第四章
魔障に侵されたドラゴンとの交錯を経て。ベリル連邦との国境ルチル山脈を越えユークレース司教国領に入ると下山し近場の町へ。到着するや否や、周りからの視線に晒されつつ宿を取ると、そのまま市場にやってくる。
沢山の人が往来する活気溢れる場所へ不躾に馬車で乗り付けたことにあまり歓迎されない目を向けられたが、それも一瞬。荷台にある極上の商品に気付いた商人が人垣の合間を縫ってやってくる。気がつけば、周りには数人の男がこちらを見上げていた。
「旅人さんっ、そちらの荷台に積んであるのはもしや…………」
「あぁ、ルチルに棲むドラゴンの角だ」
答えたのは御者台から降りたショウ。その飾らない物言いに、商人だけでなく衆人環視までがざわつく。
「いかがなさるおつもりで?」
「当然売りに出す。が、面倒な駆け引きはやりたくない。競売にかけたいんだが、案内してくれるか?」
「もちろんですとも。ささっ、こちらへ!」
商人が歩き出せば、その行く先がモーセが杖を振るが如く人垣の海が割れる。これは少しいい気分になりかねないと一応の警戒に角の傍に腰をおろして辺りを見渡す。
……不審な動きはないか。まぁこんな場所で仕掛けてくる馬鹿は居ないかと。少しだけ安堵しながら馬車の行く末に目を向けたのだった。
町の名はトリフェイン。ルチル山脈を越えてベリルからやってきた旅人の殆どが立ち寄る場所で、観光などで栄えている宿場町らしい。そんなトリフェインで、まず最初に手をつけたのは懐事情の改革だった。
越境で遭遇したドラゴン。魔障に罹った普通ではない個体との交錯の末、二度目の戦闘でしっかりと対策を打てば撃退できたドラゴンから獲た戦利品。十分に成長したドラゴンの片角。
人の身の数倍はあるそれは、様々な用途が見込める材料で、様々な所から手が伸びる代物だ。
とは言え旅をする身には持て余すがらくた。ならばと懐を暖める為に需要に供給するのは当然の利用価値だろう。
案内された競売場で幾つかの手続きをこなしながら、興奮冷めやらぬと言った様子の商人と言葉を交わす。
どうやらその男は雑貨商で、角の一欠片だけで考えても魔除けに装飾品にと用途は様々らしく、又売りや加工をどこかへ任せて完成品を売り捌くと言った未来を想像して弁に熱が入っている様子だ。まぁこれだけの質量。物が物だけに数多もの可能性が犇いていて興奮する気持ちも分かる。俺が同じ立場なら、一欠片でも絶対に欲しい商品だろう。
ドラゴンの角は稀少な材料だ。その硬度は生半可な金属よりも高く、武器にすれば一級品。削り出して食器などにすれば家宝に。そのまま飾るだけでも確かな証になるだろう。
それくらいには市場に出回らない存在で、だから市場も先ほどから煩いほどに沸いている。競りはまだかと既に待ちきれない輩が押しかけているようだ。
「凄いね……」
「これを見て偽物とは思えないだろうからな。魔力も宿ってるし、欠片でも随分な価値だ」
月の石、なんて言葉が脳裏を過ぎったが、彼らにしてみればそれほどの価値があるのだろう。お陰でこちらは楽をして儲けられるのだからありがたい話だが。
考えていると何か問題でもあったのか、細かいやり取りをしていたはずのショウがやってきた。
「ミノ、あれあのまま出すのか?」
「どうした。何か問題か?」
「いやな、あれだけの大きさだから予想出来る値が馬鹿高いものになるらしくてな。例えば誰かが落札しても、その後の始末で更に金が動いてバランスが崩れかねないとかで、どうにかならないかって泣きつかれてよぉ」
ショウの声に、それから確かにと思う。向こうの世界でも大きな宝石には阿呆みたいな価値がついていたが、今回のこれはそれとは比較にならない規模。ともすればこの町の財政すら脅かしかねない代物だ。そんなのが丸ごと放り出されては様々な所に影響が出るのだろう。
「小さくすればいいのか?」
「頼んでもいいか?」
「ん、分かった。カレン、出番だ」
「まじかー……。ま、斬り応えがあるから別に構わないけどねっ」
斬る事に快楽を……なんて妖刀染みた感性を育み始めた魔剣を一瞥して手を出せば、契約痕が疼いて彼女が顕現する。
出品を待つ様々な商品と並んで…………その他を雑兵のように睥睨しながらそこに鎮座する存在感に近寄れば、取り囲んでいた男達が距離を置きこちらを見つめてくる。彼らからすればこんな商品を扱うのは初めてのことだろうし、何より疑っているに違いない。一体何処からこんな物を持ってきたのかと……本当に本物なのかと。
とは言えカレンの前にはどれだけ固い物質もバターも同然。天井を貫かんばかりに聳える角を見据えて小さく息を吐けば、次いで幾度か軌跡を描きまちまちな大きさに斬り分ける。
響いた落下音に怯えたような声も聞こえたが無視。手ごろなサイズになった角の欠片を急いで集め、商品として管理し始める彼らを眺める。と、人型に戻ったカレンが何とはなしに問いかけてきた。
「そういえばあれ、重くなかったの?」
「道中はチカの魔術で無理やり持ち上げてた。それを考えれば運んでくれた馬とチカには感謝だな。後で存分に労ってやるか」
どうでもいいところに着地した雑談。それくらいには既に物としての興味がないただの固まりだ。
そこでふと脳裏に過ぎるものが。直ぐに姿を探せば、競売場の大人たちとの話を終えたユウを見つけて声を掛ける。
「少しいいか?」
「はい、どうかしましたか?」
「こっちの世界に銀行はあるのか?」
「ギンコウ……?」
「あぁ、これもか……。えっと、金を預けておく機関だ」
「パロップですね。ありますよ。ただ国に属してないとそもそも権利がないのでミノさんには使えませんけれど」
「面倒だな」
パロップ。金を預けるのに中々に気の抜ける語感だ。お菓子かよ。
ユウの言葉に、それから少し考えて音にする。
「ユウは持ってるのか?」
「一応は。ただセレスタインを出てからしばらく経ってるので使えるかどうか……」
「んならあいつに頼るしかないな」
「それが一番安全ですね」
きっと目が眩むほどの大金が手に入る。そんなのを持ち歩くなんて自殺行為はしたくはない。
一箇所に預けるのもそれはそれで気にはなるが、背に腹は代えられないだろう。その内何か別の方法を考えるか、幾つかに分けて管理したいところだ。
そんな風に思いながら、現状一番安心出来る候補でユウと合意を見る。やり取りを終えて丁度戻ってきた彼に告げる。
