第三章
依頼契約を交わしてしまった以上見捨てることも敵わずに。向けられた視線に耐えながら傭兵宿に部屋を取って休息する。
生憎と部屋を分けるほど持ち合わせが無かったが、特に彼女が嫌がる素振りを見せる事も無かった。どうせ寝るだけだ。依頼主と傭兵と言う関係がある以上、何か起こる事もありえない。
通された部屋に荷物を置けば、部屋の入り口に立ち尽くした少女が小さく零した。
「……なんだか、暖かいね」
「そうか? 他の宿屋に比べると簡素なものだがな」
彼女の言葉に部屋を見回す。
一人部屋として造られている所為で二人で寝るには狭い室内。板と漆喰の壁に小さな窓が一つ。寝床は動物の羽や毛なんて上等品ではない、藁を中に詰めただけの布に薄い毛布。せめてもの贅沢のように壁際には木製の収納が一つ。これで暖かいと言うならば他の宿屋は一体彼女にとってなんだと言うのだろうか。
「ううん、暖かいよ。雨も風も凌げて、温もりもあって。眠るだけが惜しいくらい」
野宿を繰り返してきた身からすればその感想も分からないでもないが……。彼女の中の比較対象が少しだけ気にはなる。
何処からか逃げてきて、あんな山中を突っ切って現れ、気を失うほどに疲弊していた彼女の旅路。その出発点には一体何があるというのだろうか。
僅かな興味は、けれど直ぐに脳裏を過ぎった別の思考に上書きされた。
「暖かいって言うなら風呂はどうなる」
「フロ?」
「……魔剣様には馴染みがない習慣か」
呟けば、馬鹿にされたと分かったらしい少女がじっとこちらを睨んできた。そんな身形と顔で睨まれても別に怖くもなんともないのだけれども。
「簡単に言えば体の汚れを落とす人の習慣だ。人の入れる器に湯を張って体を浸ける。石鹸があれば文句はないが基本は灰で代用だな。布で体に溜まった垢を落とす、体の掃除だ」
「湯って、お湯?」
「あぁ。暑くない程度のな」
答えながら風呂の準備をする。必要なものは意外と多いのだ。
「……そっか、人間ってそうするんだ」
「魔剣は確か……」
「魔力だよ。この体は魔力でできてるから、魔力を消費して綺麗な体にするの。何処でもできるから便利だし、傷だって時間があれば勝手に塞がる」
「そりゃあ便利なことだ」
他人事に答えて立ち上がり部屋を出ようとする。と、その目の前に少女が立ち塞がった。
「どこいくの?」
「その風呂だ。こちとら既に三日野宿の汚れまみれだ。汗に泥にと酷い有様でな。分かったら退いてくれ」
「…………私も一緒じゃ駄目?」
「は?」
返った言葉に苛立ちの篭もった声を落とす。
「……魔剣には必要ないだろ?」
「それを言うならこの薬だって必要ないよ。でも、人の世界で生きるなら人らしくしろって言ったのはお兄さんだよね?」
「…………俺は必要だからそうしろって言っただけだ」
「私は今必要だと思ってるよ?」
これは何を言っても揺らぎそうに無い。そんな覚悟捨ててしまえばいいのに。
しばらく睨むように見つめて、それから小さく息を零した。
「…………勝手にしろ」
「うんっ」
風呂の何がそんなに楽しいのやら。
部屋を後にやってきたのは傭兵宿の裏手。衝立で囲まれた向こう側には川が流れていて、水は使い放題の立地だ。建物の壁には既に誰かが使った後なのか、少しだけ濡れた浴槽代わりの大きな木枠が立て掛けてあった。
周りに人はおらず貸切状態。少し遅い時間と言うこともあって他の傭兵たちとは使うタイミングがずれたのだろう。今回に限っては面倒なところを見られずに好都合だ。何が悲しくて魔剣と一緒に風呂に入らなきゃならないのか。
「それで、えっと、どうするの?」
「……そこの木枠に川の水を入れて、この鉱石を投げ込む」
疑問の尽きない少女の声に答えて見せたのは赤い鉱石。
「衝立にポンプがあるだろ。そこから川の水を必要なだけ汲み上げて、火の力が込められたこの石で暖める。それだけだ」
「へぇ、火石ってそう使うんだ…………」
「宿によっては金で湯を買えるところもあるけどな」
魔剣の彼女にとっては見る事聞く事全てが新しい出来事なのだろう。そうして素直に驚く様はまるで子供のようで、見た目以上に彼女の事を幼く感じる。
だからだろうか、女の姿をしている彼女と風呂に入ると聞いても別段抵抗がないのは。
男でも女でもない。子供は第三の性別。ならば親子のようなそれで、取り乱す必要も感じない。
大体魔剣は人ではない……剣に宿った魔物だ。つい先ほど命を狙われたあの怪物と同じ由来を持つだけの、人の姿をした何かに欲情なんてどうして出来ると言うのだろう。熊と一緒に風呂に入って邪な感情を抱くだろうか? それが答えだ。
そんな事を考えもしないだろう少女が、準備を進めるこちらを珍しそうに眺めている事に気がつく。
「見てるだけとはいい身分だな」
「あ、うん。手伝うよっ」
言われなければ動けないほどに見惚れていたらしい。魔剣様の価値観はどうにも理解できない。
人ならざる者を理解しようなんてそれも面倒だと直ぐに切り捨てれば、水を張った湯桁に魔力を少し込めた火石を投げ込む。温まるまで時間がある。それまでに体の汚れを先に落とすとしよう。
「で、どうすればいいの?」
「……見てないで自分の分を用意しろよ」
「え? 一緒に使うんじゃないの?」
「……………………」
何を馬鹿な事を……。少し考えれば分かるだろうと、呆れから返答さえも放り投げる。
一々答えるのも馬鹿らしいと諦めてローブを取り、続けて着ていた服を脱げば、悲鳴に似た何かが響き渡った。
「ひゃうあっ!? な、何で脱いでるのっ!?」
「……脱がずにどうやって風呂に入るんだよ。服の上から体を洗うのか?」
「あぅぅぅ……、先に言ってよぉ……」
そこまで言わなければならないのか。と言うか俺の責任か? 常識を知らないのが悪いのではなかろうか。
顔を赤くして目を覆いながら慌てる少女。その様子に思い出して気付く。
「あぁ、だから一緒に入るなんて言ったのか。随分と挑戦的だな」
「う、うるさぁい! だって、だってぇ!」
逃げ場をを求めるように唸る少女に、けれどこれ以上相手をするだけ無駄だと諦めれば、恥じることなく全てを脱ぎ去る。背後で声にならない悲鳴を上げている存在に溜め息を吐いて、仕方なしに腰へタオルを巻きつけた。
