第一章
カレンを握り一足飛びに距離を詰める。敵は今し方交渉の決裂した男。量産品の剣を拾い上げた彼に向けて思いを滾らせ、心のままに刃を振るう。
「はぁあああっ!」
「……ふむ」
何かを見透かすように眇めた瞳。それから彼は手に持った剣を目の前に翳し────全てを断つカレンの斬撃を、難なく受け止めた。
「なっ……!?」
『横に跳んでっ!』
「よっ……とぉ。……残念」
咄嗟にカレンの声に従って跳躍すれば、先ほどまでいたところに振り下ろされた一撃。それから、何事もなかったかのように小さく息を吐いた男がこちらを見据えて言葉を落とす。
「……そんなものか? だったら少し期待していたのが恥ずかしいが」
煽られて。けれどそれ以上に直前の交錯を反芻し今一度カレンを握り直す。
……どう言う事だ? ただの剣で受け止められた? 思いがぶれた……迷いがあったか? ……いや、普通にただの剣相手ならば斬れると疑わずに振るった。受け止められると言う想像はどこにもしていなかった。
けれど現実に、受けて捌かれた。ただの剣で、小手先の技術でも何でもなく。真正面から。
流石に事実をそのまま受け取るには奇怪過ぎる……。
『ミノ、あれ魔術だよ。普通の剣を強化して対応された』
『……普通の強化なら斬れるだろ』
『うん。だからあれは──普通じゃない』
一合交えた間にその端を掴んだらしいカレンが契言で答える。
普通じゃない強化。同属の魔剣ですら両断する彼女の思いの刃を受け止めた特別。……少なくとも、先ほどまで戦っていた有象無象とは訳が違うらしい。
『……もう一回お願い。次で見極める』
『分かった』
カレンの覚悟を聞いて呼吸を整える。あちらからは仕掛けてこないらしい男との間に、ならばとこちらの調子を最大限にまで高めて一歩を踏み出した。
普通の斬撃ではない。魔力を宿した一閃。先ほどのが普通の剣を斬る一撃なら、今回のこれは魔剣を斬る一振り。これならばそう簡単には受けられまいと。
息を詰めて、一歩も動く気配のない彼に向けて刃の距離を定め、切っ先に勢いを乗せて横薙ぎの一閃。
「シッ──!」
「……ぬぅんっ!」
対して、男は微かに魔力を漲らせると同じように剣に纏わせて──またもや受け止めた。そこでようやく暗闇の中、フードの奥の顔を捉える。
白髪に、翡翠の瞳。眩いばかりのどこかの主人公のように端整な顔立ちの男。肉薄して尚一切歪む事のない端整なその表情に苛立ちが募る。と、次の瞬間手首を返した反撃が襲い来る。
先ほどの交錯でカウンターが来る事は折込済み。ならばと準備しておいた盾紛いの剣を出現させ防げば、男の攻撃がこちらに届く前に弾かれた。
二合交わしただけの勘だったが、どうやら間違いなさそうだ……。
響いた金属音から逃げるように距離を取りつつ短剣を投擲。難なく迎撃した男は、確かめるように己の握る剣を一瞥して、こちらに視線を移す。
「……なるほど。大体分かった。悪くない」
値踏みするような言葉。先ほどのそれと総合して考えるに、どうやらカレンの事を知っているらしい。カレンの過去……《甦君門》との関係を隠している状況で、ここまで完璧に対策をされたと言う事は……そう言う事だろう。
『どうだ?』
『……うん。間違いないね。私の斬る力と同等か、それ以上の──壊さない力。多分解銘に近い魔術だよ』
『《珂恋》の力を使って斬れると思うか?』
『ミノが迷ってるなら絶対に無理。ミノが斬れると確信してくれるなら……正直に言って五分ってところ』
『なら無理だな。お前も迷ってるんだろ?』
『……確かに、ちょっと自信なくしちゃうかも』
自嘲するように零れたカレンの声。彼女が迷って日和るなんて珍しい話だが、それくらいに彼の力が優れていると言うことだろう。
それに、二度剣を交えて分かったが、腕の方も相当だ。これ以上打ち合えば、先に足を掬われるのはこちら側だ。斬れる斬れないよりも、その未来の方が拭い難い。
「しかし解銘をしないとは……。もしかしてまともに扱えないか? それとも……斬れないことが怖いか?」
「……例えそうだとしたら、する必要はないって事だ。これ以上手の内を明かすこともせずに逃げるのが得策。お前だって撤退したい。違うか?」
「あぁ、そうだ。だから最初に言っただろう? このまま見逃してくれはするかね? と……それを先に断っておいて今更休戦とは虫のいい話だな」
「それで、どうするんだ? 退くのか? 退かないのか?」
正直に言って、これ以上は不必要だ。こちらの利よりもあちらの益の方が多くなるだけ。ならば卑怯と言われようとも刃を収めるのが得策だろう。
しかし最初に彼が語ったように、このまま刃を折られて付いて行くと言うのも頷けない話。となれば必然、ここは互いに見逃すのが最善策。どうやら無理やりに攫って行く事はしたくないらしいからな。何故だか分からないが、だったらいいように利用させてもらうとしよう。
選択を迫れば、僅かに沈黙を挟んだ男は森へ向けて踵を返す。
「まぁいい。今回は帰るとしよう。また今度…………次に会う時までに心変わりをしてくれている事を願ってるよ」
追撃は…………駄目か。どう仕掛けても反撃される未来しか見えない。ならば────
「最後に一つ! お前の名前は何だっ。そっちだけ知ってるってのは交渉相手として不公平だろう!」
交渉なんて、端からその気はないが。尤もらしい理由を並べて背中に問いかける。
すると立ち止まった彼は、首だけで振り返ってぽつりと落とした。
「イヴァンだ。またな、《ナラズ》のミノ・リレッドノー」
偽名だろうか。そう考えた刹那、暗闇に紛れてイヴァンの姿が掻き消える。
少しだけ警戒して、それから潜伏している気配がない事を確認すると張っていた緊張を弛緩させた。遅れてユウが傍にやってきて、魔剣から人型に戻ったカレンが疲れたように熱っぽい息を吐く。
闇を見据えながら零す。
「……無事か?」
「うん」
「はい……」
俺の知覚出来ないところで何かされていては構わないと。確認に問えば確かな二人の声。
しかしユウのそれに迷いが混じっているのを感じ取って少し掘り下げる。
「どうかしたか?」
「…………またあとで、いいですか? 少し考えたいので」
「……分かった」
なにやら思うところがあるらしい。詰問しなくとも話してくれるようだし、今これ以上の追求はしなくてもいいか。
「ミノ、休憩しよ?」
「休憩っつうか……時間的に野営決定だな。準備するぞ、動けるなら手伝え」
「はーい」
カレンの声に空を見上げて答えれば、変わらない調子の返事が響く。いいな、使われる方は楽で。俺はちょっと体が重いぞ……。
森の中での一夜を越えて。翌日陽が昇る前に馬車を出した。少し遠回りする事になったがどうにか街道沿いに復帰。地図を広げながら舗装された道なりに進み始める。
魔物が存在する異世界、コーズミマ。元いた日本で居場所を見失い首吊り自殺をした俺は、何の因果かこの異世界の転生の理に拾われて第二の人生を歩む破目になった。
しかしここでも自分を確立する事は出来なくて。転生した国から逃げてお尋ね者の烙印を捺され森の中で爺さんと一緒に過ごし。二年を経てようやく外の世界に踏み出した矢先に巻き込まれた面倒事。
