16:「今、振り向かないで」
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夜空を見上げながら、耳を澄ませた。そして、心の中で呟く。どんな時だって幸せだった。恭介と付き合い始めたばかりの頃も、別れることになった時も。それから、しばらくして、淡雪と付き合うことになった、というのを聞いた時だって……。
「……そう。それは良かったね」
いつものみんなと学校の帰り道、夕ご飯も兼ねた、だべり合い。
「でも、おかしいだろ、アイツ。」
そういって、なあ、と私の方を振り向いてくれる彼。
「少しは、遠慮とかさ、ねえのかよ。な? そう思うだろ?」
見慣れた景色。彼はよく、そういうふうにいろいろな人を怒った。そういうふうに、私を怒ってくれることが、ちょっと嬉しかったりした。普通とは少し、違うのかもしれないのだけれど。
でも本当はダメだったんじゃないかな。今、そう思うのは、二人が別れたって噂を聞いた時。それであんたが、また怒ってくれた時、今度は、なんでだろう、なにかがいつもと違っていたんだ。
だから、答えられなかった。
小さなテーブルの上のポテトに視線を落としたままのつまらない冗談の流れの中で、見上げると急に真面目な顔になって、亮一は口を開いた。
「俺のことを好きになってくれ」
その言葉に息が止まるのを感じた、唇が震える。早くなにか答えないと、という焦りが私の鼓動を激しくさせた。その言葉に返事ができず、じっと身構えていたんだと思う。亮一は、私からの言葉が返ってこないことが分かると、あっはっは、と軽く笑った。
その笑い声に何が起きているのか分からなかった私の、その頭に亮一が手を置いたかと思うと、くしゃくしゃと撫でる。
「なんてな、冗談だよ、冗談」
私はぐしゃぐしゃにされた頭を抑え、唇を尖らす。
「冗談でも、言って良いことと、悪いことが」
せっかく髪型整えたのに。今の会話で変な冷や汗だって出た。やって良いことと、悪いことだって……。そんな不満の雨にさらされる私を置いて、席を立つ亮一。
「先に行くぞ」
「あ、ちょっと待っ……」
先を歩こうとする亮一に言葉が止まる。私は見てしまった。真っ赤な顔にかすかに震える手を。
帰り道の当たり前な風景の中、当たり前のように私たちは自転車を押して歩いていた。なぜか当たり前のように言葉は交わさず、なぜかそれが私の心を軽くした。
なぜ彼は、あんなことを突然言い出したんだろう。なぜ、大学前で。なぜ、大きな通りを渡った向こう側のマックで。なぜ、駅前の安っぽいチェーンのそんなに広くない店内で、もしかしなくても同じ大学の同じ学科の人がいるような、そんな中で。なぜ、安っぽい……告白?
くすっと笑い始めた小さな波が、大きな波へとすぐに変わる。
「おい、どうした! なにがそんなにおかしいんだ?」
その言葉がまた面白くって。私はお腹を押さえて笑っていた。笑いながら、お腹を押さえながら、うずくまりながら、ごめん、亮一、ごめん。……笑っちゃったと、心の中で謝った。
笑い終えた私が涙を拭って自転車のハンドルを押さえている亮一を見上げると、頭をかきながら居心地の悪そうに聞く。
「なあ、何がそんなに面白かったんだ?」
私は、くすくすと小さく笑いながら立ち上がった。
「秘密」
「えー、おしえろよ」
「教えなーい」
「なんだとー」
そして、私はにこっと笑う。こうやって、二人でいる。一日だけじゃなくって、一週間よりもっと長い間。一ヶ月、半年、一年、二年、……四年。その中の、四人じゃなくって、二人の時間を思い出す。一年よりももっと前、別れたばかりの時は、そう、いつもそばにいてくれたことを切なく思う。
夕暮れどき、赤く染まったマンションに帰る道を、ぼんやりと一緒に歩いて行ってくれたのは、駅前からの道が同じだったからっていうのもあるんだろうけど。それでも、いつまでも、ずっとこのままでいられたらいいなって、心のどこかで思っていた。日が暮れる瞬間の、一瞬の空の輝きをいつまでも忘れないようにと、私は写真に収めた。かけがえの無い毎日をいつまでも忘れないために日記に綴った。人生の中の一番楽しい時間を、大切に大切に生きた。私の中にいつまでも留めておきたいと思った。このまま時間が止まってしまえばいいのにと、何度も思った。
四人でも楽しくて。恭介とふたりになれたときは本当に嬉しかった。亮一と二人で……。
「茜、お前どうした?」
「え? あ。……な、なんでも無いから」
亮一の少し後ろで自転車を押していた、私の足が止まる。
私は、自然とこぼれ始めた涙に戸惑ってしまった。
「どうした?」
「なんでもない」
「なんでもないわけ、ないだろ」
「なんでもないから、本当に……」
拭っても、拭っても、あふれこぼれる涙に私は悟った。いままで曖昧にして、ごまかしていたことの結末が、どうなるのかを。
目の前の霞む景色の中、亮一が自転車を押さえたまま、心配そうに口を開いた。
「でも」
「しつこいよ」
小さい声で言うと、近づこうとしていた亮一は背を向けたまま、それ以上言葉を続けなかった。
だから私は、自転車を止めて、気まずそうに頭を掻く彼に近づいて、広く大きな背中にそっと頭を預ける。泣いた顔は見せたくないから。自然と口から言葉がこぼれた。その言葉を言った後の顔を見せたくないから。
「ごめん」
「俺も」
頭の上からの声、そして振り返る気配。動こうとする彼の背中の服を私は軽く掴む。
「いいから」
「でも」戸惑った声が小さく風に乗って聞こえる。
「このままで、いいから……」
私には分からなかった。涙をこらえきれず、我慢できず彼の背中で泣き始めてしまった私には、どうしたらよかったのか、ほかの考えなんて一つも浮かばなかった。ただ、優しくされるのが怖かった。
暗くなった中、私たちだけを灯ったばかりの街灯は照らしてくれた。
亮一は黙ったままずっと私が泣き終わるのを待ってくれた。
「ごめんね」
「……なにが?」
私は、わざとその言葉に答えなかった。静かにこぼれる最後の涙と額に感じる暖かさの中、逃げないでほしいと思う乱暴な感情が彼の服を強く掴ませる。このまま、このまま、もう少しだけでいいから……。
声を押し殺して、静かに泣いていたはずなのに。私がいくら耳を澄ませても、幸せが逃げていく音は聞こえなかった。