るけど、規格外がいろいろあって面白いんだよ?」
ショートソードが二本。まるでこれから演舞でも行うかのように構えたトリスが、半身ずらしてこちらを見据える。
その傍らで巡る疑念は、先ほど見た黒い虚。人工魔剣を取り出した異空間。あれはもしや…………。
『シビュラ、さっきのあれは』
『シビュラのと似てる。別空間に繋がってる』
シビュラも異空間に、無窮書架の下にいた頃に溜めたガラクタを色々仕舞い込んでいる。全く同じ術式と言うわけでは無いが、トリスも似た様なことが出来るらしい。
そして恐らく、あの空間の先には沢山の人工魔剣が収められているはずだ。
振るわれるまで分からない、使い捨てのそれなりに強力な武器。それを代わる代わる使われるというのは、余り相手にしたくない戦い方だ。
そこまで考えた所でふと、今この瞬間には関係ない過去が蘇る。
「……トリフェインの温泉街で人工魔剣をばら撒いてたのもお前か?」
「トリフェイン? ……あぁ、あれか。いや、直接はおれじゃないよ。ただ空間を繋げて届けたのはおれ。現地で配ったのはもっと別の《甦君門》の構成員だよ」
あれのお陰で温泉街での裕福な休養が台無しになったというのに。彼らにとって見ればあれはきっと実験の一つ。人工魔剣を手にして巻き込まれた馬鹿達の事も気にはしていないのだろう。
それに、一つだけわかったこともある。こいつが先ほど見せた魔術は、空間と空間を繋ぐ力だ。だから────
「お話はもういいかい? ならば次善策として君を捕らえて連れて行くとするよ。これは、君が選んだ決断だ……!」
「っ……!」
『後ろっ!』
啖呵を切るようにして投擲された人工魔剣。飛来したそれを弾けば、チカの声と共に背後に気配が膨れ上がる。
そう。離れた空間を繋げられるならば、それを利用して擬似的な空間移動……テレポーテーションが可能なのだ。
人の体も移動できるのかと言う疑問があったが、それもすぐに現実となって掻き消える。
振り向き様にカレンを振るえば、背後から肩口目掛けて振り下ろされていた人工魔剣を両断した。次いで、一拍空けて人工魔剣が暴走し、斬り裂いた断面から炎の腕が大挙して押し寄せてきた。
突然視界を染めた熱にまだ切り替えが終わっていなかった意識が萎縮する。咄嗟にチカが海水を引っ張ってきて水の壁で防いでくれたお陰で、炎に呑み込まれることだけは避けられた。
「悪い、助かった」
「ううん。それよりも次が来るよ……!」
『左』
両断された剣だけ置いて退避していたトリスが、また別の人工魔剣を手に何もない中空を裂いて現れる。
肌を刺す敵意とシビュラの声に従って左を薙げば、ほぼ空気を割くのと同じくらいの手応えでトリスの持つシミターのようなそれを斬り裂いた。
と、中に継ぎ接ぎして込められていた魔物がまたしても暴走し、今度は氷の礫となって殺到した。
何が起こるかわからなくとも二度目ならばある程度心構えが出来る。そのお陰か、シビュラが魔術で作り出した炎の狼が襲い来る猛威を全て溶かし喰らい、続けて少し離れたところに現れたトリスへ向けて駆け、鋭い牙を突き立てようと跳躍した。
しかしそれを構える様子もなく悠然と見つめたトリス。跳びかかった顎が彼の喉元を狙って襲い掛かる、それとほぼ同時。彼の頭上から飛来した一本の剣が炎の狼を串刺しにして彼の目の前に縫いつけ、霧散させた。空間を開いた先から人工魔剣を一本射出したのだ。
「魔術の多様性は結構。しかしその程度では届かないね。……この様子だと魔篇に期待していたのは間違いだったかな」
シビュラを狙っていた《甦君門》の連中は、彼女の中に眠る魔術で《波旬皇》の封印を解こうと目論んでいた。が、どうやらトリスの見立てではシビュラの魔術でそれを成すのは難しいようだ。
封印解除を行う術式くらいはシビュラも持っているだろう。しかし《波旬皇》を封印するそれを破るものとなると、確かに小規模でバラエティーに富むシビュラの魔術に該当するものはないかもしれない。
「これはやはり当初の計画通り我らが希望とお姫様の力を借りるのがよさそうだなぁ、うん。……と言うわけでミノ・リレッドノー。悪いけど覚悟してもらうよ」
「お断りだ……っ!」
そうして、墓所である《眠慰島》の上で苛烈なる交錯が幕を開けた。
カレンの刃は人工魔剣を難なく斬り裂く。その度に中に秘められていた魔物が溢れ出し、一過性の脅威となって俺の身を襲う。対抗すべくチカやシビュラの魔術を行使して、そして再び同じことが繰り返される。
問題は魔剣の中から何が出てくるか分からないことと、トリスが空間移動を繰り返して死角や呼吸の合間を縫うように襲来すること。そして彼の行動とは相反して、どこからともなく剣の雨が降り注ぐこと。
無尽蔵とでも言うように人工魔剣を引っ張り出しては、ヒットアンドアウェーで一撃離脱を繰り返す。
だが、それにさえ気を配っていれば事故が起きることもなく。剣を斬る毎に彼の呼吸を掴み始めれば、均衡を演出して反撃の機会を伺う。
