第五章
翌日からはユークレースに向けての準備が始まった。とは言ってもやる事は単純で、金を集めて旅食なり防寒具なりを揃えるだけだ。一応道中寄れる町には立ち寄ってその都度買い足したり、雪に慣れた馬に換えたりはする予定だが、ベリリウムにいたように長く滞在するつもりはない。精々二日と言ったところだろう。
その為にも、無駄な金策を先に安全なこの場で済ませておくのが吉だろうと、報酬のいい依頼から率先して解決していく。
能力だけは申し分ない集団が故に、普通の傭兵なら無理そうな依頼でも難なくこなせる。少し面倒だったのは中位程度の《魔堕》を相手にした時だったが、どうにか討滅する事が出来た。
苦戦したのは、握る魔剣である相棒のカレンの刃が曇っていた所為だろう。その原因も、目的地を決めた夜に微かに交わした話題だと言う事は分かっている。
しかし、カレンには関係のない話だ。加えて俺もそれほど考慮していない問題。いくらあの男が一人で騒ごうと、それはあいつの勝手だ。……そう言えばここ数日顔を見ていないが、諦めたのだろうか? だとすればようやく鬱陶しいのから解放されて嬉しい話だが。
そんな事を考えつつ数日掛けて準備を進めれば、一応必要最低限の物は揃った。後はもう少し懐に余裕が出来れば出発してもいいだろう。
要らぬ過去は全てここにおいていく。そう一人考えをまとめれば、今日中に金策を終わらせようと意気込んで傭兵宿の階段を下りる。
ここの景色も最早見慣れたものだ。傭兵仲間からも少し厳しい任を請け負ってはきっちりとこなして戻ってくる姿がいい酒の肴らしく。ここ数日は依頼から帰って来る度に飲みに誘われるようになったほどだ。
が、生憎とまだ酒は一滴も飲んだ事はない。別に生前の感覚に囚われているつもりはないが、その気にはならないのだ。ストレスから逃げるほど溜まっていないと言うのが大きいかも知れない。
一応コーズミマの飲酒可能年齢は、どこの国でも一律16歳からだ。だから法的にも飲めない事はないし、そもそも酒に弱いと言うわけでもないはずだ。そこに関しては体感でしかないが、ここのところ酒以外で少し同席した感じ、においに特別体調が悪くなるような事もなかった。だから量は別として、飲む事に関しては問題なく飲めるのだとは思う。飲んでどうなるかは未知数だ。その内期を見て挑戦してみるとしよう。
それこそ今日の仕事で路銀が集まって明日発つなら、情報提供など世話になった礼に少しだけ付き合うのも悪くないのかも知れないなどと考えながら。見繕った依頼を、それなりに仲良くなった店主に渡して受諾契約を交わす。
「もしかしたら明日には発つかもしれない」
「ん、そうかい。そりゃあ少し寂しくなるな。こっちとしてもいい稼ぎ頭だったからな」
傭兵への依頼は発行する際に少しだけ金が掛かる。その分を取り仕切る店主が仲介料として受け取るために、依頼の巡りがいいとそれだけ管理する人物が得をするのだ。
とは言え一所に留まってその地域専属の傭兵を出来るほど自由の身ではない。ここ数日は少し怖いほどに襲撃が鳴りを潜めていて平穏ではあるが、いつまた狙われるかわからないのだ。その時に他の傭兵を巻き込んでこの業界全部の信頼を落とすような真似はするべきではない。居心地は良くても、それが定めだ。
「こっちも随分稼がせてもらった。礼を言う」
「帰ってきたら分かるのか?」
「そうだな」
「ならその時に改めて聞こうじゃないか。んで、もし本当に明日出発するなら、今夜は少しだけ時間をくれないか? 他のやつらも嫌とは言わないだろうさ」
「あぁ、分かった」
「ん。なら今日もしっかり稼いで来いっ」
朝から激励されて意欲をチャージすると、店主に見送られて宿を出る。さぁ、依頼に貴賎はない。しっかりとこなして貰う物を貰うとしよう。
そうして先に外に出て待っていたカレン達に合流すると、そこにある人影が一つ多い事に気が付いた。
「あ、ミノ。この人がミノに話があるって。宿の前で待ってたよ?」
「……初めまして、《ナラズ》のミノ・リレッドノーさん。わたくし、直ぐそこのお城で侍従をしております、エレインと申します。今日はお話があってきました」
エレイン。そう名乗った女性がフードを開けて顔を見せる。癖っ毛なのかところどころ跳ねた黒く長い髪にシルバーの瞳をした使用人。そしてそれ以上に目を引くのは、彼女の褐色の肌だろう。
火傷をしたような傷ではないそれはどうやら生来の物らしく、これまで褐色肌の人物を間近で見た事がなかった身からすれば、特別目を引く要因だ。
日焼けともまた違う。活発さの中に妖艶ささえ湛えたその姿は、こちらに来てからも余り目にしていない。恐らく数少ない遺伝か、ここよりもっと南の出身なのだろう。
そんな彼女が紡いだ言葉に、容姿へ奪われていた思考が引き戻される。城。その言葉に少しだけ嫌な予感が募る。
成り行きでセレスタインと《甦君門》から追われている身。それらから逃げる為の旅路で、次の目的地を決めようやく準備が整おうとしているこのタイミングで国からの使者。少しばかり面倒な相手だ。
もし次いで彼女の口から召喚や拘束と言った単語が出てくるなら、例えこの場で嘘を吐いてでも直ぐにこの地を離れるべきだろう。その場合、追いかけてくる相手が三つになって今以上の立場に追いやられてしまうが……さて、彼女の話とは一体なんだろうか。
「……話?」
「はい。実は先日より、トウジョウ様がお城にお戻りになられていないのです」
トウジョウ。その響きは、続いた文脈から察するに人物名だ。だとすれば、その音の並びには中々に聞き馴染みがある。
東篠、藤条、登城……。どれも日本の苗字だ。
ここベリル連邦の首都、ベリリウムで日本名。そしてそれが同じ日本出身の、けれど自分の物ではないとすれば……答えは最早一つだ。
同時に、思い出す。東上章輔。その、忘れ難い過去の名前を。
「……悪いが知らないな。他を当たってくれ」
「トウジョウ様が仰られていました。ミノさんの周囲の事を調べて欲しいと。その命に従って調査をしたところ、イヴァンと言う名前に辿り着きました」
拒絶を無視してそれでも言葉を連ねるエレイン。続いた言葉の中に、あの男の名前以上の価値を見つける。
イヴァン。どうやらやつはまだこの近くにいたらしい。
