第三章
相も変わらない旅の道中。北の宗教国家、ユークレース司教国に向けての旅路は、そろそろ折り返し地点に差し掛かろうとしていた。
つい先ほど後にした町で整えた準備はいつもより少し潤沢に。これからの季節も考えてと買った防寒着は、冬の到来を待たずに直ぐにでも役割を求められるだろう。
その境界線が直ぐ隣の国境、ルチル山脈だ。
「話だともう直ぐってことだったが……」
「あ、あれじゃないっ?」
自主制作したアコースティックギターの調整も済んでやる事のなくなったショウが暇そうに零す。と、無駄に目のいいカレンが荷台から遠くの列に気付いて声を上げる。
どうやらようやく北に向かう山越えの道が見つかったようだ。ここまで随分と長かった……。
ようやくの目に見える実感からか安堵の息を落とせば、隣でユウがくすりと笑う。
「長旅でしたからね」
「荷物が増えた分歩みも少し遅くなったしな」
「……あたしのせい?」
意外と被害妄想が強いらしいチカが尋ねてくる。いや、お前ほど手のかからない同行者は居ないだろうよ。
そんな事を考えていると荷物筆頭の騒がしい二人が荷台に篭って動き始める。
「何やってんだよ」
「え? だってまた荷物預けるんでしょ? 直ぐに渡せるように待ち時間の間に纏めておこうと思って」
「さっきの村での話聞いてなかったのかよ」
「この道はそのまま馬車で山越えですよ」
鈍らにも程があるマの抜けた剣を半眼で見つめれば、彼女は「あはは……」と笑ってごまかした。久しぶりの村だからって子供に混じって遊んでるからだ。
「けど向こうに着いたら北用の馬に変えるんだろ?」
「別に荷物移動しなくたって馬だけ交換すればいいだろうが。スタッドレスと同じだ」
「あぁ、そっか。悪ぃ、そこまで頭が回らなかった」
スタッドレスタイヤ。いわゆる積雪路や凍結路の為の自動車用タイヤだ。当然このコーズミマに電気なんて便利な概念はないから車も存在しない。が、土地に合った馬くらいは当然いて、ユークレースに入ったらそれらが旅の相棒となる。
と、そこまで考えて別のところへ思考が巡った。
「そう言えば高山病はどうなんだ?」
「コウザンビョウ?」
「あぁ、こっちだと名前が違うのか……」
瞳に疑問符を浮かべるユウ。
稀にある認識や知識の差異。意味が同じでも呼び方が異なるのは異世界ならではか。
「標高を大きく移動すると体に症状が出るだろ」
「センモルランですね」
「また随分意味が分からん響きだな」
「この症状を見つけたお医者さんの名前ですよ」
「なるほど、人名由来なのか」
ヘルツ、レントゲン、ユカワ……。元いた世界でも人名由来の名称と言うのは沢山ある。あちらの世界だと単位が有名だが、恐竜や病名にも人名由来の物は存在する。
それくらいには当たり前な名付け方。こちらではこちらの歴史が流れ、それに伴って固有名詞が異なるのだ。
「逆にコウザンビョウってどういう意味なんですか?」
「高い山の病。こっちは場所由来だな」
「名付けって意外と単純ですね」
「だから意味があるんだろうよ」
名前。何度も振り回されたその概念に着地して自嘲するように零せば、ユウは口を閉ざした。既に過去の事で個人的には納得しているし別に意地悪をするつもりはなかったのだが……他人だからこそ気を遣ってしまうのだろう。俺たちにとっては何よりも重い病だな、これは。
「で、実際どうなんだ? センモルラン……だったか。その可能性は?」
「大丈夫ですよ。病気が知られていなかった昔ならいざ知らず、今は道も直されていて通っても問題はありません」
ふむ、ならば杞憂だったか。
「……一応訊くが魔剣に人の病は関係ないな?」
「魔物が風邪引くと思う?」
「だろうな」
特にお前は馬鹿だしな。
「魔力が関係する事で病気って言ったらそれこそ魔障くらいだよ」
続いた言葉に少しだけ考える。
魔障。魔に侵され人の身ではいられなくなる症状。だとしても、魔物はそれを起こす側であって罹りはしない。つまり魔物にとって病気とは無縁の概念だ。
「病気とは違いますが、魔剣は剣ですから錆はありますよね」
「お前は根から錆付いてそうだがな」
「失礼なっ! 余程放置でもしない限りは大丈夫だよ。魔剣は普通の剣とは違うからね。それにミノが手入れしてくれるし……」
反論して、けれども尻すぼみに小さくなったカレンの声がやがて消える。
どうにも、剣の手入れは魔剣にとって恥ずかしい事らしい。前にチカが教えてくれたが、人に例えるなら他人に体を洗われているのと同義だとのこと。魔物に羞恥心があるのかと言う疑問もあるが、彼女がそう感じるならそうなのだろう。人に似せすぎた弊害だろうか。
まぁとは言え、金属の塊を見て欲情するなんて俺には随分とハードルの高い妄想で、今のところその兆候もない。カレン達が人型なら分からないでもないが、彼女達の肢体をマッサージするなんてそんな機会はきっとこの先ないだろう。
「だ、だから私達の心配は大丈夫っ」
「確認しただけだろうが」
「むぅぅ……」
唸るカレン。心配して欲しいのかそうでないのか、どっちなんだよ。
相変わらず人間よりも尚人間らしい魔剣だと思いつつ他愛ない雑談をしながら順番を待って。ようやく回ってきた手続きをパスして越境を始める。
一応国を跨ぐ移動。あちらの世界ではパスポートなんて物があったが、コーズミマだと身分証の提示の代わりに荷物検査がある。
入国管理による病原菌等の対策……と言うわけではなく、単純に国外への持ち出し禁止があったりするのだ。いわゆる密輸と言う話。特に魔具や魔剣などの魔に関わる部分が主だ。
魔剣持ちは国に属する。そのパワーバランスは魔物に対してだけではなく、国家間均衡も左右する。一極集中は今ある地盤を崩しかねない。だからこそそれなりに厳しく管理されているのだ。
「登録証の提示を」
「ん」
登録証とは、魔剣持ちが何処の国に属するかと言う証だ。この世界の魔剣持ちは、かの《裂必》以外基本的にどこかの国に属する。その証明として持ち歩いているのだが……当然セレスタインから逃げ出して成り行きでカレンとチカの二人と契約を交わした俺にはそんなものはない。
だから本来この国境越えに際して色々面倒が起こるのだが……。
「目的は?」