山肌から転がり落ちてきた魔剣の少女。当初は札付きの彼女を金目的で連れまわしていたが、うっかり口を滑らせた己の過去と、代わりに聞いた彼女の歴史。そこに秘められた物に、同情なんてくだらない共感を刻み込んで形のない何かを紡いだ一夜。
それから傭兵の仕事を請ければ、巡って陥った危機に手繰り寄せて結んだ契約。罷り間違って金属と魔力の塊に抱いてしまった感情から名付けた名前──カレン。そしてその際に偽名として振りかざしたふざけた由来の──ミノ・リレッドノーと言う偽名。
代わりに手にしたのは魔物を退け同属の魔剣ですら斬り裂く力を持った刀を一差し。そんな彼女との出会いが、俺が転生したセレスタイン帝国のグロッシュラーと言う町での出来事。
それから始めた二人旅。人の世界の殆どを知らないカレンと、森の中に引きこもって最低限の知識しかない俺。後ろからはカレンと俺の、二種の追っ手が掛かった状態でとりあえず歩き出したその先にあったのが通商路に栄えた町、スフェーン。
町に入る前に一騒動。町に入ってから一騒動。その二つにどちらとも絡んでいた少女……瞳に魔を宿したこのコーズミマと言う世界でも特例に当たる魔瞳と言う力を持つユウとの出会い。
お節介な鈍らのお陰で聞くとはなしに聞いたユウの過去も大概な物で。自分の今がまだふらついていると言うのに、人よりも尚お人好しな心根で背負い込んだカレン。
次いでやってきた組織からの追っ手を退ければ、そこに現れたのはカレンの親友だと言う少女、チカ。
面倒に面倒が重なって更なる面倒を引っ掛けてきた偶然に頭を抱えれば、ユウが紡いだ疑念。曰く、チカには気をつけろ、と。
不穏な響きと共に、まずは国境を越えて敵を減らそうと定めた目的地は、南東にあったベリル連邦。コーズミマ全土を描いた地図を右上から斜めに分断した大連山、ルチル山脈を、その地下に張り巡らされた坑道を抜ける事で越境を試みる。
山脈に至るまでには俺もカレンも知らなかったコーズミマの歴史をユウとチカの口から聞きながら。
辿り着いた天を貫く頂に準備を整え潜り込めば、道中で不慮の事故から崩れた天井。瓦礫がカレンとユウ、俺とチカで行く手を分けて別行動を強いられた。暗くうねった道中で、ユウが町で零していた言葉の意味を知る事になったチカとの会話。
彼女自身の存在。カレンの力と誡銘。ユウの過去。それら全てを繋げる組織……《甦君門》の目的。封印に至るまで世界を混乱に渦巻かせた魔王、《波旬皇》の復活。
己を人に仇なす魔物、《魔堕》だと語ったチカとの共闘の中で彼女の思いを知り、カレンに託した選択に二人で後悔と希望を抱きつつ。
そうしてルチル山脈を抜けベリルに足を踏み入れれば、カレン達と合流して一息……吐く暇もなく。国を越えてまで追ってきたセレスタインと《甦君門》の刺客が入り乱れた三つ巴の戦いが昨日の夜の出来事だ。
その最中で一人無茶をしたチカが暴走し、彼女を止めるためにカレンの本当の力……《珂恋》と言う誡銘を解き放って振るった刃。紅蓮の魔力を纏ったそれは、チカの壊す力と対になるような、思いで繋ぐ力。
刀で繋いだ一時の猶予に、願った結末を手繰り寄せたチカの魔剣化。どうにか手繰ったその道理に、彼女は未だ目を覚ます事無く腰の後ろのクリスの中で眠り続けている。カレンとユウの話では、そのうち目を覚ますとの事。
彼女にはまだまだ訊きたいことがあるのだ。最早行く宛てのない彼女には、この際全てを洗い浚い吐いて貰うとしよう。そうしていれば少しばかり暇な馬車の上もましにはなるというものだ。
……それから、チカの魔剣化の後に現れたローブ姿の男。夜の暗闇と目深く被ったフードのお陰で詳細な目的までを窺うことが出来なかったが、鮮烈に記憶に残った《甦君門》の一人。
カレンの話では、壊さない魔術で初めて斬り損なった相手。イヴァンと名乗り、俺の事を《ナラズ》と呼んだ不気味な人物。一度は退いた彼が、また何時やってくるとも知れない状況で、今はようやく越境に浸りながら馬車に揺られていると言うところだ。
こうして少し思い返して見ても十分に眩暈を覚えるほどに濃密な時間。加えて道中に他愛ない話をしたり不必要な日常に振り回されたりと言うものが加わって、過ぎ去った時間が約二週間程度だ。質で言えば記憶の中でも随一だろう。寝る暇も無いとはこのことだ。
しかしそんな日々からもようやく離れられる。
ルチル山脈を越えてやって来たベリル連邦。ここではセレスタインからの追っ手が国際問題に発展することから派手な行動が起こせなくて、そちらの心配を余りしなくてよくなるのだ。つまり目下の問題はカレンやチカがいた組織である《甦君門》だけ。そう考えればようやくまともな休息が取れそうだと言うのが心のオアシスだ。
……もちろん考えなければいけない事もあるのだが、それはまた今度。今は少しでも早くベッドに体をうずめて休みたい。
「後どれくらいですか?」
「……昼にはつくんじゃないか。食べるのはそれからだ。だから我慢しろよ?」
「いくら私でもそんなに我が儘じゃないよっ」
御者台で手綱を握るユウからの疑問に地図を広げて概算すれば、それから零した言葉に信用ならない反論が返る。だったら今し方梨の砂糖漬けに伸ばそうとした手を引っ込めてから言え。相変わらず食い意地の張った魔剣だ。
恨めしそうな赤色の瞳を向けてきたカレン。先の戦いでは彼女に助けられた部分も多く、その力がなければ今はなかっただろうとさえ確信出来る少女なのは間違いない。その点に関しては感謝よりも信頼している。
しかし、だからと言って許せる事とそうではない事は存在するのだ。
「ミノさん、町に着いたら前に言っていたお菓子作りを試してみてもいいですか?」
「何かいいレシピでも思いついたか?」
「創作とまではいきませんが、間違い無いものは作れるかと思います」
「賛成っ!」
こちらへ振り返ったユウが少しだけ楽しそうに零す。料理をすることが好きだと言っていた彼女。この旅路のシェフでもある少女がそこまで言うのだ。これまで食べてきた食事の出来を考えれば、期待をしないのは逆に失礼と言う話かもしれない。
魔を宿す少女が作るとか、そんなのは些細な……いや、考慮にも上がらないところ。ユウの作る料理には味以上の暖かさや気持ちが篭っていると、少ない見識で最上の評価をつけてあげるべきだ。……少なくとも俺は、彼女の料理に勝る食べ物をこれまでに食べた覚えはないからな。そしてそれはきっと、期待に胸を膨らませ瞳を輝かせるカレンも同じなのだろう。
豊かさは心に余裕と自由を齎す。まだ色々と問題はあるけれど、ユウがいてくれてよかったと言うのは飾らない本心だ。
「そろそろ交替だ。後ろで休め」
「はい、ありがとうございます」
先の長い、終着点も分からない旅。温存するべき物と助け合いは不可欠だ。これまでに色々あったが、今更肩肘を張って意地を貫く必要は感じない。幾度か背中を預けた仲間として、既に信頼は築かれている。