「トウジョウ様は常々仰っておられました。ミノさんに謝罪がしたいと。せめて話だけでも聞いてもらいたいと」
そんなのはあいつの都合で、俺はそれに付き合う義理はない。そもそもようやく忘れ掛けていたのに、今になって目の前に現れて謝りたいなんて……虫がよすぎる話だ。
「だから少しでもきっかけが欲しいと、イヴァンと言う人物の元に行くと言っていました。それから手を尽くして探しましたが行方が分からず。手掛かりを求めてこうしてミノさんにお会いしに来た次第です」
「……だからどうした? だったら俺じゃなくイヴァンの方に行けばいいだろう」
「それは…………」
二の句を失ったエレイン。もちろん想像は付く。
全力ではなかったとは言え、カレンを相手にして傷一つ追わなかった得体の知れない存在だ。魔剣持ちでもない限り捕まえる事は難しいだろう。そして恐らく、カレンで無理だったなら他の魔剣でも無理なはずだ。数で押し潰そうとしたところで、やつにはまだ隠し玉がある気がする。それで返り討ちにでもしたのだろう。
そんな相手に捜索の手を掛けてもまともな結果が得られるとは思わなかった。だからそちらは一旦諦めて、次の可能性である俺のところに来たと。結果から選ぶ判断としては正しいかもしれない。
けれどそれに協力するか否かは俺が決める事だ。
「ミノ、ショウさんって転生者だよね」
「だったらどうした」
「あの《甦君門》だよ? 私やチカや……それ以外にも色々な方法で《波旬皇》の復活を考えてたんだよ? もしショウさんの力がその計画に使えるものだったら…………」
「だとしても俺には関係ない話だ。手土産を見つけに行って失敗した。そんな勝手な行動に俺が口を挟む理由がどこにある?」
「っ……《波旬皇》が復活したらきっと戦争が起こるよ? そしたら世界が混乱するし、安全なところなんて殆どなくなるっ。ミノはそれでいいの? ここで自由に生きて行くんじゃなかったのっ? 争いが起こったらそんなの出来なくなるんだよ?」
「話を摩り替えるな。人の平和と他人の馬鹿と。規模の違う話を無理やり繋げて話をややこしくするな」
カレンの言葉は確かに正しいのかも知れない。大局観としてはいい成長だ。
けれどそんな面倒にこちらから首を突っ込むつもりはない。もし争いが起これば、その時はひっそりと逃げ回ってまた落ち着くまで隠れるだけだ。
何より人間の側だってそう簡単に《甦君門》の目的を達成させたりはしないはずだ。まるで《甦君門》が確実に《波旬皇》を復活させるような言い方は、人に味方する魔剣として……《天魔》としてどうなのだろうか。それは魔物に対する優しさとは言わない。
「……悪いが俺には無関係の話だ」
「ミノッ!」
そう告げて去ろうとしたところで、それでも尚食い下がろうとするカレンが痛そうにこちらを見つめて告げる。
「ねぇ……ショウさんを見捨てるの? 無茶をしてまで必死に謝ろうとしてるのに、その思いを無視するのっ?」
「……先にいいように弄んだのは向こうだ。目には目を。もし知り合いだと言うなら過去の事を俺が知った上で、それこそ自業自得だ。助けてやる義理はない」
「ミノはそれでいいの?」
「いいもなにもあいつが求めてる後悔の結果だ。俺には関係ない」
「そうじゃなくて! ミノはミノを追い詰めたショウさんと同じ事をするの?」
「あいつが勝手に手繰り寄せた結果だ。俺は何も望んではいない」
「だからって、誰かが死ぬかもしれないのを見過ごして……見殺しにして……。それって同じじゃないの?」
同じ? ふざけるな。
相手の都合なんて考えず蹴落として嗤っていたやつと、復讐紛いに愚かな決断を無関係だと切り捨てている事は違う。
俺はただ、許せないから。許すつもりがいないから、その思いを貫いているだけだ。
今追い詰められているのは後悔に苛まれているあいつじゃない。死神のように付いて回られて過去の事を掘り返されている俺の方だ。
まだ何も終わってなどいないのに、そんな簡単に────勝手に終わらせているのは向こうの方だろう。
「ねぇミノ、ショウさん言ってたよ。ミノになら殺されてもいいって。でもミノ言ってたよね……自ら選ぶ死なんて、生きている限りで最も価値のない選択肢だって。……許すのも見捨てるのも、ミノにしか出来ないのは分かるよ。だってそれはミノの問題だもんっ。私にはどうする事も出来ないよ。だから全部ミノが決めればいい。……でも、その判断のためにもショウさんの言葉はミノが聞くべきなんじゃないのっ? 勝手に決めつけて一方的に否定するなんて……そうされたからミノが今ここにいるんじゃないのっ!?」
無神経な物言いに感情の針が振り切れて。気付けばカレンの胸倉を掴み上げていた。
「お前に何が分かるっ! 散々苦しめられた地獄から解放されたくて選んだ結末を、何の都合か勝手に拾い上げられた上にその先でまた否定されて! 結局居場所なんてどこにもない片隅で、望んでもない再会と共に終わった事を掘り返して自己満足に謝り倒したいなんて神経を逆撫でするような事をされて! 剰え勝手に失敗したその尻拭いを俺にしろって言うのかっ!? ふざけるのも大概にしろっ!!」
「ふざけてなんかないよっ! 私はただミノの事が心配なのっ! ミノに後悔して欲しくないのっ!」
「後悔なんてする間もないくらいに打ち捨てられてここにいるんだ! 今更省みる過去なんか俺にはないっ!」
「だからってそれでミノの気持ちが治まるわけじゃないんでしょっ? だったらもっと考えてよ! ミノが一番納得出来るやり方教えてよっ!」
「そんなの俺が一番知りてぇよっ!!」
胸の内の熱く重い感情が頭に届くより先に怒号となって空気を裂く。それが最早自分の中の感情なのか、誰かの気持ちを重ねて代弁している悲痛な叫びなのかすら曖昧で。
けれどもどうにもならない遣り切れなさだけが今この胸には渦巻いている。
…………だったら教えてくれよ。どうやったらこの終わらない苦しみが終わるんだ? 俺は、どうすればよかったんだ。
そう自問自答したところで、不意に指先に冷たい感覚。いつの間にか硬く閉じていた瞼を開けば、掴み上げたカレンが泣いていた。
「……わた、私は……私を助けてくれた、優しいミノに、そのままでいて欲しいの……! そうやって苦しむミノが、私は嫌なのっ……! だから、ミノが辛いなら、今度は私にミノを助けさせてよぉ……!」