「国からの依頼だ。依頼書はこっち」
「ふむ……確認した。よい一日を。次っ」
今回はそれを真正面からパスする。
何でもない風を装ってしばらく馬車を進めれば、幌の中から安堵の息が零れた。
「何緊張してるんだよ」
「だってぇ……ばれないか心配で……」
「余程怪しくない限り照会はされませんからね。特に今回は国からの依頼と言う後ろ盾がありますから」
カレンの声に答えたユウ。彼女の言う通り、今回は嘘と真実を織り交ぜて関門を切り抜けたのだ。
「けれどよかったんですか? 魔剣登録の偽造なんて」
「手配してくれたのはベリルだからな。別にオレが頼んで作ってもらったわけじゃない」
そう。今回俺は、ベリルが用意してくれた偽造魔剣登録証と、ショウが旅の同行の建前として持たされた国発行の依頼書を重ねて潜り抜けたのだ。
アングラな、真っ当ではないやり方だが仕方ない。こうしなければ前のときのように非道な手を取らざるを得ないのだ。
「それに前の時はユウの魔瞳で強行突破したんだろ?」
ここに来るまでの道中で語った過去の事をショウが零す。彼の言う通り、セレスタインからベリルへの越境の際、偽造証もなかった俺たちはユウの魔瞳の力を借りてあの地下道を抜けたのだ。
別に今回もそれでよかったのだが、何度もしているとその内何処からか漏れて対策をされてしまう。その危険も考えて、今回はショウの用意していた方法を使ったのだ。
「どっちにしたって他人の目を欺いている事には変わりないがな」
「でも全部嘘じゃないからっ。ショウさんの依頼の紙は本物だし」
「紙は本物でも内容はでっち上げだろうが。何が悲しくてユークレースに魔物追い駆けて行かなきゃなんねぇんだよ」
ショウがベリルから持たされた依頼書の内容は、ベリルより逃亡した魔物がユークレースに入った可能性があるとのことでの調査名目だ。が、当然そんな事実はどこにもない。真っ赤な嘘だ。
「どう言い飾っても俺やカレンはお尋ね者だ。馬鹿を見たくなければ使える物は全て使うだけだ」
「うぅぅ…………」
実際、ユウの力や偽造証がなければここまで来られてはいない。あまり褒められた事ではないのは自覚しているが、仕方のないことだ。目を瞑るほかないだろう。
「それにユークレースに行けば立場が保障されるかもしれない。そうすれば今度こそ大手を振って後ろめたさもなく自由を手に出来るんだ。分かったら今必要ない事からは目を背けとけ」
「……………………分かった」
変なところで真面目なカレンには少しばかり酷な話かもしれないが、必要な事だ。
「もし悪者が欲しければ俺でも憎んでろ。それが一番いいと決断したのは俺だ」
「……いいよ。ミノだって本意じゃないんでしょ?」
「今更飾るプライドもないしな」
自嘲するように零せば、少しだけこちらを見つめたカレンだったが、納得したように荷台へと姿を消した。
……別に、何かを気取る訳ではないけれど。カレンはそのままでいればいい。お前は数少ない良心だ。俺の心の平穏のためにも、これまで通りが一番だ。
きっとユウも心の底では納得していないのだろうと視線を向ければ、彼女は苦笑を浮かべて返した。
「んで? ここから約一日だっけか?」
「途中野営が必須だが、親切にもその場所は用意されてるらしいからな」
「そこへ着いたら今日は終わり?」
「あぁ。ま、早く着きすぎても特別やることなんてないけどな」
「でしたら腕を振るいましょうか?」
チカの声に答えれば、自分の出番だとばかりにユウが提案する。
そう言えば気圧が低いと味が薄く感じるんだったか。高山病もない高さならそれほど差異はないだろうが、少し気をつけるべきか。
「構わんが……そうだな。味噌を使ったレシピは何か思いついたか?」
「一応は。今日はそれにしますか?」
「あぁ、頼む」
標高が高くなれば気温も下がる。温かくて味の濃い食べ物が理想だ。可能ならば鍋のようなものでもいいが、まぁそれはまた今度。とりあえずはシェフにおまかせだ。
そんな事を考えながら他愛ない雑談に話題を向ける。
「そう言えば立ち寄った村で聞いたが、ここはドラゴンが出るらしいな」
「そうですね。とは言え棲息地はもっと山頂の方で、この辺りまで下りてくるのは余程ですけれどね」
ルチル山脈はコーズミマを二分する自然の境界線だ。雲を突き抜ける峰が連なる大自然は、当然人の手の届かない秘境として自然動物の住処となっている。そんな弱肉強食で過酷な世界の頂点に君臨する生物が、ドラゴンだ。
蜥蜴のような体に蝙蝠の如き翼を持つ、空を飛ぶ王者。獰猛な性格に似つかわしく肉食で、敵など殆どいない自然の脅威────天災とも言うべき存在だ。
鎧のような固い鱗に生半可な刃は弾かれ、牙の鋭い口から吐き出される火炎は防御など意味のなさない猛威だ。
俺たちにとってはドラゴンなんてファンタジーの代名詞だが、それは空想だからと高を括っていた娯楽で。例えば目の前に現れた時に冷静に対処出来るかと言われると甚だ疑問だ。
それこそ気持ちをしっかり持たなければ、カレンの刃ですら通らないだろう。
人の身を優に越える巨大な体躯。怪物と形容して遜色ないその存在は、見て見ぬ振りを出来ないほど近くにいるのだ。
「因みに訊くが、魔剣や魔瞳、魔具は効果あるのか?」
「物によりますね」
「と言うと?」
「……この世界の生物は例外なく魔力を宿している、と言うのは覚えていますか?」
「あぁ」
「ですから魔力に干渉したり斬ったりするそれらは、効果自体はあります。ただ、」
「自然に住んでる生き物は人間や魔物ほどに魔力を持ってないから効果は薄いよ」
言葉を継ぐように話題に首を突っ込んできたのはチカ。特に魔力が関わると強い二人の言葉だ。耳を傾ける価値は十分にある。
「普通の攻撃よりは通る、と言う程度です。なので魔物ほどの効果は望めないかと」
「でもそうでない攻撃なら意味はあると思う」
「例えば?」
「魔力で作り出した物理的な攻撃とか?」
「体内の魔力に干渉する魔瞳もある程度は使えるかと」
ふむ。そうなると色々手はありそうだが……まずもってカレンのお役御免だ。気持ちに左右される彼女の刃が、ドラゴンと相対していきなり十全に発揮されるとは考え辛い。ならば心持ちに左右されない魔術の方が有効だろう。