きっとトリスだって次の一手を準備しているはず。それをどちらが仕掛けるかと言う、ひりつく牽制の応酬だ。
それに、幾ら別空間から人工魔剣を持ってこられるといっても限度はあるはずだ。こちらの魔力にはまだ余裕もあるし、彼の弾がなくなるまで浪費させるのも悪くない。ここで叩き斬っておけば、どこぞでばら撒くこともできなくなるはずだ。
そんな風に頭の片隅では考えつつ、しかし一切気の抜けない攻防を繰り返し続ける。
これまでに幾度かメローラと打ち合ったお陰か、単純な戦闘でも経戦能力が前とは違う。脳筋思考に染まるのは遠慮したいが、実際の経験は確かに有用だと改めて実感した。
途中から、次にトリスが現れる位置の捕捉をチカに、斬った人工魔剣の対処をシビュラに任せ、俺はカレンを振るうことにだけ専念する。
思考が……想像が一つに絞られれば、理想を糧として現実を手繰り寄せる《珂恋》の刃は鋭さを増す。敵を認識し、信じる未来を強く思えば、彼女に断てぬ物は存在しないのだ。
とは言え守ってばかりでは何も変わらないと。把握したトリスの呼吸に合わせ、脳裏に響くチカの声に、カレンの余力を重ねる。
理想を結実させる力がカレンの能力ならば────それはきっと斬るだけに留まらない。
契約を介し、魔力を重ねて、新たなる道を切り開く。これまでに何度かそうしてきたように、複数の魔剣の力を合体させて理のその先に手を伸ばす。
チカの知覚にカレンの願いを。後手に対処をするのではなく────敵が向かってくるその未来を手繰り寄せる。
脳裏に閃いた天啓のような直感。それを疑うことなく、真実であると盲目に思い込んで振り返りざまの刃を描く。
「なっ!?」
トリスからすれば、空間を越えた先に既に置かれていた攻撃。
未来予知でさえ生温い。これは、理想を現実に押し付け再現する、因果逆転の外法。
咄嗟に防御したトリスが、少し焦ったように空間の奥に消え、再び跳躍。その終点を俺が決めてカレンを振るう。
すると想像が形として伴い、彼の空間跳躍の先を読んだようにまた一閃を放った。
「っ、これは…………!」
これは、酷い暴論だ。トリスの空間跳躍に干渉して出現位置を調整しているわけでも、ましてや偶然でもない。
ただ、俺が信じてカレンを振るった先に、トリスが現れる。たったそれだけの、シンプルにして覆しようのない現実だ。
想像を形にする────創造と言う言葉では収まりきらない異端。まるで世界の概念そのものを根底から書き換えるような、宛ら神様の所業だ。
或いは、カレン達魔剣の成り立ちに名付けられた《天魔》と言う名前……その由来となった天使の存在を借りて、御遣いの啓示とでも呼ぶべき技か。
何にせよ、この想像を形にするという────まさに魔術らしいと言えばその限りな力は、その実魔術ではないが故にトリスに破る術はないだろう。
そんな、埒外の概念に気付いたらしいトリスが攻撃の手を止め、どこか楽しそうに笑う。
「くくっ、そうかそうか……。未来予知が裸足で逃げ出すほどの因果逆転の刃。振るった先に目標を手繰り寄せる自由と放埓の枷。想像を形にする力、《珂恋》の真骨頂か。いやはや、素晴らしいな。是が非でもおれ達に欲しい力だが、さて…………一体どうしようかね」
「諦めろ。このままやり続けてもお前に勝ち目はないぞ」
「あぁ、悲しいかな。それは真実だ。流石と言って褒め称えよう」
言葉に嘘はない。だが言葉ほどに悲観した様子はなく、それどころかまだ何か隠し持っている気配すらにおわせる。
ここからの逆転の芽はない。とすると、次に彼が取る行動は…………。
「だから仕方ない。ここは我が身可愛さで退くとするさ」
「………………」
「おっと、それは止めておいた方がいい。今回は本気で逃げの一手だ。敬意を払って徹底的に妨害させてもらう。追い駆けてくれば上半身と下半身がさよならするぞ? 流石の《珂恋》の力でも千切れた人の体を繋ぎ合わせるのは無理だろう?」
『っ……!』
トリスの言葉に想像したか、カレンが小さく息を詰まらせた。
もし彼女が神と契りを交わした聖女のように純真な心で疑わなければそれもできたかもしれない。しかし今の釘を刺す一言でカレンの中に猜疑と不安が生まれてしまった。
《珂恋》の力は他に比肩する事のない唯一だが、だからこそ全ては彼女の想像に委ねられる。
だが、今みたいにたった一つの言葉で揺らいでしまうくらいに薄弱だからこそ、本気で信じた未来を絶対に手繰り寄せることができると思えば、デメリットに対して破格の力。
やはり《珂恋》は、世界を大きく変える力を秘めている。それを、改めて実感した。
「惜しい。実に惜しい……が、同時にその成長は喜ばしくもある。後一つ……いや、二つピースが揃えばおれ達の願いはあと一歩のところまで手が届く。それまではミノ・リレッドノー、精々君に期待をしておくとしよう。その繋がり、みすみす手放さないようにしっかり育ててくれたまえ」
