第39話:魔王の湯煙攻防戦~男の威厳を守り抜け~(2)
前略。
ただいま、お風呂で美女とふたりきりです。
以上!
「次はお背中を流しますね」
ゼノビアさんが、布を擦り合わせて音を立てて泡を立たせる。
「は、はい。お願いします」
背中にタオルを押し当てられ、泡を塗りつけられる。その腕に込められる力は弱く、陶磁器を拭うような優しい手つきで背筋を撫であげていった。
シュッシュッ、とタオルが背中を往復する度に、汚れと一緒に正気までこそぎ落とされていくようである。
「魔王さま、どこかかゆいところはありませんか?」
「あ、いや、大丈夫です」
突然声をかけられて我に返る。
いかんいかん、なにをぼうっとしているんだ俺は!
「そうですか。では、次は腕を出してください」
腕。
ちなみに今、両手で股間を隠している。
この両手を退けてしまえば、ゼノビアさんが覗き込んで来たら一発でアウトだ。
「いや、そこは自分でも洗えるし」
「突然倒れてしまうくらい疲れていた身でなにをいいますか」
ゼノビアさんに腕を掴まれた。
なすすべなく腕を持ち上げられて、タオルが肩から二の腕までをぬるりと撫でていく。
「ひぅ」
反射的に背筋が伸びてしまうような感触に声が洩れた。
肩や二の腕といった敏感な部分を他人に触れられるのは、こんなにも身をよじりたくなるものだったのか……!
「……? やはり、体調でも悪いのですか?」
「だ、だ、大丈夫!」
「そうですか、ではもっと腕をあげてください」
ゼノビアさんが肘から先を洗おうと腕を伸ばしたので、俺はおとなしく腕をあげようとして。
「あいてっ」
肩に痛みが走る。うう、どっかで打ち付けたかな。それともライムにぶら下がったときに痛めただろうか。
「あはは、これ以上あがらないみたい。ま、まあ今はいいよ」
「ふむ。では少し窮屈ですが我慢してください」
「へ?」
頭上からゼノビアさんの顔が現れ、俺の頭の横から彼女の腕がすっと伸びて手を掴んでくる。
そして、背中に暖かいものが押し当てられる。暖かい肌の感触……肌!?
あれっ!? これ、いま、抱きつかれている!
俺の頭上。息もかかりそうな距離に、ゼノビアさんの顔が現れていた。背筋が冷える。
いまゼノビアさんに下を向かれたらマズい――!
だが、彼女を押し返すわけにもいかない。俺の頭は真っ白になり。
「では、お手を拝借して……。
……魔王さま?」
前を 覗き 込まれた。
――――――――――――――――――――――――。
俺は、ゼノビアさんと目をあわせることができなかった。
ぎこちない声で、必死になって。
「う、ううん、なんでも、ないよ。はやく、おねがい、します」
「はい、では失礼して」
何事もなかったかのように、ゼノビアさんが俺の腕にタオルを這わせはじめた。
…………。
セーーーフ!
誤魔化した、誤魔化したぞ!
ゼノビアさんは、気づいた様子も見せずに腕を洗い始めている。俺の咄嗟のあがきは功を奏したのだ。
そう、俺は股を思い切り閉じて、隠しきったのである。
ゼノビアさんが下を向くより一刹那はやく。俺の両足を雷光が如き速度でその顎を閉じ、欲望を股の下へと封印せしめていた。こんなに素早く動いたのは産まれて初めての経験である。
多分、部屋の扉を開けられた際に起動していたエロゲを閉じたときの速度を上回っていたと思う。
いや~、人間の可能性って無限大だ。機転と勇気って素晴らしい!
などと自分を褒めてやりたくなるくらいの達成感である。
いま俺の顔を見たら渾身のドヤ顔が浮かんでいることは間違いない。今も絶賛ゼノビアさんに躯を洗われている最中だがなにも関係はないのである。
そんな俺の活躍に気づかず、ゼノビアさんは俺の手先まで流れるようにタオルをすべらせる。指の間に、タオルに包まれたゼノビアさんの指先がぬるりと入り込む。
~~~ッ!