……昔の俺が今の俺を知ったなら、自分だと認めてくれないくらいには変わってしまったかもしれない。けれど悪い方向に変わったつもりはないし、あって困る物でもない。ただ少し……腑抜けたと言われれば鼻で笑うしかないだろうが。それが悪くないと思えるほどには今に充実を感じているのも事実だ。生きることが楽しいというのは、こう言うことなのだろう。
「そう言えばユウさんよくそうしてるよね?」
「え、何がですか?」
「その前髪を指で引っ張るやつ」
「あ…………」
荷台から聞こえてくる暇つぶしには丁度いい雑談。耳を傾けつつ口を挟む。
「あぁ、あれな」
「うん。癖なのかなって」
「……ユウ、気になるなら布でも使えばどうだ?」
「…………ありがとうございます」
「……? どゆこと?」
提案に答えた響きは迷いの色。続けて重なったのはカレンの疑問。お前、自分で指摘しておいてその理由に至らなかったのかよ……。
「大した事じゃないんです。ただ、ちょっと……この瞳は目立ちますから……」
「なんで? そんなの気にしなくていいのに」
「人を真似てるだけの鈍らはもう忘れたのか? 人の世界は周りと違う事に過敏に反応するんだ。ユウのその目が普通じゃないのは、それだけそう言う問題を招きやすいって事だ」
「…………そっか。そうだね、ごめん」
「いえ、大丈夫です」
一層強く右目を隠すように俯いて呟くユウ。
俺は前々から気付いてはいた。人と並んだり話をするときには右目が隠れるように陣取るし。先ほど御者台から振り返ったときも左側からだった。きっと自然とそうしてしまうほどに失敗し苦悩した結果で、だからこそ俺は指摘してこなかった。それは彼女自身の問題で、俺がどうこう言って大きく変わる様な物でもないから。
けれど、話題になったのなら最早飾るまい。これ以上引きずってもいいこともないだろう。全て吐き出してしまった方が楽にもなると言うものだ。
「町に着いたら眼帯でも見てみるか」
「そこまでして頂かなくても……」
「逆だ。俺が見たくないんだよ」
「っ……!」
「ミノっ」
びくりと肩を揺らしたユウ。続いたカレンの声に、それから言葉足らずだった事に気付く。
「違う。そうして萎縮してる姿を、だ。別にその目に関しては悪い印象はもうない。そう言うものだと思えば、男心に特別さが格好いいとさえ憧れるくらいだ」
「…………なんですか、それっ」
「あるんだよ、男にはそう言う感性がな」
「……慰めならせめて口説き文句にしてください。その方が女の子は喜びますよ」
「生憎と、そう言う事を直接口にするのが苦手な国に生まれたもんでな。ただ、そうだな……不思議な魅力はあるかもな」
「そう言うのは目を見て言って下さいよ」
「惑わされたら敵わんからな」
冗談を重ねれば、小さく吹き出したユウに小さな笑みを重ねる。
言葉は刺々しいかもしれないが、誤解は解けたようで何よりだ。辛気臭い顔よりはそうして笑っていてくれた方が幾らかましだ。
「……分かりました。可愛いのがあったら買います」
「じゃあ私もっ」
「お前は砂糖漬けのラベルでも貼っとけ」
「扱いの差が酷くない!? 私あれだけ頑張ったんだよっ。ご褒美くらいあってもいいじゃんかぁ!」
「自分から強請る奴に買ってやろうとは思わないだろ、普通」
言葉にしなければそれとなく理由をつけて押し付けてやろうかと考えていたのに。馬鹿と言うか思考が似ていると言うか。どちらにせよ大概な話だ。
認めるのは癪だが、そう言う意味では彼女と紡いだ契約はそんな変な縁の所為なのだろうと。諦めるほかないほどに馬鹿らしい話に鼻で笑いつつ。それからただの荷物と化している魔剣に雑務を丸投げする。
「口答えしてる暇があったら剣の手入れでもしておけ。町に着いたら売るからな。流石のお前でもそれくらいは出来るだろ?」
「馬鹿にしない、で…………うん、分かった」
「か、カレンさん……?」
揺れる荷台の上でカレンが立ち上がる気配。と、同時にユウが何かを察したような、躊躇うような声を零す。
……知ってるぞ。ユウが動揺する時のカレンは碌でもない事を言い出すのだ。
「その代わり手入れがちゃんと出来てるかどうかはミノが確認してよね?」
「……俺を斬っても血でまた汚れて仕事が増えるだけだぞ?」
「ぐぬぬぅ……」
考えつつ先回りして釘を刺せば、案の定唸ってくれた鈍ら。変な頭の回転のさせ方しやがって。残念ながらその程度じゃあ出し抜かれはしない。せめてチカくらいの強かさで更に食い下がれば話は別だがな。
などと、こんなじゃれ合いに僅かながらの楽しみを見つけながら町へと馬車を走らせつつ。脳裏を過ぎったチカの事を少しだけ考える。
今朝馬車を出してから二人に聞いた話では、早くて数日中に目が覚めるだろうとの見立てだが、それは彼女が魔剣の体に慣れて効率よく魔力を集められるようになったらという話。
一度でも目が覚めれば魔力石を使って魔力供給をしたりと方法はあるのだが、それまでは彼女次第と言うことだ。
その最初がいつになるのか……。少なくとも今後の予定は彼女の目が覚めてからと言うのが三人で話し合った結果だ。とりあえずベリルの首都に着くまでに起きてくれればそれでいい。
言いたいこと、訊きたい事は沢山ある。最早隠し事をするほどの得も彼女にはないはずだ。だからその時までじっくり待てばいい。その間にも俺個人で考える事は幾つかあるのだ。
例えば、昨日戦ってカレンの力が通用しなかった相手……イヴァンと言う不気味な人物のこと。まだ少し受け止めきれていない感がどこかにあって、だからカレンもユウもその事には一切触れてこない。きっとそれぞれに思うところがあるのだろう。
しかし目を背け続けているわけにもいかない。今逃げ回るように探している話題が尽きたらいよいよだ。
「ま、いいよ。そんなことしなくても文句のつけようがないほどに完璧に手入れをしてあげるからっ」
「期待はしてないからな」
「信頼はしてるんでしょ?」
今度は逆に先周りをされて口を噤めば、勝ち誇ったように笑みを零したカレン。そんなことで一々ドヤるな。錆び付いてるのはギャグのセンスだけにしてくれよ。
「……仲、いいですね。羨ましいです」
「だったら契約するか?」
「それはまだ遠慮しておきます」
からかうような提案には冗談の色と共にはっきりとした拒絶。やはりそう簡単に過去は拭えないか。まぁ、人の体であるユウには契約による魔力の供給が不可欠なわけではない。彼女がその気なら受け入れるし、嫌なら強要をするつもりはない。それが彼女が今もっている、選択の自由と言うものだろう。
「でも、羨ましいのは本当です」
「……別の意味で、俺が一番信用してるのはユウだからな」
「ありがとうございますっ」
「ねぇ、それどう言うこと? 契約してる私を差し置いて他の女の子に浮気っ?」
「差し置くも何も、お前は俺の腰に差したままだろうが」
「そう言う意味じゃないっ!」
どうやら満足行く返答じゃなかった様子。何がそんなに不満なんだ……。まさか金属と魔力の塊に欲情しろなんて無理難題を言うつもりじゃないだろうな? だとしたら今以上にカレンの事を異性として見られなくなるぞ?
