第10話:ニート、レベルアップ
べちゃべちゃ。
遠い世界のご両親へ。幸せにやっていますでしょうか。あなたたちの息子は、絶賛植物の消化液に塗れてベトベトになっています。
へっくし。
「魔王さま、鼻水がでてますよ」
メイド服のエプロンで頭を拭きながら、ゼノビアさんにそう言われた。ずるる。ダメだ、鼻水が止まらん。
よくよく考えれば、俺は全身スライムの水気まみれのまま、全力疾走を繰り広げていたのである。しまいには頭から消化液まみれになったのだから、そりゃ躯が冷えるというものだ。
ゼノビアさんが鼻にハンカチを押し当ててくる。
「魔王さま。はい、ちーん」
ちーんっ!
ごしごし。
鼻水を出して、事務的に拭われる。淡々と処理されている。俺は子供どころか赤ん坊か。
「あー、ゼノビアさん、そのですね。先程はお手数おかけして誠に申し訳ございませんでした」
「急に殊勝になりましたね」
「まあ、俺の過失なんで……」
喧嘩をしたとはいえ。勢いのままに走り出して罠を踏んづけて死にかけたのは俺のせいだ。なら、助けてもらった感謝はして然るべきだ。俺ひとりでは、絶対に死んでいた自信がある。口に出して伝えられなければ、子供どころかクソガキだろう。
はあ、とため息が聞こえた。
「いいえ、私も言い過ぎました。嘘を言うつもりはありませんが、受け入れられない苦言を呈したのは私の不徳です。子供を相手にキツく言うだけでは仕方ありませんでした」
「あの、また遠回しにディスられているような」
「ですから、事実です。そして魔王さま、感謝する必要もありません。
言ったでしょう、貴方は子供だと。子供だから、大人に頼ることに負い目など感じる必要はありません」
ゼノビアさんが、俺の頬を布で拭った。
「保護者は子供が無事でいただけでうれしいものです」
……なるほど。
俺は保護されている。そのことを自覚しなければならなかった。ちっぽけな男のプライドの前に、事実を認識するべきだった。
「それに、魔王さま。私はお祝いを申し上げます。レベルアップおめでとうございます」
ゼノビアさんが俺の前で、紙を開いてみせた。羊皮紙というやつだろう、茶色く乾いた革の紙面には、よくわからない文字が並んでいる。ただ、この文字のレイアウトはなにかで見たことがある。……ああ、そうだ。履歴書だ!
「この度の活躍で、魔王さまはレベルアップしました」
羊皮紙の一角を指で示された。マジか。
「えっ、なに、さっきのあれで経験値ガバガバ入っちゃったの!? レベル0返上かよ!」
「はい。ですので、この度の活躍によって魔王さまは目出度くもレベル1になりました」
「……ま、そんなもんか」
「意外と驚かないですね」
「意外もなにも」
ふう、と俺は苦笑した。
だって俺は諸々を、自分の力と立場を、ようやく理解したのだし。
「ようやくスタートラインだ。ゲームの主人公はレベル1から始めるもんだろ」
これくらいがちょうどいい。
「まあ、貴方は本来なら最強が基本の魔王さまですけどね」
「水ささないでくれません?」
それ言われると心ぐるしいんだってば。
「とはいえ――成長は素直に評価しましょう。これでようやくジョブ固有スキルが獲得できましたね。これで<ドミネーション>――支配の魔王スキルが得られます」
「おっ、ついに凄そうなのが。……凄いよね?」
「すごいですよ。相手に<ドミネーション>を使用することで、強制命令権を獲得できますからね」
「本当にすごいのきちゃったぞ」
あまりにそれっぽいのでビビる。
「ただ、対象の頭に掌で触れなければ発動しないので、同意した相手か無力化した相手でなければいけないのが難点ではありますが……。さて、手始めに、そのスライムに<ドミネーション>をしてみたらいかがですか?」
俺の足元では、まだスライムがぷるぷると震えながら居座っていた。仲間になりたそうな目でこちらを見ている気がする。
「食べられるのを待ってるゼリーか何かかこいつは。……最初の相手がスライムかぁ。ま、命の恩人だしな」俺とて、特に異存があるわけでもない。「ええと、<ドミネーション>……なるほど、こうか」
改めてスキルの名前を口にしてみると、脳裏にまったく知らない情報が浮かび上がってきた。どうやら、どのようにしてスキルを扱うかの方法らしい。
俺はその知識のままに、おそるおそる指をスライムの額(?)に押し付けた。
「汝、これより我が軍門に降れ」
スキルを詠唱する。言葉を発していく度に、額が内側から熱く発熱した。頭蓋骨の内側から外側へと、熱した鉄棒を突き出すように、前頭葉が熱い。普段使わない脳機能が活性化しているように思えた。
一瞬、視界が陽炎のように揺らぐ。気づくと俺の指先には赤い円形の記号集合体――魔法陣とでも言うべきそれが浮かび上がっていた。それが現出するときに、空間がわずかだけ歪んだのだ。
「汝らの王が告げる。隷属せよ、これより血の一滴までもが王のモノ。これよりその命、我が物と受け入れよ!