こ、今度は変な声を出すのを我慢したぞ。
手先から肩にかけて駆け上がっていくタオルの感触にも耐えながら、自分の自制心を褒めてやりたくなった。
腕が終わると、胸板、お腹をのの字を描くようにしてタオルでこすられる。くすぐったいが、今まででは一番マシだ。
よし、この調子でいけばなんとか耐え抜けるはずだ。
まあ問題があるとすれば。
む、無理矢理に足をとじて押しとどめているから、痛い。すごい痛い。なにがとは言わないが痛い。
なにがとはいわないが!!
「魔王さま、やはりお体が優れないのでは」
脂汗でもにじみ出していたのか。ゼノビアさんが訝しげな表情になった。
「は、はは、ゼノビアさんは心配性だなぁ」
「もっと顔を見せてください」
断る間もなく、ゼノビアさんが身を乗り出してくる。
もにゅ。……もにゅ?
あれ、この、後頭部に当たっている、大変柔らかな物体はいったい、いったい。
………………。
お……。
おっぱいだーーーーー!!!
おっぱいがーーー! 頭にーーー! 当たってるーーー!!!
え、え、え、マジですか。おっぱいさまですか。
というか、アレですよ。そういえばお風呂にはいってきたとき、ゼノビアさん特に布で躯隠してませんでしたよね。そうですよねー、淫魔ですからねー。
生おっぱい!!!
もはや脳裏には、その聖なる四文字しか浮かんでいなかった。ヤバいとかマズいとかバレるとか、そんな一切合切が吹き飛ぶこの衝撃。
えっ、なにこれすごい。柔らかいのに芯があるような弾力で頭が支えられてる。なんだこの総てを許し眠りの世界へ誘ってくれそうな全身を包み込む慈愛の塊のような感触は。
あっ、すごい、俺聖母さま崇める気持ちわかった!
しかし、残念ながら胸が触れたのは僅かな間だけ。ゼノビアさんが腰を浮かせると胸は頭から離れてしまう。
彼女が俺の肩を掴んで振り向かせると、俺の鼻腔を甘い香りがくすぐった。
俺の頬に、しっとりと水で濡れた金髪が触れていた。ゼノビアさんの、髪留めで止められていた豊かな長髪から一房だけ流れ落ちてきたのだ。
浴場のランタンを受ける金の髪は、まるで大樹から滴り落ちる甘露のように魅力的な光をたえていた。
こんな人が現実にいていいんですか。なんかもうヤバすぎてヤバいです。なにが一番ヤバいかというと俺の世界樹がヤバいです。
っていうか本格的に痛いっていうか折れる!! 折れるぞこれは!!!
「やはり、顔色が悪いような」
「は、ははは、ひさしぶりのお風呂でのぼせちゃったかなー。はやく出たいなー」
嘘だーーー!! もう一生このままでいたいーーー!!
血涙が出そうです、はい。
世の中ってままならない。
けれど、この心配を利用しない手もない。
こう言えば、もうお風呂から上がることが出来るはずだ。
「そうですね」
事実、ゼノビアさんも同意してくれた。よかった、これで地獄の我慢大会を切り抜けられる。
「では、手早く終わらせてしまいましょう。さあ、足を開いてください」
…………はい?
「……いま、なんと?」
「ですから、足を開いてください。そのままでは洗えないではないですか」
絶体絶命のピンチ!
まずい、これを断るのは明かに不自然である。だが素直に開いたら最後、なにもかもが終わってしまう。
ど、ど、どうする!?
「あ、あはは、やだなぁ、ゼノビアさん。そんなの、自分で洗えるところじゃないか。そこまでしてもらわなくてもいいよ」
「腕を痛めている様子だったではないですか。ご無理はなさらず」
なんでそんな気遣いしてくるの! いつもはあんなに辛辣なのに!
ゼノビアさんに配慮して頂けるのは大変にありがたいことなのですが、いかんせん俺の立場を親切心が追い詰める。
ぐ、ぐぬぬ、仕方ない。恥ずかしいが、こうなれば部分的に本音を言うしかない。
「あ、その、でもね、こう、ね? 男の子としてはちょっと、その恥ずかしいというか」
下半身を人に洗われるのは、ちょっと……。
そう言外の内容を悟らせて、ゼノビアさんに遠慮してもらおう。
これはこれで非常に恥ずかしいが、見られてしまうより数倍マシだ。
「……ああ」
あれ、なにか声に嫌な間が。
あの、ちょっと、待って。
ゼノビアさんが、いつもと変わらぬ様子で言った。
「つまり、興奮しているから見せられないわけですね」
「なにを!?」
「ナニを」
ナニを!
