第52話:魔王の決死戦(4)
ああ、本当に――。
本当に、あの男は大馬鹿なのだと思う。
そう言葉にせず、感情を顔にも出さず、メイド・ゼノビアは声に出さずに嘆息した。
その間にも、悲鳴の飛び交う大騒音を眼下にして、家屋の屋根を蹴飛ばして飛翔する。
危なげなく百メートルは先の屋根に着地。その恐ろしい跳躍力に感嘆する声も今はない。
逃げる住民たちを一瞥し、遠方の街路にて群れるモンスターたちを視認する。開かれた門から街へと流れ込む様は、餌に群がる蟲の群れが如きだ。その数を数えるなんて、馬鹿らしくてできない。
赤い炎の色に蹂躙された街並を見て、本当にゼノビアは呆れた。
「まったく。……こうなったら、もはや守るもなにもないでしょうに。見捨てればすべてが楽になろうものですが」
何故なら、根城が戦っていた理由は、処刑の回避に他ならない。勇者の居城がこの荒れようなら、逃げ出すことは充分可能である。アシッドの問題はあるが、あの女がいくら策を練ろうと、逃げるだけならどうにでもある。
なので、正直なところ、魔王のことを考えるならここは策を無視して連れ出すのが得策だった。
なのに、どうしてそうしないかと言えば――。
「まあ、子供がワガママを言うようになったのですから。
私くらい、聞いてあげてもいいでしょう」
炎が舐める横顔に、笑みのような陰影が浮かんだことに、気づくものも誰もいない。
ふと、人混みに押されて転ぶ子供を見つけた。
小さな男の子で、両親が助け起こそうと手を伸ばすが、人波に抗えず届かない。子供の背後に、二メートルはあろう巨漢の豚男が大股に近づいてく。
親が子供を助け起こすのは間に合わない。両親が子供を庇うように覆い被さる。
オークが斧を振り上げる。
「――――ふっ!」
瞬間、グローラ西の一角に砲弾が撃ち込まれた。
否――それは、ゼノビアが投擲した家屋の煙突であった。
突如飛来した数メートルの石材がオークに直撃し、轟音。
ドッドッドッ――!!
煙突の砲弾はその勢いのままに何十メートルもの距離を、文字通り消し飛ばした。
控えていたモンスターの大軍は地面の赤いシミとなり――当然、先頭に立っていたオークは一瞬でポークミンチとして地面にすり込まれていた。
「ふむ、私もまだまだ修行不足ですね。……門まで届かせるつもりでしたが、力を入れすぎた」
舞い上がる粉塵が晴れると、そこには何もなかった。投げられた煙突すらなく、あるのは瓦礫だけだ。
石材で作られた煙突は、ゼノビアの力に耐えきれずに崩壊していたのである。
「なにもかも、この世のものは総て脆い」
屋根と屋根を飛び跳ねて、ゼノビアは即座に避難民たちの最後方――倒れた親子たちの前に立つ。殿である。
状況が飲み込めなかった両親も、ゼノビアのフリルドレスの背中を見て、現実離れした光景で逆に正気を取り戻した。慌てて子供を起こして去って行く。家族三人で。
その気配を感じたのか偶然か、それを契機に歩みを進める。砂礫漂う血肉の絨毯を優雅に歩き、メイドは己に釘付けになったモンスターたちを見た。
あの畜生共が、洗脳された身でありながら、動きを止めて凝視する。それはゼノビアの現実離れした躯故か、それとも人間ならざる淫魔の躯故か。
どちらが理由であっても、構いはしない。
「壊れるまで抱いて差し上げましょう。――なにぶん、当方は淫魔ですので」
肉も肉欲も、彼女の前には総てが脆い。
*
「女王陛下、ここはお通しするわけには参りません!」
城内の階段からダンジョン・クリスタルまで直行しようとしたところ、その階段を無数の兵士たちが塞いでいた。
この街の弱点であるため、地下へ続く階段の前には常に幾人もの兵士が詰めていたが、いまはそれよりも遥かに大勢いる。数としては、両の手で数えられる――ものの、およそ三倍。
俺たちの先頭に立ったアーリヤが、屹然と仁王立ちして右腕を振るう。
「退きなさい! そなたたちは、誰の歩みを止めているか判っているのか!」
思わず俺の首が竦む。自分に言われたわけでもないのに、あまりの威圧感でつい驚いてしまった。その問答無用の圧力は、俺たちと問答を繰り広げている姿からは想像のつかないものだ。
「し、失礼ながら、この場は何者も通すなとリカルド宰相からの命を受けております!
また、この命に背きし者は何者であろうと、洗脳の可能性ありとして捕らえよと!」
「馬鹿げたことを……」
アーリヤが頭を振る。ジリジリと、こちらに距離を詰めようとしている兵士たちを見たからだ。
「女王の命と臣下の命、どちらが優先されるか判っておらぬと見えますわね」
「申し訳ありませぬ女王陛下、これも御身のためなれば……!」
どうやら、相手は聞く耳を持たないらしい。
アーリヤが洗脳されているわけがない、と説明するにも時間がかかる。なにより、この大勢の中に洗脳された兵士がいたとしたら、説得なんて成功するわけがない。
「女王さま、ここは別のルートから行った方がいいんじゃ――」
「なにを戯けたことを。女王が正しき道を歩まずしてどうするのです、わたしに畜生のような素行をさせるつもりですの!
こうなれば正面から推し通るまでです!」
俺の言葉も耳に入らないようで、アーリヤが腰の剣に手をかけて抜き放つ。壁に備えられたランプの明かりを照り返す美しい刀身に、周囲がどよめいた。
「いやいや、マズいって。おまえの部下だぞ!」
「王の道を妨げる臣下などおりません」
王さまとはこういうとき非常にガンコと見える。
どうしたものか――。
「ネジロー、ちょっとアーリヤの手を掴んでてにゃ」
「はっ?」
背後のミレイナの声に訊ね返そうとしたとき、頭上を丸い玉が飛んでいった。
兵士達の目の前に落ち――視界が白に染まった。
急に失われる視界。――いや、サード・アイでなら見える。採光窓の外側から廊下を見るに、いま廊下には煙が充満しているのだ!
「って忍者かよミレイナは!」
俺は慌ててすぐ側にいたアーリヤの腕を掴んだ。
「な、なんですの、これは!?」
「はいはい、逃げるよー」
そしてミレイナが俺の腕をとって、思いっきり背後へ走り出した。
「ま、待ちなさい、逃げてどうするのです!」
「だってにゃ~、ここからじゃもう中には入れないにゃ」
「かといって、他に入り口など!」
頭上で口論が飛び交っているが、叫んだ拍子に煙を吸い込んでしまった俺は咳き込んでそれどころではない。手を離さないだけ褒めてほしい。
「なぁに、入り口がひとつだなんて誰が決めたにゃ。ねー、ネジロー?」
だから、突然に話を振られた俺はなんのことだか、てんで判らなかったのだった。