「……これでいいか? あとお前はどうする? 一緒に入るか?」
「な、何でそんなに平然としてるのよぉ……!」
「魔剣相手に恥ずかしがる必要が何処にある」
今更隠し事をするのも面倒になって飾らずに答えれば、慌てていた彼女が妙におとなしくなって赤い顔のままこちらを睨んでくる。騒いだり静かになったりと忙しい少女だ。
「……魔剣は魔剣って事?」
「それ以外に何がある」
「じゃあ私の裸を見ても変な気持ちにならない?」
「残念ながら鋼の塊に欲情するような性癖は持ち合わせてないんでね」
「…………そっか……」
どうやらようやく納得がいったらしい。ならば早く自分の分を用意して一人で堪能してくれ。
自分の体を見下ろす少女から視線を外して体を洗い始める。怪我と戦いの所為で体の節々が痛いのは今を生きている証。しかしならば明日はどうやってあの森を探し回ろうかと思案を始める。
武器は一応あるが、流石に一人で魔物を相手には出来ない。とは言え明日は仕事をこなさないと食事分の金がない。
……仕方ない。最悪今の依頼を破棄してでも他の仕事をこなすとしよう。生きていくためには妥協も必要だ。身の丈に合わない事をしても仕方が無い。そんな風に汚れと共に無駄な思考を流し落とす。
「……ねぇ」
「なんだ?」
「もし私の体が普通の魔剣とも違うとしたらどう思う?」
「何がどう違うのかが分からないと答えようが無いな」
「……………………」
至極当然に具体的説明を求めれば、背後の少女は何かを我慢するように沈黙を返す。やがてしばらくして彼女は再び口を開いた。
「……醜い、っていうか、普通じゃないって言うか。綺麗じゃないっていうか……」
「それは何かと比べてって話か?」
「…………魔剣って言うか、女って言うか、人と比べて……」
なんだか不穏な言葉に少しだけ手を止めて考える。
これまで彼女を見てきた限りでは別段変わったところはなかったはずだ。魔剣としてだと言うのならば、その姿は人に似せている以上多少の差異はあるのかもしれない。けれど魔剣自身が他と比べて特別自分の身体的特徴を論うような事は普通はしない。そもそも魔剣は剣に宿る魔物であるから、姿形に拘りはしないのが常識だ。
「要領を得ないな」
「……うん。いいや、見て貰った方が早いかな」
その声には少しだけ覚悟の色を聞いて取って。次いで背後の彼女が身に纏ったローブを脱ぐ気配。そう言えば先ほど首筋を見せられたときに、下に何も着ていなかった事を思い出す。とは言えそれを気にするほど繊細な心の持ち主と言うわけでは無いだろう。
「…………いいよ、こっち見ても」
別に見たくて見るわけでは無いけれども。これだけ意味の分からない言葉を並べ立てられてその証明に彼女が覚悟を決めたのだ。ならば問われた身として彼女の疑問に答えるべきだろうと。
そうして振り返った彼女の肢体を視界に収め、思わず息を呑んだ。
それは月夜の下に淡く照らされた華奢な少女の体つきに…………ではなく、その身を埋め尽くすように刻まれた契約痕の多さにだ。
局部は手で隠しているから全てが見えるわけではないが、見える白い肌は手のひらに収まる程度。それ以外は幾重にも刻まれた契約痕が彼女の肌を覆い、まるで幾何学な黒い衣を身に纏っているような姿。
形容するならば、刺青に刺青を重ねたような、何処にどんな契約痕があるかすら分からなくなるほどの彼女の過去の証。
黒一色に塗り潰された彼女の体は、首許から肘までと、大腿部にかけてを覆い隠している。
「……こんなの、おかしいよね。普通の魔剣は、こんなに真っ黒になんてならないよね」
「…………どうして、そんなに?」
「それだけ契約したからだよ」
当たり前の事を、諦めたように告げる彼女。
彼女の言う通り、普通の魔剣はそう簡単に契約相手を変えない。それこそ死に別れるまで戦場を駆け巡るのが常識だ。もし複数の過去を持つのだとしても、多くて十個が関の山だ。
その常識を優に超える……百近い契約痕の数。一体どれほどの時を経ればそんなに相手を失うというのだろうか。
「……お前、魔剣として何年生きてきた?」
「十五」
十五? 十五で百人余りと契約? 単純計算をするなら一年で七人。二ヶ月に一人以上のペースで契約相手が代わるだと? それを偶然では片付けられないだろうと。
「普通じゃない。ありえない。……でも、ありえないと私はいない。…………これが私の価値の一つ。百人以上と契約しても、その誰とも長続きしない、呪われた魔剣。《エモク》、だっけ?」
最早悲しむことさえ忘れたように笑みを浮かべるその壊れた精神にこちらが怖くなる。
彼女の様子から察するに、その百人全ての最期を見てきたのだろう。
けれどどうしてそんなに速いペースで契約主が代わるのか、それが分からない。
「軽蔑した?」
「…………驚きはした。けど、誰だって過去は持ってるだろ?」
「……………………」
言葉の真意を測るようにこちらを見つめて来る少女。やがて彼女は何かに気付いたように尋ねる。
「……もしかしてお兄さんも…………」
「他人の過去を詮索して何になる」
逃げるように答える。けれども彼女の視線はどこか寂しく揺れて離れない。
「過去だから聞かせてって言うのは、駄目? 全部終わった事で、どうしようもないこと。だから今更話をしても何も変わらない」
「……………………」
「私、お兄さんの事を知りたい。優しくは無いのかもしれないけれど、優しくて。今は私の傭兵さん。……もし話を聞かせてくれたら、私の事も話すから」
それは同情で、共感で、依存かもしれない。自分に似た何かを感じて、自分が今ここにいる事を実感する為に、目の前の何かに縋る。そうしないと自分と言う存在を見失ってしまいそうで怖いくらいに、今が分からない。
彼女の言葉にそう考えてしまうから、俺も同じなのかもしれないと胸の内で吐き捨てて。
「……とりあえず風呂が先だ。それから飯を食べて、眠れなければ子守唄でもうたってやる」
「ふふっ、決まりだね」
嬉しそうに笑う少女。何がそんなに楽しいのやら。