などとどうでもいい事を考えれば、肩を揺らしたユウにカレンが嫉妬のようなむくれ方をして、阿呆らしいと鼻で笑った。
口先だけの音は別として、カレンもユウもよく笑うようになった。それはきっと心情の変化として余裕が出来て、安心しているからだろう。些か緊張感に欠ける気もするが……まぁ今はいいか。思考の渦に溺れて感情を忘れるよりは余程いい傾向だ。
特にカレンに感情がある事が、ある種の希望にもなる。
人間らしく笑うユウは当然の事、《天魔》のカレンにも確かに喜怒哀楽は存在するのだ。だからこそ彼女の力は感情を燃料にした繋ぐ力なのだ。
だからもし、彼女が感情を忘れてただ斬るだけの刃になったなら、きっとそこらの山賊にも負けるくらいには意味を見失ってしまう。そう言う意味では笑うカレンが、まだ折れていない証で安心出来るのだ。
彼女はまだ、諦めていない。認めていない。たった一度の失敗で、自分を見失うほど弱くはない。そんな、同族を斬るよりも尚眩しい強さに助けられている事を、柄にもなく肯定しながら。
「もういいっ。ミノなんて不出来な魔具使って危機に陥って勝手に死んじゃえっ」
「もしそうなるんだとしたら、それはきっとカレンが手入れした魔具だろうな」
「ぅがぁああああっ!?」
見つからなかった反論が獣のような咆哮となって響く。大体今手入れしてる奴は売って金の足しにするためだろうが。
カレンを握っておいて今更別の剣で満足なんか出来るかよ……。なんて、言えば調子に乗るだろうから絶対に口にはしないけれども。
少なくとも信頼をしてなければここまで命を預けて来てないっての。……さて、そんな俺の胸の内に気付くのは、錆び付いた思考にどれだけの油を差した後の事だろうか。もちろん、俺は一滴も差すつもりはないけれどな。
中身のないその場限りな話題で時間を埋めて。やがて昼を少し越えた頃に地図で確認していた町に辿り着いた。
そこはセレスタイン帝国からベリル連邦に入って首都に向かう道中、一番最初に立ち寄る事になる町。セレスタイン側で言うスフェーンのような、通商路に栄えた物と人の集まる中継地点だ。名前は確かマシシだったか。
着いて直ぐに宿を確保すると、昨夜の戦闘で拾っておいた武器を金に換えてそのまま食事を済ませる。材料を買っても手元に少し残ったのは安心のユウの手際のお陰だ。どうやら値切れる物は上手に値切ってきたらしい。争いよりも商人の方が向いているのではなかろうか。
そんな彼女が宿屋の厨房を借りて作ったのは野菜のたっぷり入った食べ応えのあるスープ。それに買って来たばかりのまだ温かいパンを添えて、千切って盛り付けたサラダを合わせれば久しぶりに立派で温かい昼食にありつけた。当然、味は語るべくもなく。我が旅専属のシェフも満足のいく出来だったようで上機嫌だった。
後語る事と言えば、約束通りユウの右目を隠す眼帯を買ったことか。丁寧に加工した蛇皮を使った丈夫でシックなデザインの眼帯。どうやら派手なものを余り好まないらしいユウの、せめてもの贅沢で少しいい物を買ったお気に入りだそうだ。
金額に、財布の紐を握る彼女が少し渋った事もあったが、普段の手伝いなどの礼だと言えば折れてくれた。何か納得出来る理由があればいいのだろう。そんな維持は張らなくてもいいのに。
少しはカレンを見習ってみたらどうかと口にしたら、無駄な出費が増えたのは雑事以下。
そんな風に時間を使いつつ、最後にお遣いのような依頼を一つこなして宿屋へと戻る。
とりあえず数日滞在して、準備を整えた後再びベリルの首都へと向けて馬車を走らせるつもりだ。その後は着いてから考えようというのが共通見解。
あと、チカの目が何時覚めるかと言う話だ。チカがいない今、比べるべくもなくユウの知識が一番あてになる。そんな彼女の話では、魔剣化に際して色々な事が起こるらしいと聞いた。
例えば、剣に馴染んで意識が覚醒するのが遅れたり。次第によっては意識と言うものが全く浮上してこないまま、魔剣としての特別な力だけは使えると言う、魔具に近い魔剣と言うものも存在するのだそうだ。ただ、後者のそれは低位から中位の、言葉が余り理解出来ていない《天魔》が中にいる場合に多い話で、魔物でありながら人型を持っていたチカは少なくとも中位以上。ユウの見立てでは普通に高位に属するほどの存在だと言う話で、ならば彼女の意識が表に出てこないと言う事はまずあり得ないだろうとの事だ。
カレンのように人型を再び取り戻せるのかと言う部分に関しては彼女の意思と、そして拠り代とした剣との相性らしいが、儀式などに使われるクリスならば問題はないはずだ。
加えて、カレンの頼りない意見だが。恐らく魔剣となる前に一度暴走して存在が希薄になった事が意識の覚醒を妨げているのだろうと言う見解だ。
普通以上に魔力を消耗し、自分の存在ですら維持が危うくなっていたチカ。そんな彼女が自分を保つための魔力を集め、剣に馴染み、人型をとって動けるまで回復するにはやはり時間が掛かるのだろう。色々と尋ねたい事はあるのだが……今は気長に待つしかない。
魔力石などの供給も、あれは当人が受け入れる必要があって外から無理やり魔力の受け渡しは出来ない。だからせめて剣のままでも意思疎通が出来る程度に回復しなければこちら側からはどうすることも出来ないのだ。
……まぁ少し薄情と言うか、現実的な事を言えば、彼女の分の食費や雑費が浮いて助かると言う話。反面、旅路の話題をそこに形として存在しない彼女が奪い去っていくと言う事が何度かあって、有体に言えば少し静かで寂しいのだ。
もちろん事ある毎に言い合いをするなんてそれはそれで体力を使うのだけれども。いなければいないで物足りないと言うのは贅沢な話だ。
そんないろいろを抱えた彼女に、早く戻って着て欲しいと言うのは数少ない三人の共通意見だ。
「ミノ、あとで私も手入れして?」
「あぁ」
宿屋の窓際で、外から入ってくる賑やかな音と光を時折眺めながら、町で買った手入れ用の油や鑢などでチカの眠るクリスを手入れする。カレン曰く余り必要ないらしいが、前に一度手入れをした時はそれなりに気分がよかったらしい。比較対象として風呂を挙げていたが、彼女の感覚では風呂には及ばないそうだ。そんなにあれがよかったか……。
そう言えば温かい湯で湯浴みをすると言うのは、昔の西洋では余りない話だったらしい。コーズミマが中世ヨーロッパそのままだとは言わないが、技術水準から考えれば強ち間違っていないのだろう。
だから並々と湯を張って体をそれに預け、芯から温まると言うのはこちらの世界には余り浸透していない文化なのだろう。
コーズミマでは一般的に汲みあげた水を使って体を洗い、流す程度の作業がいわゆる風呂に相当するものなのだ。カレンと出会った日に俺がそうしたように、溜めた水に火石を投入して沸かす一手間もあるが、その場合使い捨ての火石を溶かす事になる。言ってしまえば消耗品を一時の極楽に費やすのだ。持ち合わせが少ない時には出来ない贅沢。
火石の代わりに、湯を提供してくれる宿では金を払うことで使うことも出来るが、それも似たような話。
だから一般的には湯ではなく水を使うのだが……どうにもかの国で育った俺は習慣として湯に浸からないと風呂に入った気がしないのだ。その為に火石は旅の最低限以上に確保しているし、現状では食事に次ぐ贅沢。
そんな魔性とも言うべき魅力に魔剣の彼女も取り憑かれたらしく、可能であればその贅沢を享受している有様だ。さすがにあの日以降一緒に入るなどとは言い出さなくなったがな。
ついでにユウは今日が地球式風呂デビューだったが、既に骨抜きにされた様子。カレンが止めなければ今頃溺れていただろうと考えるくらいには満喫したらしく、今は夜風にその身を晒しながら寝具の上で満足そうに寝転がっている。魔瞳と言う特別な力を持っているとは言え、彼女のその体も意識も人間の少女のもの。俺と同じ境地に至って同じ楽しみと快楽を覚えてしまったのだろう。