「ショウ、お前国から口座与えられてるだろ。必要分以外の儲けは全部そこに預ける。いいか?」
「ん……あぁ、分かった。確かに、金貨の袋を持ち歩くなんて肝が冷えるからな」
俺たちは現金輸送車じゃないっての。
望外の儲けも中々に大変な騒ぎだと。富くじを夢想した事のある過去に自嘲しながら順を追って諸々の手続きを終え、物が物だけにしっかりとした体裁で開かれた競売を特等席から眺める。
トリフェインの町に入ってきた時から浴びていた奇異の視線が、瞬く間に町中を駆け巡った噂と共に現実を手繰り寄せて。競りに参加しない見物客までもが一目でもと押し掛けていた。見物料をとればそれだけで中々な儲けになりそうなほどだ。
こんなに大事になるのならばもっと大きな都市で売り捌けばよかったと思いつつ。始まった競売を他人事のように楽しむ。殆どの買い手の目的はドラゴンの角らしく、一緒に出品された他の物品がかわいそうなくらいにあっさりと落札されていく。
と、そこで気付いた事が一つ。
「これ、俺たちも参加は出来るんだよな?」
「そうですね。今回に限っては買い手が多いほど需要が高まって売る方も儲けが出ますから。それを見越して飛び入りも認められてます」
「つまり欲しい物があれば入札してもいいわけだ」
この盛り上がり。莫大な金額が手元に転がり込んでくるのは間違い無い。ならば提示価格に糸目をつけずに欲しい物を掻っ攫う事も夢ではないはずだ。
「ま、何か気を引くものがあればの話だがな。それぞれ一つくらいなら買ってもいいだろ」
「……一応言っておきますが、吊り上げは違法ですよ?」
「んなことするかよ。俺としては普段生活するのに困らないだけあればそれで十分だからな」
出品者が己の利益の為にサクラで入札し、落札価格を吊り上げるタブー。卑怯な輩はそういうこともするのかもしれないが、そこまで金に執着もしていない。危険を冒す必要は無いだろう。
「そういやぁ今回のはシングルのイングリッシュなんだな」
「何だ、それは?」
イングリッシュ。その響きは向こうの世界で聞き馴染みがあるが、文脈からの用法に心当たりはない。ショウの確認するような音に疑問を落とせば、彼は暇潰しにと解説してくれる。
「シングルってのはシングルオークション……つまり売り手か買い手の片方が価格を提示して落札される方式の事だ。今回だと始値から価格を重ねてく流れだな。イングリッシュってのはミノもよく知ってるだろう、順に入札して最終的に一番高い値をつけた奴が落札できるって方式のことだ。逆に、天井から値を下げていくのをダッチって言うな。バナナの叩き売りなんかが有名か?」
「競売にも色々種類があるんだな」
「ほかにも入札額はシークレットで、一斉に開けて一番高い奴が買ったりするやり方や。買うのは一番の高額提示者だが支払いは二番目に高い金額で行う、なんてのも聞いたことがあるな。後は、売り手と買い手の金額が合致したら即決落札とか」
「詳しいな」
「前に親父が趣味で楽器集めてたって言っただろ。物によってはオークションで流れるヴィンテージやプレミア品みたいなのもあるからな。俺もちょいとばかしネットで齧った事があるんだよ」
インターネットオークション。オンラインでのやり取りが発達していたあっちの世界では、色々な物が電子化されていた。それを有効活用した産物だ。
「ま、今回は誰もがよく知るオーソドックスなそれだな。お、あれいいな……27っ!」
門外漢な知識に少しだけ楽しさも感じつつ。それからしばらく続いた出品が、やがて雰囲気ごとがらりと入れ替わる。
オークションの司会を務める、きっちりとした黒い服に身を包んだ男性……専門用語でオークショニアと言うらしい彼が一回り以上に熱の篭った声で続いての商品をコールする。紹介されたのは、ドラゴンの角。その名前だけで会場が沸き立つ。
もう少し厳かに行われるものかと思っていたが、飛び入り参加OKな特別だからか歓声まで聞こえるほどに賑やかだ。隣でチカが少し怯えたように肩を揺らす。
「すごい……」
「それだけの代物って事だ。お手柄だな、カレン」
「ふふんっ、まぁねっ!」
ようやく理解したかとばかりに胸を逸らすカレン。
今回は異論など無く彼女の力あってのものだ。驕るのも大概にはして欲しいが、更に自信をつけて万邦無比な無双の一太刀と昇華するなら目を瞑ろうか。
全く、規格外にもほどがある魔剣だと。フードの上から少し力を込めて頭を撫でれば、彼女は歯を見せて破顔する。
「さて、一体幾らの値になるだろうな……」
金に執着はない。けれども彼らがどんな風に踊るのかと想像すれば、これから始まるインフレの螺旋に期待が高まるのを止められなかった。
遊んで暮らすか。そう言いたくなるくらいの金額。まさしく一攫千金と言う言葉が相応しい金貨の暴力が、目の前にあったのならば頭を揺らすのだろうと思いつつ。最終的な収支を書類上ながら目の当たりにして、思わず四人で息を呑んでしまった。
それくらいの出来事に互いを確かめ合って実感すれば、どうにか冷静に必要最低限だけ手元に残して他を全てショウの口座に預けた。
この興奮が収まれば、次にくるのはちょっとした恐怖なのだろうが、まぁそれはそれ。一夜にして築いた巨万の富だが、泡銭ではないと自分に言い聞かせれば少しだけ心に余裕が出来た気がした。
少しだけ辺りを不審がりながら宿屋に戻れば、二つ部屋を取ったにも拘らずミノとショウの部屋に五人でやってきて誰からとも無く息を吐いた。
「……いや、何でお前らがいるんだよ。自分の部屋行けよ」
「無理だよ、怖いって!」
「今夜満足に眠れる気がしませんね……」
ユウの言葉に胸の内で共感しつつベッドに腰をおろせば、その感触に現実を噛み締める。
「まさかこんな事になるとはな。あのドラゴンには感謝だな」
「感謝なの? 大変な目に遭った気もするけど……」
「喉元過ぎれば、って奴だろ。最終的に生きて願っても無いもの掴んだんだから結果オーライだっ」
天井を見上げて息を吐く。魔障に侵されたドラゴンなんて、下手をすれば生死の境を彷徨ってもおかしくない相手だったのは確かだ。戦った感触ではイヴァンの次に強かった。……いや、もしかするとイヴァン以上か。あの時は慢心していたから。今ならきっとあの時の自分も越えられる気がする。そうなれば結果は分からないだろう。
なんにせよ、大変だったとはいえ今は今だ。ちゃんと生きている。
「…………腹空いたな」