魔剣と言う存在に理由を丸投げして、再び顔を逸らし体を洗う。汚れを落として湯船に浸かれば、遅れて少女がこちらを覗きこんできた。
「一緒に入ってもいいよね」
一見すれば人間の少女その物だ。綺麗になったその姿は、長く艶やかな黒髪を着流し、水を弾く白い肩を上気させる。十五年の過去を背負うものとしては些か発育に欠ける小さな体は、人間基準でもう二つほど下に見える。これで多数の契約痕が無ければ、人間の少女と見間違えてそれなり以上の値がついてもおかしくは無い。
魔剣と言うだけで不思議な存在が、それ以上に鮮烈な過去を背負っている。その不釣合いな外と内に同情以上の興味が沸いている事に気が付く。
依頼主と傭兵なんて、そんな関係では無いのに……。
「ほわぁぁぁ……あったかぁい。人間っていいなぁ」
「入らなくて済むならその方が楽だろ」
「お兄さん贅沢だね」
湯の温かさにか頬を染めた少女がくすりと肩を揺らす。やがて狭い浴槽の中で体を反転させた少女は、木枠に腕と顎を乗せて夢見るように空を仰いだ。
「……私ね、逃げてきたんだ。そこはね、魔剣が集められた……研究所みたいなところでね、色々な実験がされてたの」
今は亡き故郷に思いを馳せるように。はたまた、そこに自分自身を置いてきたように。無くしてしまった何かを追い求めるように静かに紡ぎ始める。
「道具のように扱われるのは当たり前で、眠る時はいつも魔力がなくなって気を失った時。起きてる時は何かを調べられたり、勉強や訓練をしたり。食事は日に一回。……日って言うか、時間の感覚なんて無いような場所だけれどね」
背後の川のせせらぎが五線譜になって、その楽譜に彼女の声が曲を描く。後ろで支える微かな音は無い風の音と虫の鳴き声。
訥々と語りながらにして、意味と音をしっかり持った透き通った声に、ようやく彼女と言う存在を目の前に認識した気がした。
「そんなところにずっといたらさ、自分が何をしてるのかも分からなくなるんだよ。だから見失わないように、友達が出来たの。私と一緒の境遇にいた、琥珀色の髪にライムグリーンの瞳の、年のそれほど変わらない女の子」
戯れのように振り上げた小さな足が水面を打って飛沫を散らし、波紋を広げる。その際に、足の裏にも契約痕を一つ見つけた。
「寝てる振りで彼女と話をするのは楽しくて。だから私は笑うとか、怒るとか、そういう事を忘れられないでいられた。そういうのがもう出来ない子も、沢山いた」
一つ気付けば、意外と冷静にその証が目に入ってきた。
足首、内腿、腰、横腹、背中、肩、首、腕、爪。今まで彼女と言う存在から背けていた目をよくよく凝らせば、彼女の体で契約痕の無い場所が見当たらないくらいにその証を刻み込んでいる。
「それでも許してくれないって言うか、実験は止まらなくてね。二週間に一回はその日があった」
「……何の実験だったんだ?」
「何だろうね。詳しい事は聞かされなかったし、訊いたところでどうにかなる物でもなかったから。ただ私は、言われるがままにやってくる人たちと契約をしたの」
魔剣の契約は、基本的に死まで添い遂げるもの。例えるならば一軒家を建てるようなものだ。魔剣にはそれくらいの絶対的な強さがある。
それを二週間に一回のペースで替えるなんておかしな話だろう。
あと、先ほど二ヶ月に一度と計算したがどうやら間違いだったらしい。二週間に一回なら百回の契約は約四年に集約される。想像よりも更に不可思議なペースで契約を繰り返し続けたらしい。少なくともそれだけの間は件の組織に居たのだろう。
「……不思議でしょ? どうしてそんなに早く契約相手が入れ替わるのか」
「……………………」
「それはね、私が《コキ》だからなんだ」
《コキ》。その二つ名も《エモク》と一緒に聞いたものだ。その名前がつくようになった由来……。
「私ね、どうやら契約をすると相手から馬鹿みたいに魔力を吸い取っちゃうらしいんだ。そうしないと自分が維持できないからって言うのと、自分でコントロールできないから。無自覚に契約相手の魔力を吸い尽くしちゃうの」
「……加減の効かない呼吸って事か」
呟けば少女は頷く。
魔剣は生きるために魔力が必要だ。魔力は微量ながら自分でも生み出す事ができるが、魔剣としての力を使うには全く足りない。だから契約をして、魔具などにしか使用用途の見出せない人間が魔力を供給する。代わりに、人間は魔剣の力を武力として行使する。
因みに人間は魔力を生み出す効率がいい。……いや、魔剣の効率が悪い、と言うべきか。
まず魔物自体が魔力の塊だ。だからこそ人が呼吸するように、空気中に遍在する魔力を吸収して自分の力に変えることができる。そしてそれは、この世界に生きるもの全てが有する身体機能で、人間も例外では無い。もちろん吸収量や保有量に差はあるけれど、無意識に行っているそれらで不自由をするものではない。
けれど魔剣はこれが不得意なのだ。
魔剣は魔物である《天魔》が、剣を体とした存在だ。人型なのは一掴みだけ。金属は意思を持たないから、意図的に魔力を込めなければ自ら吸収することは無い。だから魔物としての体を持たない魔剣は、その前提が邪魔をして他の生物のように自由な魔力の吸収が出来ないのだ。人型を持つ目の前の彼女もきっと同様で、剣と言う寄り代が吸収の妨げになっているということだ。
それから、存在にも魔力を必要とする。そのため吸収をしても魔剣として溜めておける量が少ないのだ。
それらを補う為に契約による供給に頼らざるを得なくなる。
また、その魔力の吸収量は保有する魔力量に比例し、魔剣が存在をしたり力を発揮する為に必要な魔力の量を魔食量と言われる。この魔食量が、彼女の場合極端に大きいのだ。
「その吸収量……人は魔食量って言ったっけ? それが契約相手の持つ魔力量を上回っているらしくって、限界を超えて吸収しちゃうの。で、魔力を吸い尽くすと今度は契約相手の生命力まですり減らす事になるの」
生命力もエネルギーの一つ。特に吸収以外に自ら生み出す魔力はその生命力が余剰したものだ。だから足りないものを補って歯止めの利かない侵食が契約者を襲う。
「魔力がなくなって生命力が吸われた人間がどうなるか知ってる?」
「……いや」
