プロローグ
裸足の疾走が尖った石を踏む。止まらない足が背後に赤い雫を小さく散らした。
纏った襤褸が伸びた枝に引き裂かれ、身を守る機能をまた少し損なう。引っ張られた布の裾がたなびき、泥に汚れた傷だらけの脚が覗く。
一体どれ程走ってきただろうか。後どれ程走ればいいのだろうか。
段々と曖昧になってくる視界。息は荒く、足の裏の感覚は既にない。頬を掠めた深緑に萌える葉のあとに、遅れて一筋血が伝い、頤を撫でる。けれども気にしない……気にしてられない状況が背後から迫ってくる。
体は鉛のように重いのに、耳だけはその音を嫌に鮮明に捕らえ続ける。足音は、変わらない。ずっと追いかけてくる、三つの連なり。
自分のものより重く大きな足音に、捕まった時の事を思わず考えて背筋が震える。……駄目だ、逃げなければ! 彼らに捕まったらまた連れ戻されるっ!
ようやく手にした二度とないチャンス。これが何かに繋がらなければ、本当に終わってしまう。
だから……だから、誰か────もし神様がいるのなら、たった少しの慈悲をください……!
勇気を振り絞るように強く目を閉じ、胸の前で襤褸を握る指に力を込める。その、刹那。
不意に消えた足の裏の感覚。まるで体に羽が生えたような錯覚。けれどそれが、目の前に迫った深い色の地面を見つけて哀しくも悟る。
あぁ、転んだのか……。深い森の中で走っている最中に目なんて瞑るからだ。
馬鹿で、愚かで、不運で。そんな自分を呪えば、やがて訪れた地面との衝突に体が転げ回る。天地が何度も逆転し、体を幾度も打ちつける。
僅かに視界を過ぎる木漏れ日が眩しい。吹き抜ける風が温く、大地は熱く、草木はどこか遠い。
次いで襲い掛かった体の悲鳴に顔を顰めながら、入らない力を振り絞って立ち上がる。無意識でもまだ逃げたいと願うこの体は、けれどどうにもあと一歩が限界だ。
しかし例え一歩でも、彼らから逃げ延びる時間が長引くのなら……。そう過ぎるが早いか、鞭を打って出した一歩が──宙を踏んだ。
崖か何かに向けて足を出したらしい。呆れて声も出ない。そんな体に天罰を下すように、再び衝撃が幾重も重なる。
足を、腕を、肩を、腰を。無意識に頭を抱えて転がり落ちる感覚の撹拌。打撲も、裂傷も、今更気にする事でもない。ただ願わくば、この命が残っていますように────
本能で縋るように胸の内に見えない希望を燃やせば、いつの間にか収まっていた体中の衝撃に重い瞼を開く。
最初に目に入ったのは、眩しい太陽の光。次いでそれを遮った、黒く大きい陰。
……そっか、ここまでか。短い自由だったなぁ……。
それは諦めであり、満足であり、消えない希望。
もし次に目が覚めるなら、誰に何を言われることもない自由な世界を旅がしたいな────
願いは、意識の底へ暗転する。