「とは言え魔瞳もそこまでだろ? 足止めが精々か?」
「そうですね。相手が魔力を蓄えていれば、それに応じて効果も望めますよ」
ユウの魔瞳の力は色々特別だ。魔力を元手に結実させるが、それは対外的に顕現させる魔術のようなそれではなく、内側から蝕む病のようなもの。加えて彼女の言だと、相手が魔力を保持しているほど影響を及ぼし易いということだ。
相手が強い方がこちらも強くなるとか一体何処のバトルものだよ。
しかし、ならばある種の博打。出会ってみないと効果があるかどうか判らないと言うのは、頼るには心許ない。それを主軸には出来ないだろう。
となると取れる方法論は必然一つ……。
「なら一番効果的なのはチカの魔術だろうな。ドラゴン相手なら規模も気にしなくていい。強力な方が頼もしいくらいだ」
「好きであんなの使ってるわけじゃないもん……」
まだまだ自分の力に対するコンプレックスが根深い様子。別にいいと思うけどな。……と言うか、魔術に可愛さ求めるってどうなんだよ。
「まぁ、ここにまでやってくるドラゴンは殆どいないんだろ?」
「はい。これからの時期、更に寒くなって食べる物が少なくなると人を襲う事もありますけど。今年はまだ大丈夫だと思いますよ」
人を襲う。あっさりとしたその言葉に少しだけ冷や汗が垂れる。
けれどもドラゴンにとってはそれくらいの瑣事。人が蟻を気にしないのと同じように、人の命などそこらで飛ぶ鳥と大差ないのだろう。襲われる方は堪ったもんじゃないがな。
「ならあれも見間違いでいいんだよな?」
まるで雑談の延長のように。雲の形を想像するが如く零れたショウの声。
彼の言葉になんとはなしに顔を向けて、彼の言いたい事を察する。
「……なぁ、ユウ。ドラゴンは、来ないんだろう?」
「そうですね。普通、ならば」
山の間に作られた国境越えの道。山肌を切り拓いて敷かれた平坦な道は、片側を天に伸びる山肌に、片側を谷に続く山肌に挟まれている立地。
その片方……上の方から、まるで車輪止めを失った荷車の如くブレーキを知らない塊がこちらに向けて新たな道を山肌に描いてくる。
そんな光景をぼやぁっと見つめて数秒。やがてようやく自覚したように、認め難い事実を目の前に突きつけられて胸の内が競りあがる。
「ならあれは────普通じゃないんだよなぁっ!?」
周りの奴らにも危険を知らせるように叫んだ直後、斜面を駆け下りてきていた巨体────ドラゴンが、その顎を大きく空けて耳を劈く咆哮を辺りに響き渡らせた。
大きな体から放たれた振動が木々を、大地を揺らす。突然の天災の如き混乱に、馬が嘶き周りまで巻き込んで騒がしさが伝播する。
ありえない、なんて事はありえないと。そうなった以上これは現実なのだと。
纏まりきらない思考でやるべき事は唯一つだと決断を下し、馬車から降りる。傍には、覚悟を決めたカレンとチカの姿。
「ミノさんっ!」
「どうにかしてみる! その間に馬を宥めて巻き込まれない位置に移動しろ! ショウは馬車を守れ!」
「任せていいんだな……!」
「あぁっ。策はないけどなっ!」
飾るのも阿呆らしいとそのまま告げれば、それぞれにやるべき事を自分に言い聞かせ動き始める。
「カレン、剣の壁っ!」
「もう作って、るっ!」
言葉など要らない呼吸で思考を重ねて叫べば、両手を翳したカレンがドラゴンの行く手を阻むように鋼の壁のような大剣を幾つも顕現させる。
人の身では到底扱えないオブジェのような刃の影。それらに進路を妨害されたドラゴンが、けれども勢いそのままに突っ込んで隕石でも降り注いだかのような土埃を土砂のように辺りに撒き散らした。
立ち込める茶色い靄。それを睨んで数秒、中に浮かんだ黒い存在感が、己を知らしめるように吼える。衝撃に煙が晴れれば、縦長の瞳孔がこちらを睨んで大地に立ち大きく仰け反った。
その行動は、まるで鞭を撓らせ叩きつけるかの如く。動作に合わせて確かな意志を孕んだそれは、人を丸呑みに出来る大きな口に破壊の衝動を滾らせた。
ドラゴンだからな、と。どこか期待していた自分に小さく笑いつつ、合わせるように完成した剣の壁で同じように視界を阻む。
生成速度に優れるカレンの剣では勢いを殺すのが精一杯だった。ならばあれは、質に優れる俺の剣で……。そう考えた直後、作り出した金属の盾の向こうから離れていても感じる熱気が弾けた。
ドラゴンのブレス。ファンタジーここに極まれりな破壊の権化がその牙を剥く。
最大限質を高めて分厚く作った剣の壁だが、その本質は金属。熱には弱い。見る見るうちに熱せられ赤く溶けた刃が防御の意義を見失うと、波濤の如く木々を巻き込んでこちらに迫る。
「チカっ!」
「任せて!」
それに対抗するように契約を介して魔力を重ねれば、目の前に浮かび上がった巨大な魔法陣。その効果が齎したのは、台地が怒ったような巨大な隆起だった。
炎には水を。なんて安直で危ない考えだ。勢いのある炎に水を掛けてもすぐには消えない。それどころか、周りに人がいるこんな場所で使えば彼らまで巻き込んで崖下へ流されてしまう。もし消えたとしても、立ち込める水蒸気でドラゴンの姿を見失ってしまうのがオチだ。そこまで考えが至ったらしいチカが対抗策として練ったのが土の壁だ。
山を拓いて作られたこの道ならば、土など飽きるほどに沢山ある。それらをかき集めて魔力で強化し形成すれば、衝撃を受け流す事は容易だ。
そんな機転と共に切り抜けたドラゴンのブレス。その間にユウ達が声を掛けて周りの馬車たちを移動させてくれる。
とりあえず安全を確保できるだけの時間は稼げたかと。迅速な周りの行動に助けられつつ辺りを確認する。これでこっちに意識さえ向ければ、他のやつらが狙われる心配はないだろうと。
土の壁を維持していたチカが、ブレスが止んだのを感じたのか魔術を解く。音を立てて瓦解したそれらは、炭になるほどに黒く焼け焦げ、役割を果たしてくれていた。
開けた視界で、四肢を大地に突いてこちらを睨むドラゴンと対峙する。力が及ばないと判断して退いてくれる事を願ったが、どうやら一連の事で必要以上にヘイトを稼いでしまったらしい。
さて、ここからは本当にノープランだが……やれるだろうか?