「正気を失うんだ。形は様々だけれど、命を蝕まれて生きるために形振りを構わなくなるの。周りが全員敵に見えるのか、手のつけられないほど暴れ始めたり、苦しみから解放されようと死ぬ事を選んだり。極稀に、動く事を諦めて衰弱死する人も居る。……私を殺そうとした人もいたよ。その人は研究に立ちあった人に止められてたけれどね」
それらを彼女は見てきたのだろう。だからこれまでの話が嘘だとは思わないし、嫌に鮮明に想像できる。
それから、その組織にとっては契約者の人間よりも魔剣である彼女の方が大切だったということだ。
「最終的にその人達は私の魔食量に耐えられなくて死んじゃうの。……これが《コキ》の名前の由来だって」
理由も分からず契約を強要され、結末に人を殺す。それを百度も経験すれば、心が壊れたっておかしくは無い。そんな、彼女にとって地獄のような光景が、二週間に一度……最低でも四年間続いたのだ。逃げたくもなるだろう。
「で、契約をするたびにその証が体に刻まれる。だから他の魔剣ではありえないくらいに体を黒く染めた姿を指して、《エモク》」
「《スクイ》は?」
「《コキ》と同じだよ。私が契約者を殺すたびにいつからか人が付け始めた名前の一つ。……私は、契約相手を救った事なんて一度もないのにね」
いつしかこちらを向いていた少女が、脚を折って湯の中で自分の体を強く抱きしめて小さく蹲る。まるで制御の効かない良心の呵責に必死に耐えるように。その身に刻まれた痕を消そうと掻き毟るように。
「……こんな異名なら両手の指では足りないくらいに持ってるよ? 全部聞きたい?」
「…………逃げてきたお前がこれ以上自分の心を痛めつけて何になる」
「ふふっ、そうだね」
そうして笑う彼女はやっぱりどこか歪で。戻しようの無いほどに壊れているのだろう。
だからその組織から逃げてきたのだ。もう誰も、自分の所為で殺したくないと。何の為かも分からない研究の言いなりになりたくないと。
「…………話から察するに、そこから逃げて来る時に友人と逸れたのか?」
「……うん。逃げようとして、捕まりそうになって……あの子が私だけを逃がしてくれたの。だから自由になった私が、今度はあの子を助けないと」
ある種の強迫観念のように、抱いた思いを一つも落とさないようにと湯を掬いあげた手のひらを見つめる少女。小さく、白く、華奢なその体に、十五年以上の鮮烈な過去を刻み込んで、それでもなくしたくないものに縋る姿に彼女の覚悟を知る。
「でも私一人じゃきっと無理だから。もしお兄さんが手を貸してくれるなら嬉しいかなって。もちろん、それに見合うだけのお礼は迷惑だって言われても突き返すから」
「そりゃあ頼もしい限りだな」
殊更明るく告げた声に冗談のような声を返して湯船からあがる。と、突然の事に驚いたのか、それとも一緒に入っていたと言う事実を忘れていたのか。こちらの体を見上げて顔を赤くした少女が目を覆って逃げるように顔を背けた。
「んひゃうぁっ!?」
「先にあがる。服もそろそろ乾いてるだろうしな。浴槽は湯を捨てて壁に立て掛けておけ」
「か、片付けを押し付けようとしないでよっ。それにまだお兄さんの話が…………」
「…………話は、飯を食った後だ」
答えながら、湯に浸かる前に洗って火で乾かしていた服を回収し、体を拭いて服を着る。
その日暮らしの金に困る生活だ。当然、服だって一着しかない。普段はローブを着ているお陰で目立ったほつれなどはないが、そろそろもう一着くらい服があってもいいかもしれないと思案する。
その為にも任務の達成は急務だ。彼女との契約よりも探し物の方が先約だしな。
片付けを押し付ける事に失敗して小さく息を吐きつつ道具を元に戻せば、割り当てられた部屋に戻る。どうでもいいが、彼女は服と言うものを持っていないらしい。一応下着と言うか……肌着のような物は一枚着ているが、それだけだ。まぁ魔剣である彼女にしてみれば衣服なんて必要ないのかもしれないが。
そうして戻ってきた部屋で、買っておいたパンやら木の実やらを組み合わせて遅い夕食を作る。
とは言っても建物の中だ。火を熾す事は出来ないし、残念ながら調理場のようなものもこの傭兵宿には併設されてはいない。暖かいものを食べるなら先ほどの風呂の際に一緒に作っておくべきだったと小さく後悔をする。
思いつつ、少女に短剣を一本作ってもらい、楕円形のパンに縦半分の切込みを入れる。そこに香草と木の実を挟んで出来上がった料理にも満たない食べ物を材料のある限りに作る。
贅沢を言うなら肉にチーズなどがあれば少し炙って食事を楽しめるのだが、そんな金は何処にもない。それよりもこうしてまともな食事を食べられる事にこそ感謝をするべきだろう。その身を砕いてまで身を守ってくれた相棒に感謝だ。
「……食うか?」
「いいの? でも私今返せるものなんて……」
「明日その分働いてくれればいい。荷物が増える方が厄介だ」
「……もう少し言い方があると思うけれどなぁ…………。ありがとう」
僅かに頬を染めて礼を言う少女。そうしていれば普通の女の子に見えないこともないのに。不意に目に入る契約痕が彼女を人なざらざる者だと現実に引き戻す。
そんな感慨を振り払うように少し乱暴に自分のパンを噛み千切って水で流し込んだ。
「……で、お兄さんの話は?」
「催促が過ぎるな。そんなに美味しくないなら食べなくてもいいんだぞ?」
「これを美味しくないって言ったら、私がこれまで食べてきた物は草の塊に塩水だね」
自嘲するように笑った少女。そんな事だろうと思ってはいたが、彼女が逃げてきた研究所ではまともな生活をしていなかったらしい。無理をすれば食べられそうなのが嫌にリアルだ。
そんな彼女の過去と、今の生活と……。色々なものが足りない現状を見渡して、己の過去がどれだけ恵まれていたのかを知る。
「…………もしこれが贅沢だって言うのなら、俺が生きてた頃の生活はまさに理想郷だな」
「……? 生きてた頃? 何の話?」
「……俺は、一度死んだ事があるんだよ」
約束してしまったからには仕方ないと。掛けていた記憶の鍵を開けて黒く渦巻く過去を覗き込む。
「別に信じなくてもいいけれどな、俺は元々この世界の人間じゃない。有体に言うならば、異世界人だ」