濡れた声で思いの底を言葉にするカレン。その必死さに、誰よりも愚かな自分を知ってようやく手を離した。
息苦しかったのか、座り込んで咳をするカレン。そんな彼女に吐き捨てるように問う。
「……だったらどうしろって言うんだ? あいつを許せとでも? 今も勝手な自己満足で引っ掻き回してる癖にか?」
「…………それは、ミノが決める事だよ。だから私にはどうにも出来ない。……でも、もしミノが決着を付ける為に踏み出すって言うなら、私はそれを手伝いたい……」
鼻を啜って、それから彼女は告げる。
「私、もうミノに死んで欲しくないから……!」
死に切れていないのは、一体誰だろうか。そんな事をふと考えて踵を返し宿に戻る。
「ミノ…………」
「ミノさん……」
背中に掛けられた声は無視をして、そのままカウンターへ。
「……悪いがキャンセルしてくれ」
「ん、そうかい。あいよ、分かった」
静まり返った店内は、どうやら外でのやり取りが聞こえていたかららしい。が、それでも何も聞かずに黙ってこちらの言う事を受け入れてくれる店主に感謝をしながら再び外へ出る。
心なしか静かになった気のする世界の音。傭兵宿の前に足を止めて、何かを探すように俯くカレンを一瞥した後、エレインに言葉を向ける。
「………………心当たりは」
「え…………?」
「あいつの行きそうな場所はどこだ」
「っ、ミノ……!」
惚けたようなエレインの声に苛立ち混じりに告げれば、カレンが光でも見たように目を見開いた。
「勘違いするな。……俺だってまだどうしていいか分かってない。けど逃げ回ったところであいつはいつまでもついてくるだろうからな。ようやく希望も見つかったってのに面倒な過去引きずって旅なんてごめんだ。だからここで全部清算していく。それだけだ」
強がりでも言い訳でもない。言葉にした通り、分からないのだ。……それとも、その答えを知りたくてこんな馬鹿な決断をしたのかもしれない。なんにせよ、全ては俺の問題だ。俺が解決せずに誰が肩代わりして解決してくれると言うのか。
ただこれは、憂いと迷いを断とうとしているだけ。
「……心当たりはありません。ミノさんを探しに出るまで、トウジョウ様はずっと城の中で暮らされていましたから。けれど手掛かりと言うならばやはり、イヴァンと言う人物かと思います」
「イヴァンか…………」
となるとやはり《甦君門》が関わっているのだろう。全く、面倒を起こすことに関しては一級品な組織だな。お陰でこっちはいい迷惑だ。
……彼には借りがあるし、突きつけるべき答えもある。厄介な事にはなるだろうが、まとめて清算してしまおう。
イヴァンの目撃情報を元に手掛かりを探す。あの使用人には町中で騒動が起きた時の為に準備を頼んである。いざと言う時は力で事態を収拾するとしよう。
そんな事を考えながらやってきた路地裏で、足を止めたカレン達に問う。
ここはあいつが最後に消息を絶った場所らしい。探偵ごっこではないが、まずは現場から何か証拠を探すのが鉄則だろうと考えてここにやってきたのだ。
「どうだ。何か分かるか?」
「……近くに武器を持った人はいないみたい」
カレンの知覚範囲は主に対人用だ。魔物が傍にいる世界で護身は常。だからこそ武器を持ち歩く事は何もおかしくはなく、人ごみや暗がりからの急襲は追われる身としては気を付けたいところだ。
が、どうやら今は追っ手も、そして人の気配もその探知には引っかからない様子。相も変わらず鈍らは鈍らか。
と、次いで上がった声はユウから。彼女は眼帯を外した、路地裏の薄闇でも光を放つ黄色い魔瞳の右目で辺りを見渡して告げる。
「この辺り、魔力が濃いです。多分魔術か、魔具の使用があったのかと」
「追えるか?」
「……大通りまでなら。けれどそれ以降は他のと混じって無理です」
「そうか」
「ミノ、これっ」
幾らユウの魔瞳でも過去を見る事は出来ない。やはりそう簡単にはいかないかと、少しやる気を削がれる。
それとほぼ同時、カレンが何かを持って戻ってきた。
「この指輪、魔具だよ。これと同じ魔力を、ショウさんから前に感じたから、多分……」
「中身は?」
「んー……? なんだろ、武器が色々入ってる、のかな?」
「見せて」
魔に敏感なカレンの力でも判別の付かない代物。どうやら中々に面白い物を彼は身に付けていたようだ。
指輪を横から見ていたチカがカレンから受け取って、環に嵌ったオニキスのような部分を指で叩く。すると複数の魔法陣が層を成すように浮かび上がって、それを見つめたチカが零す。
「格納と、封印……こっちは選択で、これは無作為かな……。多分だけど、中に沢山の武器を収納しておける魔具だよ。魔力を流すと、中から一つだけ気まぐれに選んで出てくる、みたいな感じだと思う」
「そんな事まで分かるのか」
「うん、何とか読めた……」
魔術の構築や管理に関してはチカの右に出る者はいない。そう思わせるほどに速やかな解析に驚く。彼女の前にはきっとどんな複雑な魔術でも丸裸だろう。その気になれば、対抗術式さえ即興で編み出せるほどのポテンシャルがあるに違いない。
「総合して考えるに、ここで何かしらの出来事があってショウさんが指輪を残して姿を消した……と言うのが一番可能性のある推測ですかね」
「だな」
ユウの簡潔な纏めに頷く。この口ぶりだと魔力の質にも何か根拠があるようだ。
「ユウ、イヴァンの魔力は見えるか?」
「……いえ。そこにいたかもしれませんが、その場合魔術は使っていないかと」
「そうか」
可能であればその糸を手繰りたかったが、ないならば仕方ない。
「……ならそれを使うか。チカ、その指輪から持ち主の居場所を魔術で割り出せないか?」
「…………やってみる……」
思いついた僅かな可能性に賭ければ、頷いたチカが腰の袋から魔術紙を取り出す。と、直ぐに石灰のチョークを握って魔法陣を描き始めた。
残留魔力による追跡術式。この周辺に溜まっているそれも使えば精度が上がるはずだ。
考えていると殆ど悩む事もなく術式を作り終えたチカがスクロールを地面に広げ、中心に指輪を置いた。魔力を流し込み、術式を作用させる。