「魔王さまくらいの年頃の子供が、女性と一緒に浴場にいることは別におかしなことではありません。よって、見せることを恥ずかしがる必要はないのですよ。
第一、私をなんだと思っているのですか。淫魔ですよ。そんなもの、朝食のパンくらいに見慣れています」
朝食のパン扱いは複雑な気分なんですが。
ゼノビアさんは、別にそんなもの気にしないという。
しかし、ここまで頑張ってきておいて、むざむざ認めることは癪である!
これまでのがんばりが無に帰してしまう。俺は意地になっていた。
「や、やだなぁ、ちがうよ。下はさっき自分で洗っちゃったから、悪いなって遠慮したいだけだよ」
こうなれば、なにがなんでもやりすごしてやる。
その決意の元に抵抗すると、ゼノビアさんが問い返してきた。
「なら、興奮はしていないと」
「はい」
「なるほど」
ゼノビアさんが頷いた。
「それはそれで腹立ちますね」
「――なんで!?」
「淫魔ですので」
あーっ! 淫魔の誇り傷つけちゃったかー!
性にアグレッシブすぎて俺の予想の範疇を超えてますよこれは。
「そうとなれば、無理矢理にでも興奮したと言わせたいところですね」
「いやいやいや最初の趣旨見失ってるし!」
あなた、背中流しに来ただけですよね?
「安心してください。魔王さまは未成年ですから、全年齢の範囲で収めますよ」
「安心する要素がない!」
逃げよう――とした時には既に腕を掴まれていた。完全に意識していなかったのですがこれは。
「格闘術がこんなところで役立つとは」
そういえばこの人グラップラーになったんだった!
両腕を掴まれ、ゼノビアさんの顔が真正面に現れる。
ジト目のまま、無表情に死刑宣告をされた。
「お覚悟を」
「いーーーやーーー!」
じゃーなーいー!
俺は思わず椅子から腰を浮かせてしまう。だが、それがいけなかった。
ずるっ、と。床に溜まった泡に足を取られる。
天地が回転し、あっと声が洩れた。
やらかした。
スローモーションになる視界。
離れていくゼノビアさんの顔。
その目が驚いたように丸くなっていたことが、珍しくてびっくりした。
俺は思いきり床に背中をたたきつけ――。
*
頭の下に柔らかい感触。
それが掌だと気づいたのは、眼前にゼノビアさんの顔があったからだ。
咄嗟に手を差しこんで、抱きつくように俺を守ってくれたのである。
ぴちょん、と水が跳ねる。
頭から冷水を浴びせられたように、場の空気が静まりかえった。あわや大事故という状況が、俺たちを落ち着かせていた。
「ご無事でよかった」
そういって、頬にゼノビアさんの手が添えられた。
「傷、ついてしまったのですね」
親指が、俺の頬の傷口をなぞる。下水道で転んだときに、切ってしまった頬の傷。既にかさぶたで塞がって、ちょっとした異物感を覚える程度でしかないものだった。
やがて消えてしまう傷で、転んで膝をすりむいた程度のものでしかない。
なのに、ゼノビアさんはその傷を見つけて痛ましげに目を伏せるのだ。
「こんな擦り傷、子供の勲章だよ。疵痕だって残らない」
「ですが、これは私の仕事が至らなかったがために出来たものです。本当に、申し訳ありません」
やめてほしい。
そんな、責任感なんて覚えないでほしい。
これは全部、俺が弱いせいで出来た傷だ。俺がミスをしたから出来たものだ。あなたはなにも悪くない。
「違うよ、これは、俺のせいで出来たものだ。ゼノビアさんが気にすることじゃない。ただでさえ、いつも迷惑かけてるのに……」
「私のこれは仕事です。気にすることはありません」
「仕事、か。神様に言われて?」
無言で頷かれた。
神様。今まで姿もわからなかったそれは、いまはクオンタム・デイズという幼女の姿をとって脳裏に現れる。威厳もなにもない、小柄な幼女の神様。あれがゼノビアさんの上司であり、この世界を統べる神だという。
そして、俺を世界の敵にした張本人。
「わかってるよ。ゼノビアさんは、俺が魔王の仕事をするための補佐役であって、同時に……監視役だってことくらい。
じゃなきゃ、いつも一緒になんていてくれない」