「ミノ、あのドラゴン普通じゃないよ」
「普通じゃないってのは?」
「あれ……魔障だと思う」
隣のカレンから上がった声に問い返せば、答えたのはチカだった。彼女達の言葉に改めてドラゴンを見据える。
紅蓮の鱗に覆われた巨体。鋭い爪と牙に、大きな角。と、どうやら片方が中ほどから折れており、本来は二つあったらしいそれが一方欠けていた。その断面が、どうにも仲間内で争って失ったようなそれではない。まるで剣か何かで両断されたように滑らかだ。
そんな失われた片角の表面から、どす黒い魔力が溢れてドラゴンの体を覆っていく。
「あんなのと戦って生き残った魔物がいるってのかよ。そっちの方が気になるぞ……」
魔障は傷を負わした魔物が生きていて、そこから供給される魔力によって症状が進む病だ。だからあの角を切り落とした何某かが痛み分けとして互いに生き残り、そこから一方的に侵食したケースが目の前のドラゴンらしい。
先ほどの攻防からも分かるが、生半可な魔物ではドラゴンには敵わない。だから余程の相手と衝突したのだろうが、ならばその魔物は一体どんな強敵なのかと疑問が募る。……が、とりあえず今それは捨て置くべきものだ。
まずはドラゴンに魔障と言う、聞くだけでもやばそうな組み合わせをどうにかするしかない。
「確か魔障に罹っている間は魔に関する部分が一時的に強力になるんだよな」
「うん。体が魔に侵されてるって事は、それだけ魔力に溢れてるってことだからね。普段は使えないような魔術を使えたり、規模が大きくなったりするよ」
「悪い事ばかりじゃないが……病状が進行すれば直す手立てがなくなる。諸刃の剣だな」
もし魔障をコントロールできたなら、他に類を見ない力の持ち主になれるのだろうが厳しい話だろう。可能性としては魔障に罹った状態で相手の魔物と仲良くなればあるいは……だが、そんな理想はきっと叶わない。ただの理想論だ。
「《甦君門》でも一時期似たような話を聞いた覚えがあるけど……」
カレンやユウの力を《波旬皇》復活に利用しようとする組織だ。それくらいの事は思いつくか。どう利用するのかは見当もつかないがな。
そんな事を考えていると、魔力を纏ったドラゴンが空気を震わせる。今度の咆哮には、肌で感じられるほどに魔力が乗って辺りを震撼させた。
体感だが、あのドラゴンはこれまで戦ってきたどの魔物よりも強敵だ。《魔堕》に換算するなら高位レベルだろう。
「……さて、話してても埒が明かないな。とりあえず一太刀浴びせてみるか」
「無茶はしないでね」
「ミノはあたしが守るからっ」
気合を入れなおせば、魔剣の姿になったカレンとチカを携えて。左手で逆手持ちにチカを握り、そのまま柄を重ねて両手でカレンを抜き放つ。形としてはカレンの柄からチカの刃が生えているような奇形の構え。
その気になればカレンを片手で振り回せるだろうが、あの巨体相手に生半可な事をすれば足を掬われる。最初から全力で望むべきだ。
小さく息を詰めて見据えた直後、山肌に鎮座してこちらを睨んでいたドラゴンが大地を抉りこちらに跳びかかってくる。と、次いで大きな翼を広げたドラゴンは、斜面を滑り落ちるように滑空して巨体を活かしたタックルをかましてきた。
指数関数的に加速する突進と迫る巨躯。僅か数秒の間に、木々などものともしない勢いまで達したドラゴンが、その巨体で逃げ場を押し潰して襲い掛かって来る。
向こうからやってきてくれるならこちらの土俵だと。迎え撃つように左腰に構えたカレンをしっかりと握り、距離を測る。狙うは残っている角。もしあれが弱点で、魔障をもらった時もそれを原因に痛み分けをしたのなら、狙う価値があると。
据えた腰で目の前の迫力を封殺すれば、タイミングを合わせてカレンを振るう。
と、その刹那。唐突に開いた口から、逃亡など不可能なタイミングで火炎が唸った。焼き尽くすつもりかと過ぎった次の瞬間、ドラゴンは自分で吐いたブレスに突っ込んで、その身に業炎の鎧を身に纏いこちらに突っ込むという荒業をして見せた。
瞬く間に炎の塊と化した巨体が異常な熱を伴って空気を裂く。
滅し、灰燼など残さないと盛る衝動に、言葉以上の本能が警鐘を鳴らしたのは人間の性か。その瞬間、微かに生まれた迷いと恐怖が思いの刃を鈍らせる。
けれども斬らなければやられると。防御をチカに任せて感情の限りに魔剣を振るえば、同時に体を水の膜が覆ったのがわかった。
最初に鼻先を掠めた、水が焦げるという形容のし難いにおい。蒸発さえも生ぬるいと、水蒸気でさえ食い散らかす衝動で景色が紅に染め上がる。次いで水の庇護が削られていくのと同時、目の前に迫った……どこかの巨大建築のような角にむけてカレンを逆袈裟に放つ。
響いたのは、金属よりも固い岩を叩いたような耳障りな音。微かに傷をつけた刃がそれ以上を斬り裂く事を阻まれて軌跡を描く事を否定される。
魔障で身体強化でもされているのか。斬り落とせない……! そう巡った直後、突進の勢いに巻き込まれて足の裏が地面から離れた。そのまま踏ん張りなど利かず、燃えるドラゴンの角に食らいついたまま空中に放り出される。
体が覚えた微かな浮遊感。次いでそれが背中に空気の塊を叩きつけられたような落下の衝撃に早代わりすると、景色が後ろ向きに流れていく。視界には、紅蓮の尾を引いて遠ざかっていく崖上の道。
ドラゴンに組み付いたまま崖下に落下している。そう思考が巡れば、行き場のない感情と共に叫び声が響いた。
「クッソがぁああああっ!? んなところで死ねるかぁああっ!!」
なおも加速する景色の中で叫べば、それに呼応するようにドラゴンがまた一つ咆哮を上げ────そうして俺たちは背後に広がる森の中へと落下して行ったのだった。
「……はぁ…………」
体中の鈍痛を自覚しながら小さく息を吐く。
何で俺、生きてるんだろうな。……いや、別に死にたかったわけじゃないんだけど。少し死も覚悟したくらいにはありえない出来事を乗り越えた事に呆然とする。
悪運が強いのか。自分でも生への執着に呆れるほどだ。
けれどもずっとそうしているわけにもいかないと。辺りを見渡して絡まっている枝葉を確認し剣を作り出して切り落とすと、逆さまに落下する体をどうにか捻って受身を取る。