有り触れて覚えた空腹感。言葉にすれば、遅れて強い欲求が腹を、喉を刺激する。
「何が食いたい? 今日くらいは遠慮無しでいいぞ」
「えっと…………なんか高級な奴っ」
陳腐で貧困な発想だが……悪くない。人生一度くらいは豪勢に馬鹿をやってみたいものだ。
「ならそうするか」
「観光もまだだよ?」
「それは明日以降だな」
ここ、トリフェインに着いたのが夕方。そろそろ陽も落ちる頃合だ。今から町を練り歩くのは、精神的にもきつい。
とは言え訪れた町で楽しまないのもそれは損だと。明日以降の予定に組み込みつつ腰を上げて宿を出る。
改めて見るトリフェインの町。国境近くと言う事もあって人が多く物流も盛んで。ところどころに異国の文化の色も見え隠れする少し煩雑な光景。これまでの少ない知見で比べるのも烏滸がましいが、国の首都であったベリリウムに負けず劣らずな盛況さだ。町自体が少し小さい分、こちらの方がより濃密かもしれない。
並ぶ品揃えとしては主にルチル山脈からの産出品が目立つか。
「国が変わると意外と変わるもんだな……っと、そう言えば北用の服とかも買い揃えとかないとな」
「そうですね。ここなら基本的なものは揃うでしょうし、なにより資金は潤沢ですから」
「あんまり吹聴して回るなよ。目が眩んだ奴らが群がってくるからな」
「いやー怖い怖いっ」
一切そう感じていないようなカレンの声に、さっきの今でそこまで割り切れるのは恐ろしい肝の据わり方だと思いながら。やがてぶらりと巡って見かけたのは、建物の場所も外観もよさげな立派な飲食店。恐らく上流階級が利用するような、厳かな雰囲気の建物だった。
さぁリッチに行こうじゃないかと。そう考えて飛び出してきたが、何故か足は入り口の前で止まった。
「……どうした。行こうぜ?」
「なら先に入れよ」
「ほ、ほんとに行くの……?」
…………いや、うん。ここに来てようやく悟った。俺たちには似つかわしくないと。
大概小市民な環境で育ってきた俺とショウ。人の世界に疎いカレンと、基本的に気弱なチカ。そしてこの面子でも引けを取らない過去を歩んできたユウ。こんな面子で、一体どうやってコース料理でも出てきそうな館に入って行けと言うのか。そんな無理難題に持ち合わせる答えなど、当然ありはしない。
「ねぇミノ。その……やっぱり、やめない?」
「…………そうだな。いつも通り普通が一番だろ」
「高級なのを食べた所でそれを再現も出来ませんしね」
各々に口から言い訳を振りかざして、大人しく尻尾を巻いて退散する。いやぁ、自由って素晴らしいな。
結局食べ慣れた食事を、けれども今回は腹の限りに詰め込んで。旅の食事に比べれば随分と豪勢だったと満足しながら大通りを歩けば、空には綺麗な星が輝いていた。
「さて、他にやりたいことあるか? ないならこのまま帰るが……」
色々気を張って疲れた。宿に戻り寝床に転がればきっと直ぐにでも眠りの底に落ちていけるだろう。そんな心地よい疲労を感じながら問いかける。すると声を返したのはチカだった。
「ねぇミノ、オンセンってなに?」
「オンセン……温泉か? それがどうした」
「角を売った時商人さんが話してるのが聞こえたの。近くにあるって言ってて……」
「まじかっ!」
それは中々の情報だ。旅の疲れを癒す温泉……行ってみたい。
大きく声を上げたショウと視線を交わして頷く。
「それでミノ、オンセンって?」
「ん、あぁ。自然に湧いた湯で作った風呂の事だ」
「お湯って自然に湧くの?」
「そういやぁルチル山脈って一応火山なんだよな」
ショウの声にそのからくりを思い出す。
「噴火は見たことあるか?」
「見た事はないです。でも物は知ってます。山が火を噴く現象ですよね?」
「まぁその認識でいいか……。その時に出てくる火……溶岩なんかは、普段山の下に溜まってるんだよ。それが何かの拍子で吹き出すのが噴火だ」
「その溶岩の近くに雨水とかの地下水が溜まると、熱で温められて湯になるんだよ。それが地上に出てきたのを使って作った風呂が温泉ってわけだ」
仕組み自体は知っていたショウが言葉を継いで説明する。が、どうにも彼女達にはピンと来ていない様子。確かに、同じ風呂と言われればそれまでだが。
「何か違うの?」
「この世界での大きな違いって言ったら、自分で湯を張らなくていいことだろうな」
コーズミマにはそもそも沐浴のような習慣が薄い。あるのは儀式の前に体を清めるようなそれだけだ。普段は濡れた布で体を擦ったり、サウナのようなもので汗を流すのが通例。旅の道中となると川での水浴びや天の恵みに感謝をするほどだ。
「あとあれだ、色々効能があるとか言うな」
「効能?」
「山に溜まった水が元だ。長く貯水されてると、近くに埋まってる鉱床や溶岩から成分が溶け出すんだよ。それが例えば体の疲労や新陳代謝、あとは肌によく効くんだと」
成分や泉質による効能は様々だ。その湯が湧く環境によってそれぞれ異なる。こっちの世界でも同じからくりで湧き出しているなら、化学、医学的な解明をなされているそれらはこっちの世界でも通用する道理だろう。
「人間に限れば様々な病気の予防や治療にも効果があるらしい。よく湯治……治療の一貫として利用されてるぞ」
「へぇ、同じフロなのになんだか凄いね」
「肌、肌かぁ……」
「気になるか?」
「へ? ぁ……その…………少しだけ……」
呟いていたのはユウ。彼女はこのパーティ唯一の人間の女性だ。魔瞳と言う特別な来歴だが、その感性は人のそれ。男はあまり気にしない美容でも、少女の彼女には興味が湧く部分かも知れない。
尋ねれば、視線を逸らして口ごもる彼女。ユウには普段から色々助けられている。返せる恩なら惜しむ理由はないはずだ。
「……ま、俺たちも気になるしな。行ってみるか?」
「ほんとっ?」
「鉄分とかミネラルとかで錆びてもしらねぇぞ?」
「この体のまま入ればきっと大丈夫だよ!」
そもそも魔剣が錆びるのかと言う疑問もあるが……。
なんにせよ、それぞれに乗り気な様子だ。ならば長旅の疲れを癒すのにも丁度いい。今夜は温泉に浸かってゆっくりと休むとしよう。
途中道を訊きながらしばらく歩いて。やってきたのは旅館のように大きな構えをした建物だった。どうやらそこそこ繁盛しているらしく、人の出入りも中々だ。
「観光の一貫だろうな。考える事は同じか」
「どゆこと?」