「……異世界?」
「ここじゃないどこかだな。その世界は、食べ物が溢れ、技術が躍進し、魔物なんていない……。けれど人間同士で戦や争いがおきているような世界…………地球って言う惑星の、日本って言う国のお話だ」
「チキュウ、ニッポン……」
彼女にしてみれば聞きなれない単語だろう。けれどそれは、俺にとっても同じこと。元地球人であるこちらにしてみればこの地が異世界、見知らぬ場所だ。
「俺はそこで生まれ育って、何をするでもなく学校に通い、世間と無意識に翻弄されて死んだ。自殺で、十五の時だ」
客観的に全てを俯瞰して淡々と語る。言葉にするたびに口の中に広がる、苦くやりきれない思いを潰すようにパンを一口齧っては力任せに磨り潰して呑み下す。
「……自殺って、自分で死んだの? どうして?」
「…………いじめ。差別って言った方が分かりやすいか?」
俺が生きていた時代ではそれほど珍しくもなくなってきていた問題。だからこそ世間の興味関心が尽きなかった玩具箱。その壊れた歯車の一つに俺が投げ込まれただけのこと。
「理由なんてそれこそ些細なことだ。ただあいつらにしてみればそうして誰かを標的にしていないと自分が分からなくて怖かったんだろうさ。その自己解釈に塗れた確信犯に追い詰められて、耐えられなくなって、自殺した」
死ぬ瞬間の苦しみは覚えていない。ただその寸前。恐怖も感じない目の前の死にゆっくりと歩いていく光景だけは覚えている。
出来る限り迷惑を掛けたくなくて、飛び降りも飛び込みもできなかったから、自室のカーテンレールにビニールロープで絞首装置を作っただけの無意味で軽い命。首筋に手を当てれば、そこには戒めのような赤黒い痕が残っている気がした。
「で、目が覚めたらこの世界に召喚されてたってわけだ。……後から聞いた話だと、この世界には命を落とした奴が稀に転生するような仕組みがあるらしいな。丁度そこに俺が選ばれたってわけだ」
「……それじゃあ、お兄さんは別の世界で生まれて、育って……自殺して。それからこの世界にやってきたってこと?」
「異世界転生。一言で言えばそういうことだな」
あちらでの世界の俺は既に終わったこと。だから語ったところで別段感傷も湧いてこないし、死を選ぶしかなかった環境に比べれば、今の自分で選んで生きている方が正しいあり方だとさえ思うくらいだ。
「俺が自殺をしたのは十五……丁度今のお前と同じ年だな。で、こっちに来てから二年経つから、今は十七だ」
「…………なんで死んじゃったの? いじめって……差別ってどうにかならなかったの?」
「どうにかなってたら俺はここにいないだろうな」
今更あの苦痛しかなかった世界に戻りたいとは思わないけれども。
「……理由っていうかな、色々あったんだよ。これ以上聞くと気分悪くするけど、それでも聞きたいか?」
「…………話したくない?」
「別に。全部終わった事だ。俺の中でもあれは俺に似た誰かの別の人生だって整理がついてる。……ただ自分から進んで話すものでもないけれどな」
零した言葉は本心で、考え込むように顔を伏せる少女。手に握られたパンは数度齧られただけでそれ以降彼女の口には運ばれていない。
「それとも食事が不味くなるか?」
「…………。私も聞いてもらったし、話してくれるなら聞きたい」
指摘されて一口咀嚼した彼女は、それから覚悟を決めたように顔をあげ、赤い瞳でこちらを見つめる。
他人の過去なんて他人の出来事。聞いたところで自分の糧になんてなりはしない。けれど話して、聞いて、自己満足に浸る事は出来るだろう。……不幸自慢なんて不毛なことだが。
「……一番の理由は、名前だ」
「名前? ……あれ、そう言えば私お兄さんの名前をまだ知らない…………」
「今は名無し……こっちに来たときに気分を入れ替えて捨てたからな。死んだ理由を引っ張って新しい人生歩むなんて嫌だろう? 今のところそれで不便はしてないしな」
語りだせば口を開けた蛇口のように次々と言葉が溢れてくる。それが自分の胸の内に溜まっていたものだと気づいたのは、半分以上話した後だったように思う。
「名前が理由でいじめられて、自殺に至った。ってのが具体的な理由だがな。その背景……って言うか自殺を決めるまでにも色々あってな。……名前──綺麗事で語れば人間のそれは親に付けてもらう最初の贈り物だ。こういう風に育って欲しい、あんな思いを込めた大切な響き。意味のある音の羅列。……けれどだからって、そこに親のエゴを……こうなれって言う命令を押し付けるものじゃあないはずだ」
だから大切なこととして悩んで、希望を詰め込むのだ。彼には、彼女には、立派に生きて欲しいと。
「例えばの話、そこの机に固有名詞を付けるとしたらお前はどうする?」
「え……?」
「我が子のように可愛がりたくて、愛情の徴として一生の名前を送るなんていうことが許されるのならば、どんな名前を付ける?」
「……………………」
それを机と言う道具だと割り切れるのならば簡単な話かもしれない。けれど命あるものとして認識した瞬間、葛藤と苦悩が始まるのだ。よりよいものへ、より独自性のあるものへ。自分しかつけられない名前へ…………。
「直ぐには決められないだろう? だから気持ちだけが募って、少しだけ無茶をすることだってありえる。普通じゃありえないよう名前を付ける事だってありえる……。その一人が……一つが、俺だ。自殺を選んだくらいだから言いたく無いけれどな」
元いた世界……日本では、キラキラネームと呼ばれる括りに入るのだろう。少なくとも日本古来からあるような親しまれた響きではない、どちらかといえば西洋風な響きに無理矢理漢字をはめ込んだようなユニークさ溢れる一品だ。
「別にそれ自体を悪く言おうってことじゃないさ。親と子がしっかり納得してその名前を受け入れてるならそれ以上他人が口を挟むべきことじゃない。……ただ俺個人はそう思わなかったってだけだ」
差別を、する訳では無いけれど。日本と言う場所は暗黙の了解として協調性を重んじる風土があった。だから似ているもの、許容できるものと、そうでないものの線引きに溝がよく作られて、それが大きな問題にまで発展したりすることもあった。