揺れた木に鳥でも留まっていたのか羽ばたきと共に空へと舞い上がる。その行く末を追うように視線を巡らせれば、随分と高い位置に先ほど落ちてきた崖が見えた。
目を凝らしてみるが人の姿は見えない。まぁ恐らく大丈夫だろう、要らぬ心配は捨て置いて、今は出来ることから始めなければ。
と、直ぐ傍に落ちていた二振りに声をかける。木に受け止められた時に取り落としでもしたか
「カレン、チカ。無事か?」
「んぇ……?」
「うん、大丈夫」
カレンはどうやら寝惚けている様子。彼女にはドラゴンの相手も頼んだし、気絶くらいは多めに見てやるか。
無茶をさせたと胸の内で謝りつつ拾って目の前に放り投げれば、空中で人型に戻る。
「ふべっ!?」
と、タイミングが悪かったのか、五体投地でもするように着地に失敗したのはカレン。どんくさい鈍らだと仕方なく手を差し伸べれば、彼女は顔を抑えながら小さく笑って立ち上がった。
「で、ここはどこ?」
「あそこから落ちてきた。ユウ達とは逸れたな。馬車は上だ」
「うわぁ……」
「どうするの?」
「ま、合流だろうな」
チカの声に答えつつ、腰の麻袋から地図を取り出す。
「落ちてきた場所から考えるに……今この辺りだな。このまま崖沿いに森を突っ切って、ユークレース側で落ち合うのがいいだろ」
「えー、歩くのぉ?」
「なら足になる動物でも捕まえて来い。素直に言う事を聞いてくれるやつがいればだけどな」
「むぅ……」
文句を垂れるカレンに事実を突きつけつつ息を整えて辺りを見渡す。その意味に気付いたのか、カレンとチカも同様に周囲を警戒した。
「……うん、大丈夫」
「とりあえず移動するぞ。このまま無策で遭遇したら今度こそ死にかねん」
「次は、もっと頑張る……」
どうやら先ほどの交錯で全力を出し切れなかったことが悔しかったのか、決意を新たにするチカ。けれども彼女の魔術のお陰で被害は最小限に、俺たちもこうして生きているのだ。感謝こそすれ責められはしないだろう。それに……。
「大丈夫だ。次があれば、今度は加減しなくてもいい場所で思いっきりやらせてやる。だからその為に色々準備しておいてくれ」
「分かった……!」
気負いすぎなければ、やる気があるのはいいことだ。それを潰す必要は感じないし、借りを返す意味も込めて全力で相対してくれる。
「……カレンもな。あの時はいきなりで驚きもしたが、次は大丈夫だろう?」
「うん。次は斬るよ! 強いて言えば熱さ対策に水を纏うとかしたいかな」
「可能か?」
「頑張ってみる」
チカの水の魔術がそれなりに効果があるのは実証済みだ。今度は防御だけでなくそれを攻撃に転用する。そうすれば二度目はないはずだ。
「しかしやっぱり熱や炎は苦手か?」
「いきなりだとちょっとね……」
前に炎を使った剣と交えた時も彼女は尻込みをしていた。それと合わせて考えれば、やはり熱はカレンの天敵か。
恐らく、彼女が魔剣……剣だからなのだろう。幾ら破格の力を持つカレンでも、その本質は剣に宿った魔物。チカの魔剣化の時にユウも言っていたが、魔剣となった魔物は剣に馴染んだ後に意識が表層化する。だから魔剣にとっての体と言うのは剣そのもの……金属の塊だ。
剣は金属を鋳造、鍛造して作られる。その過程で熱せられ加工し易くするのは、どれだけ固いものでも熱で柔らかくなってしまうからだ。
カレンは刀だから西洋剣とは異なるものの、本質は同じ。剣と言う本質が追加されて、本能的に熱や炎は怖いのだろう。
もちろん対策を出来ればどうにかなる。熱が届かなければその恐怖はないのと同じだ。
チカの水と、カレンの斬れ味。それらを組み合わせれば、あのドラゴンにも十分に対抗しうる。
「それよりもミノこそ大丈夫? 人も火は怖いんでしょ?」
「まあな。そうでなくともドラゴンなのに、加えて火達磨になって突っ込んでくるんだからそりゃあ肝くらい冷えるだろ」
あんな恐怖体験、もう二度としたくないが……。かと言って仕返しのためにはもう一度あれと向き合う必要はある。
「……けどチカが身を守ってくれるしカレンだって覚悟決めてるんだ。何より俺が怖気付いてちゃ斬れる物も斬れないからな。一度見たんだ、もう遅れは取らない」
感情の刃。躊躇を捨て、自信を振るえば断てぬ物は存在しない。だからこそ何よりも気の持ちようだ。
型や経験より精神修養が肝心と言うのは、道の常。体験こそした事無いが剣道という確かな心構えに倣って、今度こそ障碍を斬り裂いてみせよう。
「その為にもまずは準備だな」
「何から始めるの?」
「当然、腹ごしらえだ。腹が減ってはなんとやら、だからな」
生憎と食べ物は馬車の方だが、ここは人の手が届かない自然の中。探せば幾らでも腹の足しになるものはある。
「水場と食料。国境越えをしつつ探すぞ」
「おっけぃ!」
「うんっ」
できることから一歩ずつ。その時に備えてと足を出せば、長い道程に向けて歩き出したのだった。
辺りの警戒は二人に任せ、俺は食料と水の確保を済ませる。と言うのも、この二人はサバイバル知識が殆どない。一応これまでの旅で経験してきた事ならどうにかできるだろうが、いきなり大自然に放り込まれて生き延びろと言われても期待できない以上に心配になる魔剣達だ。
が、そこは今を生きるため役割分担。それぞれに出来る事をしっかりこなせば、日没よりも早く宵越しの準備が整った。
標高が高い事もあって一気に寒くなった気温に火を熾して暖を取れば、流石のカレンも安堵をしたのか小さく息を吐いていた。少し前に炎の塊に恐怖していたのに焚き火に気を緩ませるとは、流石はカレン、現金な奴だ。
ここに来るまでに清流で捕まえた川魚を捌き、香草で包んで焼いたそれを夕餉に。それでも警戒だけは怠れないと、ローテーションで火の番はしておいた。寝袋もない山の中。凍死なんて御免だ。
話相手もいない夜の静けさの中。微かに見える夜空を眺めれば満天の星空。これはこれでいい物が見れたと、意味もなく脳内星座を描きつつ。手慰みに魔術で剣を作っては消す。
傍らで考えるのはユウとショウの事。まぁ彼らの事だから大丈夫だとは思うが、やはり少し心配だ。そもそもあの二人で仲良くやれているのだろうか……。どんな話をしているのか想像ができないな。仲違いをしていない事だけを祈るとしよう。
そんな風に夜を過ごし、翌朝からは再び行軍を開始する。