「俺の世界でもそうだったが、商売の一つだってことだ。湯脈を管理して提供する。入る方は金を払う。こっちだと珍しいだろうから少し高いのかもしれないが、それ故に需要はあるんだろうさ」
元いた世界では温泉街が各地にあってそれぞれ栄えていた。それと同じように、こちらの世界でも目敏い奴がこうして上手い汁を吸っているというわけだ。
ま、生きる為の商売と思えば見つけた奴の勝ち。その商売運こそ尊敬しても、必要以上に毛嫌いする謂れはない。
「そっか、お金いるんだ」
「けどその分色々な設備は揃ってるだろうし、自分で用意や片付けをしなくて済むんだ。加えて疲れを癒せるんだから、余程吹っ掛けてない限り当然だな」
「それに懐事情は温泉に引けを取らないくらいにあったかいしなっ」
金銭の余裕は心の余裕か。ショウの言葉に鼻で笑って、それから中へと入る。高級な飲食店では遠慮したのに、こっちはそうは思わなかったのは、温泉がそれほど特別に感じなかったからかもしれない。
とは言え向こうの世界でも、温泉など中学の修学旅行くらいでしか経験のない身からすれば珍しいものだ。その二度目の舞台が、よもや異世界になるだなんて一体誰が想像するだろうか。そもそもこちらの世界に温泉があるとは思わなかったと考えつつ、旅館と提携しているらしいそこで入浴分の金だけ払って奥へ進む。
どうでもいいが、旅館と提携こそしているが併設はされていないらしい。少し吹き込んでやればこの辺りが本当の温泉街として栄えるのかも知れないが、そこまで肩入れしてやるつもりはない。その気があれば、やる事がなくなった後で湯脈でも掘り当ててみても面白いかもしれない。この世界だと見つけた源泉はその人物の所有物……資産になるらしいからな。ドラゴンの角でも大概だが、異世界仕込みの温泉宿でも経営すればなに不自由なく暮らしていけることだろう。
「……よし、行くかっ!」
男湯と女湯で別れ衣服を脱いで準備すると、ショウと共に扉の奥へ。木製のドアを押して開けば、まずは鼻先に温泉特有の硫黄のにおい。次いで視界には数歩先に石積みの露天風呂が存在していた。
どうやら運よく他に客は居ないらしく、貸切のようだ。
「こっちの世界にも露天があるんだな」
「あぁ、確かに。けどいつも外で風呂だろ?」
「それを言うなよ」
ショウの言う通り、宿で風呂に入る際は基本建物の裏手にある広場で自然の天蓋の下楽しんでいる。が、それとこれとはわけが違う。
「……いい景色だな」
「あぁっ。絶景っつうか雄大だ」
そんな露天。天が露わになっているのだから、当然景色も眺められるわけで。並々と張られた湯から立ち上る湯気の奥には、大自然のパノラマ……ルチル山脈が天を貫かんばかりに聳えていた。
「ま、夜だけどな」
「ミノこそ風情のないこと言うなよ。月明かりがあるだろ?」
電気なんて概念がない世界。ライトアップのような手間のかかる事は当然しておらず、暗闇の中にぼんやりとそのフォルムが浮き上がる程度だが、それでも壮大だ。
「ドラゴンでも飛んでれば絵になるんだがな」
「流石に肝が冷えるからやめてくれ」
冗談に二人して笑って。流石にそろそろ夜風が寒いと体を流し、湯船に体を預ける。
途端、体の末端からじんわりと広がっていく温かさ。溜まっていた疲労が湯に溶けていくような弛緩と共に、知らず口から極楽の声が零れた。
「……にしても、ほんとわかんねぇもんだなぁ」
「何が」
「俺とお前がこうして同じ湯に浸かってるんだぜ?」
前に火を囲んだ時も同じ事を言っていたが、どうやら随分と噛み締めているらしい。それくらいにはこれまでずっと後悔を重ね、その先を幾つも夢想してきたのだろうと僅かながら共感する。
この景色を、どうにかして過去の自分に告げた所で決して信じてはもらえないだろう。今の俺だってそう思うのだから間違い無い。
「こうしてるとさ、色々馬鹿に思えてくるよ…………」
呟きは、景色を仰ぎ見ながら。その気持ちも分からないでもない、なんて思う俺も、大概馬鹿になっていると思いながら。
ともすればこのまま寝てしまうのも面白いだろうかと考える頭に、少し遠くから声が響く。
「うはぁあっ!? なにこれぇ!」
「広い……」
「これがオンセン……」
思わず息を止めてショウと視線を交わす。
「……………………なぁ……」
「おう、聞こうじゃねぇか」
「ちげぇよっ」
変な勘違いをした気がする悪友を窘める。
「ショウ」
「なんだ?」
「思いっきり左向け」
「あ……?」
「んで、何も言わずにその先想像しろ」
衝立の向こうから微かに聞こえる黄色い声。それらをどうにか思考の外に追いやりつつ、今し方気付いた危機を相棒に伝える。
少しだけ訝しげにこちらを見つめたショウが、それから言われた通りに首を90度回転させて……それから固まった。同じ場所を俺も見つめる。
そこは、風呂。今俺たちが浸かっている湯船が湯続きになった、その先。川が流れるように段々と細くなっていくその形が、けれども口を結ぶ事無くそのまま衝立の向こう……隣の湯船へ向けて消えている。
「……さて、問題だ」
「おうよ」
「その衝立の向こう、この湯船が繋がる先……なんだと思う?」
「愚問だな、兄弟」
「やめろ、巻き込むな」
既に見つけた答え。その確定を先送りにするように逃げ回る。
その間にも、壁の向こうから細い声。……いや、まだだ。まだ大丈夫だ。なぜなら彼女たちは今し方入ってきたばかり。これから体を洗って、風呂に入って、事はそれから。ならば…………今からならばきっと何の問題もないはずだ。
「なぁ……」
「お? 英雄志願者か?」
「だったら先にお前を蹴り出してやるよ」
何かの責任を擦り付け合うように二人して逃げ回る。
そうこうしていると、また一つ大きく……近くなった気がする声。その事実に、自分の頬が引き攣るのが分かる。
あぁ、悲しいかな。体は未だ安息を求めて、弛緩したまま動こうとしてくれない。折角だからと、ぎりぎりまでこの楽園を享受しようとだらけてしまっている。
ぺたり。確かに聞こえた、湿った音。
事ここに至って、頭を掠めたのはどこまでも無慈悲な、祈り。────あぁ、神様。どうか、情けを。
「うわぁああああっ! 最っっ高だね、これ!」
ぽちゃん。と。
その音は、俺の直ぐ傍から。次いで、頭の上から微かな重みが消える。
「ん? ────ぇ?」
ばちり。ぴたり。そんな音が、あっただろうか。
気付いた時には湯を遮らないようにと途切れた衝立の向こうから、赤い瞳が────月光に照らされる華奢な白いからだと共にこちらを見つめていた。