刹那に、紙に描いた魔法陣が生きた紐のように踊り、やがて編み物でもするように模った形は一頭の黒い狼だった。どうやらこいつが案内してくれるらしい。
狼が指輪を飲み込むと、鼻を引くつかせ大通りへと走り出す。
「行くぞっ、見失うなよっ!」
「任せて!」
どうやら狼の中の魔具を感知しているらしいカレンが先頭に立って走り出す。
行き交う人々が町中を駆け抜ける黒い狼に驚いて声を上げる。煩いほどに人で溢れ変える石畳の上。狼を避けるようにして出来た人の海の亀裂を追い駆ける。しばらくすると人の流れより外れた道を走り出した狼。四足の獣が一心不乱に疾駆する先を見れば、そこは煙が立ち昇る区画だった。
ベリリウムに来て軽く探索した折に記憶していたそこは、いわゆる工業地区。俺の知る景色ほど技術は発達していないが、鉱山で取れた様々な金属を溶かして成型したりと言った、金属製品の製作エリアだ。
至る所に製鉄所や溶鉱炉、工房が並ぶ職人街のような熱気とにおいに溢れた場所で、町の喧騒に慣れた身からすると随分と熱く煩い場所だ。
そんな男達が仕事に励む景色の中を、幾つもの角を曲がり奥へ奥へと突き進んでいく。
と、唐突に足を止めた狼がそれから前足を地面に突き立て、獰猛に裂けた口から牙を覗かせながら路地の奥を睨んで低く唸った。直ぐに剣を作り出して構えれば、路地の薄暗い闇から外套を羽織った人型が歩いて来る。
次いで声を上げたのはユウだった。
「なに、これ……」
「何が見える」
「人の体に、別の巨大な魔力が交じり合ってます………………あっ」
「どう────っ!」
何かに気付いた様子のユウにもう一度問おうとしたところで、前方の気配が動くのを捉える。人にしては随分と圧の強い接近に咄嗟に防御をすれば、フードの下に握っていた両刃剣が目の前で鎬を削っていた。
甘い受けの姿勢と想像以上の膂力に思わず膝を突く。
「ミノっ!」
「下がって!」
直ぐにカレンが短剣の雨を嗾け、チカが振った腕に合わせて狼が飛びつく。
後ろに飛び退きながらかわしたフードは、迫る刃を一つ振って起こした魔力の圧で跳ね除ける。と、その陰から襲い掛かった狼の爪に身を翻したが、少しだけ狼の方が早かったかフードの首元を引き裂いた。
避けた勢いに乗せて振るった一閃で狼を両断するのと同時、動きに合わせて風を受けた頭巾が後ろへと落ちる。
そうして目にした顔に、記憶を照合するよりも先に直感が真実を告げた。
「……魔に呑まれたか」
辛うじて残る人の証は輪郭や顔のパーツと髪だけ。肌は褐色よりも尚黒く濁りその色は瞳の中にまで及んでいる。それでいて瞳孔は血でも塗ったかのように不気味に赤色に染まり、暗闇の中で怪しくこちらを睨んでいた。
一応人の顔の形こそしているが、まるでそれを嫌うように右の額から禍々しい紋様を浮かべた角のような物が生えていた。
宛らその姿は……黒い肌の片角の鬼。
「ショウ、さん…………」
答え合わせの様な呟きはユウの物。魔力の流れを読む魔瞳には、彼の魔力が見て取れたのだろう。つまりあの人型をしている魔の固まりは────俺の過去だ。
何がどうなってあんな姿に成り果てたのかは分からないが、どうやら随分な無茶をやらかしたらしい。
「ォアアアアアァアアアアッ!」
まるで獣のような雄叫び。空気さえ震わせる耳障りなそれは、最早言葉とはいえないただの音だ。
先ほど斬り結んだ手の痺れがまだ抜けない。武器も、次の交錯で壊れてしまうだろう。
「チカ、拘束出来るか?」
「任せてっ……!」
今動かれては厳しいと仕切りなおすまでの時間稼ぎ。直ぐに答えたユウが即興で編んだ魔術を行使する。途端、石畳を突き破って数多もの土の蛇がショウに絡みつき動きを封じる。重ねて分厚い石の壁を作り出し、とりあえず隔離する事が出来た。
「これで少しは抑えられると思う」
「助かった」
言っている間にも壁の向こうからは意味をなさない音の羅列と微かな振動が響く。どうやら逃れようと暴れているらしい。
どうにか用意した時間だ。今のうちに対抗策を練って立て直す。
「ユウ、正確に答えろ。どうなってた?」
「……体は、まだ人間の物でした。でもそれもようやく形を保っている程度で、体の中は魔物のように膨大な魔力が渦巻いていました。もう直ぐ人の殻さえ破って本当の魔物に変質します。意識ももう殆ど残っていないかと。魔障の最終段階、といった感じです」
「見た目はもう人型の魔物だったがな……」
けれど、彼女の話を聞いて一つだけ思った事がある。それは、チカの時とどこか似ているという事だ。
あの時は力の使いすぎで自分を保てなくなったチカが敵味方の判別もつかずに衝動の嵐と化していた。今回は、人が魔物になる病……魔障の最終進行といった具合で、けれどもまだ人間性はどこかに残っている。ならば────
「カレン、斬れるか?」
「っ……!」
カレンの──《珂恋》の力ならば、まだあいつは元に戻せる。
別に命を救うつもりはない。ただ、ここに来る前にカレンが言っていた通り、判断する材料が必要だ。その為にあいつには洗い浚い吐いてもらう必要がある。けれど今の状態ではまともに口が利けない。だからとりあえずあいつをどうにか人に戻さなければならない。
その為に《珂恋》の繋ぐ力であいつの意識を引っ張り上げ魔の部分を斬り払う。
それに、今ここであの化け物を野放しにすれば帝都の中で大混乱が起きる。ここら一帯は荒らされ、死人も出るだろう。もしその責任をあの使用人を通して俺の責任にされたらたまったもんじゃない。ならば敵を作るよりは貸しを作った方がより建設的だ……と言う打算的な何かもある。
何よりこうして相対した以上逃げる選択肢はもうない。俺はあいつを探して今ここにいるのだ。
葛藤はもう捨てた。後は結果を引っ張ってくるだけ。そう考えて現状を打開できる方法の片棒に問う。
声に震えた肩。考えなくともカレンの考えている事は分かる。
「怖いか?」
「……うん。…………でも、私がやらないと周りに被害が出るし、何よりミノが救われない。だから──大丈夫。そう信じればいいだけなんだから」
カレンの《珂恋》としての能力は感情を糧に思いを繋ぐ力。願い信じる思いこそが何よりの原動力だ。彼女が信じ、俺がそう望めば、思いの強さに比例して願う未来を手繰り寄せる。
その特別以上の、理不尽さえ踏み越える力で望みをこの手に掴み取る……!