良いものを良いと言わずに間接的に褒めるくせに、悪い物は苛烈に批難する。揚げ足を取り、違いを論い、異分子を排除しようとする。そうして、安定と言う名の自己を確立しようとする。
言ってしまえば、変わった事が苦手な臆病の無意識に覆われた集団だったのだ。
周りがそうしないから、自分もしない。特別なアクションをして浮きたく無い。理解されたい、共感をして欲しい。蔑まれたく無い。疎まれたく無い。……そうして、誰かが特別な事をするまで足首を紐で結び歩き続け、誰かが大きな脚光を浴びたら、走光性の生物のように大挙して我先に……周りに遅れまいと走り出す。
自分というものが薄い……特別になろうとしない、奇跡を待っているだけの受動的生物。
「小学生……歳が一桁の時はまだよかったさ。子供心に自分には無い特別性を羨ましがってある種の英雄のような扱いも受けた。祀り上げられるようで恥ずかしくはあったが、承認欲求染みた自己の確立を周りがしてくれたからな。……けれど高学年になると今度は協調性と異分子が周りの自己を確立するための道具に変化した。簡単に言えば、時間を経るにつれて周りと違う事に過敏に反応するようになったんだよ」
子供の頃はよく物語に、ヒーローに、ヒロインに憧れた。子供特有の理想と現実の境界が曖昧になって自己投影をするあれだ。物語の主人公のように特別な力が使いたいとか。愛し愛される恋がしてみたいとか。理想が自分にも起こって欲しいと空想が現実になる事を夢見た……ごっこ遊びの延長。
しかし年を経て、現実が分かり始めると焦点が目の前と足元に向いてくる。フィクションはフィクションで、存在しない。現実と理想を隔てて、娯楽として楽しむように価値観が変化する。はたまた、漫画やアニメのような娯楽から距離を置き始める。それは空想で、現実に存在しないから子供騙しの幼稚なものだと。
その際に、まるで物語の中から出てきたような特別さを纏う存在が傍に居るとどうなるか……。結論は明白だ。
「特別さは異質さへと変わって。孤高は相容れない存在に成り下がる。結果、いつしかその独自性が周りと違う事を理由に差別へ、いじめへ発展するんだよ。他人の否定、自分の肯定。人が一人で生きられないって言うのは、表裏一体に他人の中に自分を見つけられないと自己を見失ってしまうから。それが無意識の悪意を持って、変わったものを遠ざけるようになる」
大人に……自分の事を自分で決められるようになればそんな歪んだ自己確立が愚かなことだと鼻で笑えるのに。子供で、無邪気で、自分本位な成長途中は、他人の上にしか自分を見つけられないのだ。
変わったものを批難すれば、自分を常識的に思えるし。批難されれば、相手はそうするしか自分を認められないのだと卑下する事が出来る。
精神的マウントを取ろうとか、そんな小難しい話は言葉にならない感情論で。ただ何かが嫌だから嫌悪する。そうして、自分の認められないものを排斥しようとする。
「そうしたらほら、周りがやってるから自分も大多数に入れば正当化されると勘違いする。問題が起きて当事者になるくらいなら、衆人環視の立場から野次馬として物事を楽しんだ方が賢いとさえ思えてくる。……誰だって、燃え盛っている家の中に理由もなく足を踏み入れたくは無いだろう?」
「……………………」
「無意識ってのは、言葉にしないから意味があるんだ。誰も言葉にしないから誰も言葉に出来なくなる。その最初の誰かになって今度は自分が被害者になりたく無いからと、忌避する。臆病で、傲慢で、自己中心的な馬鹿な考え方だ。……でもそれが人間で、そうする事でしか今を実感できない。何せ自分を肯定してくれる物語染みた特別性が周りに無いんだからな」
価値観が変わる事を言い訳に大多数について回るのは自己がない証拠だ。そんな世界を見せ付けられたから、俺は居場所を見失った。
「誰かが違うと言い出せば異質なものとして認識される。大衆の無意識に組み込まれた空想の常識が形を持って行動に昇華する。やがて人では無い何かに触れるように遠ざけられ、人では無い何かのような扱いを受ける」
今更どんな体験をしたかなんて具体的に思い出して嫌悪感を募らせるほど馬鹿では無いつもりだ。それくらいには周囲に興味を失って、絶望したから逃げたのだ。
「居場所が見つけられなくて、周りに味方がいなくて。心の底から自分以外が全て敵に思えたのなら、吹っ切れて蛮勇と崇められていたのかもな」
「…………思えたらって、誰か、いたの?」
「いなかったさ。だからいると……子供らしくいて欲しいと願って、裏切られたんだ。自分を守る為に自分を正当化しようと同意を求めるように縋って、失敗したんだ」
「……………………」
「……母親だ」
視線に答えれば、少女の肩がびくりと震えた。
たった一言で、今まで語ってきた世界から光が消えたように。希望など、初めから無かったのだと悟るように。
「人ってのはどうにも未熟な生き物でな。誰かに助けられて、逆に助けてを繰り返さないと生きられない生き物なんだ。生まれたときから料理ができるわけでもない、常識だって知らない。周りからそれらを得て成長していく。その過程で、最も慕うべき相手が親だ。……俺には父親はいなかったけれどな」
あの人は話題を出す事を避け、尋ねれば怒ったから詳しくは知らないけれど。どうやら他の女と蒸発したらしい。その事実もまた、俺が周りと違う何かだと倦厭される一つの理由になった。
「もちろん彼女の言い分も理解できないものでは無いさ。腹を痛めて生んだ子供だ。彼女なりに想いを込めて付けた名前だ。大切じゃないわけは無いだろう。ただ、だったら俺の言い分だって理解もして欲しかったさ。……けれどそうはしてくれなかった。訴えは頭ごなしに大人と子供を理由に否定され、話を聞く耳すら持ってもらえなかった。難儀なものだよな。俺のいた国じゃあ十五歳未満は親の同意無しには自分の事ですらまともに決められないんだからな」
子供らしく、大人の真似をして叫んだ言葉。押し付けがましいかもしれないが、大人なら……親なら子供の異変とシグナルには向き合うべきだというのが価値観だ。甘えだろうか?