『チカ、転移先の解析は?』
『妨害されるなら時間が足りないよ』
『そうか』
一応の確認をしてみたが、これ以上は意味がないか。ならば…………。
「最後に一ついいか?」
「なんだ?」
「ノーラを狙ったのはどうしてだ? 穏便に事を進めるなら今騒動を起こさなくてもよかっただろ」
最後に残った疑問。そもそもどうしてこのタイミングでトリスが動き、ノーラを捕らえようとしたのか。
国を乗っ取って後からノーラの能力目当てで俺達がいなくなってから事を起こすこともできたはずだ。それを、危険を冒してまで今推し進めた、その理由…………。
「あぁ、それか……。……まぁいい、成長が感じられたことと、ここで見逃してくれる礼に答えようか。あれはな、予定が狂ったからだ」
「予定?」
「それは機密だ。だが、事を早める必要性が生まれた。それでカイウスから連絡を貰ってな。急遽襲撃を計画したんだ。その結果がこれでは後が面倒だけどな。精々頑張ってカイウスに責任を擦り付けるとするさ」
「カイウスもアルマンディンに来てたのか?」
「まさか。あんな陰気なのが自分から出向くわけないだろう?」
仲間だと言うのに随分な言い様だ。イヴァンとメドラウドを比べたときも思ったが、《甦君門》……特に《共魔》は一枚岩ではないらしい。統率のようなものは一応あるようだが、それぞれが考える部分には小さな差異があるようだ。
そんなことを考えていると、思いついた可能性を試すようにトリスが告げる。
「もう気付いてるだろうからこれはサービスだ。おれ達は魔力の乗った思考を読める。契言なんかが代表的だな。それの応用で契言に似た意思疎通ができるんだよ。これはカイウスの能力だ」
「いいのか? 仲間の手の内を勝手に明かして」
「構うもんか。おれはあいつが嫌いだからなっ」
声からは、言葉ほど仲が悪くは感じない。個人的に馬が合わないとか、そういう類の嫌悪か。
「そしておれの力は見ての通り、見た目を偽る能力……。《共魔》は一人一つ特別な力を使える。なら考えられるからくりは絞られるだろう?」
なぞなぞでも出すように楽しげに語るトリス。
最初に思いついた可能性は能力の共有。だがそれならば『《共魔》は一人一つ特別な力を使える』なんて言い方はしないとすぐに気付く。
次いで考えられるのは、何かしらの後天的な能力付与。他の《共魔》の力を魔術として落とし込んでいるか、若しくは魔具のような形で身につけ、能力を間借りしているか。
どんなアプローチにせよ、《共魔》は互いの能力を使えるということだ。
「つまりはこんなことができるわけだ」
言って、笑ったトリスの姿が景色に溶けるように消える。透明化、これはラグネルが同じものを使っていた。
そして段階を追うようにそれまで感じられていた威圧感までもが消滅した。内に秘める《共魔》としての存在感の隠蔽。これはまだ経験がない。まだ見ぬ《共魔》の能力か。
それに加え、メドラウドの魔に関するものを操る力に、カイウスの遠隔意思疎通と、トリス自身の容姿を偽る能力。判明しているだけでも既に五つ。そのうち一つはまだ衝突した事のない誰かのもの。
そして、未だ判然としないのがイヴァンの能力だ。彼とは数度戦ってきたが、能力らしい能力をこれまでに見せていない。
カレンの刃を素で受け止めると言う妙技は見せ付けてくれたが、あれがそのまま彼の力と言うわけではないように思う。彼の力が存在感の隠蔽と言う線も捨て切れないが、言葉にならない違和感が胸の内に湧き上がる。
顔が分かっているのに力の正体が掴めないと言うのは、まだ見ぬ誰かを想像するよりも恐ろしく感じる。
イヴァン……俺が最初に出会った《共魔》。奴との因縁もそれなりのもの。きっと近い内に再び相見える。その直感は、カレンの想像を形にするそれの前兆だろうか。
そんなことを考えながら五感は姿も存在感も消えたトリスを追う。すると背後で微かに空間の揺らぎのようなものを肌で捕らえた。
やはり透明化は存在ごとなくなるわけではない。ただ見えなくなるだけだ。だから傍を通り過ぎれば風が動いて強化された知覚でなんとなく分かる。これに悪意や敵意でも混ざればもっと正確に把握できるのだろうが……。
背中合わせの距離から、何もないはずの虚空を裂いて声が響く。
「おれ達《共魔》が使うこの力は魔術ではない。存在や根源そのものに干渉する概念……魔術の上位互換だ。だから幾ら魔術に秀でていてもその本質までは届かない」
「大盤振る舞いだな」
「それだけ面白いものを見せて貰ったと言うことだ。素直に受け取ってくれ」
彼の語る言葉が嘘と言う可能性も十分にある。が、チカがこれまで明確な対抗策があると言ってこなかったことが真実味を肯定する。
《共魔》。名前だけではない。魔物と共にあると解いたその本質には、まだ何か大きな見落としがあるように思う。
彼らは一体何者だ……?