「なら来い、《珂恋》っ!」
彼女に刻まれた名の奥の銘────誡銘を呼んで左手を広げる。刹那に、右肩の契約痕が熱く疼いて手の中に一振りの刀を顕現させた。左腰に差したその柄を握り、鯉口よりすらりと引き抜く。
露わになったのは漆黒の刀身に紅の互の目模様の刃文。微かな光さえ逃さずにその身に受けて輝く、綺麗な刀だ。
「一応確認するが魔の部分だけ斬れるな?」
『斬るだけなら。でもさっき見た感じだとちょっと境界線が曖昧で、直ぐには無理。少し時間を掛けて交じり合ってる境を見極めるとか、そもそもああなった原因でも分かれば間違いなく斬り離せると思う』
チカの時ともまた違う。人と魔の融合だ。その境界線をきっちり認識して斬り離さなければいけない。カレンの刃は魔に効果的な分、深く干渉しすぎて必要以上に傷つけてしまいかねない。
あいつに話を聞くことが目的な以上、勝手に死なれては困る。とりあえず口を利ける程度の意識は残さなければ。
考えて、それから尋ねる。
「ユウ、人間と魔の境界線を見極められるか?」
「出来ますけど、でもどうやってミノさんにそれを伝えるんですか? その、わたし契約はまだ怖いんですけど……」
まだ尾を引いているか。彼女の中できっちり整理がつくまではもう少し時間が掛かりそうだ。何かきっかけでもあれば吹っ切れそうだが、今からそれを探せるほど余裕はない。
ならばと巡る思考で方法論を伸ばす。
「……例えば魔力があれば俺にその景色を見せる事は出来るか?」
「わたしの能力は魔力の流れを乱して知覚を惑わせる力です。それ以上の使い方となると契約のような繋がりがないと出来ません。でも、逆に言えば繋がりさえあればわたしの力や見ているものを共有することはできます」
カレンとの契約で俺が剣を作る魔術を使えるようになったのと同じ仕組み。契約は魔力の受け渡しだけでなく、相手の得意とする魔術を使用できるようになるということだ。ユウの場合は認識も共有できるということだろう。
とは言え実際の契約を結ぶ事に関してユウは及び腰。銘を与え結ぶ繋がりは互いの信頼関係無しには成し得ない。ユウがその気にならなければ一方的に契約を結ぶ事は不可能だ。
ならばどうするかと……考えたところで脳裏を過ぎったのは記憶を失う前のチカと交わした言葉。
「チカ、一時的に魔力の供給を魔術で繋ぐ事は出来るか? 俺の体を魔力石に見立ててくれればいい」
「……それなら多分。でも少し時間が欲しいよ」
「その分は稼いでやる。頼めるか?」
「うん、分かった」
「ユウ、それでどうだ?」
「………………それならどうにか……」
葛藤はあったようだが、折り合いはついた様子。少なくともしばらく内側を預けられるくらいには彼女に信頼されている証だ。
『ミノっ、くるよ!』
「わたしも……!」
頭の中に響いたカレンの声に構えれば、それを見たユウが隣に並んで双剣を抜く。衝撃を増幅させて破砕する彼女の武器。その気になれば物に限らず人だって木っ端微塵に出来るえげつない代物だ。
けれど彼女の性格でそれは出来ないだろうし、何より今はあいつの意識を戻すのが先決だ。せめて武器だけでも無力化出来ればそれでいい。
考えた直後、視界の先の壁が大きな音と煙を立てて崩れ、奥から魔に侵食されたショウが姿を現した。と、どうやらさっきの今で抵抗するうちに更に呑まれたのか、剣を握る右腕が人の骨格ではありえない装甲のようなものを覆っていた。
「ガォアアアアアアッ!」
「っ……!」
魔力さえ感じる咆哮の圧。次いで体を深く沈めたユウが縫うように疾駆し距離を詰める。
接近に気付いた彼が力任せに剣を振り下ろす。受け止めて、能力を発動すればそれで相手の得物はなくなる。そうすれば後はその場に釘付けにして時間を稼ぐだけだ。
懐に潜り込もうとしたユウに襲い掛かる刃を交差した双剣で受ける。響いた耳障りな金属音から、次いでユウが何かを嫌うように弾き距離を取った。下がってきた彼女に問う。
「どうした。武装解除が鉄則じゃないのか?」
「近くで見て気付きました。あの剣、ショウさんを侵食してる魔力の元です。魔具なんでしょうけど暴走して、持ち主に力が逆流してます。今あれを壊すと制御を失った魔力が一気に体を食い尽くして本物の……恐らく高位にも届く魔物が顕現します……!」
どうやら近付いて交錯した結果、いきなり当たりを見つけてきたらしい。流石は魔瞳。
しかし、となると時間稼ぎの方法を少し見直す必要があるか。
「剣だけは壊さないでください。あと無闇に斬りつけるのもやめた方がいいと思います。チカさんのときと同じように傷を修復しようとして体に負担が掛かりますから」
「斬るな壊すな押さえ付けろとは、また随分な注文だな」
『でもそうしないとミノが救われないからねっ。やるよっ!』
誰よりも固執しているのはカレンではなかろうかと。契約相手の為にそこまでお人よしになれるその性格が、けれど今回ばかりはそれに背中を押されたのだと思えば恨めしくも少しだけ羨ましく感じる。そこまで誰かを信じられるなんて余程の馬鹿と紙一重な覚悟の証だろう。
だからこそカレンの《珂恋》としての力が特別なのかも知れないが。
人よりも人に憧れ人らしい魔剣を確かに握りなおして踏み込む。
接近に気付いて相手が振り上げた剣を受け動きを止めると、脛を蹴ってバランスを崩す。同時結んだ刃を跳ね上げて彼の手から離そうとしたがうまくいかなかった。
仰け反ったところにユウが駆け込んできて蹴りを見舞う。なるほど斬れないなら別のダメージを与えればいいのか。とは言え徒手に関しては喧嘩程度の知識しかない。こんな事なら武道の一つでも齧っておくんだったな。
そんな事を考えながら距離を詰めてユウとその場限りな連携を紡いでいく。
魔の力で大規模な破壊を起こされてはこちらも困る。野次馬でも増えた日にはそいつらを気にしながら戦わなければならなくなる。そうならない為にも敵をコントロールして最小限で押さえ込むことが今できる最大限。
体を巡る魔力によって強化された人を軽く凌駕する膂力を避けて流しながら、隙を見ては武器を取り上げようと試みるがどうにも手放してはくれない。どうやらそこだけは何があっても譲ってくれなさそうだ。
