プロローグ
木製の、胸の高さに設えられたスイングドアを押し開いて建物の中へ入る。蝶番の軋む音と共に店の中の視線がこちらへ向いて、けれどフード姿にただの旅人だとでも思われたか、直ぐに興味が消えて再び店内が喧騒に満ちた。
まぁ余計な因縁吹っかけられるよりはいいか。酒の肴に喧嘩なんて、見る方はいいがやる方は堪ったものではないと。
久しぶりに寛いで酒が飲めそうだと張っていた緊張を解き、空いていた椅子に腰掛けて注文を投げる。
「店主、一番大きいので冷えたのを貰いたい」
「あい……よっ!?」
さぁここの酒場は一体どんな一杯を提供してくれるだろうかと。銅貨と共に値踏みするような視線を向けたところで、偶然恰幅のいい店主と視線が交わった。
その瞬間、どうやらこちらの顔に気付いたらしい彼は驚いたように固まって、それから辺りを見渡すような仕草をする。
全く……こっちは客として飲みに来てるのに。こういう場所でくらい好きにさせて欲しいものだ。
「お願いだ、店主。今日はただ飲みに来ただけだ」
「…………分かった」
少しだけ脅すように視線を強くして声を潜めれば、引き攣った笑みを浮かべた彼が静かに一杯用意してくれた。
これまで何度も使い、洗って。少し重く滑らかになった木目の濃いジョッキ。使い古されたような味のあるそれは、この店が長く愛され続けている証だろう。
久しぶりにいい店に出会えたかもしれないと、溢れんばかりに揺れる白い泡を乗せた一杯に口をつける。
途端、舌の上で弾ける感覚と、熱くさえ感じるほどに喉を刺激して降りていく冷たい苦味。直ぐに何か……摘める揚げ物が欲しくなるような味わいに、堪え切れなかった満足の音が小さく漏れた。
「しかし噂には聞いてたが、本当だったとはな……」
酒の感覚を確かめるようにジョッキをカウンターに置いたところで掛けられた声は店主から。少しだけ顔を上げれば、まるで当たり前のように自分の分を用意して向かいに腰掛ける姿がそこにはあった。お願いだからその分のお代はこっちに投げないで欲しい。
「……噂ねぇ。本当はもう少し静かに暮らしたいんだけれども」
「あんたさんがそう望んでも周りがそうしてくれないってか?」
「別に好きで有名になったわけじゃない」
「はっ、贅沢な悩みだねぇ」
どうやら彼は思いのほかお喋りらしい。……楽しい話題を提供してくれるならもう一つくらい注文でもしてみようか。酒も美味しいし。
「んで? お口には合いましたかな、《裂必》殿」
「あぁ。……だがそれはやめてくれ。今は仕事中では無いんだ」
「こりゃ失礼した。他に何か注文は?」
「…………任せる」
「ぁいよ」
《裂必》。最初にそう呼ばれたのはいつだっただろうか。
気がつけば周りからそんなあだ名で呼ばれ始めて、けれどこの身にしてみれば高々名前の一つ。それほど気にしたことなどない。
ただ生きてきただけ。ただ斬ってきただけ。それに誰がなんと思おうとその人物の勝手だ。が、勝手を期待にして押し付けられても困る。出来る事は出切ることだけだ。
この身は、この体は、この腕は。誰もが夢見て憧れるほど万能でもなければ、完全でもない。噂なんて、馬鹿らしい。
「噂っていやぁ、なんだか面白そうな話もこの前聞いたぜ?」
「……仕事になるか?」
「さぁな。ただなんでも、裏っ側で有名だった魔剣が一本消えたとか。んで、それがどうやら誰かの手に渡って、放浪してるらしいってな」
野良の魔剣持ち。陰の曰く付き。……ふむ、事によってはいい金になるかもしれない。
「その噂はどこで?」
「お、気になるかい? ここだよ……セレスタインだっ。詳しい話が知りたければ帝都へ行くといい。あんたさんなら欲しい情報の一つや二つ簡単に手に入るだろうさ」
「…………本当ならば少しは面白そうだがね」
「ははっ、面白いで片付けてくれるなよ。商売道具を取り上げないでくれっ」
噂は酒の肴。確かに、立派なお品書きの一つだろう。
しかし、面白いと思うのは本当だ。もちろん、噂である以上本気で信じてはいない。
けれど火のないところに……なんて使い古された言い回しがあるくらいだ。望みを懸ける訳ではないが、真実味があるなら首を突っ込んでみたい話だ。
野良の魔剣持ち。札付きの魔剣。……いや、どう転んでも金にはなるか。
…………よし決めた。今回は少しだけ噂に踊ってみるとしよう。そうすれば彼らが向けてくる風評にも幾らか理解が見つかるかもしれない。
少しだけ渦巻いた胸の内をしっかりと納得に落としこむように呷った二口目。強く弾けた刺激に少しだけ満足して噛み締めるように天井を仰ぐ。
と、頭を傾けすぎた所為で被っていたフードが自然と落ちた。途端、辺りに満ちた緊張と沈黙の音に失敗を悟る。
……だから、静かに暮らしたいんだってば。