「さて。それじゃあ本当にそろそろお別れだ。また次に会えることを楽しみにしてるよ」
「気が変わらないうちに早く行け」
「それじゃあ、また」
相対する者に「また」と言われる日が来るとは思わなかったと。変な因縁がまた一つ増えたことを憂えば、背後にあった存在感が空間の奥に消えたのが分かった。
少し警戒したが、逃げた振りで襲ってくる様子もない。その段になってようやく纏っていた緊張の衣を脱ぎ去り、念のために構えておいたカレンの柄から手を離した。
三人が人型に戻り、不安そうな表情でこちらを見つめる。
「ミノ、大丈夫?」
「何がだ?」
「それは、その…………」
言葉にならない感情。複雑に絡み合った心配は、先ほどのやり取りで俺に何かしらの影響が及んでいないか、と言う具合か。
「今更《甦君門》に対して変わる価値観もあるかよ。俺は自由を選べればそれでいい。だからお前たちも自分で選んで決めろ。契約なんて、その気になれば破棄できるんだからな」
「しないよ」
果断に答えたのはチカ。
「あたしはミノの傍にいる。ミノが嫌だって言っても、傍にいたい。だから、契約を破棄するとか、言わないで…………」
「……そうかい」
真っ直ぐな言葉にどう返して言い分からなくて、顔を背けながら零す。
チカの言葉は三人の総意だったのか、どこか満足したようにそれ以上何かを言ってくる気配はなかった。
「それで……これからどうするの?」
「城に戻る。俺達を手に入れられなかった次善策として、帰りの駄賃にノーラを狙う可能性だってあるんだ」
「あ、そっか」
「そうじゃなくても合流するのが筋だろ。あいつが逃げたことを伝えて事態を収拾しないとだしな」
城の周りでは今頃既に人工魔剣も鎮圧されていることだろう。だがその破壊規模は予想しきれない。もしかしたら町に被害も出ているかもしれないのだ。
その対処に陣頭指揮を執るのはオセウスと、次期女王候補である二人の王女。王選の準備も必要で、しなければならないことは山積みだ。
「戻るぞ。シビュラ、舟を動かしてくれ」
「うん」
怪我こそしていないが魔術をたくさん使ったお陰で体がだるい。これで舟を動かすのは面倒だ。
とりあえずはしばし海の旅。その間に可能な限り休息を取るとしよう。
一応、まだ護衛の仕事も終わってないわけだしな。誇りある世界の傭兵として、請けた仕事は最後まできっちり完遂しなくては。
舟から馬へ。道中被害状況を確認しながら城まで戻ってくる。
目視で確認した限りでは町の方に大きな被害が出ている気配はない。流石に城周辺は石畳が捲れていたりしたが、建物が抉れていたり倒壊したりと言う目立つ形での影響は見つからなかった。
これならば直ぐにでも元に戻るだろうかと。下手をすれば一番被害の大きい、まるでドラゴンに齧られたかのような爪痕を残す欠けた城の一部分を眺めながら思う。
「ミノさん!」
戦闘の気配は外からでは感じないか。
微かに漲らせていた闘志を霧散させれば、城の中からこちらに向かって駆けて来るノーラの姿。彼女が無事なら……と思ったが少しだけ警戒して再会頭に過去をぶつける。
「約束守れなくて悪かったな」
「え、約束……? ………………あっ、そうですよ! ずっと傍で守ってくれるって言ったじゃないですかっ!」
「どうやら本物みたいだな」
「何ですかそれ! 自分で口にしたことも守れないような傭兵に────」
「けど、無事でよかった」
「へ…………あ、うん……」
一瞬、トリスの変装を疑ったのだ。姿を偽れるトリスがノーラに化けて近づき、俺を不意打ちで《甦君門》に転移で連れて行く。それを警戒して、本物の彼女ならば知っている過去のやり取りを引っ張り出してきたのだ。
トリスの変装は記憶まで再現できない。約束の反故をしっかり怒ってくれた彼女は本物だ。
改めて彼女の無事を確認し、胸の内が軽くなる。
するとなぜかノーラが言葉の先を見失って顔を赤くし、こちらを見上げてきた。
「どうした? 顔が赤いぞ? やっぱりどこか怪我でもしてたか?」
「え、あ、違っ……! 違うの! ミノが帰ってくるのが遅かったから怒ってるだけ!」
「それは悪かったな。こっちも大変だったんだよ」
成り行きとは言え、やっぱり約束を破ったことは反省しないとな。
『ミノの馬鹿』
『は?』
『なんでもないっ』
何故かいきなり罵倒された。意味が分からん…………。
理不尽な言葉に不満を募らせていると、辺りを見回したノーラが恐る恐ると言った様子で尋ねる。
「……あの人は…………?」
「悪い。逃げられた」
「そっか…………。ううん。大丈夫。ミノが無事ならそれでいいよ」
ほっとしたように呟くノーラ。彼女はトリスに人質として捕まったのだ。あいつに対して恐怖を覚えるのは仕方ない。
「こっちはどうなった?」
「……それなんだけど…………」
戦闘が起きている気配はない。だから色よい返事をもらえると思っていのだが……。
問いに返った声は、俺の想定を覆す理不尽だった。
ソフィアがノーラに対する暗殺未遂の容疑で拘束された。
全く以って意味の分からない、不当も極まった判断。しかし集まった証拠から今回の問題を推察すれば、彼女が容疑者の筆頭候補なのだ。
ノーラがいなくなれば、ソフィアは女王になれる。それが動機であり、その為に半グレの者達に人工魔剣を持たせて襲撃。内部工作犯と共謀して第二王女の命を狙った……。
そんな馬鹿げた犯行の推察が、しかし通ってしまったのだ。
一番の決め手は、ソフィア自身がそう証言したこと。どうしてそんなことを……と初めて聞いた時は思ったが、それが彼女なりの決意だと気付けば、俺には口を挟む権利など見つからなかった。