救いなのはまだそれほど知能の感じない直線的な攻撃なことか。これで人並みの剣術や小手先の対処でもされたら厳しかったが、それに至らない事に感謝だ。
昏倒を狙うような攻撃もあまり効果がないかと何度目かの交錯で気付き別の何かを探し始める。と、準備が整ったのか通路にチカの声が響いた。
「ミノっ!」
「ユウ、少し任せる!」
「はいっ」
切り結んだ刃を弾いて通路の奥に押しやるのと同時、そのまま下がってチカの元へ。
彼女に一任した方法論を問えば、チカは申し訳なさそうに答えた。
「それで、どうすればいい?」
「えっと、最初に謝らせて。ごめん。結論から言うとそんな都合のいい魔術は作れなかった……。でも代わりのやり方は見つけたからそれでやろうと思うの」
「代わり?」
「契約の繋がりを橋渡しとして利用して魔力の受け渡しをするの。既にある繋がりの契約先を一時的に騙すんだけど、その場合今ある契約の力が使えなくなるの」
「……カレンとの契約を利用すれば、ユウに魔力を渡すのと同時には《珂恋》の力が使えないってことか?」
噛み砕いて飲み込めば頷いたチカ。けれどそれでは前提が破綻してしまう。
こちらの策はユウの魔瞳の力を借りて境界線を見極め、そこを《珂恋》の力で切り離すというものだ。それが片方しか使えないのであればあいつを連れ戻す事が出来なくなる。
「契約に関する魔術は複雑だから他人同士のそれに簡単に干渉はできないの。……でも自分のなら、あたしが間に入って橋渡しをするなら全部解決出来る」
『それって…………!』
「……チカと契約しろってことか?」
「…………うん」
確認するように音にすれば、少し悩むような声でチカが頷く。
大喰らいなカレンと契約して余裕がある以上チカと契約したところで別に問題はないだろう。ただ────
「チカはそれでいいのか? そんなこの場限りの為に……魔剣は一度に一人としか契約できないんだろう?」
人の側から考えれば、受け渡す魔力がある分だけ複数の魔剣と契約しその力を振るう事が出来る。けれど魔剣の側からは異なり、魔剣は複数の人と同時に契約を交わすことは出来ない。
理屈としては魔剣は魔力を受け取る側だから。質の異なるの魔力を複数受け取った存在がどうなるのかは……今ユウが一人で相手取っているあいつを見ればよく分かる。
ショウは、魔力が逆流して受け取る側として複数の魔力を内包し、それが交じり合い制御できなくて暴走している。
だから魔剣にとって契約はその身を捧げる事と同義な……それこそ銘入れとでも言うべき大きな決断だ。一度契約すれば簡単には手放せない繋がり。その唯一を、今ここで使ってもいいのかと。
そんな問いに、それからチカは笑みを浮かべる。
「……あたし、ミノのことが好き。自分の過去としっかり向き合おうとしてるミノが格好良いと思う。あたしの事を助けてくれたミノになら、あたしの全部をあげてもいいと今は思ってる。もちろん、昔のあたしはそんなことないかもだけど……でも今ここにいるのは今のあたしだから」
琥珀色の短い髪の下からライムグリーンの双眸がこちらをじっと見つめる。覚悟は決まっている、俺の事を信頼していると。
「…………後悔しないな?」
「うん。……あ、でも、記憶が戻った時に迷惑は掛けるかも…………。それでも、いい……?」
「それは……その時のお前と考える事にする」
「……っ、うん!」
あの全く反りの合わないチカがどんな反応するかなんて分かりきってはいるけれども。だからって今目の前にいるのも彼女なのは確かだった。
何より、唯一を賭しても構わないというその思いに応える責任もある。そう思うほどに彼女の意志は本物だ。だからこそ、全ては今受け止めてからだ。
「時間がないから…………こっちでやるね……?」
そう言って両腕を伸ばしたチカが俺の頬を挟み、爪先立ちになって瞳を閉じる。手のひらの温かさとゆっくり近付いてくる整った顔立ちに、場違いにも女の子だと思いながら……誓いの唇を重ねる。
刹那に、辺りへ吹き荒れた魔力の嵐。恥ずかしいのか、頬を染めて視線を逸らしたチカの手を取って告げる。
「契約者ミノ・リレッドノーが告する。我が倖を縛りし刻印をこの身に勒し、魔の理統べるかの意志と契りを交わせ。付する天枷の銘は────チカ。証憑印す其の形持て、我が手に剣となりて顕示せよ!」
過去にカレンと契約を交わした時にも紡いだ文言を繰り替えす。呼ぶ名はチカ。《絶佳》の銘を与えて魔剣と化し、チカの名前を綴って唯一つの繋がりをそこに刻む。
逆巻いた魔力が琥珀色に変わっていく中で、行き場を求めて彷徨っていたその奔流が二つに枝分かれしてそれぞれに吸い込まれていく。
俺の身には、左の手の平。チカの身には、首の後ろ。痛く、熱く、重い衝動。世界に二つとない意味を求めて、確かな証が刻印される。
やがて治まった魔力の暴風の後には、逆さ五角形の中に鞘と交差させたクリスの紋が描かれていた。これがチカの契約痕らしい。
胸の内に新たに増えた繋がりを自覚すれば、呼ぶように疼く。彼女の思いに応えて、叫ぶ。
「来い、《絶佳》っ!」
少し痛いほどに熱を持った契約痕から溢れ出した魔力が形を作る。呼応するように広げた手のひらに出現したのは、琥珀色の刀身をしたクリス。握る柄には、彼女を象徴するような琥珀の玉が嵌っていた。
「……どうだ、すぐいけるか?」
『うん、大丈夫!』
カレンのときほど魔力を吸われている感覚はない。やはり彼女は規格外か。
そんな事を考えながら駆け出した中で、左手に握ったチカをタクトのように振るう。するとそれに呼応して視界の先で戦う彼の体を数多もの魔力の輪が締め上げその場に拘束した。
「ミノさん……! それ、契約……!」
「説明は後だ。ユウ、いいか?」
「あ、はいっ」
「チカ、頼むっ!」
『任せて!』
距離を取ったユウと手短に言葉を交わしてチカの剣先を円を描くように回せば、中空に浮かび上がったそれが複雑な紋様を描いて魔法陣と化す。
ユウとの間に出来上がったそれが次いで光を放てば、それまでチカとの間に感じていた契約が何かに変わるのを覚える。それがユウと魔力の受け渡しを繋いだのだと悟ると、次の瞬間右の視界が世界の色を変えた。