「カレンさん? どうかしまし……た────」
「…………?」
次いで、世界のずれた瞳がこちらを向き。最後に純真に澄んだライムグリーンがきょとんとひとつ瞬きをした。
「…………いい、湯だな」
「………………………………っ!!」
エリ・エリ・レマ・サバクタニ。
そんな悔恨が脳路を過ぎった刹那。星空を劈く甲高い悲鳴が辺りに木霊したのだった。
「だって繋がってるって思わなかったから。ごめん……」
心配そうにこちらを伺いながら謝るカレン。
温泉のロビーで氷嚢を片手に項垂れる。何も桶まで投げなくてもいいだろうが。つうか何で持ち歩いてんだよ、桶。こんな事なら温泉のマナーを先に教えとくんだった。
「ったく……ショウは一人逃げやがるし」
「いや、逃げるだろうよ普通。逆になんで動かなかったんだよ」
「なんでだろうな」
別に、彼女達の裸体を見たかった訳ではない。単純に、体が動かなかった、それだけだ。
ただ、そのお陰と言うか何というか、僅かに記憶が残っている。
契約をしたことで契約痕が一時的に無くなった、妖精のような肢体のカレン。その体は人間の少女のものとして、年相応な発育のユウ。普段何かと好意を示してくれる純粋なチカは、月明かりに照らされて妖艶ささえ纏っていた。
もちろんの所、特別男の性が反応した訳ではない。が、刺激が強かったのは確かで、便利に記憶を消すなんて事は中々に難しい。
ユウの力を借りれば或いは。しかし、これ以上掘り返すと彼女達の名誉を傷つけるだろう。共に歩む仲間として、禍根はない方が絶対にいい。
「……事故とはいえ悪かったな」
「いや、うん。こっちこそ」
「ミノ、大丈夫?」
「あぁ」
チカの声に頷く。血が出ている訳ではない。少し腫れただけだ。時間が経てば治る。
それでも心配をしてくれるその優しさが素直に嬉しい。こんなに真っ直ぐに気を配ってもらえるのは、一体いつ以来だろうか……。
「その、できれば忘れていただけると……」
「あぁ、大丈夫だ」
無理でも頷く。そうすればどうにか体裁だけは保てるから。
落ちた居心地の悪い沈黙にショウが声を挟む。
「そうだっ。何か飲むか?」
「……あれ無いのか? 銭湯の定番」
「ちょいと訊いてくる」
彼の声に過ぎった知識。すぐさま受付に向かうショウの背中を眺めれば、カレンが少しぎこちないながらも尋ねてくる。
「ミノ、あれって……?」
「あっちの世界だと風呂に入った後のお決まりってのがあるんだよ」
温泉が、入浴が常識ではないコーズミマでは、風呂上りの一杯と言う概念もないらしい。これだけ色々異なると、今いるこの場所が異世界なのだと改めて実感する。
そんな風に話をしているとショウが瓶を両手に揺らしながら戻ってくる。
「ミノ、こいつならあったぜっ」
「ガクァですか?」
ガクァとは、甘酒とカルーア・ミルクの間のような飲み物の事だ。温めた牛乳を酒粕で風味付けしたような、寝酒のお供。前に一度飲んだことがあるが、それほど度数は高くないように思う。風呂あがりだが、酔い潰れるなんて事はないだろう。
「こっちの飲酒は16からだよな?」
「はい」
「魔剣のそれに関する法は?」
「……ないですね。そもそも人型を取れる魔剣は数が少ないですから」
俺とショウは同学年。多少暦は向こうと違うが、それでも16は過ぎている。質問に答えるユウも16。カレンとチカを魔剣として考えれば、法に触れる行いではない。そもそも根無し草の分際で一々気にするようなことではないように思うし、あっちの世界ほど法治主義とも思えない。全ては自己責任だ。
「なら大丈夫だな」
「あいよっ」
差し出された瓶を受け取って栓を開ける。調味料の瓶のような小さい口だが、この際形は関係ないと。立ち上がり、ショウと視線を交わして腰に手を当て天井を仰ぐ。
柔らかい口当たりと仄かなアルコールの香りが喉を通り、体の内側から温かくしていく。あぁ、これはいい。このまま寝転がれば心地よく意識を手放せそうだ。
そんな俺達の見様見真似でカレン達がガクァを煽る。魔剣組は見るのも初めてだったのか、独特な香りに警戒していたようだったが、一口飲んで気に入ったらしく直ぐに二口目を求めた。
「不思議な味……。でも甘くて好きかもっ」
「わたし、ミルクってそのままはあまり得意ではないんですけど、これは美味しいですね」
「ふわぅ……」
三者三様な反応に、けれども嫌うような色はない。異国の文化は彼女達に受け入れてもらえたようだ。
「このまま一生ここで暮らして行きたいな」
「無理な相談だな。ま、逗留中は精々楽しむ事だ」
郷愁の念に駆られながら安息を噛み締める。これから冬になる北の台地へと向かうのだ。しっかり英気を養って、準備も整え万全の態勢でこの先に望むとしよう。
「ミノぉ……えへぇ…………」
まさかチカがここまで酒に弱いとは思わなかった。カレンはそうでもなかったのに。そんな個人差まで人に似せる必要があったのだろうか。
しばらく待っていたが酔いが醒めそうになかった為、仕方なくチカを背負い宿まで歩く。体を預けた彼女は随分と骨が抜けている様子だ。因みにショウ達は先に帰った。気分がいいからこのまま寝るんだと。
「なぁチカ」
「なぁにぃ……?」
「今楽しいか?」
「ん~…………?」
残念。どうやら言語中枢が退化しているらしい。
「でもねー、楽しいよー?」
何の「でも」だよ、それ。
「ミノがいて、カレンがいて……みんないてぇ。楽しいよぉ?」
「……そうかい」
あまり多くを語らないチカから、今なら本音の部分が聞けるかと思っていたのだが。どうやら彼女はそこまで深く考えていなさそうだ。訊いてもまともな答えが返ってくるとは思えない。
ただ、警戒を忘れてしまうくらいに信頼してくれていると言うのであればこちらとしても素直に嬉しい話だ。
ここを発てば、もうしばらくでユークレースに辿り着く。そうすれば俺の立場だけでなく、チカの記憶喪失をどうにかする手立てもあるかもしれない。全て想像論だ。けれどもきっと、今のままより元のチカに戻る方がきっと正しい。それは、カレンの様子を見ていてもよく分かる。
特別嫌っている、と言うわけではないが、記憶を失う前のチカとの距離感とは違うのだ。まだ少しぎこちなさがあるというか、あまり直接話をしようとはしない。まだ折り合いがついていないのだろう。
同じ組織内で互いを支えあっていたらしい二人。その関係が、一方の変化で少しずれてしまった。そんな感じだ。