とは言え歩くだけでは何の面白味もないと。暇潰しに提案したしりとりが白熱……すればよかったのだが、これが大失敗だった。
何せ単語が異なるのだ。トマトがタスリア、高山病がセンモルラン。全く違う風土で発展した言語が共通見解にはなるはずもなく。互いに疑い、造語を自分の世界の国だと主張し始めればきりがないと悟れば、しりとりは空中分解した。
そもそもしりとりは、日本では五十音の五十一個目である『ん』がついたら終わりと言う随分と限定的な遊びだ。当然こっちの世界で五十音は存在しないが故に、『ん』がついて終わりの理由もなければ、『ん』から始まる言葉だって存在する。前提からして彼女達の価値観では成り立たない遊びなのだ。
加えて認識している単語が違うともなれば、母国語しか喋れない日本人と中国人とインド人が言葉だけで会話をしようとしているのと同義だ。面白さの欠片もない。
ただ、しりとりの概念はこちらにもあるらしく、決着の仕方こそ少し異なるが遊びとしては存在しているらしかった。本気でやろうと思えば、少数派で異邦人である俺の方がこちらの世界に合わせる必要があるのだろう。郷に入っては郷に従え、だ。
……いや、と言うか。もっと単純で深いところを突っつけば、どうして言葉が通じて意思疎通ができているのかと言う疑問がある。文字や単語、文法が違うのはこれまで勉強した中で分かっている。ならば発音なども同様で、異世界人の理がこっちの世界で通用している現状にこそ牙を剥くべきではないのだろうかとも思うのだが。しかしならば今ここからいきなり言葉が通じなくなったとして、どうやって生きていくのかと問われれば第三の人生を期待してしまうくらいには途方もないことだと思う。
そう考えれば、現状のどうにかなっている曖昧さを掘り返す必要は感じない。そう言うものな世界に感謝を。
そんな風に、どうにかなっている事とどうにもならない事の間で揺れ動きながら足を出し続ければ、一つの区切りを向かえる。
言葉にすればどうにか抑え込んでいる物が暴発してしまう。そう考えて誰も口にはしなかったが、ずっと緩い上り坂だった道のり。それがどうやらここから下り坂に変わるらしい。証拠として、目の前に広がるのは傾斜によって描かれる秋模様だった。
とは言っても既に冬目前。半分以上枯葉となって地面を覆い、紅葉らしい紅葉は殆どない。まぁ、秋らしい色合いはこれまでの道中でそれなりに見られたから今更だ。どちらかといえば冬の到来を自覚するといった方が正しいかもしれない。
「ふぃー! やっと登りから解放だよっ」
「言っとくが下りの方が疲れるからな?」
「嘘っ!?」
「もちろん一概にそうだとは言い切れないけどな。登りは体を持ち上げて、下りは体を下ろす事になる。体力的には登りだが、足腰に来るのは下りだぞ」
特に普段から馬に任せて馬車に揺られているのだ。鈍らないようにとできるだけ毎日体は動かしているつもりだが、斜面ではまた違った運用が必要だ。慣れるまでは辛いだろう。
「ねぇミノ────」
「魔剣化したら墓石代わりに突き立ててやるからな」
「うぅぅがぁあああっ!?」
これ以上荷物を増やされて堪るかと。先回りして釘を刺せば、堪えきれなくなったカレンが叫ぶ。
その気持ちもよく分かる。俺だって同じ立場なら同情を買いたい。けれどだからこそ、その辛さは平等であるべきだ。
「それともなんだ? 俺がお前を運んだら途中で交替してくれるのか?」
「う…………」
「分かったら少し休憩だ。回復したら行くぞ」
出来もしない想像を突きつけてこれまでに確保しておいた食料を齧る。自然由来の果物故に栽培されたそれには遠く及ばない味だが、だからこそ生きている実感があって結構なことだ。秋の味覚の残滓を喉の奥に下し、果実以上に育った大きな種を草むらに吐き捨てて立ち上がる。
そうして遠くを見た景色の中で、一つ思いついた新たな選択肢を視線と共に追い駆ける。
「……どうかしたの?」
「いや、別にまた森の中に入らなくてもいいかと思ってな」
「なに? 下るんじゃないの?」
「いや。こっちには便利な魔術があるんだ。使わないと損だろ?」
チカとカレンの声に答えれば、契約の繋がりでは共有されない埒外な思考を音にする。
「折角自由の身で好きな道選んでるんだ。第三の選択肢はいつだってあって然るべき……だろっ!?」
そう告げて。胸の奥で練りこんだ魔力をイメージと共に顕現させる。創造したのは当然剣。ただし武器としての用途は全力で無視した、超巨大なそれだ。
巨人ですら扱いに困るような……馬鹿でかい剣。それが目の前に出現するや否や、風を押し退けて倒れると空中に鋼の道を描き出す。刃の先には、眼下の森から突き出た大きな岩の塊。
「うひー! 何その乱暴なやり方ぁっ!」
「ほら、行くぞ」
「……ミノって時々誰よりも常識外れだね」
「うるせぇ」
チカの言葉に反応すれば、彼女は小さく笑って隣に並んで歩き出す。
森の上を横切る金属の橋。高所から高所に架けられた大自然に真っ向から牙を剥く人工物の上を悠々と闊歩する。別に森の中を歩かなければならない法なんて何処にもないんだから最初からこうすればよかった……。これなら無駄に蛇行したり、はたまた野生動物に怯えたりなんて精神の磨り減る事とは無縁だったのに。俺も大概参っていたのだろう。昨日のあれはいきなりだったから仕方ない。
「でもこうしてみるとやっぱりいい景色だね」
「もう少し時期が早ければ紅葉真っ只中だったんだろうがな。別に観光しに来たんじゃない。目の保養が済んだならさっさと歩けよ」
「折角なんだからミノももうちょっと楽しめばいいのに……」
暢気な魔剣の声に……けれどもいつも通りの音を聞いてこちらも安堵する。彼女がそうでいてくれるから、俺もどうにかなると能天気に思えるのだ。
と、すぐ傍から視線を感じて顔を向ければ、こちらを見上げたチカと視線がぶつかった。
「なんだ?」
「……これが出来るなら崖の上に向けて剣を架けるのは駄目なの?」
「駄目なことはないだろうが……それで作れるのは足をかける所もない急斜面だぞ? 登れないだろ」
「そっか、ごめん……」
謝る必要なんてないのに。相変わらず律儀な少女だ。
しかし彼女の発想もいいところを突いてくると。もう少しこの谷の幅があれば、斜めに架けて剣の橋を上に登れたのだろうが、どうにも足りそうにない。出来ても壁のような坂だ。