薄闇に彩られた景色が水墨画のように色褪せる。そんな不思議な光景の中で、揺らめくオーロラのような線が幾つか浮かび上がる。
一つは自分の右手に宿る紅。握って感じるそれは、カレンの魔力。二つ目は左手の中で淡く輝く琥珀の波長。灯火のような揺らめきは、今し方繋いだチカとの契約。三つ目は目の前でこちらに頷く青い存在感。どうやらそれがユウの魔力の色らしい。
それらの他にも靄のように漂う黒いのが、空気中に溢れる魔力のなのだろう。どうやらこれがいつもユウがその目で見ている景色らしい。魔力を知覚するというのはこういう感覚なのかと。
人の身では理解できない……その上で直感的に分かるその特別さで、それから暴れ逃れようとするやつの姿を捉える。
まだどうにか人の形を保っている彼は、けれど形だけで。まるで人の皮を被った化け物のようにその内に混沌として渦巻く衝動を抱え込み、それでも尚抑えきれない魔力が腕や角から溢れている。
見て分かる。最早それは、人の形をした魔物だ。本来ならば討滅するべき対象なのだろう。
けれど俺には彼に用事があるのだ。勝手に死なれてはここまで探しに来た意味がなくなってしまう。だからこそ、助ける……なんて言葉が正しいのかは分からないが、蠢く魔の部分を切り払って人として戻ってきてもらわなければならない。
その為に、今ここにいるのだと。
「ユウ、控えてろ。カレン、いけるな?」
『うん、助けるよ……!』
『斬った後の事は任せて!』
斬り離した魔の部分の処理はチカに任せて、呼吸を整え納刀し、駆け出した。
咆哮と共にその身を縛る拘束を千切ったショウが剣を握って振り上げる。接近に合わせて振るわれたその一閃を……けれど無視すれば、タイミングよく魔法陣が出現して刃を受け止めた。チカの防御魔術らしい。
そんな事を目端で確認しつつ、気付けば懐に入り込んだ視界で彼の体を見上げる。間借りしたユウの瞳のお陰で境界線はしっかりと見えている。やるべき事は唯一つだ。
ふっ、と吐いた胸の内。無駄なものを全てそれに乗せて置き去りにすれば、世界の感覚が減速していく中で斬るものと斬らないものをしっかりと意識した抜刀が左腰から放たれる。
滑った刃が鞘の中で加速し、思い描いた通りに逆袈裟の軌跡をなぞる。振るう剣閃には紅の尾を引いて。やがて目の前の体を、感情の一閃が引き裂いた。
「ゴァアアアアアアッ!? ゼェアアァアアアアッ!」
言葉にならない声が彼の口から迸る。ユウに借りた右目が、彼の体から膨大な魔力の柱が立つのを捉えた。体の中にはショウの物らしい安定した魔力が微かに残っている。どうやら上手くいったらしい……。
と、詰めていた喉を開けたところで声が響く。
『ミノっ、避けて!』
「っ……!?」
カレンの声。何事かと回した視界で、銀色の切っ先が目の前に迫っている事に心臓が跳ねた。まだ残っていたらしい最後の力でせめて一太刀をと剣を振るったらしい。
防御、回避……駄目だ。間に合わない……!
咄嗟に過ぎった思考の中で、けれどそのどれもが既に及ばないと悟った刹那、視界の外から別の刃が横から来ている事に気がついた。
「だぁああぁッ!!」
ギィン! と響いたのは、耳障りな金属音。直ぐにそれが、駆け込んできたユウの魔具だとその不思議な形状で気付いた。同時、まだ残る右目の力が魔力の発露を捉える。
俺を叩き斬ろうとしていた剣がユウの横からの攻撃で弾かれ、僅かに髪を削いで頭の横を通過する中で。ユウの握った魔具に彼女の青い魔力が満たされてそこに込められた能力を発動させる。
衝撃増幅…………。過ぎった刹那。頭を庇って飛び退けば、ショウの握っていた剣が小さな破片となって壊れ辺りに飛び散った。
直ぐにカレンが壁のような剣の盾を作り出し、刃の散弾から身を守ってくれる。石畳の上を二転三転して、ようやく止まった感覚の撹拌に、それから腕を突いて顔を上げれば、視界の先で糸の切れた人形のようにその場に倒れ込むショウの姿を見た。
一拍遅れて右目の視界が元に戻り、先ほど繋いだばかりのチカとの契約を自覚して安堵の様な物を覚えた。
上がった息を整えつつ納刀すれば、カレンとチカが人型に戻って傍に立つ。と、倒れたショウの意識を確認するためかユウが傍に腰を折って、それからこちらに視線を向けてきた。
「息もあります。しばらくしたら目を覚ますかと」
「…………そうか……」
これは、望んだ結果だ。だというのに、胸の内は戦う以前よりざわめいて落ち着かない。
静かに呼吸するショウを見つめて思う。俺は、こいつが目覚めた時に、どうするべきなのだろうかと────
その場に立ち竦んで待っていると行き場を求めた感情が何かを起こしそうで、体を動かしていた方が気が紛れると彼を背負い傭兵宿に戻った。
ここ数日で様々な任務をこなし随分仲良くなったお陰か、前の宿のように増えた人数分の滞在代を出せと言われなかった事に小さく感謝をしつつ借りた部屋へ。どうでも良いが、部屋数ではなく人数で宿泊代を取っている辺り阿漕な商売だと胸の内で悪態を吐きながら、まだ目を覚まさないショウをベッドに寝かせて宿の外へ。気まぐれと、今後の準備もかねて薬屋に向かい、軟膏剤など必要そうな物を買い揃えて戻る。
と、部屋の前まで来たところで扉の奥から小さな話し声。中に低い男の声が混ざっている事に気がついて小さく息を呑んだ。次いで意識して深呼吸。まずは全部捨てろと、己に言い聞かせて木製の戸を開けば部屋中の視線がこちらに殺到した。
「ミノ、ショウさん起きたよっ」
「………………」
「その…………」
「ん……」
そんなに傷だらけで話をされても身が入らないと。薬の瓶を投げて渡せば、受け取ったショウは小さく「ありがとう……」と呟いて治療を始めた。
しばらく窓から外を眺めて待てば、やがてベッドから立ち上がったショウが近くまでやってくる。途中、ふらついてこけそうになったところをユウに受け止められていた。そんな彼女の助けを借りて……それから彼は────当然のように俺の目の前に土下座した。
「ありがとう。……そして、すまなかった。謝って許される事じゃないのは分かってる。それでも……せめて形だけでも謝らせてくれ」
