第74話 お前に流れる血は何色だ 1
その人は、そっと手首に刃をあてた
滑らかなる柔肌に紅の血が浮かぶ
肌の白きその場所に、血の色の何と鮮やかなことか
その美しさに私は思わず感嘆の息を漏らす
―――赤き血は人間の証
人間であることを遠い昔にやめたその人が、人間であることを示すたった一つの証
だから、その人は血を流し続ける
世界がその人を人間だと認めずとも
せめて、自分だけは人間であることを忘れたくないからと
自分の手首に刃を当てて、その人は血を流し続ける
【お前に流れる血は何色だ】
「離してくださいっ、ティア!エヴァンシェッドが行ってしまいますっ!!」
この白き神という女神は、今しがた自分が万象の天使に自分が突き放されたということが分かっていないの?
何者が追ってくることも拒み頑なままに遠ざかる天使の背中を見送りながら、引き留める私から逃れようともがいている女神にそんなひどく冷めた感想を、私は今抱いている。
その反面。
はっきり言って、このどう見ても緊急事態の中でも恋する男しか目に入っていないという、ある意味感心してしまうこの女神に敬意を表し、このまま万象の天使を追わせてもいいかな・・・なんて思っている自分もいたりする。
だけど、この異常事態は合図。
だから、私は彼女をここで離すわけにはいかないの。
『そうだなぁ、明らかにこれは異常だっ!てティアが思ったら逃げ出して頂戴。』
そう。これは銀月の都でヒロをエンシッダ様に引き合わせる前に、下されたたった一つの命令。
『今現在、銀月の都は、天使に襲われる予定の罪人の巡礼地に向っている。』
挨拶も何もなく出し抜けに、私はそう言われた。
エンシッダ様は否定したけれど、ヒロが言ったように彼は罪人の巡礼地が戦場になることを本当は予め知っていた。
そして、これは私の憶測だけど、それを止める術もエンシッダ様にならあったとも思う。
・・・まあ、私にはヒロのようにエンシッダ様に物申すようなことはしないけどね。
『罪人の巡礼地は非常に危険な戦場となる。しかし、君には白き神を連れ、ヒロとケルヴェロッカとともに聖櫃の奪取の命を下す。だが、それはあくまでも建前だと覚えておいてほしい。』
エンシッダ様の横には、いつも人形のように佇んでいるヴィ・ヴィスターチャがいた。
あの造られたかのような美しい顔は嫌いではないけれど、私は苦手。何もかもを見透かされているような気がするから。
だから、いつもエンシッダ様と共にいる彼女と、私は一度だって視線を合わせたことはない。
『建前・・・聖櫃はよろしいのですか?』
『もちろん、聖櫃は後々頂く。でも、それは君たちの役割じゃないってだけさ。だけど、建前上、君たちには聖櫃奪取という目的の名の元に灰色の花園に行ってもらわないといけないの。』
『・・・。』
いつも思うんだけど、エンシッダ様の言葉は特別難しい訳じゃないのに、その言葉の意味を理解するのが、どうにも難しい。
それは結論だけで、彼が決してその意味を教えてくれないから。
『まあ、難しく考えなくてもいいよ。君は何も考えず、聖櫃を奪取するために灰色の花園に行くと白き神たちに言えばいい。後は、君は何もしなくても俺の目的は達せられる。』
『連れてゆくのはケルヴェロッカとヒロ、そして白き神・・・ですか。』
『何?何か言いたいことでもある?』
白き神という名に言いよどむ私に、エンシッダ様は問いかける。
『あ・・いえ、罪人の巡礼地は天使との戦闘になるのですよね?そんな危険な場所に白き神をお連れするというのは如何なものかと。』
『まあ、気持ちは分かるけど、封印された灰色の花園への扉を開くことができるのは三大天使と白き神である彼女くらいだからね。俺の目的のためには灰色の花園の封印を解くことが大前提である以上、白き神を連れていくことは仕方無いんだ。』
そうエンシッダ様に言われてしまえば、私には了解という他ない。
だって、私はきっと彼からすれば、単なる駒の一つだから。そして、それは私が自ら望んだこと。
遠い昔、私は彼の復讐劇の端役になることを自分で決めたのだから、私は決してそれに逆らうことはしないの。
―――例え、その役目を負うことで人間であることをやめることになったとしても・・・
『そうですか。それで、聖櫃を奪取してはいけないんですよね?では、灰色の花園に向かった後はどうすれば?』
そうして、全ての疑問も憤りも飲み込んで、私はただただ彼の下す命令にだけ従順な端役になるべく問いかける。
『別にどうする必要もないよ。心配しなくても、君たちは聖櫃を奪取しないんじゃなくて、奪取できないように決まっているんだから。そんなこと気にしなくても、君たちはそれどこじゃなくなるから。』
『それは、ヴィスの予言ですか?』
『そういうこと♪』
楽しげに瞳を細め、彼はヴィスを抱きしめる。でも、ヴィスは瞬き一つ反応を示さない。本当にまるで人形みたい。
『何が起こるというんですか?』
『先に言っちゃ、君たちも楽しくないだろうから何が起こるかは言わないけど、灰色の花園は君たちがかつて直面したことのないような事態になる。だから、そうだなぁ、明らかにこれは異常だっ!てティアが思ったら逃げ出して頂戴。あ、その時は、白き神とケルヴェロッカはちゃんと連れ帰ってね?』
先に教えてもらった方が気が楽なんですが・・・とは言えない。
それに言った所でエンシッダ様が予言を知らせてくれないのは、長い付き合いの中で十分知っているの。
そう、例え口先だけで仲間だと言っても、私がこの身の全てを彼の復讐に捧げていると知っていても、この人は決して私にも誰にもその予言を教えようとはしない。
何故なら予言とは誰かの不意の行動で、大きく変わる可能性のある流動的なものであるから。
そして、エンシッダ様は予言を不用意に多くの人間が知ることで、それを知った人間に自分が望む未来を変えられることを非常に気にしている。
だから、予言を知ることができる資格を持つのは、彼とヴィ・ヴィスターチャだけ。駒である私たちは知りたくとも、それを知ることはない。
『ヒロは連れ帰らずともいいのですか?』
だから、予言の内容については問わず、でも、連れ帰る面子の中にヒロのながないことが気になった。
『ふふ、彼はねぇ。いいの。彼はその異常事態の台風の目だ。俺が求めるものを手に入れるためには、白き神以上に彼の存在こそが絶対に必要だからね。』
ヒロ・・・が?