一応別の解法として、崖の壁に角度緩く突き刺すようにしていろは坂の要領で少しずつ上へ登っていく事も出来るだろうが、今からでは無駄に時間が掛かりすぎる。やるなら最初に気付くべきだったな。
とりあえずこの方法なら無駄な距離を歩かなくて済むだろうと気を楽にして足を出す。……まぁ唯一気になる事があるとすれば────
「とは言えこれはこれで危険だけどな」
「そうだね。向こうからも丸見えだからその内……」
どうやら同じ結論に至ったカレンが頷く。森の木々の上に剣の橋を通して障害物などない空中散歩だ。当然その見晴らしの良さは対外的にも同じ意味を持つわけで……。こうして恰も馬鹿を装った風に歩みを進めていればお相手も当然やってくる。
「ミノっ、後ろから来るよ!」
さて、今度は後れを取るまいと。ゴールの遠い道程を眺めながら歩いていると、三分の一ほどを過ぎた辺りでチカが叫ぶ。彼女の声に後ろを振り返れば、獲物を見つけたハンターが上空からこちらに向けて飛んで来ていた。
「このまま連れてく訳にもいかないからな……。カレン、リベンジいけるな?」
「当然っ! ミノこそ怖気付かないでよね!」
「馬鹿言うな鈍らがっ」
「もう……こんな時まで言い争わないでよ…………」
呆れたようなチカの声に獰猛な笑みを浮かべて両手を翳せば、カレンとチカが魔剣となって顕現する。直ぐに構えれば、目の前まで迫ったドラゴンが鋭い牙を剥いて金属の橋ごと噛み砕こうと突進してきた。
「チカ、防御と足場は頼んだ!」
「うんっ」
「カレン、思いっきりやれ!」
「まっかせろぉーい!」
気合十分。陽気ささえ湛えた掛け声と共に心の底から未来を願って刃を振るえば、化物退治のクエストが高らかに頒布された。
* * *
ミノさんたちがドラゴンと共に崖の下へと落ちてから一夜明けた翌日。既に切り替えた頭で周囲だけ警戒しつつ馬を歩かせる。御者台には、ミノさんと同郷の転生者……ショウさんの姿。
「三ヶ月か……」
「人間の場合、ですけれどね」
交わされる会話はどこか事務的な内容で、魔障について。
ミノさんたちと分断された時はドラゴンの事もあって色々慌しかったが、今となっては落ち着いたもの。いざという時の備えの為にと、彼が知りたいと言った魔障についての講義の真っ只中だ。
因みに三ヶ月と言うのは、魔障に罹って魔物に変わり果てるまでの大体の時間のこと。個人差があるから一概には言えないが、それまでに対処をしないとまず悲惨な結果に終わる。
「ドラゴンに魔障が、なんて聞いたことがありませんから指標でしかありません。もしドラゴンと魔物が相対しても、圧倒的な実力差で痛み分けなんて発生しませんからね。余程稀有な事態ですよ」
「けど行き着く先は結局同じだろ? 放置すれば魔に侵されて魔物に変化する」
「恐らくは。しかも素体がドラゴンともなると……一体どんな魔物に変化するか予想も付きませんね」
魔障に罹ったドラゴン。いきなりルチルの山を降りてきたかの巨体が体に炎を纏い、勢いそのままにミノさんたちを道連れに姿を消したあの光景は、忘れようとも難しい。あんな鮮烈な光景が目の前で起きて、今生きている事さえ不思議に思うほどだ。
「高位以上か?」
「ともすれば《波旬皇》にさえ匹敵するかも……」
想像で語って、それから頭を振る。もしそんなのとミノさんが真正面からやりあったらどうなるのか……。そんな嫌な想像が脳裏を過ぎって仕方がないのだ。
と、隣からショウさんが尋ねてくる。
「やっぱり心配か?」
「そうですね。相手が未知数ですから……。そう言うショウさんは、なんだか随分と落ち着いているように思えますが……」
「これでもあいつの事は信頼してるからな。あんなことでくたばるタマじゃないだろうし、そもそも負けてもらっちゃ俺が困るって話だ。折角許されて、二度ない機会を得られたんだ。それを不意にされたら堪ったもんじゃないっ」
果断に言い切るその横顔に、少しばかり認識を改める。
ミノさんの過去に大きな影響を及ぼしたショウさん。彼の存在があったからこそミノさんはこの世界にやってきてカレンさんたちと出会い、そして再び二人は相見えてここにいる。そんな、因縁とも妄執とも呼べる……まさに運命とも言うべき鎖で繋がれたような二人の間には、もっと別の何かがあるのだと勝手に思っていた。
けれども、少なくとも今の言葉に偽りはない。彼は心の底から、ミノさんの無事を確信している。だからそんなに平然といられるのだと。
気になって、問う。
「…………どうしてそこまで信じられるんですか?」
「何でって言われてもなぁ。……多分何も信じてないからで、だから願望をいいように振りかざしてるだけなんだろうけどよ。折角の二度目の命なんだ。悔いのないように生きるのがせめてもの希望だろ? ……って、全く理由になってねぇな、悪ぃっ」
「いえ……」
わたしは、どちらかと言うとミノさん寄りだ。確かな証を元に、信じられる確率の高い方法を選ぶ。打算的で、理論的で、何処までもずるい、現実的な性格。
だからどこかで憧れもあるのだ。カレンさんのように、ショウさんのように。自分の中に曲がらない何かを持って、それを揺らがない自分自身で補強した感情論を振りかざせるその自信が、羨ましくさえあるのだ。
言葉にならない。けれど自分だけはそう信じて疑わない何か。……少しだけ身に覚えがある。
それは、わたしがわたしの自由を盲目に過信して手段に踊らされたあの時。結果的にミノさんに救われた、彼と関わった一連の騒動。
今になって思えば、なんて馬鹿で曖昧な軸で行動していたのかと猛省と羞恥で己を掻き毟りたくなるけれども。あの時感じた自分を突き動かす衝動は、きっと今ショウさんが信じている未来と同じ何かなのだろう。
「ただ、……ん~……。なんつぅか…………。大丈夫だって。俺がそう思ってるからそうなんだって、きっと誰にも理解されない何かなんだよ」
「…………はい」
要領を得ない言葉に、けれどもなんとなくを察して頷く。
全く、何もかもが違うのに。世界も、生まれも、人生も、性別も、背丈も、考え方も……。だと言うのに、それでも理解が出来てしまうこのちぐはぐでデコボコな感情は、一体なんなのだろうかと少しだけ考える。