――<ドミネーション>!」
魔法陣がレーザーのように発光――
――消失。
ヒューズが切れた電球の明かりのように、魔法陣はパッと輝いて消え去った。後に残ったのは、額のジンジンとした鈍痛のみである。
「……すげえそれっぽいことを言ってしまった。これでいいのか……おっ!」
あっさり終わってしまったので拍子抜けだったが、俺はミニマップの上に変化を見つけた。俺の視界に浮かび上がったミニマップに、光点が増えているのだ。色はゼノビアさんと同じ緑色、これはスライムのものだ。
「スライムの位置もマップでわかるようになってる……へえ、パーティーメンバーみたいな扱いになるのか。こりゃ便利だ」
「他にも、命令するとその通りに行動してくれるでしょう。もっとも、魔王さまはレベルが1ですから、本人が極端に厭うことをさせるほどの強制力はないですけれど」
「ふぅむ……。ならスライム、お手」
かがんで手を差し出す。
スライムが躯の一部を伸ばして掌の上に置いてきた。
「おお。お手した。こいつお手を知ってるのか」
「なにやってるんですか」
「俺の世界ではこうしてペットとじゃれるのだ」
「なるほど。ところで魔王さま、こちら手鏡になります」
「ん? なんだよ、いったい――」
ゼノビアさんに手鏡を差し出されたので覗き込んでみる。うむ、幼い俺の姿だ。それにしても小生意気な面をした子供である。俺でなければ、デコピンのひとつやふたつしてやりたいところだ。一丁前に頭に角なんて生やしやがって。そりゃ額も痛いわけだ。
「……って、うわあああ! 頭に! 頭に!!」
額から生えた角を触ってみる。かたっ! あと指先でつついたら頭の中に反響音がコンコンと響いてきたんだけど! これ頭蓋骨から直接のびてるよね!?
こう! 両こめかみの辺りから前に向かって合計二本!
「ゼノビアさん、ゼノビアさん!」俺は悪寒でぶるりと震えて振り返る。「なんか! なんか頭にタケノコはえてる!」
「魔王さま、落ち着いてください。魔王なのですから角のひとつやふたつに、みっつやよっつ、はえます」
「そ、そうか……」
そうなんだろうな……。
「あっ、あとなんか、目の色が赤色に?」
鏡にうつった俺の両目は黒目の部分が真っ赤になっていた。いや、性格には赤というより、炎だ。目の赤が、光の輝きとは別に揺らめいている。それは焚き火の炎のような……。
「世界へのスキル行使のために現れる一対の黒触覚。さらに、魔王スキル発動の際に現れる両目の炎――炎視眼。そのふたつこそが魔王の証です」
「お、おお……」
うわ、なんか急に魔王らしくなりすぎて逆に怖い。角を触ったらやっぱり硬いし。これが頭の中から生えてきたの? え、やだ、怖い。足の裏に出来た魚の目のデカイ版みたいな気になってきた。なんか色々台無しだが、だって実際に躯から異物がでてきたら怖いものは怖い。
「なんか怖いな」
「魔王スキルはこの世界の魔力は使わないので料金は請求されないですよ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「さて、ではお次はあのモンスター――ガルムにも同じことをしましょう」
ゼノビアさんが立ち上がると、ずっと俺を追っていたモンスターを示した。こちらを脅かしてくれたモンスターも、今では頭を半ば地面にめり込ませて動かなくなっている。
「無力化した相手なら、無条件で<ドミネーション>は効力を発揮します。あのガルム、レベルは200に届くかもしれません。部下にしておいて損はないでしょう」
「……ゼノビアさんには瞬殺されたけどね」
「レベルが違いますから。そもそも、500もレベルが違えば、無防備なところを三日三晩攻撃されたところで薄皮一枚も傷つきませんよ」
「レベル差の減算補正かー」
RPGの序盤で高レベルモンスターに遭遇すると稀に良くあるやつだね。
ゼノビアさんの後をついて、俺はガルムに近寄った。近寄っただけで生唾を呑み込んでしまうが、相手は布団のように大きい舌を牙からだらしなく垂らしている。
俺はおそるおそるガルムの頭に手を伸ばして――届かなかったので、察したゼノビアさんが腋に手を入れて持ち上げてくれて――額に触れた。
呪文省略!