どれだけ苦痛を感じ、居心地が悪くとも、子供と言う生き物は非力だ。男でも女でもない、子供と言う第三の性別はそれを理由に様々な枷を嵌められる。守られながら、自由を奪われる。その不自由が、俺の最後の良心を壊しただけのこと。
「味方がいないと悟ったら、最早世界に意味なんて感じなかったさ。反抗するように登校拒否をして自室に篭もれば、扉の前で常識を建前に自己の保身を口走った彼女を、自分の親だと思うのさえ辛かった。居場所も無く、肯定してくれる人もいない。……そうなったらカルトに肉体の誓約なんて軽い戒めだった。やけになって線路に飛び込まなかっただけまだ周りの事を考えてたって褒めて欲しいくらいだよ」
吐き捨てるように語れば、部屋の中に沈黙が落ちている事に気がついた。少しだけ気になって顔を上げれば、こちらを見つめていた少女の視線と交わって、それから彼女は逃げ場を探すように顔を逸らした。
きっとそれが正しい反応だろう。別に共感してもらおうとも思わないが、そう簡単に受け入れて欲しくもない。少なくとも、同情で言葉を掛けてこなかったことには感謝をした。経緯は別として、彼女も彼女個人を殺されて今ここに居るのだ。葛藤の上に言葉に詰まるのは致し方の無いことだろう。
そうして僅かに流れた空白にゆっくりと町の静かな喧騒が音として耳に戻って来ると、少しだけ吹っ切れた心持ちでその後を紡ぐ。
「…………で、目が覚めたらこの世界に居たってわけだ。世界の名前はコーズミマって言ったか。そのセレスタイン帝国ってところに転生して……また一悶着あって今に至るってわけだ」
これ以上言葉を重ねても眠れなくなるだけだと過程を省略する。が、ようやく知っている世界の話になったからか、無言でこちらを見つめる少女の視線に諦めて答える。
「……別に大したことじゃないって言うか、聞いたら巻き込まれるけれどいいのか?」
「ここまで聞いておいて、そこを聞かないってのは逆に納得できないよ」
「…………事件って言えばそれまでだ。話した通り、この世界には命を落とした奴が転生するようなシステムがある。それに引っかかって偶然ここにやってきた俺は、何の間違いか英雄みたいな扱いを受けたんだ」
封印していた記憶からその時の事を思い出しつつゆっくりと語る。世界に絶望した俺が、死に切れなかったのかと見慣れない景色に困惑している最中の事だ。
「目の前にいたのは研究服っぽいのを着た大人で、怖くなって思わず逃げ出そうとした。けれど取り押さえられて、連れて行かれたのはでっかい城だった。その途中で、言葉が通じることにも気がついた。おかしな話とは思ったけれど、考える事は放棄した。今になって思えば、こっちにくるときに何かしらの影響を受けてこの世界にチューニングでもされたんだろうよ。魔物がいて、魔剣に魔術がある世界で転生まであるんだ。言語のすり合わせが起きたって別に驚きはしなかったさ」
因みにこの世界の言語は一つで統一されている。多少地域によって方言のような差異はあるようだが、基本は公用語が一つだ。だから言語による問題は起き辛い。
「ちょっと広い、賓客用の部屋に通されて、そこで混乱に混乱を重ねるような話を色々聞いた。転生だとか魔剣だとかだな。もちろんいきなりそんな話をされて直ぐに飲み込む事ができるほど冷静でもなかったさ。だから話半分に聞きながら、これからどうしようかってことだけを考えてた。で、説明を少し咀嚼して少なくとも前の世界で死ねたという事実だけがある種の原動力にはなった」
苦痛しか感じなかった過去と決別できたのだと。そう思うと湧き上がってきたのは途方もないほどに枝分かれして先の見えない未来だった。
「だからやり直す事に決めた。俺の存在なんて最初から無かったこの場所で、一から自分で選んで歩き出す。いらないものは切り捨てて必要なものだけに手を伸ばして。どこかで望んでいた希望のような何かを手に入れるために。……その始まりの証拠として名前を捨てたんだ」
己を死にまで追いやった鎖を引きずって生きていくなんてごめんだ。折角すくい上げられた命を無駄にしたくは無いだろう。
馬鹿な選択だというのは分かりきった事だ。けれどそうしてリセットするほか無かったくらいに追い詰められていた。それだけの事だ。この胸に渦巻く感情を誰かに理解してもらおうとは思わない。
「……その後は? それは二年前の話だよね? 国に召喚されたなら、その国で過ごせるんじゃないの? どうして傭兵をしてるの?」
問いかけは見たく無いものを、けれど見なければならないと自分に言い聞かせたような責任染みた響き。別に彼女が俺の事で悩む必要なんて無いだろうに。不用意な同情は自分を狂わせるだけだ。
真っ直ぐな疑問に少しだけ考えて、けれどここまで喋ったなら同じだと最後まで吐き出す。
「…………本来ならそうだろうな。普通に頷いていれば余程の事が無い限りこんな生活はしなくて済んだはずだ。ただ、その誘いに頷く選択肢をまた無意識に潰されただけだ」
「……………………」
「召喚された奴ってのは何かしら特別な力を持ってる奴が多いんだとさ。異世界の理で生きてた生命だから、こっちの世界に来るとあっちの世界では眠ってた物が活性化するとか何とか……。その調査を一通り受けて、俺には膨大な魔力がある事が分かった」
過去にこの異世界にやってきた者の中には、その身一つで一騎当千の如き力を宿した者もいたらしい。それこそ物語の英雄染みた運命だろう。
「ただそんな魔力、沢山あっても人間一人じゃ使う術が無いだろ。人間は魔物と違って魔術のような特別な力が身一つじゃあ使えないんだからな。日常の魔具の使用はほんの少しの魔力でいいし、活用しようと思うと魔剣と契約する他に選択肢がなくなる。そうなれば必然押し付けられたさ。国が管理する魔剣と契約して魔物と戦って欲しい。俺なら両手の指と同じ数の魔剣と契約してもまだ魔力が余るだろうってな」
魔剣は秘められた力の大きさに比例するように要求される魔力量が多くなる。つまり沢山魔力を持っていればそれだけ強力な魔剣を操れるようになるというわけだ。
その時聞かされた話によれば、国の一般的な騎士が持つ魔剣の数が一本。戦局を左右するほどの人物になると二本か三本と言うのが基準になるらしいと。それと比べれば片手の指の数でさえ破格と言うべきものだ。
当然、国が管理する魔剣だ。中には一級品以上の特別な物もあった。ともすれば宿主を枯らし殺すほどに魔力を奪う彼女に匹敵するほどの物もあったのかもしれない。
「最初は心躍ったさ。虐げられてきた俺が英雄のような力を手に出来るかもしれない。物語の登場人物のような冒険ができるかもしれない。二年前の俺は十五歳で、歪んではいたけれど人並みに子供だったんだ。憧れに手が届くと教えられれば、新しい生のスタートに丁度いいとさえ頷こうとした。……けれどそのために提示された前提に、俺は呪って、恨んださ」
子供の……男の野心なんて単純で壮大だ。だからこそある程度の対価なら払う覚悟はあった。それだけで自分の道を歩めるのなら、と。けれど────