ソフィアはノーラを守りたかった。それは自らの身を危険に晒してでも成し遂げようとした深い愛情だ。
だが今回の真の首謀者であるトリスは俺が逃がしてしまった。結果槍玉に挙げるべき悪を見失い、傷跡だけが残りそうになった。そこにソフィアが罪を被る事で、彼女はノーラを……アルマンディン王国を守ろうとしたのだ。
ソフィアが犯人と言うことにすれば、一応の筋は通る。彼女の母親が残した確執も後押しして、今や町の声は彼女を非難するもの一色だ。
ノーラを犯人にすることなく、そして新たな女王の誕生を分かりやすく演出する。民衆の思いを一つに束ね纏め上げる。さらには宮中の不穏分子も一挙に背負い込んで後顧の憂いも断った。
その曇りなき自己犠牲に、思う。
やはり女王としてふさわしいのはソフィアの方だ。そんな彼女が、どうして罪を被らなければならないのか。拭い難い理不尽が胸の中を黒く渦巻く。
「どうして……」
「分かりやすい悪役が必要なんだよ」
「別の誰かじゃ駄目なの?」
「あれだけの人工魔剣と頭数を集められて、宮中にまで影響を及ぼし、町にも少し被害を出した。事実ノーラも命を狙われて、その動機に相応しい仮想敵だ。並みの悪党じゃ役者が足りないだろ?」
納得のいかない理由を並べ立てる。口にするたび苦いものが舌の上を走って、歯を噛み締める。
だからってやはりソフィアがと言うのはやりすぎだ。他にも候補がいなかったわけじゃないだろうに。
……一番の理由として、ソフィア自身がそれを望んでいるからなのだろう。
彼女はずっとノーラを守り、償いたかったのだ。母親から続く宮中の問題を、彼女にまで背負わせる必要はない。きっと何も知らないノーラを、巻き込みたくはない。
今回のことと、個人の思惑と。その全てを清算するのに自分が一番都合がいいと思った末の決断だ。
俺が城に戻ったときに既にソフィアが捕まっていたということは、彼女は予め俺がトリスを捕まえられなかった時の事を鑑みて手を打っていたのだろう。
酷く自分勝手で傲慢な────誰にも理解されない愛情。
そんな寂しい話があってたまるかと、広場での公開処刑当日になっても重苦しく頭を悩ませる。
何か…………ソフィアを救う手立て。処刑を撤回することはきっとできない。オセウスも納得して噛んでいる。協力してくれるのはまだ首を振り続けているノーラだけだ。
何せ彼女は、ソフィアを自らの手で葬り去ることによって、時代の女王としての椅子へと座るのだ。
姉を殺して国の主へ。そんなふざけた話、心優しい彼女が呑み込めるわけがない。俺だって……カレンたちも納得などしていない。
けれどオセウスは自分を殺しているし、メローラももう何もできないと諦めている。
幾ら《渡聖者》でも国の下した結論を変えることはできない。だってそれは、アルマンディンと言う世界にとって、平穏を守るために必要な選択。世界の救世主たる俺達は、それに異を唱えることはできないのだ。
「でも…………」
「言いたいことは分かるがな。だったらどうするって言うんだ? まさか処刑の場に躍り出てぶっ壊すつもりか? そんなことをすれば追われるのは俺達だぞ?」
「………………でも、助けたいよ。だって何も悪いことなんてしてないのに。利用されただけだよ?」
「そういう世界の出来事だ。俺達が簡単に変えられる決定じゃない。今更覆すことなんてできない」
そう、これは決定事項だ。決断は覆らない。だから、仕方ないのだ────
「どこ行くの?」
「ノーラに呼ばれてるんだ」
立ち上がれば、シビュラが無言でついてくる。まだノーラは女王になっていない。護衛の任務は継続中だ。
今更彼女を襲撃する輩がいるとは思えないが念のため。ソフィアが処刑される広場には沢山の人が詰め掛ける。彼女の傍を離れるわけにはいかないのだ。
「一緒に来るか?」
首を振るカレン。なら悪いがしっかり頭を冷やして貰おう。
後のことをショウに任せて宿を出る。その足取りで城に向かえば、顔パスで中に入れた。
やってきた使用人に案内され廊下を歩けば、一つの扉を前に足を止めた。
「ミノ・リレッドノー様がいらっしゃいました」
「通して」
「失礼いたします」
部屋の中には重そうなドレスに身を包んだノーラの姿。淡いクリーム色のドールのような装いに、施された化粧。おてんばな彼女を知る身からするとギャップが凄まじいが、本来はこちらが彼女の正装なのだと思い出す。
その証拠に、ドレス姿はよく似合っており、纏う雰囲気も高貴なもの。伏せた横顔が憂うように指先を見つめる姿は、儚く今にも消えてしまいそうだ。
ここまで俺を連れてきてくれた使用人が静かに退室する。扉が閉まると、ノーラは疲れたように溜め息を零した。
「気乗りしないか?」
「こんな状況で笑える人がいたらここにつれてきてください。お姉ちゃんの代わりに次期女王が手ずから断頭台へ縛り付けてあげますよ」
ソフィアの処刑は観衆の目前でギロチンによって行われる。よりにもよっての方法がそれなのは見せしめとしての意味合いだろうか。
「なんで、こんなことになったんでしょう……。わたしはただ、仲良く静かに暮らしたかっただけなのに……」
運命を怨むように白むほど唇を噛んだノーラ。
姉を処刑する。それがどれほどの傷を彼女の胸に刻み込むのかなんて、考えるだけで侮辱する行いだ。
だから、その仕方ないを真っ直ぐに見つめる。
「どうにかしたいか?」
「え……?」
「確かに決定は覆らない。けど結果を変える事はできる。……どうする?」
ここに来るまで、シビュラに話を聞いて思いついた方法論。しかしその為には幾つかの根回しが必要だ。その最初としてノーラの意思確認を行う。