「<ドミネーション>!」
格好のつかない二度目。再び魔法陣が光輝き。
ガルムまで光り始めた。
「おお!?」
ビビってのけぞった。俺を持っていたゼノビアさんごと体勢を崩した。
発光がうわっ、まぶしっ! とっさに掌で光を遮っても、目を開けていられない。
数秒すると、光りは収まった。ただそれでも、目がチカチカしてすぐには状況が飲み込めなかった。こんなの幼い頃にテレビにかじりついて国民的アニメ番組のバーチャルポ○モン回を見てたとき以来だ。
「魔王さま、驚きすぎです」
あ、どうやらゼノビアさんが尻餅つきながら受け止めてくれていたらしい。道理で痛くないわけだ。
ん? ということは、いまこの背中にあるのはおっぱいの感触!? 魔王城脱出のときに味わえなかった感触を今こそ堪能するときでは!
「グルルルル……」
散々俺を苦しめた獣の鳴き声がした。
「ひっ!?」
ま、ま、まさか、意識を取り戻しになられたので。
だが既に奴は俺の支配下だ、目覚めても殺されることはない。あれ、でもあの妙な光はなんだったのだろう。
もしかして失敗したせいで目覚めさせるだけという最悪の結果になったのではー!?
「ワン」
「……わん?」
俺はおそるおそる前を見ると、
一匹の犬が尻尾を振りながらこちらを見ていた。
「バウワウ」
ぱたぱたぱたぱた。
黒い毛並みの綺麗なワンちゃんの尾が揺れている。正確には狼というべきなのだろうが、あまりにも動作が犬っぽい。おおきさは大人のゴールデンレトリーバーくらいだろうか。
「……ああ、なるほど。魔王さまのレベルが低すぎて、この子もレベルダウンしてしまったようですね」
「ええっ、なにそれ!? 強い仲間ができるって話じゃなかったの!?」
「これまでの魔王さまでは起こり得ない事例だったのですが、そうとしか考えられません。さすが歴代最弱の魔王さまというべきでしょうか」
なに、そんな規格外に弱いの俺?
「レベルは……まあ、精々が一般兵士相当でしょう。とはいえ、人間とは基本性能が違いますので、彼らよりずっと強いでしょうが」
「うーん、そう言われてもこれじゃただのペットのワンコだよ」
「狼でしょう」
「ちっちゃいと完全にワンコにしか見えないって」
めっちゃ舌出しながらハッハッと息吐いてるし。
呆然と小さくなったワンコを見ていると、あっちの方から俺に向かって歩みよってきた。
「おっ、なんだ。ご主人様だってわかってるのか」
俺は身を乗り出してワンコの頭を撫でる。うんうん、こうして懐かれると憎さあまってかわいさ百倍といったところか。毛並みもサラサラしていて気持ち良いぞ。アングリと開けたお口の中に並んだ牙の歯並びも大変よい……。
がぶっ。
いきなり頭を丸かじりされた。
「ガルルルル!!」
「ぎゃあああああっ!!」
うわっ、痛い! めっちゃ痛い!!
慌ててのたうちまわる。離れ……離れねえ! 全然剥がれねえぞコイツ!