きっと何か答えが見つかるまでそうし続けるのだろうと思うほどに、深い謝罪。脳裏に、これまでの旅で彼が見せてきたそれが重なる。
彼にとっては、謝るしか出来ない。ただ愚直にそれだけを抱いて、頭を下げたまま続ける。
「オレの所為で、追い詰めた。オレが、殺した。それは変わらない。偽るのも、見て見ぬ振りも出来ない、オレの過ちだ。……今更だとは思う。けど、後悔してるんだ。遊び半分で、戯れで……その結果に否定して傷つけた。その事に、取り返しが付かなくなって初めて気がついた。……似たような、なんてそんな自惚れるつもりはない。けど、オレも居場所を失って、逃げてここにきた。そしたら噂を聞いて、それがお前だったらいいって、それだけの思いで探し当てた。偶然には、感謝をしてもしきれなかった。……間違えて失敗した命だ。自分でも拾われたこの二度目に価値があるとは思わない。この後悔は、きっとどうあっても消える事はない。償いなんて……それこそお前を余計に苦しめるだけだって、今なら分かる。だからオレが出来ることは何もない。……けど、オレに出来ることがあるなら、それに全力を尽くす。首を差し出せっていうなら、このまま切り落としてくれて構わない。同じ目に合わせたいなら、それをぶつけられても構わない。奴隷に身を窶したって、自害するのだって、道具のように利用されるのだって……なんだって構わないっ! それで満足出来るなら……たった一時でもそれで気分が晴れるなら、俺は何をされても構わない! 何でも……何でも、何でも、何でも、何でも、何でも。何でも、構わない。許されるつもりはない。だから、教えてくれ…………。オレは、どうしたらいい……?」
重く、熱く、痛い独白。胸の奥に手を突っ込んで、ぐちゃぐちゃに握り潰してその全てをぶちまけたい。空っぽになったそこに、それでも許されない証を楔のように打ち込みたい。
それはきっと、俺の気持ちで、こいつの気持ちだ。
けれど、だからって許せはしない。そもそも、許すほどの執着がない。それはただ、こいつが自分を掻き毟ってその痛みに悶えているだけだ。だから、俺にはもう、どうする事も出来ない。
……でも、彼は何かを求めている。終わりのない答えを、その全てを委ねている。
語ったのは、全て本心だろう。死ねと言えば、具体的な方法を全て飲み込んで彼は実行に移す。生きろと言えば、何もかもを失ってそれを貫く。そう、分かってしまう。
だから俺には、どうする事も出来ない。彼の求める答えを、俺は持っていない。
こんな事にならなければ……。そんなありえない想像ばかりが去来する。際限のない整理のつかない感情が嫌に煩く全てを掻き乱す。
────私、もうミノに死んで欲しくないから……!
ふと脳裏に、カレンの声が蘇った。続けて、自らの言葉が強く胸を打つ。
────自ら選ぶ死なんて、生きている限りで最も価値のない選択肢だっ
気付けば、問うていた。
「……お前は、許して欲しいのか。それとも許して欲しくないのか。どっちなんだ?」
「…………その全てを、預けて──」
「俺に丸投げされてもな、答えなんてないんだよっ」
胸の内の虚を、怖いほどに吐き捨てる
「意味なんてなかった。答えなんてなかった。復讐なんて考えてなかった。過程も、結果も、原因も、夢も、希望も、理想も、想像も、何もかも! 俺にはどうでもよかったっ。何をされたかなんて具体的には記憶してないし、そもそもお前の顔だってまともに覚えちゃいない。俺は全部捨ててきたんだ。全部置いてきたんだ。……なのに、お前は俺が捨ててきたそれを無粋に拾い集めて目の前に並べて…………俺に答えを教えてくれって? ふざけるのも大概にしろっ! 俺はただ俺でいたかったのに。ただ普通に、俺でいたかったのにっ! それが許されないから全て諦めて、ここでようやく一歩を踏み出したのに……! 全部お前の所為で滅茶苦茶だ。お前がここにさえ来なければ、全部なかった事になっていたのに……。なかった事に出来ていたのにっ!」
空っぽなのだと。もう何もないのだと。お前は俺の中にいなかったのだと。
答えなど、始めも今も、存在しなかったのだと。
「俺は選んで、今ここにいるんだ。俺の意志でここにいるんだ。それを誰に邪魔されるつもりはないっ!! ……だから、お前も勝手にしろ。勝手に選んで、勝手に答えを見つけて、勝手を貫けばいいっ!」
…………あぁ、少しだけ、分かった。
「俺は、自分のないやつと話をするつもりはない」
我が儘でもいい。暴論でもいい。誰かに自分を委ねるのではなく、自分で考えて己で進め。
それでようやく、同じ土俵に立つ、何かになれる。
「……オレ、は……………………」
何かを、探すように。何処かに落としてきた今を拾い集めるように。俯いて沈黙した彼は、それから拳を握って搾り出すように呟く。
「────償いたい。その結果に、オレはお前の言う事を何でも聞く。そうして最後に、お前が満足できるなら……それがオレの償いで、オレの望みだ……!」
他人本位。ではない。
他人に委ねるという確固とした自分の意思だ。その先にこそ、望む答えがあると。
「オレは、お前を助けて、死にたい。自己満足に浸って生きたい……!」
「で、それを俺が許すと思ってんのか?」
「……許されなくても、そうする。オレはお前が────ミノが助かるなら、救われるなら、それでいい」
懇願の覚悟。どこまでも愚かな、それが彼の持つたった一つなのだ。
嘘はない。本当しかない。偽善で、欺瞞で、どこまでも独り善がりな彼の言葉。……ならばきっと、それが答えならざる答えなのだろうと。
納得には到底満たない結論を見つけて、諦めたように告げる。
「…………なら勝手にしろ。俺にお前はどうにも出来ない。それが俺から言えるたった一つの答えだ────ショウ」
俺の過去。そして、俺の未来。その全てが紡がれる、俺の今。
それを誰にも邪魔はさせない。誰にも触れさせない。
だから、俺の勝手で、彼の勝手だ。
「ありがとう」
救われはしない。きっと、死ぬ間際まで苦しみ続ける。それが答えのない答えだ。
だから死ぬまで、生き続けるのだ。