ただの理想を言うつもりはない。そう真剣に告げれば、ノーラは俺を見つめ返して濁りかけていた瞳に生気を取り戻した。
処刑は午後から執り行われた。広場に集まったのは城下町に住む者ほぼ全て。その瞳には苛烈な糾弾の色と各々が抱く正義感。それもきっと正しい感情だ。
国と王と民。どれが欠けても足り得ない三つの柱を揺るがしかねない問題が起きたのだ。例えそれが支持しない女王候補であっても、宮中に不穏分子がいることを容認はできない。しかもそれが噂の絶えない次期女王の姉ともなればなおさらだ。
これは、仕方のない景色。
そんな壇上に腕を縛られ項垂れたソフィアと、彼女を引くノーラが現れると、大地を揺るがさんばかりの声が上がる。
音と言う熱が色を伴って肌を撫でる。その威圧感に、けれども女王の器たるノーラは怯む様子もなく淡々と用意しておいた言葉を並べた。
やがてソフィアの罪状と処罰が告げられると、一際大きなうねりとなって視線と声が殺到する。
舞台の上でせめてもの慈悲にとソフィアの頭に袋がかぶせられ、ゆっくりと断頭台へ。その光景を同じく壇上の、少し後ろから眺める。
民衆の高まりは最高潮。王族の処刑と言う、世界に波及する一大事に、それを娯楽の如く群がる彼らが一挙手一投足に視線を注ぐ
……暴動が起きたりと言う様子はない。不審人物も見当たらなければ、周りを囲む建物からも敵意の気配はない。念のため騎士が警備もしてくれている。
少なくともノーラの命が狙われることは、この状況下ではないかと。奇しくも一つに纏まった民意を冷たく見つめながら思う。
これはきっとアルマンディンの……延いては世界の歴史に刻まれるだろう事態。そこに僅かでも関わり、そしてそれを今から歪める事に多少の罪悪感を抱く。
色々理由は考えた。結果出たのは一つのシンプルな答え。
これはアルマンディンの──ノーラのため。彼女が今後憂いなく女王として世界を導くために、真実を歪めて一人の少女の命を左右する。
真実が明るみに出れば、《渡聖者》と言う肩書きにそぐわない行いに非難は必至だろう。
それでもやはり────俺が俺として自由を振りかざすために、理由のない非道を見過ごすわけにはいかないのだ。
だからこそ、今一度自分に言い聞かせる。これは、間違っている。間違っているからこそ、己の決断に誠意を持て。と。
粛々となされた準備が整い、響く民衆の声を制して手を上げる。それを合図に斧を手に持った俺が歩み出て、大上段に振りかぶる。
痛いほどの沈黙。様々な期待を滲ませた空気に己を殺し、ただただ無情に息を整える。
一瞬、ノーラと視線が交わって。それから彼女が静かに腕を振り下ろすのと同時、構えていた斧をロープめがけて振り下ろした。
バツンと言う音と共に、縄に引っ張られ固定されていた刃が溝をすべり────斬と言う効果音を伴って鈍色が首を切り落とした。
衝撃にびくんと震えた、固定された体。次いで糸が切られたように力が抜ければ、断頭台の傍に口を赤く染めた麻袋がごろりと転がった。
命だった証がじわりと処刑具の周りを染めていく。その段に至ってようやく時間が進みだしたかのように、割れんばかりの歓声が空間を揺るがした。
赤い液体を化粧のように塗った斧を消滅させれば、後ろに控えていた騎士が後処理を始める。
次いで斧の代わりに俺が受け取った赤い宝石が嵌ったティアラ。それを厳かに両手で持てば、目の前にノーラが跪いた。
落ち着いた呼吸。緊張など忘れてきたような不気味な雰囲気に誘われるようにその証を彼女の頭へ。
すると先ほどの倍にも届こうかと言う声が辺りを埋め尽くし、世界を塗り替えた。
笑顔は見せないまま、民の期待に応えるように手を振るノーラ。そんな彼女を一瞥して、役目を終えた俺は壇上を降りた。城下は未だ、興奮の最中にあった。
少しだけ周囲を警戒しながら宿へ戻る。ノックをすれば、内側から返ったのは一定のリズムを刻んだ五度の音。扉を開けて中に入れば、そこにあった顔に小さく息を吐いた。
「大儀だったわね、ミノ・リレッドノー」
真っ直ぐにそう告げたのは────先ほど民衆の前で処刑されたはずのソフィアだった。
「……少し休ませてくれ」
「えぇ、お好きなだけ」
憑き物が落ちたように優美に微笑む彼女を横目にベッドへと転がる。
どれくらいそうしていただろうか。何も言わず直ぐそこで髪を梳っていたソフィアが、独り言のように零す。
「……ノーラは?」
「お姉ちゃんっ!!」
刹那。息を切らせた彼女の妹がノックも無しに部屋の中へと駆け込んできた。
騒々しいお転婆の登場に結局寝られなかったと胸の内で悪態を吐きながらベッドの上に座り込めば、隣で姉妹が抱擁を交わしていた。
安堵したように心の底からの笑顔で現実を噛み締める姿に、ようやく詰めていた呼吸を解くことができた。
「ノーラ、気分は?」
「大丈夫っ。お姉ちゃんこそなんともない?」
「あたしはここにいただけだもの」
「お姉ちゃんっ!」
互いを確かめ合うように抱き合う二人を見つめれば、視線に気付いたソフィアが照れたようにノーラを引き剥がした。
「の、ノーラっ。もういいでしょ?」
「むぅぅ……」
唸ったノーラが名残惜しそうに体を離す。そこでようやく口を挟める空気になった。
「次の予定はいいのか?」
「ぎりぎりまで引き伸ばして貰ってるから大丈夫。……ありがと、ミノさん」
頬を染めて笑う彼女から思わず目を逸らす。王女……いや、女王然とした中に同居する無邪気な女の子らしさ。歳相応な微笑みが、けれどもこれこそが俺が守りたかったものなのだと思えば、少しは気分が楽になった。