これで例えば、これからの時期にこたつなんて目の前に存在したとすれば、旅が始まるのが次の春からになってしまいそうだ。
「ふへぇ……」
「あまり体を冷やすと湯冷めして風邪を引くぞ?」
「明日もオフロがいいです……」
「その分稼いで余裕があればな」
随分と芯が柔らかくなった語調に答えれば、寝転がったままのユウが指先で何かを数え始める。……まぁ別に、生きる目的が出来るならそれに越した事はないけれどな。火石の単価を考えればまだ安上がりな希望だ。
「……と言うかこっちには湯船に浸かるってのはないのか?」
「一応ありますよ? ただやっぱりお金がかかりますし、何より時間がいりますから。それに体を温めるよりは清めるって意味合いの方が強いんです」
「……儀式的な話か?」
「はい」
想像が追いつけば、ユウが藁にシーツをかぶせただけのベッドの上に座りこんで説明をしてくれる。
「ユークレースでは特に、神様を信仰する事が多いですから。それから……後は身分の高い人たちが特別な場で行事をする前とか、ですね。だから湯を張って行う湯浴みは普段ではされませんし、時間に追われてる町の人達や楽が好きな旅人は手軽に体の汚れさえ取れればいいみたいなので」
「そこまで浸透してないと」
「あと、一度この楽しみを知ったら次を求めてしまうので……」
「一般市民にとっては非日常の一つって事か」
かの国で日常的に身を委ねていた感覚すれば、やはり風呂は浸かって温まってという意識が強い。だから余程疲れていない限り、宿に泊まるときは可能なだけ湯船を使って風呂に興じてきたのに。文化や価値観の違いとは不思議なものだ。
「……今後やらないとかやめてね?」
「その日の気分だな。それでも入りたいなら面倒がらずに自分で準備する癖をつけろ」
期待するような、絶望から目を背けるようなカレンの声。どうやら既に彼女にとって白い湯気を立ち昇らせ星空を反射する揺れる湯桶の魅力はなくてはならないものらしい。
と言うか何が嫌なんだ。そんなに水を自分で溜めるのが疲れるか?
まぁ捻れば出る水道ではないのは少し不便だが、その歴史は既に地球では過去に通った道だ。
「…………そうだよっ。魔術で水をだーって出せばいいんだよ!」
「で、誰がそんな魔術使えるんだ?」
「……ユウ、さん…………?」
「ごめんなさい」
簡単に望みが絶たれて心が折れたらしく、崩れて膝と両手を床に突くカレン。だったら自分でどうにかしようと考えろよ。
「……スクリューポンプでも作るか?」
「何それっ?」
別名アルキメデスの螺旋。砕氷船などにも利用されている事もある、紀元前に発明された偉大なる彼の功績の一つだ。
「確か……棒に螺旋状の羽をつけて、一方向に回転させると物が上って来るからくりだ。ハンドルを回すだけで液体が汲み上げられる機械ってことだな」
「……剣じゃないとつくれないぃぃぃ」
が、彼女の力では無理な領域だったらしい。これだから鈍らは……。
「その気があるなら材料でも買って手ずから自作でもすればいいだろ? 丸太一本買えば作れるぞ?」
「……いい。面倒そう」
執着のない事で。一度作れば壊れるまで使い続けられるのに。
「そこまで言うならミノが作ってよ……」
「俺は今のままで満足してるからな」
「うぅぅ……!」
楽をする裏にはそれを支える努力があるのだ。何もせずに怠惰を享受しようなどおこがまし過ぎる。
「でもすごいですね。オフロに……キカイ? に。ミノさんの世界はわたし達の知らない事で溢れてますっ」
「技術水準で言えばここより遥かに進んでるからな。ただその分魔力みたいな便利な力はないから、物作りは全て人力から始まる。知恵と努力の研鑽で作り上げられた世界ってところだな」
コーズミマに来てよく分かった。地球に居た頃はこれ以上ないほどに便利に溢れていたのだと。
移動に自転車などなく、徒歩か馬車や乗馬。特に馬が関わる物は生き物相手だから全てが思い通りと言うわけにはいかない。料理も、電子レンジでボタンを押せば簡単に美味しい物が食べられるような簡易食など存在しない。本当に欲しい物は火に向き合い自分の手で調理するしかない。衣服だってお洒落よりは機能性だ。
何より身の安全。特に日本は地球でも有数の安全地帯。テロなどは殆ど聞かず、スリなども外国に比べて少ない。落とし物ですら持ち主に戻ってくる確率が高い国だ。
対してコーズミマでは肌身離さず持っていなければ、馬車の荷台の物ですら少し目を離した内に誰かに取られているなんて事もあるらしい世界だ。今のところ俺はその被害には遭っていないが……それ以外にも色々シビアなのは否めないだろう。
特に魔物。魔剣がなければ逃げる事で精一杯な、天災の様な存在が身近にいるのだ。下手をすれば宿屋でも安心して眠れない。
衣食住に命の保証……。だからこそ今生きている事がこれ以上なく幸せに感じられるほどに、何気ない事が嬉しく感じる。
そう言う意味では大きな目的の一つである、自由に生きる事は日々達成されつつあると言うことだろう。代償は色々と大きい気もするが……。
「ミノの元いた世界かぁ……。行ってみたいかも」
「生き辛いだけだ」
生きていけなかったから、俺は今ここにいる。
そう一人ごちれば、僅かに考えるような間を開けてカレンが零す。
「……ミノは、さ…………戻れるなら戻りたいと思う?」
「…………いいや。こっちで無法をはたらいてる方が幾らかましだ。それに戻ったところで居場所なんてないし、自分に価値も見出せない。だったらまだ追われながらもこの持て余してる魔力と付き合って行く方が性に合ってる気がする」
既に見限って捨てた場所。今更後悔も憂いもない。
と、カレンの横顔に希望のような……憧れのようなものが浮かんでいる事に気付く。今の話を聞いても夢想してしまうのは……異世界を求める心は完全には尽きないか。理想を追い求める想いは誰の心にもあるものだろう。それこそ、魔剣にだって……。
「……現実的な事を言えば、地球には魔力なんてないだろうな。魔物がいないんだから。だから例え地球に行けたところで、息苦しく野垂れ死ぬだけだ」
「もうちょっと夢のある否定の仕方してよ…………」
悪いな、リアリストで。けれどだからこそ、コーズミマは分かりやすくて俺にとっては生き易いのだ。その点だけは、転生に感謝だな。
そもそもあっちの世界で俺は死んでいるのだから、帰るも何もあったもんじゃないのだが…………。
「でも、ミノのお陰で色々助かってるのは本当だよ。もし契約相手がミノじゃなかったら、私は多分ここまで来られて無かったから」
「別に、褒められても嬉しいものじゃないんだがな。俺の知識は殆どあっちで得た事の受け売り……先人に学んだことばかりだ。感謝ならそっちにすればいい」
薄情だと言われても仕方がない。けれども嘘を吐いて胸を張れるほどに、俺は俺をもって何かをして来たつもりは無い。やはりそれは、経験や知識から導いた結果だ。
「それでも、私を助けてくれたのはミノだよ。だから、ありがとうって言わせてよ」
「……言うだけなら勝手だな」
「もっと素直になろうよぉ……」
残念かな。素直ならばそれこそこんなところにいなかったさ。
「ミノさんがなんと言おうと周りはきっと感謝をしてますよ。それはわたしもですし、きっとチカさんもです。ミノさんのお陰で、今があるんです」
「で? 何が欲しいんだ?」
「……本当に何かおねだりした方がいいですか?」
からかうような、試すようなユウの問い返しに口を噤めば、小さく肩を揺らした彼女。つられるようにカレンも笑みを浮かべて、渦巻いた感情をこれ見よがしに溜め息にしてやった。
……もういいだろう、色々と。話題を──本題に変えるぞ?