大慌ての俺と裏腹にゼノビアさんは冷静であった。
「ああ、記憶がなくなったわけではないですから、魔王さまには恨み骨髄でしょうね。なにせ、自分をこの姿にした張本人ですから」
「言うのおっそい! ええい、おすわり!」
犬が不服そうに座った。<ドミネーション>の効果はちゃんと発揮されているらしい。
俺は息切れしながら頭をぺたぺた触った。うう、ちょっと血が出ている程度でよかったけれど、これ狂犬病とか持ってないよね。大丈夫だよね。お金たまったら注射とか受けさせないといかんぞ。
「だいたい、恨むなら殴り倒したゼノビアさんをだな……」
「なるほど、たしかに。私のことが憎いですか、ガルム」
犬がゼノビアさんのことをじっと見た。見つめ合うひとりと一匹。
「キュ~~~ン!!」
「あっ、こいつ露骨に媚びた声を!」
「獣は喧嘩相手を間違えませんからね」
現金なやつだ。
ともあれ、これで今すべきことは済んだ。ほっと息をつくと……頭から異物感が消えた。角、黒触覚があったところを撫でてみるとなにもない状態に戻っている。
「魔王さま自身が必要ないと判断したり、体力がなくなれば、そうして黒触覚は姿を消しますよ。
さて……それでは魔王さま。最後にダンジョンの奥に参りましょう。道中、お話することもあります」
*
「ワープ装置のことに関してです」
俺とゼノビアさんは、うしろにスライムとガルムを引き連れて、ダンジョンである森林を奥へと進んでいた。
移動の途中で、ゼノビアさんが話を切り出す。
「あの装置、明かにダンジョン由来のものではありません。間違いなく、人為的になにものかが設置したものでしょう」
「人工物っぽいもんな。でもさ、それって前の管理者が設置したものじゃないのか? トラップとかも設置しそうなもんだけど」
俺は、地面に転がった小枝を横に蹴飛ばして答えた。こうやってうしろのヤツが歩きやすいよう道を整えるのと同じように、トラップの設置だって管理者の仕事だったんじゃなかろうか。
「お察しのとおり、トラップの設置もダンジョン管理士がおこなうこともあります。なにせ、アトラクションであったり、魔物の乱獲を防ぐものですから。しかしあれは、デス・トラップも同然でしょう」
「ああ……なるほど。侵入者を殺す必要はないのか」
「はい。生かさず、殺さず、がダンジョンの罠に必要とされる技術です。少なくとも、人間が運営する人間向けダンジョンに関してはですが」
なるほど。つまり、俺が引っ掛かったトラップは、このダンジョンにあるにはあり得ないのだ。
なにせワープ先は、あのガルムの生息地帯である。あれはガルムの目の前に人間を誘導していたとしか思えない。そして、先代のダンジョン管理士はガルムに困っていたのだから、それを利用するような罠を張るわけがない。もし、ガルムまでの道のりのショートカットのつもりなら、あんな位置に設置するわけがないだろうし。あれは冒険者を狙った悪意あるトラップだ。
「ゼノビアさんが俺をワープ装置で追ってこなかったのも、多分できなかったんでしょ」
「はい。一定時間の間、機能が停止するようになっていました」
なんでも、ワープ装置はダンジョン内の魔素を利用してのみ動作するらしい。さらに動力として魔素をリチャージするためにクールタイムが存在するのだが、それを加味しても再起動時間が長く、徒歩での移動を余儀なくされたらしい。
「と、なると。このダンジョンが空き屋になるはめになったのは……誰かのせいってことなんだろうなぁ」
途端にきな臭い話になってきた。明確に殺意を持った人間が潜んでいるなんて考えたこともなかった。
ぶるりと躯が震える。そうだ、俺はいま世界中の人間に殺されようとしているのだ。
「いま、人間世界自体の均衡が乱れています。この国は隣国、ユースティリア帝国との不和が噂になっているようですから、おそらく、それが原因でしょう」
「……国名までよく知ってるな」
現実に戻って相槌を打つ。300年間は俺と同じで家に引きこもっていたのではなかったのか。ふつうに不思議で聞いただけなのだが、何故か冷ややかな流し目を送られた。
「魔王さまが寝ている間に聞き込みをしたのですよ、このニート」
「だから家事手伝いだと……ごめんなさい」
今日は起きたときには既に昼でしたからね、そりゃあいくらでも話を聞きに行く時間はありましたね……。
「ともかく。世情そのものが乱れているのです。別に、貴方さまを狙ったものではありませんし、過度に怯えずともよいでしょう。
そもそも――この状況を打開するために呼び出されたのが、魔王さまなんですから」
そうだ。俺はこの世界に派遣された、迂遠な世界の救世主なのだった。
「ん……。ありがとう、ビビりすぎたな」
言ってからギョッとする。あまりにも自然に口から感謝の言葉がでていた。
ゼノビアさんがなにかを言う前に、俺は慌てて話題を変えた。
「いやー、それにしても。真っ先にダンジョンが手を着けられるなんて、ずいぶんと重要なんだなー」
「はあ……。ダンジョンの管理者がいなくなれば、当然、入場料から徴収される税収もなくなりますし、ダンジョン目当てでやってくる冒険者たちもいなくなりますから。経済的打撃と過疎による活気の低下は深刻でしょうね」
まさに、人工的な狩りの場、レジャー施設。とことんまでに俺の知ってるダンジョンとは別物なのだな。
「さて、魔王さま。つきましたよ」
ダンジョンの最深部。行き止まりの広間についたとき、俺は思わず「うわぁ……」と声をあげていた。感嘆の声だ。
何故なら、広間の中央には、見上げるほどに大きな結晶体が存在したからであった。