まぁカレン第一主義だったチカが今はどちらかと言えば俺に執心しているのが目立つ。カレンとしては寂しいのかも知れない。とは言え、ならば一体今何ができるのかと問われれば答えに窮するのだけれども……。
「……カレン…………」
耳元で小さく呟いたチカ。遅れて、健やかな寝息が首筋を撫でる。どうやら寝てしまったらしい。チカも大概自由だな。
まさしく子育てだと一人ごちつつ、ぶつからないように、揺らさないように歩く。と、その途中で不意に耳が話し声を捉えた。
「誰でも使える魔剣だぁ? んなの本当にあんのかよ」
「とりあえず見るだけ見てみようじゃねぇか。な?」
「……考えとくよ。んじゃな」
きな臭い会話をして離れた二人の男。追いかけようかとも考えたが、チカを背負っている事を思い出し諦めた。
誰でも使える魔剣。そんな便利な代物、この世界には存在しない。
魔剣は国が管理している。稀に裏側に出回っていたり、カレンのような存在もいるだろうが、おいそれと手に出来る物ではない。だからこそ国力のバランスを取る指標にもなっているのだ。
それがこの近くに流れている……? だとすれば、それは…………。
脳裏を過ぎる嫌な予感。まだ確証はないが、放っておけばまず間違いなく面倒事になるだろう。取れる選択肢は……二つか。
「……さて、どうしたもんかなぁ…………」
自分に問うように音にして空を見上げる。
幾つか可能性を考えていれば、いつの間にか宿へと戻ってきていた。
「おかえり」
中に入ると、丁度水差しの補充に下りてきた様子のカレンと鉢合わせした。
「……? どうかしたの?」
「なにがだ?」
「いや、なんか考え事してるみたいだったから」
無駄に鋭い勘。契約を介して何かそういう特別な力でも備わっているのだろうか。
「……カレン、チカ任せてもいいか?」
「えー……?」
「あんな事があった後で俺がそっちの部屋に入ったら面倒が起こるだろうが」
「……わかったよ」
渋々といった様子のカレン。そうでなくとも今部屋にいるのはユウなのだ。魔剣とは違い人としての羞恥心を持った彼女との間には、まだ少し拭えない溝を感じる。明日の朝には無くなっていると信じたいが。
思いながらチカを預けて自室に戻れば、部屋にまでアコギを持って上がっていたらしいショウがチューニングをしていた。
「他にも客がいるんだから迷惑になるようなことするなよ」
「おう、帰ったのか。……いや、ちょっと気分がいいから一曲とも思ったんだがな」
ガクァの所為か。確かにからだの内側からぽかぽかと暖かいが、そこまで陽気にならなくてもいいだろうに。
音を確かめるように弦を一度掻き鳴らしたショウが、それから枕元に立て掛けてこちらを向く。
「で、どうしたよ」
「何がだ?」
「言えない事か?」
「……………………」
カレンといいこいつといい。一体なんなんだ。俺はそんなに顔に出やすいか?
「……一晩考えさせてくれ」
「あいよ」
深い追求がなかった事に安堵をしつつ、ベッドにタイブして枕に顔を埋める。
はぁ…………。一体俺に、どうしろって言うんだよ……。
翌朝、顔を合わせたカレンたちはいつも通りだった。ユウからは少しだけ視線を感じたが、口にするのも憚られたかそれ以上は無かった。もちろん分かっていると。努めて昨夜の記憶を頭の奥底に封印すれば、トリフェインの町を改めて歩きまわる。
昨日は色々と慌しかったが、温泉があるような宿場町。越境、旅の疲れを癒す逗留地としては最適らしく、目を引くものは多数存在する。工芸品なども、既にここがユークレースだからかルチル山脈の向こう側とは雰囲気が違う。建物も司教国と言う冠に則ってか、静謐さのような物も感じる。つい先ほど教会らしき建造物も見つけた。ここから先、更に北上すればこれよりも濃い異国情緒を楽しめる事だろう。
観光も当然楽しい。が、旅の目的は曖昧ながらここから更に北へ。そのためにも、必要な準備は怠れない。
衣類に食料。望外の収入で暖まった懐に感謝をしつつ、想定より数段上の防寒具を用意する。温かそうな毛布も買えたし、風さえ凌げる立地なら野宿でも寒くて寝られないと言う事はないだろう。火石も大量に買い込んだし、万全だ。
糧食は当然ユウに一任。日持ちのするものや、そういえば先送りになっていた味噌料理に使えそうな材料。そしてこの辺りの特産など少し珍しい物も買い足す。カレンが目敏くゼリーの詰め合わせのような物を買っていたが目を瞑っておく。……この頃少し甘くしすぎか?
ショウはアコギのアップデートなのか、弦になりそうな材料を見て回っていた。自作したが故に愛着が湧いたのだろうか。まぁ、いい娯楽にはなってくれているから目くじらを立てる必要もあるまいて。俺も何か探してみようか……。
そんな風に考えながら一度ぐるりと回って。午後からはそれぞれ本格的な観光で別行動となった。が、なにか話があったのか、俺の隣にはユウが同行しての巡覧。
「ミノさん」
「ん?」
朝の買い物では見なかったらしい調味料の小瓶を眺めつつユウが零す。
「契約って、どんな感じですか?」
「どうした、いきなり」
「いえ、ちょっと考えてて……」
契約。それはユウにとって未だ拭い難い過去だろう。
これまで彼女は契約相手に恵まれなかった。自らを預けた相棒を失い、はたまた道具のように利用され。カレンほどではないが短い人生で既に三回の契約者を失っている。特に三回目は追い詰められて自ら契約者を殺すと言う決断を迫られた。その記憶は、未だ新しくトラウマとして残っているはずだ。
けれども足踏みばかりもしていられないと。体は人だが、その瞳には魔物を宿す魔瞳の少女。チカが記憶を失う前に言っていたが、契約をしない彼女はいつその身を共有するサリエルに侵されてもおかしくはない。彼女の話ではサリエルが協力的なのかその兆候は見られないと不思議がっていたが、とは言え今のままに甘んじているわけにもいかない。チカが暴走した時のように、いつ想定外が起きるかは分からないのだ。
そんなユウが、契約に興味を、歩み寄りを見せている。一体どんな心境の変化だろうか。
「どうって言われてもな……。特別変わった事はないだろ。多少魔力運用が楽になって、魔術を使えるようになって……面倒が増えて」
「カレンさん、怒りますよ?」
誰もカレンだなんて言っていないのに。そう決め付けるユウの方が酷くないか?