「…………魔剣との契約。それに必要な条件が二つ。知ってるよな?」
「……魔剣に供給できる魔力と────名前」
ふざけるなと。
衝動的にそう叫びそうになったあの時の俺は、けれど激情よりも諦めが先に湧いてきて、乾いた笑いを零すことしかできなかった。
「契約は、互いの名前で縛る繋がりだ。それに付随して、契約後には人間の方には振る舞いに由来する二つ名──誡名が。魔剣の方には振るう力に由来する二つ名──誡銘がつくようになる。それくらいには名前と言うのが神聖視されるほどの力を持つものだと、聞きたく無い事を聞かされた」
名前に意味があるのなんて。知った事だ。
けれど俺には、意味以上に忌みしかなかった。
「お前の《コキ》や《エモク》もその一つだな。尤も、お前のそれは正式なものじゃなくて記号のようなものだろうけれどな」
「…………」
彼女には聞きたく無い言葉かもしれないが、語るだけこちらの心があの頃に戻って荒むのだ。嫌な事を話している対価に八つ当たりくらいさせて欲しい。
「そんな事を言われて俺が頷けるはずもないのは分かりきったことだ。けどあっちは俺の魔力量が魅力だったんだろうよ。抱えられれば大きな戦力にはなるだろうからな。軟禁状態で根競べだ。面倒な大人の問題に巻き込まれてうんざりしたさ。……だから逃げてきたんだよ。そうすれば自分の事を自分で決めて自分にだけ縋って生きられるからな。例え捕まったとしても俺の責任。後悔なんて初めからなかったさ」
もちろん色々策は考えた。どうすれば抜け出せるかを必死に検討して行動に移した。その結果運よく一回目でその幸運を掴めたのだ。
もしその最初が失敗していれば牢獄にでも突っ込まれていたかもしれない。そうなれば逆にこちらが優位になれる根競べだとも思った。欲しいなら自分自身を餌にして脅せばいいのだと。そうして最大限の譲歩を勝ち取っていずれ国を出ればいいのだと。
形振り構わず何処までも打算的に。その時ようやく、自分の内側にあった非情さに気付いたのだ。それが今の俺を作っているに過ぎない。
他人を信用せず、リスクは最低限に抑える。選べるのならば、最も利益の望める方法を取る。当たり前と言えばそれまでの自由だ。
「……ただ行くあてはなかった。残念ながらここにやってきてから、外には出してもらえなかったからな。土地勘がない中でできるだけ遠くにと足を向けて。気付いたら森の中で遭難だ。自分で選んだ結果に呆れも湧いてこなかった」
絶望とも諦観とも違う。最早それさえも通り越した満足で、もしこのまま死ねるならそれもいいとさえ思った。
「当て所もなく歩いて、やがて見つけたのは動物を捕らえる罠一つ。丁度そこに兎が一匹掛かってて、他人の食料がどうとか、そんな良識的判断なんてなかったさ。既に四日ろくな睡眠もせずに彷徨ってたんだ。ただの肉の塊にしか思えなかった」
生きるため。唯一つ残った生存本能だけが目の前の命を自分の糧にすることだけを考えていた。
「まだ生きてたから、その辺りにあった木の棒で息の根を止めて、捌いて焼いて……。経験はなかったが少しでも食えればそれでいいってな。けど兎を殺そうとしたところで声を掛けられた。そこに立ってたのは男で、敵にしか思えなかった。敵か味方かの話をする余裕すらなかったからな。気付けば本能に従って棒切れ一本で大人を殺しに掛かってた」
極限状態が正常な判断を奪う。それを身を以って体験する事になるとは思わなかったけれど、お陰でその醜さが同情を誘うきっかけにでもなったのだろう。
「そこからの事は曖昧だが、ある程度年老いたその男にいいようにあしらわれて、傷一つつけられないまま気絶したんだろうな。次に意識が確かな自分を認識したのは森の中の小屋だった。情けなのか親切心なのか、俺はその爺さんに助けられたんだ」
後から聞いた話では、ただの気紛れだったらしい。
「森の中で隠遁生活してた爺さんの人恋しさに助けられて、出された食事に無警戒で飛びついて。もし毒でも入ってたらどうするつもりだったんだろうなって今になって思うさ。けどそうしたら、久しぶりに自分以外の暖かさに触れたせいか、自分のしてきた馬鹿さ加減にようやく正常な判断が出来た」
人間は人間である以上、人間らしい生活からは逃れられない。その事を改めて実感すれば、居場所の無い自分がとても小さく思えた。
「思わず行き場の無い事を零したら、やりたい事が見つかるまでここにいればいいってな。……そうして爺さんと自然の中で生活を始めた。必要最低限の知識と、爺さんが趣味で身につけたらしい剣術を盗んで。気付いたら二年近くが経ってた。……実を言うとな、外に出てきたのはここ最近で、それまではずっと森の中にいたんだよ。だから世間知らずさで言えばお前とほぼ同等だな」
別に隠すつもりは無かったけれど。魔剣相手に人の世界の事で負けたくないと言う意地が働いて上から目線でものを言い続けただけだ。だからこの世界に関する知識については、彼女より多少ある、と言う程度でしかない。
「……でも、外に出てきたって事は何か目的を見つけたってこと?」
「目的なんてそんな大層なものじゃないさ。ただずっと世話になって爺さんの世界を掻き乱すのも悪いからな。そもそもこの世界では自分で選んで生きるって決めてたんだ。その自立を思い出して飛び出しただけだ。で、今は傭兵紛いで依頼をこなして日銭稼ぎ。そこに偶然お前が山の斜面から転がり落ちてきたってわけだ」
どうにか今この瞬間にまで着地できた話に胸の内の息を吐き出す。少しだけ熱っぽく感じたのはそれだけ語りに集中していたからか。それとも窓から入ってきた冷たい夜風のせいか。金属の水差しに入った水を一口飲んで、話を終えるように告げる。
「……だから今の俺には金も、居場所も……名前もない。こんなこと、誰にも話すつもりも無かったから知らなくて当然だ。この世界にいる誰も、俺のことなんて知らない。あの爺さんにも前の名前は教えてない」
「…………ごめんなさい」
「何がだ」
「名前のこと。勝手に知った風な口を利いて、お兄さんを傷つけた……」
────人はいいよね。生まれたときに親から愛のある名前を貰って
「でも、知らなかったからって、それを謝らない理由にはしたくない。私は、お兄さんを追い詰めた人たちと一緒になりたく無い」
「それこそ身勝手な同情だな。……まぁ本心なら勝手に思ってろ」
「うん」
決まった名前がないのは彼女も同じだろうに。人以上にお人好しなんて魔剣の名が聞いて呆れる。……だからこそ、彼女に同情してしまうのかもしれない。
「…………なんだか、似てるね」
「は?」
聞き返せば、傷口を撫でるように零す少女。
「私も名前が無いから。……正確には、色々な名前で呼ばれすぎて自分の名前を忘れちゃった。あった筈なんだけれどね、名前」
名無しと名無しの出会いなんて酷い話だ。物語なら固有名詞が無くて迷惑するところだろう。
「……ね、なんだか似てない? 私達っ」
「…………一緒にすんな」
ざわついた胸のうちから目を背けるように視線を逸らせば、こちらを見つめる少女はどこか嬉しそうに笑みを浮かべたのだった。