……それに答えを出すのは、なんだかまだ怖い気がする。
「だから、その…………あいつには今のは内緒にしといてくれないか?」
「……考えておきます」
「頼むってぇ……!」
少しだけ意地悪に答えれば、真剣に、はたまたおどけた様に拝み倒す彼。そんな姿に、空気に、助けられている事を知りながら小さく笑みを浮かべる。
……あぁ、全く。自由ってのは大変だなぁ。
ベリル連邦からユークレース司教国へ。国境であるルチル山脈の道を越えて関所で待ちぼうけをする。
ここに着いたのは昨日。一緒にドラゴンを目撃したほかの旅人や商人は既に越境手続きを終えて先に行ってしまった。けれどもわたし達はミノさん達がここに来ないと身動きが取れないのだ。
こんな事なら前のとき同様魔瞳を使って抜けた方がよかったかもしれないと思いつつ暇を潰す。
「そう言えばさ」
「なんですか?」
「その眼帯の下、どうなってるんだ?」
同じく時間を浪費する相方、ショウさんの問いは、既に話題など遠の昔に尽きた末の思いつきの音。互いに話す事もないままに時間を徒に過ごし、こうして何かに思い至っては言葉を覚えたばかりの子供のように口にする。
そんなやり取りも既に数えるのも飽きていた所へ投下された繊細な話題。これまで問われなかったのは、ショウさんも忌避していたからなのだろう。
それでもずっと黙り続けていると喉が塞がってしまいそうで、加えて気にはなっていた最終兵器をようやく投入してきたのだ。
……まぁ、頃合か。逆に、ここまで話題にならなかったのが不思議なほどだ。その気遣いには素直に嬉しくなる。お陰で返答の形も幾つか準備できていた。
「前にミノさんが言っていた通りですよ。色の違う目……オッドアイって言うんでしたっけ。それと似たような事になってます」
「……色は?」
「一応黄色ですかね。自分でまじまじ見たことがないのでよく知りませんけれど」
手元で子供でもあやすように双剣をくるくると弄ぶ。取り回しの為に手に馴染ませる意味もあるが、殴打用に空いている柄の指を通す穴がいい感じに遊びやすいのだ。もう手元を見なくても刃を回す事に抵抗はない。それくらいには手の一部だ。
「魔瞳だっけか」
「はい。魔力の流れが見えるんです。この力のお陰でショウさんもお助けする事が出来ました」
「その点に関しては感謝をしてもし切れないな。本当に助かった」
「いえ……。誰かを助ける為に使えるなら、それはきっといいことですから」
脳裏を過ぎるこれまでのこと。この目と共に過ごすようになって、いいことなんて殆どなかった。ようやく意味を見つけられたのは、ミノさんに出会ってからだ。そう言う意味では、ショウさんがわたしに助けられたと感じるように、私はミノさんに助けられたのだ。言葉にすれば、彼はきっと素直に感謝を受け取らないだろうけれども。まぁ感謝と言うのはそう言う物だろう。だからわたしも同じように感じているのだ。
「特別な事って、良い事は少ないんです」
「……………………」
「目立って、期待されて、落胆されて……。望んでもない事を押し付けられて、窮屈なだけです」
物語の主人公のように都合のいいものではない。現実は空想のように美談でもなければ、都合もよくない。大抵は辛い事ばかりだ。
「だからわたしはずっと自分自身から目を背けて来ました。信じられるのは自分と、この目の中にいるサリエルだけ。それ以外は全部敵だって……敵以下の、他人だって思ってきました」
そうする事で自分を守ってきた。自分で死すら選べない意志薄弱な自分が嫌で、何度も何度も苛んで来た。
「でも、この目を抜きにわたしを見てくれる人がいて……。その人のお陰でわたしは今ここにいられるんです」
その人は、人と言うには生い立ちが特殊すぎて。そもそも人ではなくて。誰よりも人間らしい、魔剣で。
────人間だよっ
そう言ってくれたあの声が、今でも鮮明に思い出せる。
「だから…………って、ごめんなさい。こんな話楽しくないですよね……」
「いや……。オレはその、聞けて良かったと思ってる」
伺うように視線を向ければ、彼は恥ずかしそうに視線を逸らす。声に、嘘の色はない。
「だから、その……もし決心がついたらで構わないんだが…………その時になったら、眼帯の下の目、見せてもらってもいいか?」
ショウさんは、わたしの魔瞳を見た事がない。あの魔剣に取り込まれて暴れていた際の事を覚えていないから、記憶にないらしい。
だからこそ、彼はわたしにとって特別だ。きっかけをくれたカレンさんと、随分と遠回しに肯定してくれるミノさん。あの二人には、普通とは違う経緯でこの目の事を知られて、気付けば認められていたけれど。あれはわたしの中では事故だから。チカさんも、彼女とは言葉にしない部分で互いの事を理解していたから、あれも想定外。
そんな普通ではない彼女達と、今隣にいる彼は違う。
わたしがようやくわたしを少しだけ好きになれて、自分の意志でこれがわたしなんだと見せる最初の相手が、きっと彼なのだ。
だからそれが怖くて……きっとそう出来た時に、わたしはまた一歩前に進めるのだろうと思う。……それがいつになるかなんて、今のところ全然想像がつかないけれど。ただ、避けては通れない未来なんだろうなとは、漠然と思うのだ。
その、歩み寄りを彼の方からしてくれた事に……させてしまった事に申し訳なく思いながら。彼の言葉に嬉しくなって。
「…………嫌ですっ」
「えぇぇ…………」
「ふふっ」
零れてしまう笑みはきっと、心の底からのものなんだろうと自覚してしまう。
…………あぁ、もうっ。早く帰ってきてよ、三人ともっ。
「おーいっ!」
「お…………?」
なんて考えていたところへ、遠くから響いた声。思わず御者台に立ち上がってそちらを眺めれば、遠くからこちらにやってくる影を三つ見つける。
「やっとだな」
「……何か背負ってますね、なんだろ…………」
見覚えのない荷物を運んでくる彼らに疑問を重ねながら、ようやくの再会に安堵する。
僅かの時間離れていただけだと言うのに、なんだか随分と長い間遠くにいたような感覚を覚えながら再会の挨拶に尋ねる。
「それ、なんですか?」
「ドラゴンの角だ」
「はぁっ?」
二日ぶりに交わした言葉は、全く意味が分からなかった。