「そもそも訊く相手が違うんじゃないか? 立場で考えるなら人と契約する側なんだから、カレンやチカの方が参考になると思うがな」
「……そうでは、ないんです」
透明な液体の入った小瓶を棚に戻して見つめるユウ。
「契約でどうなるかって言うのは、わたしもよく知ってます。そうではなくて、ミノさんの側から契約ってどんな感じなのかなと思って……」
「それこそユウは人間だろ? 理解できないことはないはずだがな」
「怖いんです」
少しだけ試すような問いに、彼女はようやく本心を零した。
「わたしは、普通じゃありませんから。魔剣でも、人間でもない。他に同属なんて知らない、魔瞳なんです。比べられないから、分からなくて。全部わたしの責任で……。こんなこと言うとカレンさんに怒られるかもしれませんが、もう三人も相手を失くしました」
まるで胸の痛みに耐えるように。服の首許を強く握って呟く。
「だから、怖いんです。契約をすると安心するのに……それでまた誰かを失うのが、嫌なんです…………」
言葉にしてようやく明確なものが見つかったのか、彼女は縋るようにこちらを見つめた。
「ミノさんは、お二人が消えてしまうのは、怖くありませんか?」
その問いには、偶然か答えを持ち合わせていた。
「何馬鹿なこと言ってるんだ。怖いに決まってるだろ?」
「え…………」
「だから失くしたくないって必死にもがいてるんだろうが。言っとくが、そこにはもうお前も入ってるからな、ユウ」
こんな事も分からないのかと、道に惑った少女に告げる。
「人間な、どうやっても一人では生きていけないんだよ。……いや、違うな。独りだと自分がわからなくなるんだよ。自分を肯定してくれるものが周りにないからな。その孤独が寂しくて、周りに理由を……居場所を求めるんだ」
俺は、それが出来なくて今ここにいる。……出来なかった事をもう二度と繰り返したくないと。ようやく手に入れた今を、手放したくないと、縋っている。
今更ながらに、認めよう。俺は、今が楽しいのだ。
「自分が自分でいる為に。そんな我が儘で勝手な都合を押し付けあってるに過ぎない。その形の一つが契約って言うんだから馬鹿な話だけどな……。でもな、ユウ」
そうして、こちらを見つめる瞳を……その眼帯の奥までしっかり見据えて答える。
「だからこそ意味があるんだ。俺はそこに居場所を見出してるんだ。……結局最後は自分の考え方一つなんだから。幾ら相手に気を遣ったって、それも自分の考えを相手に押し付けてるに過ぎない。だったら最初から、悩むなんて馬鹿らしいと思わないか?」
「…………なんですか、それ。答えになってないじゃないですか」
「当たり前だろ。全部自己責任だ。他人に言い訳求めるな。自分の気持ちに嘘吐いて騙した所で、結局後悔するのは自分なんだから。なら、馬鹿を見ないように自分で決めた覚悟を最後まで貫くだけだ。違うか?」
「……………………」
柄にも無くつらつらと語ってしまったと。視線を逸らして、答えにならない答えを音にする。
「全部自分だけのもんだ。分かったら、もう一度訊けばいい。お前は、どうしたいんだ?」
疑問に疑問で返すなんて。そう言われるかとも思ったが、真面目に受け取ったらしいユウは考えるように黙り込んだ。……いや、別に言い争いたいわけでもないんだが、かと言ってそうしおらしくされると調子が狂うと言うか…………。
「……そうですね」
やがて何かに納得したような声。答えが出たなら何よりだ。そう考えて小さく息を吐けば、彼女は先ほど置いた小瓶を再び手に取って笑う。
「じゃあこれ買いますっ」
「おい」
調味料の癖に結構いい値段するじゃねぇか、それ。
結局小瓶以外にも幾つか購入したユウと共にカレンたちを探しながら観光。隣を歩く彼女は、肩の荷が下りたように軽やかな足取りで辺りを見渡しながらなんでもない風に紡ぐ。
「それで、ミノさんの悩みはなんだったんですか?」
「あ?」
「……そういうのいいですから。皆気付いてますよ?」
「……………………」
さて次はあの店に。そんな気軽さでの問いに口を噤む。
カレンたちが気付いているのなんて、そんなの俺が一番分かっている。だからこそ、無関係な話を一々口にするべきかどうか迷っているのだ。言葉にすれば、人よりも尚お人好しなあの魔剣は理由も無く首を突っ込むのが目に見えているから。
「ミノさんが言わないって事は、多分わたし達には直接関係のないことだとは思います。でもそれが原因でミノさんが悩み続けるのはわたしたちも見ていたくないので。……駄目ですか?」
「…………ユウもカレンに負けず劣らずだな」
「一緒に旅をする仲間ですからね」
もうそれだけは見失わないと。笑顔で誇る魔瞳の少女に溜息を吐いて諦める。どうせはぐらかしても尾を引くだけだ。だったらぶちまけるだけぶちまけて、無関係だと見て見ぬ振りをすればいい。
「……あの魔剣擬きが近くまで持ち込まれたらしい」
「……ショウさんの時のですか?」
「多分な」
昨夜通りすがりに聞いた話。だが、少ない情報と記憶を照らし合わせて考えるに、ほぼ間違い無いだろう。
「けど今回は俺たちとは関係ない話だ。馬鹿が勝手に危険へ手を出して騒動が起きるかもしれない。それだけだろ? 不意に魔物が襲ってくるのと何の違いがある。ここもそれなりの町だからな。衛士はいる。さっき騎士らしき姿も見かけた。何かあれば直ぐに対処されるだろ」
他人事に冷酷に批評する。別に魔剣を持っているからって進んで治安維持に努める必要性は感じない。危険から日常を守るのはそれを任された者の仕事だ。横から奪うのもかわいそうだろう。
それに、国に属しているならいざ知らず、こちとら居場所を求めて彷徨う放浪者だ。そもそも国に追われているのだから目立つ事は控えるべきだ。
「こっちに火の粉が降ってきたなら話は別だけどな。無関係な奴らの向こう見ずに付き合ってやれるほど道楽に飽きてるわけじゃないんでな」
「……分からないではないですが」
「でも問題を見過ごすのはどうかと思うよ?」
いつから聞いていたのか。直ぐ後ろからの声に振り返れば、そこには焼き立ての香ばしい匂いを一杯に詰めた袋を抱えるカレンがいた。
「ねぇミノ……!」
「それで更に面倒背負い込むとしてもか?」
「逆だったらミノはどう思うの? 助けてくれる人がいるのに、その人が見て見ぬ振りなんて……ミノは許せるの?」
「その無意識に殺された俺に訊くのか?」
少しだけ語調を強くすれば、カレンの肩がびくりと震えた。