「……チカと言えば、カレンもそうだが、組織の……《甦君門》の事だな」
「そう、だね」
どこかで逃げ回るように口にする事を避けていた空気。その壁を突き破って音にすれば、部屋を巡る雰囲気の質ががらりと変わる。ユウも、浮かべていた笑顔を引っ込めて真剣な表情になった。
「カレン、分かる事だけ答えてくれればいい。今更お前に必要以上の期待はしてない」
「一言多いよっ」
「あの男……イヴァンって奴を知ってるか?」
問い掛けにはしばらくの沈黙。
既に分かりきっていることだが、あいつは《甦君門》の一員だ。カレンの事を……《珂恋》としての力を知っていた。その上で確かな対抗策まで見せてくれた。
チカがいない今、情報源は彼女のみ。だからこそそれに答えようと記憶を旅しているのだろう。やがてカレンが口を開く。
「…………名前は、あの時に知ったけど、顔は、見た事あるよ。私も、あの場所では何度か世話になった事があるから」
「カレンだけか?」
「ううん。色々な子と話してた、と思う」
「そうか」
少し曖昧だが、情報なのは確かだ。まぁ出会った頃のように全てを疑う物でもない。
チカの話では、《甦君門》は《波旬皇》を復活させるために色々な手段を講じていたらしい。カレンはきっとその中でも随分と期待の高かった方法なのだろう。だからあそこまで追い駆けて連れ戻そうとしていた。
イヴァンと言う男は、その復活に関する部分でカレン達の管理とか……そんな事をしていたのかもしれない。
「あいつの事を他に何か知ってるか?」
「…………優しかったよ。他の人は余り話を聞いてくれなかったけど、あの人はよく聞いてくれた。時々、我が儘も許してくれた。寒いって言ったら他の人には秘密だって言って毛布くれたりとか……」
世界的にみれば《波旬皇》の復活に関わっている以上悪人の部類なのだろう。けれども一枚岩ではないのか、それともそういった優しさがカレン達の警戒心を解くための飴なのか。まだよくは分からないが、少なくともカレンにとっては悪くない印象を持っている相手と言うことだ。
「躊躇したか?」
「…………分かんない。でも、私が考えないところで、してたかもしれない」
カレンが彼の魔術で強化された剣を斬れなかった。理由は明白で、彼の魔術を越えるだけの確信がこちら側に無かったからだ。カレンの刃は、心が揺れれば太刀筋が鈍る。
もちろんカレンだけが原因では無いだろう。その前の戦闘で確かな実感があったから、俺も驕っていた節がある。普通にやれば大丈夫だと。その普通を覆して彼が上回った。そう考えればあの結果は必然のようにも感じる。
「あいつが退いた理由は分かるか?」
「…………ううん。でも、勘……と言うか、触れてちょっと流れ込んできた物はあった」
「なんだ?」
「本気じゃ、無かった。試してたんだと思う……」
本気でなかったのは実力を隠したかったからか。何にせよ、あの場で捕まえるつもりは無かったと言うことだろう。……ならば一体何のために姿を現した?
「何を、って言うのは分かるか?」
「……計画。多分、《波旬皇》に関することだと思う」
深く沈んだ思考が、カレンにしては理知的な理由を導き出す。
《波旬皇》。《甦君門》はかの存在を復活させようとしているらしい。その為にカレンが必要なのは明白だ。
と言う事は彼女の存在の確認と言うのが一番考えられる線か。どこかで俺が野垂れ死んだり、カレンが折れたりしていないか。そしてそれ以上に、カレンの刃が鈍っていないか……。それを確認するためだったと言うならば、剣を交えた意味も分かる。
……この際だ、彼女の力についても共有しておくとしよう。
「カレン。お前自分の力に関しては把握してるか?」
「昨日の戦闘で使ったやつ?」
「あぁ」
「……なんとなく?」
よくもそれでチカを助けられたものだ。呆れて溜め息も出てこない。
「いい機会だからしっかり聞いておけ。……これは俺がチカに聞いた話だが、《珂恋》としてのお前の力は感情を糧にした繋ぐ力だ」
「感情を……」
「糧に?」
「簡単に言えば思いを力に換えるって事だ。斬りたい、斬れると確信すればお前に斬れない物は無いだろう。逆に恐れて斬りたくない、斬れないと考えた物には刃が曇る。思いの丈がそのまま切れ味に直結するわけだ」
想像を現実に換える……とまではいかないが、思い一つに左右される力。だからこそ何よりも必要なのが俺とカレンの想像力だ。
「自覚があるだろう。破片になって襲ってきた剣、炎を纏った剣。どちらも対処に迷いがあった。だから完璧に対応出来なかった」
「……そうだね。どれを斬っていいか分からなかったし、魔剣って言っても剣だから、炎は本能的に怖いかも」
「逆に、自信に溢れていたときは魔剣ですら両断できた。最初がいい例だな」
あの時は、刀への信頼と、契約による高揚感で互いに同じ気持ちを抱いていた。障碍ならば、斬り伏せると。自由を掴み取るのだと。だからたった一刀で敵の戦意すら挫くことが出来たのだ。
「だが、慢心もしてた。普通に振れば剣でも斬れる。その思い上がりが、イヴァンの魔術を越えられなかった」
「壊さない魔術……その上を想像出来なかったってことだね」
「二合目もそうだ。一回目で無理だった以上に力を込めたが、あいつも同じように魔力を使って魔術を強化した。だからあいつの不壊を上回れなかった」
単純に、負けたのだ。想像の刃で。こちらの斬ると言う思いよりも、あいつの不壊の方が強かった。
矛盾において、矛が盾に負けたのだ。
「次はっ……! ……ううん、駄目だね」
「あぁ。斬れなかったって言う結果がこっちの尾を引いてる。どこかで何かきっかけでも見つけないと、今のままじゃあ何度やっても結果は同じだ」
想像の刃。だからこそ一度の失敗が深く記憶に刻まれる。脳裏を過ぎってしまう。大丈夫だろうかと、疑ってしまう。
慎重と言えば聞こえはいいが、俺の性格はネガティブだ。完全なる自信など、持ち合わせてはいない。
けれどそれでは駄目なのだ。確信を持って振るわなければ……幾らカレンがその気でも俺が追いつかなければ斬ることは出来ない。そしてそれは、逆も一緒だ。
これはどちらか一人の問題ではない。俺とカレンの、二人の問題だ。
「一番駄目なのは、ここから更に自信をなくすことだ。……一回。一回斬れれば感覚は取り戻せる。その確信だけは嫌に鮮明にある」
「私も同じだよ。だから、次が勝負だね……」
「あぁ。……いや、次なんて無い方が余程嬉しいんだがな」
「そだね」
冗談を音にすれば、カレンが笑みを零す。けれどそこにいつもの色は無い。後ろ向きに引っ張りすぎたか……。ならば少し持ち直す話題に移るとしよう。
「後もう一つ、繋ぐ力ってのも《珂恋》の一つだ」
「繋ぐって……あれかな。なんかふわーってして、ぼややんって感じの……」