「でもよくあんなこと思いついたわね?」
「卑怯の極みだけどな」
静かに見守っていたメローラが茶化すように尋ねる。それをきっかけに、恙無くうまく行った企てを今一度思い返す。
「仮想敵としてソフィアが処刑される。これは避けられない事実だ。だが別に、それがソフィア本人である必要はない」
「だから別人を身代わりに使って民衆を騙す。けど口で言うほど簡単なことじゃないでしょう?」
「そこは俺の力じゃどうしようもないからな」
言って視線を向けたのはシビュラとチカだ。
「シビュラの魔術で見た目を偽って、それをチカの魔術編纂で大規模に」
「更にわたしの《逓累》の力で最大限増幅して、広場に集まった人たち全員に幻を見せる」
「とは言え舞台装置丸々を演出するのはばれ易くなるからな。身代わりになるやつが居て助かった」
「……彼には少し悪いことをしてしまいましたね」
「どうせ処刑してたんだ。最後に大儀背負えたんだから同情する必要もないな」
彼……ソフィアの幻想をかぶせられ首を落とされた男は、ノーラの命を狙ったうちの一人だ。
王族の暗殺なんていう、そもそも死刑になるような輩。湧く情などない。
「後の工作はそっちでやるんだろ?」
「はい。折角救って貰った命です。無為にしないようにします」
「その、ありがとう……」
「言われることか? 目的は同じだと思うがな」
「それが少し気に食わないだけよ」
悪態を吐く元気はあることに安堵する。
ノーラを救う。その為にソフィアは無茶をし、そのソフィアを救うことで再びノーラの懸念を払拭する。
……なんて、色々理由を考えてみたが、結局は風変わりなハッピーエンドを手繰り寄せたに過ぎない。
ここにある今は、全員が望んだ結果だ。
「それで? 俺の仕事もこれで終わりか?」
「はい。ありがとうございました」
護衛の仕事は王選が終わって女王が決まるまで。ノーラが女王となった今、彼女の身辺警護の任からは解放される。
これでようやく自由の身。となれば当然次の目的地に……。
「この後はどうされるんですか?」
「ベリルへ向かう。まだあそこだけ《共魔》の確認が済んでないからな」
「そう、ですか…………」
ここに留まって調査する際に、ベリルに関してはショウ経由で警告だけ送って貰っておいた。直接どうこうと言うのはこれからだが、それまで調査を進めたり、乗っ取られないようにする対抗措置くらいは既に打っているはず。
とは言え相手は鬱陶しいほどに慎重で、用意周到で、狡猾な連中。余り時間が残されているとは思えない。直ぐにでもベリルの首都、ベリリウムに向かうべきだ。
が、飾らず答えた俺の声にノーラが寂しそうに俯く。
「どうした。まだ何か心配事でもあるのか?」
「いえ、そうではないんです。…………ただ、今回のことで皆様には多大なご迷惑をおかけしましたから。せめてわたしの戴冠を祝う式典や……そうでなくても町を挙げての宴で楽しんでいただければと思っていたんです」
少しだけ拍子抜けするような答え。しかしそれが彼女の本心だと気付いて、俺も戸惑う。
確かに、護衛に関する報酬と言う報酬は貰っていない。一応金銭での受領は果たしたが、そっち方面で困っているわけでもない。
それに、ノーラとソフィアに関しては比喩抜きで命を救ったのだ。その感謝の形として心尽くしの応対を、と言うのは王族としても必要な体裁なのだろう。
本来ならば嬉しい申し出だ。そもそもアルマンディンに来て心置きなく楽しめた時間は殆どない。
東の果ての、新たな女王が生まれた王国。こんな絶好の機会に観光も碌にせずに発つというのは確かに勿体無い。しかし────
「俺達も可能ならそうしたいんだがな」
「そうですか……。…………いえ、皆様は《渡聖者》ですものね。一国が独占していい方々ではありませんから」
押し殺した笑みを浮かべるノーラ。折角彼女が望む理想の一端を手に入れたのに……顔を曇らせるつもりはなかったのだ。
「あたしだけ先に行くってのもアリよ?」
「……いや、いい。俺達だけ楽しむわけにはいかないだろ」
それに、単独行動は避けるべきだ。幾らメローラが強くとも、それを覆す絡め手はきっと沢山ある。俺が俺の身を守るためにも、彼女とは一緒に行動するべきなのだ。
「悪いがそういうわけだ」
「はい」
俯いたノーラに、それから未来を示す。
「けどそれが終われば本当に自由になれる。その時にまたここにくる。俺だってこのままは勿体無いと思ってるからな」
「ミノさん……」
「だからその時に、お前の国を見せてくれ。目一杯の歓迎をしてくれ」
約束の証のように、彼女の頭に手を置いて撫でる。
いきなりのことに驚いたのか猫のように目を細めたノーラが、どこか心地よさそうに微笑んで。
「──はいっ!」
と、少女らしい笑顔で頷いた。
翌日、荷物の確認を行っていると、ローブのようなもので身形を隠したソフィアが尋ねてきた。
「どうした?」
「ノーラの代わりに見送りよ」
昨日の今日で色々慌しいのだろう。新女王も大変そうだ。
遠くに向けた視界の中で一際存在感を放つアルマンディン城を見つめて訊く。
「これからどうするんだ?」
「もうここにあたしの居場所はないの。死んだことになってるんだから。だから────」
「悪いが定員オーバーだ。これ以上騒がしくなって堪るか。アルマンディンへの足がかりにされるのもごめんだ」
「………………」
先回りして告げれば、面白くなさそうに唇を尖らせたソフィア。
それがノーラの指図でないことくらいは分かる。ただ、どうしていいかわからなくて俺達を頼ろうとしたのだ。それがノーラのためになれば、と。