ゼノビアさんは、いつも俺の側にいてくれた。不思議だったし、それだけで俺は救われていた。でも同時に、こう思うのだ。
理由がなければ。
冴えない男を、こんな出来た人が支えてくれるわけがない。
それこそ、なにか利用価値くらいなければ。
「だから、神様たちの前で余計なことを言おうとした俺を叩いたんだろ」
「……はい」
女王さまに、この世界の魔王は神によって産み出されているのだ、と言おうとした時、俺は頭を叩かれた。言わせるわけにはいかなかったのである。
知ってたさ。ずっと疑って、考えてた。どうしてなんだろうって。
俺はもう、無自覚に世界が自分を愛してくれると思えるほどの人間じゃない。
だから、つまり。
「仕事でも嬉しかったんだ。だから俺はいつも感謝してるし、ゼノビアさんもそんな申し訳なさそうな顔しないでよ」
事実がわかったところで、ショックなど受けようはずもないということだ。
内面だとか、理由だとか。そんなものはどうだっていい。
俺にとっては、折れそうになったとき、側にいてくれたことが総てなのだ。
「嫌われていたのかと思いました」
「なんで?」
「アシッドと出会ったとき、あなたは。私に駆け寄ることを躊躇したから」
なにか態度がおかしいと思ったら、ずっとあの時のことを気にしていたのか。
……まあ、俺も気にしていなかったといえば嘘になる。
だって、少しでも怖いと思ってしまった。いつも助けて貰っていたのに、だ。そのことが後ろめたくてしょうがなかった。
でもそれは、俺が気にすることであって、ゼノビアさんには関係がないことである。だって、まったく悪くないのだから。
「あれはゼノビアさんが怖かっただけだよ」
「さらりといいますか、それを」
「事実だし。っていうかさ、当たり前じゃん。
怒ってる人を見るのは怖いよ!」
誰しも平等に、怒ってる人を見るのは怖い。それが普段怒らない人なら当然で、裏を返せば普段、俺はゼノビアさんを怖いと感じていないということなのだ。
「それにゼノビアさん、怒ると背中に鬼でも浮かんでるみたいなんだもん。そらこわいって!」
「怒りますよ」
「こわいこわい」
ぷっ、と。どちらともなく笑いが洩れた。
ばかばかしい。なんで俺たちは裸でこんな話をしているんだ。
それにしても、ゼノビアさんも、こんなことで悩んでいたなんて。意外とかわいらしい一面、あるじゃないか。
口に出したら怒られそうだから、言わないけれど。
なにか、ずっとわだかまっていたものが解消された心地だった。
思えば、地下大水道でがんばってしまったのも、あの負い目からだったのかもしれない。
すっきりした気持ちのままに、俺は提案する。
「さ、もうお風呂あがろう。本当にのぼせちゃいそうだし」
さすがに、これ以上引き留められはしまい。
現にまだ大丈夫とはいえ、子供の体力ではいつ湯あたりしてしまうか判ったものではない。
――そのとき。
俺は、ミニマップに映る人影に気づいた。
「へっ?」
脱衣所に、誰か人がいる。
そこにいる人物の反応に、愕然とした。
思えば、なんでお湯が張られていたのか、俺は疑うべきだったのだ。
帰ってきたばかりの俺を、こんなに熱々のお湯が迎えるなんて、予め準備していないとできないことである。
もちろん、俺たちを出迎えるために風呂が沸くわけもなく、さらにいってしまえば、こんな大浴場。誰に用意されるかと言えば――。
そのとき、ガラス戸が開いた。
浴場にやってきたのは、紫の頭髪をタオルでまとめた女王アーリヤその人である。
薄いヴェールかなにかで躯を覆い隠して、鼻歌交じりに足を踏み入れた。
「うっふっふっふ。公務のあとのお風呂は最高ですわね~、厄介者も地下で無様を晒していると思うと気分爽快ですわ~……」
アーリヤが、俺たちを見た。
淫魔がショタを押し倒しているようにしか見えない、この状況を見た。
アーリヤと俺の目があう。
………………。
直後。
「く、く、曲者ですわ――――!!!」
浴室に悲鳴がこだました。
あっ……。
終わった――。
ポイントが増えれば増えるほど女王さまがいやらしい目に遭います(卑劣)。