「…………残念ながらそれは《珂恋》個人の力で俺の感覚じゃないからな。共有はできん」
と言うかなんだその抽象的にもほどがある表現は。綿菓子や雲しか想像できないんだが。
「俺もよくは分かってないが、多分色々なものを手繰り寄せる力だろうな。魔力や魔術の繋がり。思いを力に換えるって言うのもその一端だろう」
「チカの意識を引っ張り上げたのもそうだよね」
「だろうな。ま、名前の通りって訳だ」
「名前?」
……そうか、カレンは知らないのか。
「誡銘だ。あの名前は、俺の国の文字……漢字で表すことが出来るんだよ。文字は…………《珂恋》だ」
「何かぐちゃぐちゃしてる……」
「……これ、ミノさんの国の文字だったんですね」
「元を辿ればお隣の国の物なんだがな」
日本のすごいところは、外から入ってきた漢字を使いつつ、そこから独自のひらがなとカタカナを生み出したその発想力だろう。文字から文字を生み出すなんて随分アグレッシブな事を1000年以上昔の人はよくも思いついたものだ。
「ユウは見た事あるんだな」
「もちろんありますよ。ただいつもわたし達が使ってる文字とは全く違うので、てっきり魔物が使ってる文字だと思ってました」
なるほど、魔剣やその契約者に充てられる名前と文字だ。そうも考えられるのか。
「……また今度こっちの世界の文字でも教えてくれ。暇な時でいい」
「逆もお願いしますっ。わたしもミノさんの世界の文字には興味がありますから」
「俺の世界って言う括りだと随分な数にはなるんだがな……」
日本語だけでも漢字、ひらがな、カタカナ。加えて英語に代表されるアルファベットや、ドイツ語などに見られるウムラウト。アラビア文字や、ハングル。ギリシャ、ラテン、キリル、デーヴァナーガリー。古くまで遡れば楔形文字やヒエログリフなんて物や、暗号としてのモールスや点字なんてものも文字の一つだろう。
もちろんそれら全てを理解しているはずも無く。俺が説明できるのは日本語と英語。それから僅かの中国語ぐらいか。とは言っても中国語のそれは漢字から類推する意味くらいでしかないが。
……しかし、うまく使えば暗号にはなるか。こちらの世界では使われていない言語やサイン。それを駆使すれば俺達の間だけで可能な意思疎通方法などが編み出せるはずだ。何に必要かは別問題だが。
「でだ。この文字だがな、珂と恋で一つの塊だ。それぞれに意味がある」
「意味?」
「……なるほど。こっちだと単語には音以上の意味は無いのか。まぁそれはいい。簡単に言うと比喩だ、この一文字で別の事を表す」
恐らくコーズミマの文字は音ではなく単語以上で意味を持つのだろう。解釈的には英語の方が近いかもしれない。
そんな事を考えつつ紙に書いた文字を指差しつつちょっとした教鞭を振るう。ユウの興味は当然だが、カレンも自分に関わることだからか、いつものような不真面目さは見せない。その事に少しだけやる気を感じながら説明を続ける。
「珂ってのは白瑪瑙のことだ」
「瑪瑙って宝石のですか?」
「あぁ。白瑪瑙は特に愛や絆の象徴だ。それから恋。こっちは感情の繋がりを意味する。だからその二つを合わせて、《珂恋》ってのは愛や絆を繋げるって意味だ」
「思いを繋げる力……そっかー。なるほどねぇ……」
納得のいったらしいカレンが噛み締めるように音を零す。と、そんな隣からユウの声。
「あの……わたしの誡銘は…………」
「確か《謀眦》だったか。文字だと……《謀眦》だな。謀と眦に分けられて……謀はそのまま謀……つまりは計画のことだ。特に悪事を働くときの悪巧みだな」
「何か少し暗いです……」
「眦は眦……目尻のことだが、まぁ大きく見て目でもいいだろう。それらを合わせて考えると……計略の瞳ってところか?」
「それは何だか格好いいです」
言葉選びとは重要なものだ。同じ意味でも違う響きで全く印象が変わってしまう。それに……。
「ユウには丁度いいんじゃないか?」
「え……?」
「少なくとも俺やカレンよりは知識が多い。策を巡らす叡智の瞳って言う意味なら、俺にして見れば言葉の通りだ」
「あ、ありがとうございます……」
素直な感想にユウが視線を逸らして居心地悪そうにする。照れるでなくさっきみたいに誇ればいいのに。褒められることに慣れていないらしい。
彼女の知識にはこれまでも助けられてきたのだ。そしてきっとこれからも頼りにしてしまうのだろう。
分からない事は仕方ない。ならば開き直るよりも先に、知らない事を知らないと認めて知ろうとする努力が正しいはずだ。それこそ、カレンが興味を持った事に対してそうであるように。
「名前って言うならミノもだよね」
「何がだ?」
そんな事を考えているとカレンが音にする。
「あのイヴァンって人が言ってたでしょ。《ナラズ》って」
「……あぁ。が、残念ながら俺は誡名をつけられた覚えは無いんでな。もしあれが俺の誡名なら、カレンと契約した後にどこかの誰かが勝手につけた名前だ。会話上じゃあ文字も分からないしな。解読のしようが無い」
《ナラズ》。普通に考えればならず者からの変化だろう。国に属さない魔剣持ちと言うなら確かに的確な渾名だ。
とは言え魔剣の誡銘と違い、人に付く誡名は戦いぶりや性格に由来するただの通り名の様なもので、カレンの《珂恋》みたいに特別な力を秘めているわけではない。ただ名が知れ渡れば《裂必》のようにそこらの民でも知るような象徴に変わるのだろう。
「《ナラズ》のミノに、《珂恋》の私。《謀眦》のユウさんに、《絶佳》のチカっ」
「チカの誡名は知ってたんだな」
「当たり前だよっ。友達だからね!」
その名を最初に話をした際に明かさなかった彼女が、今は嬉しそうに音にする。きっとそれだけカレンにとってチカの存在が大きいと言う事なのだろう。
「チカさんの誡名の由来は……」
「…………まぁいいか。何か言われたら後で謝っとけ」
「わたしに責任を押し付けないでください」
「文字は……《絶佳》。絶なる佳。佳なる物を絶つ。佳ってのは美しい物の事だ。だからチカの力は、形ある物を壊す能力……カレンの繋いで保つそれと間逆の力だ」
そこに端を発する彼女の得意分野は魔力や魔術の分解だと言う話。更に言えば、そこまで魔力に干渉できるからこそ、魔術の練度も相当なものなのだろう。
「チカにも色々話を訊きたいんだがな。まぁそれは目が覚めたらだ。今はとりあえずベリルの首都に向けてだな。明後日くらいまでに準備を整えて出発するぞ」
「もうちょっとゆっくりしたーい」
「お前の贅沢は聞いてたらきりが無いだろ」
「ちぇっ……」
駄々を捏ねるように腕を振り回したカレン。そんな彼女に呆れつつ、それから今日最後の仕事に気持ちを切り替える。
「ほら、手入れするんだろう? 終わったらさっさと寝ろよ」
「やった!」