相変わらずなシスコンだ。
「あっそ。なら精々頑張りなさい。……ノーラを泣かせたらあたしが殺してあげるから」
「そりゃいいな」
心地のいい言葉に口端を歪めれば、それからソフィアが懐から何かを取り出す。
手のひらを開けば、そこに落とされたのは赤い宝石だった。
「鉄礬柘榴石。石に込められるのは、真実と友愛。貴方の行く末に、偽りなき縁が結ばれますように……」
そう告げて、俺の手を取ったソフィアが厳かな仕草で甲に優しく口付けを落とした。
咄嗟のことに胸が跳ねたが、それが彼女なりの親愛の証だと気付けば素直に受け取ることにした。
「王家の紋章が魔術で刻印されてるから。何かあればそれを頼って。後ろ盾くらいにはなると思う」
「あぁ、ありがとな」
贈り物を大事にしまえば、そのまま馬車に乗り込む。
手綱を握れば、こちらを見上げる楽しげな瞳のソフィアと目が合った。
「元気でね」
「あぁ、またな」
今後彼女がどうするのかは分からない。旅に出るのか、それとも姿を偽ってノーラにでも引き立てられるのか。
だが、その表情に彼女と出会った頃の張り詰めた威圧感はなかった。
この様子なら大丈夫だろう。
そう胸に抱いて、手綱を振るう。ゆっくりと動き出した馬車を、彼女は見えなくなるまで見送っていた。
角を曲がって、振っていた手をカレンが下ろす。
「一緒に連れて行ってあげればよかったのに」
「死んだ元王女なんて厄介ごとの塊だろうが」
「素直じゃない」
「………………」
チカの声に口を閉ざす。
あれでいいのだ。それが彼女の自由だ。本気なら問答などせず馬車に潜り込んでいればよかったのだから。
他人事に、彼女のこの先に幸があることを願いつつ大通りを西へ。祭りの活気と擦れ違いながらガルネットの門を目指す。
「次はベリル?」
「あぁ。《共魔》がどうやって潜伏してるかも判明したからな。それを逆手に取ればこっちから仕掛けることもできるはずだ。セレスタインとも協力をする。ベリルでは、打って出るぞ」
ユークレース、セレスタイン、アルマンディン。三つの国では悉く後手に回り続けていた。が、それもここまでだ。種が割れてしまえばやりようは幾らでもある。今度こそ、誰も不幸にならない理想を手繰り寄せてやる……!
決意を新たに市壁へ。城下町では祭りが行われている所為か、町の中へ入ってくる者は沢山居ても、外に出て行こうという輩は片手で数えられるほど。拙速を尊ぶ今に限っては嬉しい限りだ。
一応の手荷物検査にと荷台の中を改められる。入っているのはベリルの首都、ベリリウムまでに必要な食べ物や雑貨ばかり。直ぐに通して貰えるはずだ。
と、そんなことを考えて検査する様子を眺めていると、不意に服の裾を引っ張られる感覚。カレンが忘れ物でもしたかと思い振り返れば、そこにはローブで身を覆った小さな塊。次いでそこから伸びてきた手のひらが俺の手首を掴み走り出す。
咄嗟のことに思考が追いつかず、けれども遅れて危機感が競りあがり、傍の路地へ入ったところでその手を振り払った。
「誰だっ!」
「ご挨拶ですね、ミノさん」
響いた声は少女のもの。その響きに聞き覚えがあることに気付けば、彼女がフードを開けて顔を見せる。
「ノーラ……?」
「はい」
笑顔で頷く彼女に疑問を連ねる。
「何でこんなところに居るんだ? 忙しいんじゃなかったのか?」
「わたしが常習犯なの、もう忘れたんですか?」
……どうやら護衛の目を掻い潜って抜け出してきたらしい。女王になっても根の部分はそう簡単には変わらないようだ。
「……一国の主が何やってんだよ」
「お見送りに決まってるじゃないですかっ。宿に行ったらもう出た後って言われますし……挨拶くらいさせてくださいよ!」
「見送りならソフィアがしてくれたぞ。お前の代わりに」
「それじゃあわたしが嫌なんですっ!」
この我が侭女王が……。
とは言えここまで来て無理やり返そうとすれば、ソフィアの代わりに彼女がついてきかねない。それは何よりもまずい。
「なら手短に頼む」
「……もう少し惜しんでくれてもいいんじゃないですか?」
「約束しただろうが。また来るって」
言葉を違えるつもりは毛頭ない。しかしノーラにとってそれはただの言葉だったらしい。
「だったらそれを証明してくださいっ」
「証明って…………」
カレン以上の無理難題を言いやがる。また来た時が証明になるんじゃないのか?
だが彼女が言い出したら聞かないお転婆なのは俺もよく知るところ。なにか……彼女の納得する証を────
「……手を出せ」
「あ、はい」
そこで一つ、記憶に新しいそれを思い出して行動に移す。恥ずかしいが、これで納得して貰うとしよう。
まだ理解が追いついていない様子のノーラの手を取り、その甲に口付けを落とす。女王に捧げる騎士の忠誠。これなら満足だろう。
そう考えて顔を上げれば、ノーラは顔を不機嫌に歪めていた。
「……ノーラ?」
「ミノさんのヘタレ…………」
「は────ぅむっ!?」
次の瞬間、俺の顔を両手で挟み込んだノーラの顔が急接近して────彼女の柔らかい唇が俺のそれに重ねられた。
いきなりの出来事に呼吸も忘れて呆然とする。気付けば離れていたノーラの頬はこれ以上なく赤く染まっていた。
「そういう、ことですから…………。次に来るときは覚悟しておいてくださいねっ!!」
怒った風にそう言い残したノーラが、襲い来る糾弾から逃げるようにフードを被り直して路地の奥へと姿を消す。
後に残された俺は、まだ混乱の収まらない頭で納得を探すように呟いた。
「……ま、じか…………」
それは、冬も最盛な、宴の片隅の出来事だった。