「原因に非があって、助けるメリットがあるなら俺も吝かじゃない。売った恩で何かいいことがあるかもしれないしな。けど今回のは違う。自己判断で沼に突っ込もうとするのは自己責任だ。例え首を突っ込んだとしても、ここはユークレース。これからその中心で色々しようって時に懸念材料を持ち込むのか?」
「懸念って……」
「じゃあ関わったとして、その時どうして俺達がその紛い物で騒動を起こそうとした側じゃないと証明できる? 濡れ衣着せられたら今ある立場が更に揺らぐんだぞ?」
後ろ盾なんてあってないようなもの。もし大立ち回りなんてすれば、今中立に寄っているベリルまでもが敵になるかもしれない。ショウ辺りは国を捨ててでもついて来そうだが、それを抜きにしたって追っ手が増えるのは面倒だ。
「無駄な事に首を突っ込む必要はない」
「っ……!」
反論が見つからなかったのか、こちらを睨むように見つめるカレン。
彼女も理解はしているのだろう。ただ、目の前で起こるかもしれない騒動を見過ごす事が出来ないと義侠心を燃やしているのだ。
もちろんそれも美徳だ。こんな状況でなければ、カレン達の力を借りて一網打尽にした後、好待遇を望んでいただろう。
けれどやはり、危険は冒すべきではないのだ。
「ミノ」
声はショウのもの。隣にはチカも居て、呼んでもいないのに全員集まったらしい。
「……お前もカレンと同じ事言うのか?」
「…………同じかもしれねぇ。なぁ、本当に無視出来る話なのか?」
「どういう意味だよ」
「その魔剣、多分だがオレの時のやつだろ?」
「だろうな」
いつから話を聞いていたのか。それとも別ルートで話でも聞いてきたのか。何にせよ、彼にも何か言い分があるようだ。
「オレが言うのも筋違いかも知れねぇが……一度関わっちまってるんだ。こっちが望まなくても、向こうから接触してくる事だってあるんじゃねぇか?」
「お前を使って失敗したのにか?」
「だからだろ。失敗したから、あいつらのやり方がオレから外に流れ出る。秘密裏に事を進めたいなら口封じってのはありえる話だろ」
「……だったらこんな所で大事にはしないだろ。そもそも魔剣紛いなんか使ってあいつらが……《甦君門》が何しようってんだよ」
言葉にして逃げられなくなる。そうだ、あの魔剣紛いには《甦君門》が絡んでいる。この予感は、きっと間違い無い。
大体魔に関する部分で各国が進んで騒動を起こそうとするとは思えない。それが魔剣ともなれば、信頼する武力として扱う側が地盤を揺るがすような事をするのは愚策だ。
それに《甦君門》には《波旬皇》なんて言う不気味な目的がある。人の世界に敵対する魔物の王。その復活と言うだけでも十分な理由で、そこに何かしらの形で魔剣紛いが絡んでいると言うのは想像に難くないのだ。
「確かにそこのところはよくわかんねぇけど……。でもミノだって因縁はあるんだろ?」
「向こうが勝手に言ってるだけだ。俺は無関係でいられるならそれに越した事はない」
カレンとの最初の約束も、チカがここにいることで最早果たされている。残っているのは契約だけだ。
チカの記憶が戻れば契約解除の魔術だってきっと直ぐに使える。そうすればもうカレンとはおさらばできるし、晴れて自由の身だ。
……とは言え、あちらがそう簡単に諦めてくれるとは思わないけれども。
もしこのままカレンを持ち逃げするなら、それこそ後ろ盾としてユークレースの協力は不可欠だ。話が戻るが、その信頼を勝ち取ろうとしている時に騒動の火種を持ち込むなんて馬鹿のやる事。不必要な苦労はいらない。
「…………ミノ、逆」
「あ?」
次いで口を開いたのはチカだった。彼女はずっと何かを考えていたのか、堰を切ったように言葉を並べる。
「放置したら、魔剣持ちが溢れる。そしたらユークレースに集まって、認可が下り辛くなる。……違う?」
「それより早く立場を得ればいいだろ?」
「確証、あるの?」
チカの言葉に、真っ直ぐな視線に口を閉ざす。
彼女の言う事は尤もだ。もし魔剣持ちが大量発生すれば、自由と権利を求めた者達がユークレースに殺到する。けれどもユークレースだって馬鹿ではないだろう。いきなり大量の魔剣持ちがやってくれば疑うに決まっている。そうすればおいそれと自由を保障してはくれなくなるだろう。
それにいきなり増えた魔剣持ちが《甦君門》と繋がりがあるとすれば、彼らは世界に仇なす存在として世界中から敵視される。そこに俺達が巻き込まれれば、今以上に敵が増えてしまうだろう。
そうならない為に認可を急ぎたいが……前例が《裂必》しかない。こちらにも役立つ立場はない。そう簡単にはいかないはずだ。
まごついている間に魔剣持ちが押し寄せれば同じ事だ。
「無理だった時はもっと駄目になる。だったら先に排除する……面倒は斬り捨てる。いつもミノが言ってる事だよ?」
「お前…………」
「違うよ。あたしは、ミノのために言ってる」
真っ直ぐに、純粋に────盲目に。心の底からチカはそう思っているのだろう。
助けてもらったから。恩人に大変な目には遭って貰いたくない。できることなら力になりたい。そんな、有り触れた自分本位な献身。
「そのために必要な事だったら──あたしはミノの剣になる」
強情なほどに無垢な感情。歪んでいるとさえ感じるほどに清廉な思いは、きっと些細な事で変わり、それ以外では折れる事はないのだろう。
記憶を失ってからの彼女は気弱な少女だった。が、いざという時には曲がらない豪胆さで意志を貫き通す、ともすればカレンよりも我の強い性格をしていると。
彼女と契約をしたときにも思ったのだが……こうなったチカを止められる気がしない。
「ミノ、教えて。あたしはどうしたらいい?」
反論が……説き伏せる言葉が思いつかない。チカの語った言葉が自分の胸の内から出たように感じる。
嘘は、嫌いだ。騙すのは、嫌いだ。それを自分がするのが、大嫌いだ。だから────
そう言い訳を振りかざそうとした刹那、肌を揺らす音と振動が辺りに響き渡った。思わず衝撃の方へと視線を向ければ、遅れて街中から煙が上がっていた。
再び爆発が起こる。その音をスイッチにしたように、呆然と立ち竦んでいた周りの大人達が慌てて逃げるように駆け出した。
瞬く間に広がった喧騒の中心で、狼煙のように昇っていく煙を見つめる。
「ミノ」
カレンが、チカが、ユウが、ショウが。最後の、最初の言葉を待つようにこちらを見つめてくる。
俺は────