口約束とは言え違えるつもりは無い。それに、こうして地味な作業をしていると色々気持ちの整理も出来るのだ。
イヴァンやチカ、《甦君門》……。色々考える事はあるけれど整理をつけて明日からも一歩ずつ生きなければ。今を歩かなければ未来など存在しないのだから。
それから二日掛けて準備を整え、馬車の荷台に物を乗せてマシシの町を後にする。カレンの我が儘を最小限に抑え、ユウの固い財布の紐で幾つか安く買い物も出来たりで少しだけ路銀の余裕も出来た。もしまた今度、流れの商人にでも出くわしたら品物を見せてもらってもいいかもしれない。そろそろ娯楽の一つでも欲しいところだ。
などと他愛ない事を考えつつ、それ以上に意味の無い会話と少しばかりの勉強を種にしながら道中を彩る。
暇だ暇だと喚いていたカレンには御者のやり方を教えて少し宥めつつ。変な勘で直ぐに物にした彼女に手綱を任せれば、荷台に腰掛けてユウにこちらの世界の文字などの教えを乞う。
一応単語……固有名詞くらいなら読めるが、複雑な構文となるとお手上げだ。だから地図の地名は分かっても本は読めない。娯楽や暇潰し……そしていざと言うときに必要な読み書きの為にも勉強しておくに越した事は無いだろう。
代わりにこちらからは小学一年生が国語の授業で学ぶような五十音表を手作りして日本語を教える事でユウとの約束は成り立っている。
そんな中で少しだけ分かったのは、言葉……音や文脈、文法と言う部分では既に話し言葉で認識しているそれが、当たり前のように通じている事実。そしてそこから幾つかの授業の段階を飛ばせると言う事だ。
簡単に言えば単語の品詞や格、意味と言った根源的な部分を説明しなくてもいいと言う事。つまりは文字に起こした場合どう書くかと言う文字としての辞書さえ作ってしまえば、後は覚えた五十音を当て嵌めて単語でも文章でも教えられると言う事だ。
因みに読みと書きは別問題。暫定的な目標は単語の理解とその書き取りによる筆記の習得だ。
もちろん、日本語と英語で文法の違いがあるように書きとして単語の並びや修飾の仕方など覚えなければならない事は沢山あるが、それさえ覚えてしまえば単語を一から覚える必要は無い。話し言葉の音としてペンはペン、馬車は馬車で通じるのだから。
ただ、そこにも少しだけ問題があって。同じ物を指しても名称が違うと言う事が存在した。
例えば……食材。トマトと言って思い浮かべるあの赤い食べ物は、コーズミマではタスリアと呼ばれるらしい。それと同じように様々な固有名詞が地球とは異なるのだ。
まぁ辿ってきた歴史が違えば、名前が違うのは辺り前。地球でも地域が違えば呼び方が違うのだから、それが世界を跨げば当然以上の真実だ。
幾つか聞いた限りでは、法則性のような物は感じなかった。あちらでも固有名詞の由来なんて作られた場所か発見した人物の名前と言うのが殆どだ。それと同様に、こちらではタスリアはタスリア以外の何物でもないと言う事。
それから、これは辿った歴史の違いだろうが、コーズミマでは技術水準は歯車止まりだ。だから産業革命以降に登場する蒸気機関や電球などの、向こうの現代には無くてはならなかった生活基盤がこちらには存在しない。当然、それらに端を発する便利な物は、概念上の存在だ。あればいい止まりの、ともすればそんな想像すら及ばないオーバーテクノロジー。
そもそもアルキメデスの螺旋が無かった事から考えても、全く違う歴史を歩んでいると言う事だ。
だからそれらが引き起こすカルチャーギャップに少し苦労したが、どうにか納得も見つけた。とりあえず基本は自分の身一つで世界が……生活が成り立っている。そう考えれば俺の知る便利な全てはこの世界には存在しないと理解できた。
その代わりとして、科学技術では簡単に成し得ないような不思議現象を魔術や魔具で肩代わりしているのがこのコーズミマだ。
コンロの代わりに火石。水道の変わりに水石。日常のあれこれは基本的には魔具となった石に込められた力と魔力で解決されているのがこの世界の常識だ。
とは言え幾ら魔術と言っても魔法ではない。前にカレンが言っていたが、どう変換すれば火になるのかを分からないと火の魔術は使えない。つまり知らない事を想像で補って結実させる事は出来ないのだ。想像の限りに創造の翼を広げる無限の可能性ではない。仕組みを知らなくても使えた地球の便利な道具とは逆と言うことだ。まぁ、理屈を知らなくとも中に秘められた力を解放するだけで現象を起こせる魔具は便利でありがたいのだが。
不老長寿も無ければ死者蘇生も無い。扱いを誤れば事故を起こし命さえ脅かし兼ねない力。その点で言えば地球の電気や火と大差は無いだろう。
そんな世界の理と文字を引き換えに、俺からは異世界の発明や便利さを説いたりしながら。もしかしたら中には魔術で再現可能な技術もあるかもしれないと言う話には少しだけ興味が湧いたりもした。
言ってしまえば理論さえ理解出来ればいいのだ。その為には教える側の知識と教わる側の理解力が試される。スマホなどの検索端末も無いこの場所で、一体どこまで詳しく分かりやすく説明出来るか……。その限界に挑戦してみるのも面白いかもしれない。
「とりあえずは書き取りだな。文字なんて書いて覚える以外に方法が無い」
「でも出来るようになると世界は広がりますよ。頑張ってください。わたしも頑張りますっ」
「ひらがな終わったら次はカタカナだな」
「……なんでミノさんの世界は三つも文字があるんですか」
「先人に聞いてくれ。つうか俺の生まれ育った国に限らなければ三つじゃ収まらないからな?」
ひらがなやカタカナの普及については歴史か何かで習った気がするが、残念ながらそこまでは覚えていない。こっちの世界で日本の歴史の教鞭を振るっても仕方ないしな。
「っとぉ……」
そんな事を考えていると急に止まった馬車。一体何事だろうかと手綱を握るカレンの横から顔を覗かせる。
「どうした。道は繋がってるだろ?」
「うん。けど、あの人が……」
「人…………?」
言われて視線を移す。そこには進行上に立ちはだかる人の姿があった。隣に馬を従えたその人物の顔はフードに隠れて見えない。
『……カレン、武器は?』
『持ってないっぽい』
『なら待機だ。合図をしたら馬車を出せ』
『分かった』
契言で意思疎通をして御者台から一人下りると、剣を作り出して握りながら問う。
もし相手が食らいついて来たなら容赦はしない。まぁよほどでない限り命までを取るつもりは無いけどな。
「……道を開けろ。用があるなら顔を見せろ」
「……………………よかった」
返ったのは男の声。それからその男は、フードを開けて顔を見せる。その顔に────
「……っ! お前────!」
俺は、因果のような繋がりを感じながら強く睨みつける。