ここ最近、エンシッダ様の関心を一心に集めているらしいその男の姿を頭の中で思い浮かべる。
黒の一族ということは聞いていたし、けど他には特に普通の人間とは変わらない、むしろ目立たない平凡な青年。
その青年が一体、何だというの?
『色々知りたいだろうけど、それはティアには関係のないことさ。それより、このことを君に話したのは、白き神を連れ帰る時に、一つだけ気を付けてほしいことがある。灰色の花園には万象の天使・エヴァンシェッドが現れる。』
『万象の天使が?』
大物の名に思わず聞き返したけど、エンシッダ様は私の問いを無視して続ける。
『いいかい、万象の天使が現れれば、白き神は取り乱し彼を追おうとするだろう。でも、決して彼女に万象の天使を追わせてはいけないよ。』
それは、白き神を天使たちの元へ返してはいけないということ。
どう見ても憎き相手である万象の天使を愛しているといっていい彼女を、どうしてエンシッダ様はこれほどまでに重要視するの?
そんな彼女が本当の意味で私たちの味方になってくれようとは到底思えないし、力も天使対する権限もあるようには思えないのに・・・どうして?
だけれど、人間であることをやめ、彼の駒になり果てた私は、ただ彼に従うしか術がない。
『了解しました。』
『絶対に白き神から目を離さないで、彼女が一人で走って行かないように気を付けておくんだよ。』
それに何の意味があるというの?未来が見えない私にはさっぱり分からない。
『はい。』
―――だけれど、私にはそれに従うしかないの。
「放してっていっているじゃないですかっ!いやぁっ!」
耳元で大声を出されれば、誰だって耳が痛い。
灰色の花園の出口を目指し私は白き神を担ぎながら歩き、白き神は異常なくらいに暴れ叫ぶ。
力の差は歴然だけれど、この高い悲鳴みたいな叫びは本当に鬱陶しい。でも、かといって白き神より一回りは身体の小さなケルヴェロッカにそれを任せれるはずもない。
そのケルヴェロッカは、そんな私と白き神をもどかしそうに見つめているだけ。
「ケルヴェロッカ。もう、灰色の花園から出るわ。外は戦場の罪人の巡礼地、警戒して。」
「あ、うん。」
そう言われて初めて、そのことに気がついたような表情をする彼。
女神の十字軍として訓練を積んできた彼だけれど、やはりまだまだ子供な部分もあるみたい。
「いやぁっ!!!」
でも、それより更に面倒なのは、今から危険な戦場だというのに、それでもなお叫び続けるこの白き神。
「・・・。」
致し方ないわよね。
このままじゃ、天使がうようよいる場所でかっこうの標的なるのは目に見えているもの。
「申し訳ありませんね。」
私の心のこもらない謝罪の言葉の後に、途端に静かになる白き神。
「ティア?!」
それを見て、驚きの声を上げるケルヴェロッカ。
「心配しないで、気を失ってもらっただけよ。あんなに暴れられたんじゃ、守れるものも守れはしないもの。」
「でもっ!」
「いいから、行くわよ。もう、ここも長くはもたない。」
灰色の花園の出口の前で振りかえった先には、怖いくらいに膨れ上がった灰色の大きな塊。それが、今にも暴れ出しそうにグラグラと揺れている。
また、さっきみたいにあの得体の知れないものが私たちを襲うのも時間の問題だと思う。
恐らく、あれがエンシッダ様の言っていた『私がかつて直面したことのないもの』に違いない。
確かに、私はあんなもの知りはしない。
―――ただ、万象の天使だけはあれを知っていたようだけれど。・・・本当にここで今何が起こっているの?
だけれど、今は白き神を連れてここを逃げることが私の使命であり、ここにいる意味。
だから、最後に万象の天使が消えたことで統率を失って右往左往する彼の連れていた天使たちが追ってこないことを確認して、私はいざ出口を目指す。
ここには、もう用はない。
「おっさんは、どうするんだよ?!」
「それもいいの。」
ヒロもケルヴェロッカも白き神も万象の天使も、そして私もまた、全てはエンシッダ様の思惑どおりに動いているのだから。
だから、だから、私たちはここから逃げればいいの。
―――駒は駒らしく、何も考えずに命令に従っていればいいのよ。
第三部は長くなると申し上げていた通り、二つほど大きな話の流れが残っています。どういう形にしようかなと思っていたんですが、ティア視点で話を進めることにしました。ヒロ視点では語られる事のない部分を、表現できたらと思っています。
なので、しばらくヒロやエヴァンシェッドの出番はお預けですが、次からは今まで活躍してこなかった人たちが再登場したり、新しい登場人物が登場したりする予定です。